Okinawa 沖縄 #2 Day 15 (13/5/20) 与那原町 (1) Yonabaru / Ue Yonabaru Hamlets 与那原 / 上与那原
上与那原
- 東名大主/ウシタ井
- 上之殿 (ウィーヌトゥン)
- 祝女殿内 (ヌルドゥンチ)、祝女井 (ヌルカー)、 火之神 (ヒヌカン)、殿 (トゥン)、上之井 (ウェヌカー)、井戸 (カー)
- 上之毛 (ウィーヌモー) の拝所 [阿知利世主 (アチリセシュ) の殿 (トゥン)]
- 慰霊塔 平和の塔
- 上与那原の石獅子 (火之獅子)
- 前の井 (メーヌカー)
与那原
- 宗之増 (ソウヌマシ)
- 阿知利世主 (アチリセシュ) / 阿知利ガー
- 御殿山 (ウドゥンヤマ)
- 親川 (ウェーガー)
- 久葉堂 (くばどう)・久葉堂の大アカギ
- 久場塘 (クバドゥ)
- 三津武嶽 (ミチンダキ)
- 与魂之塔
- 中島の石獅子
- 新島の石獅子
- 沖縄県鉄道与那原駅跡
- 東宮殿下御乗車記念碑/上陸記念碑
- 御先 (ウサチ) 龍宮神
与那原町 (よなばる、ユナバル)
上与那原集落 (うえよなばる、ウィーユナバル)
上与那原は与那原町で14 世紀に始まったとされ、最も古い集落集落と近年まで考えられていた。案内書でもそうなっているが、近年、与那原バイパス工事中の発掘調査 (大見武古島遺跡) でグスク時代初期の11世紀のものとみられる土器や中国からの白磁や青磁が多く見つかり集落があったと考えられている。さて、上与那原についての話だが、察度王統代 (1300年代)、東名大主 (アガリナウフシュ) が大東島 (与論とも平安座・伊平屋ともいわれる) より甥二人を伴なって現われ、この村の発祥に関わったと言われる。上与那原は市街地の背後に続く丘陵の上にある。人口は約1800人で四つの字の中では一番少ない。
東名大主 (アガリナウフシュ) / ウシタ井 (カー)
[北山騒動として伝わる話]
上之殿 (ウィーヌトゥン)
祝女殿内 (ヌルドゥンチ)、祝女井 (ヌルカー)、 火之神 (ヒヌカン)、殿 (トゥン)、上之井 (ウェヌカー)、井戸 (カー)
上之毛 (ウィーヌモー) の拝所 [阿知利世主 (アチリセシュ) の殿 (トゥン)]
慰霊塔 平和の塔
この慰霊碑は戦前の与那原消防隊員54名、青年団員13名を祀っている。生き残り消防隊員及び青年団員達が1950年に上之毛に建立し、公園整備に伴い現在地に移設された。(この場所も現在は字与那原森下区) 併せて造られた平和之塔は沖縄戦による戦没者の御霊を慰め、世界平和を願うため町有志により1957年8月に、同じく上之毛に建立され、現在地に移設されている。
上与那原の石獅子 (火之獅子)
前の井 (メーヌカー)
与那原集落
宗之増 (ソウヌマシ)
- 昔、与那原は上与那原の上之毛( 上の森公園) あたりが海岸線で、その向こうには海が広がっていました。この上与那原に、ある時、東名大主 (あがりなうふすー) という人が船で流れ着きました。
- 東名大主は今帰仁城の三代目按司の三男として生まれ、武勇にすぐれていた反面、道楽者でもありました。
- いつも浜へ行って釣りばかりしていたのです。「三男がこのようなことをしていてはすまされない」ということで、とうとう親から勘当され、与論島に流されました。[この所は今帰仁落城で落ち延びたという伝承と少し異なる。]
- しかし、与論島でまた同じように釣りばかり。そのうちに船を造って沖にでて、釣りをするようになりました。
- ところがある時、沖で釣りをしているときに台風にあい、船が流されてしまいました。流されてついたところが平安座島でした。東名大主は島に上がってまわりを見渡すと「ここは狭いなぁ」といって、ふたたび船に乗り、海にでました。
- 次についたのが上与那原で、東名大主は船から上がるなり「ここは住みやすそうだ」といって、ここで暮らすことにしたのです。上与那原で暮らしはじめた東名大主は、その武勇をかわれて大里城に仕えるようになりました。[この所も伝承では大里城に使えたのは東名大主の長男とか姉の息子となっている。]
- ある日、仲尾謝名を訪れた東名大主は、そこの根屋の美しい娘と出会い、そして二人は結婚しました。それから二人の子どもが生まれ、孫ができ、東名大主の子孫はしだいに増えていきました。
- 月日(つきひ)はすぎて、東名大主から七代目にあたる子孫に、ソウヌマシという人がいました。この人も東名大主と同じく三男でした。ソウヌマシは畑仕事が終わり、夕飯を食べ終わると、いつも上与那原の丘の上に上がり、下の方に広がる与那古浜をながめていました。
