Okinawa 沖縄 #2 Day 