- 「今暮らしているところは斜面ばかりで、畑をするにしてもなにかと不便だ。あの遠浅の海をなんとかできないかなあ」ソウヌマシは、海の方にも土地を広げたいと考えていたのです。[確かに上与那原は丘陵の斜面にあり、背後は切り立った山で、平地は非常に少ない事が分かる。]
- 「よーし、やってみよう」ある日、ソウヌマシはそういうと、山から竹をたくさん切ってきて、与那古浜のあちこちに立て始めました。ソウヌマシは次の日も、また次の日も竹を立てる作業を続けました。
- この様子を見ていたのが阿知利世の主という人でした。阿知利世の主は最初、ソウヌマシが竹を立てている様子を「いったい何をやっているんだろう」と思って見ていましたが、そのうちに干潟が拡がりはじめたのをみて「そうか、干潟の広さを測って土地を広げようとしているんだな。よし、俺も手伝おう」といって、佐敷の方から知りあいをたくさん連れてきました。
- それから玉井や安谷屋という偉い人たちも4、5人集まってきて、ソウヌマシを手伝い始めました。干潟には竹が整然と立ち並び、きれいに区画されました。
- 竹を立てて干潟は区画されましたが、人が暮らせるような土地にするには土をいれなければなりません。そこで上与那原の丘の上にみんなで溝を掘って、大雨が降ったら土が干潟に流れるようにしました。雨が降るたびに丘の土が干潟に流れ込み、積み重なっていきました。こうして与那原の浜は陸地になり、人々がたくさん暮らすようになりました。
- こうして、ソウヌマシは与那原が栄える基礎を築きました。また竹のことを「竿」とも言うので「竿之増(ソウヌマシ)」という屋号がつけられたという言い伝えがあります。ソウヌマシの屋敷跡は現在拝所として、地域の人たちが大切に守り伝えています。
- また、与那原の発展は上与那原から始まったということで、与那原大綱曳ではまず、上与那原から曳くことになっているほか、上与那原の老人が作った獅子が道ジュネーに出るときには、必ずソウヌマシ拝所前で獅子を踊らせ、それから親川で踊らせることになっていたそうです。
阿知利世主 (アチリセシュ) / 阿知利ガー
御殿山 (ウドゥンヤマ)
親川 (ウェーガー)
2022年1月28日に旧知念村具志堅集落に向かう途中に、親川拝所を通ると、この広場は改修工事が進んでいた。完成後に訪れる予定。
久葉堂 (くばどう)・久葉堂の大アカギ
久場塘 (クバドゥ)
三津武嶽 (ミチンダキ)
与魂之塔
- その昔、運玉森にどろぼうといわれた運玉義留のかくれ場がありました。もともと運玉義留は首里の侍の髪結いをして働いていました。ある日のこと、運玉義留は主人にききました。
- 運玉義留「私が頑張ったら、どのくらいまで身分があがりますか?」主人 「お前がいくらがんばって働いても、平民がなれる最高職の地頭代までぐらいだよ」運玉義留 「そうですか。それぐらいのことでは私は満足しないから、どろぼうにでもなって名を残した方がいいですね」と言って首里の髪結いをやめてしまいました。
- それから運玉義留は運玉森にこもって、運玉義留「どろぼうになるためには武術を身につけないといけない」といって、自分なりに武術の練習にはげみました。木を伐って枯葉の上を足音を立てないようにして歩いたりしました。運玉森で修業をつんだ運玉義留は自分の忍びの技をためしたくなりました。運玉義留は考えました。首里の王様は金の枕で眠っておられるそうだ。よし、あの枕を盗んでこよう。運玉義留「明日の夜、王様の金の枕をとりにいくから、みんな見張っておきなさいよ」と予告したのです。
- 次の日の夜、首里のお城では王様の家来たちが金の枕を盗まれないように、王様を真ん中にして金の枕を見守っていました。ところが、夜中になっても運玉義留が現れないので、家来たちは「もう来ないだろう」と思い始めました。そのとき、「パラ、パラ、パラ」という音がしてきたので、家来たちは雨が降ってきたと思いこんで、うとうとし始めました。しかし、その音は雨ではなく、家来たちを油断させるために運玉義留が屋根に上って豆をまいた音だったのです。
- 家来たちがうとうとし始めたのを見計らって、運玉義留は寝ておられる王様のそばへ忍びよりました。ところが王様は金の枕に頭をのせて寝ておられましたので、金の枕をとることができません。そこで運玉義留は持っていた竹筒の水を、王様の耳にたらしました。すると王様は気持ち悪くなって寝返りをうちました。その一瞬のうちに運玉義留は金の枕をぬきとったのです。
- こうして運玉義留は本物のどろぼうになりましたが、盗みに入るのはお金持ちの家だけでした。しかも盗んだお金や物は貧しい人たちにあげたのです。昔は役人になるには一番科という試験を受けなければなりませんでした。真玉橋の新屋敷という人は、役人になる為、一番科に合格することをめざして、いっしょうけんめい勉強していましたが、家がとても貧乏で、毎日の食べ物にも苦労していました。その話を聞いた運玉義留は、金持ちの家からとってきたものを真玉橋の新屋敷のところへ持っていきました。「欲しいものはなんでもあげるから、一番科の試験に合格してくれよ」運玉義留はそういって帰っていきました。真玉橋の新屋敷は心から感謝し、今まで以上に勉強してみごと一番科の試験に合格したのです。
- お金持ちから盗んだものを貧乏人に分け与えるどろぼうとして有名になった運玉義留のもとに、ある日一人の男が訪ねてきて、弟子にして欲しいといいました。名前を油喰坊主 (あんだくぇーぼーじゃ) といいます。 「いや弟子にはできない。帰った方がいい」運玉義留はいいました。油喰坊主はいったん帰りましたが、次の日もまた次の日も来て、何回も頼むので、運玉義留はあきれてしまって「よし、そんなに弟子になりたいのならお前を試そう」と言って、大きな金持ちの家へ一緒に連れていきました。
- 夜になってみんな寝静ずまった頃、二人は家の中へ忍しのび込みました。運玉義留は着物が沢山入っている長持ちを指さし、「着物が何枚あるか数えなさい」と言いました。「一枚、二枚、三枚…」と油喰坊主が半分くらいまで数えた時に、運玉義留は外に飛び出ると、運玉義留は「泥棒だー!」と大声で叫びました。その声に飛び起きた金持ちの家の家族に、油喰坊主は取り囲まれてしまったのです。
- 運玉義留は一人で運玉森に帰ってきました。 「今ごろ捕まって、痛い目にあわされているかもなあ。でもこれであきらめてくれるだろう」と、思っているとなんと油喰坊主がニコニコしながら帰ってくるではありませんか。「おまえ、捕まらなかったのか?」「はい。みんなに囲まれてもう逃げ道はないと思って、長持ちの中に隠れたんです。長持ちの中にかくれたぞー、と言ってみんなが寄ってきたので、蓋を急に開けて『ワァッ!』と言ったら、みんなびっくりしたので、そのすきに飛び出して逃げてきました」「そうか。お前はそうとう頭がいいな。よし、今日からわしの弟子にしよう」
- めでたく運玉義留の弟子になった油喰坊主は、ある日、運玉義留にこう言いました。油喰坊主「師匠(ししょう)、私はお金をもたないで、油を買ってきますからね」「いったいどうやって、お金なしで油が買えるんだい?」油喰坊主は中に綿を入れた壺を持って出かけました。油売りのところへ来ると、その壺に油を入れさせ、中をのぞいたあと、少し怒ったような顔をしてこういいました。「お前のところの油はあまりいい油じゃないな。やっぱり買うのはやめるよ。」油喰坊主は壺から油をもどすと、何も買わずに帰っていきました。
- 「師匠、ただいま帰りました。ほら、油ですよ」「ん? 綿しか入ってないぞ」油喰坊主が壺から綿を取り出して、絞しぼってみると、綿にしみこんだ油がたくさん出てきました。「これはすごい!お前はやっぱり頭がいいなあ」それから油喰坊主はこの方法で油売りを何件もまわり、油をいっぱい作りました。運玉義留と油喰坊主は、それからも金持ちの家から金品を盗んでは貧しい人々に分け与えたので、人々からはたいそう感謝されたということです。
与那原集落にはまだ書いていない史跡がもう少し残っている。それを紹介しよう。
中島の石獅子
新島の石獅子
沖縄県鉄道与那原駅跡
東宮殿下御乗車記念碑/上陸記念碑
御先 (ウサチ) 龍宮神
今日訪れた所はまだあるのだが、訪問記がかなり長くなるので、2回に分けて記する事にする。残っているのは、近年の遺跡発見で与那原町で一番古い集落ではないかと言われている大見武 (おおみたけ) 集落と、与那原の港を埋め立てて開発された東浜 (あがりはま) だ。1日で見学する場所が少し多すぎた様だ。今は沖縄の那覇市に住居を構えているので、去年暮れまでの自転車旅行の様に宿の移動が無いので、その日に訪問した場所のレポートが終わるまで次の場所の訪問は控えている。今回はこの訪問記にかなり調べる時間を費やした。
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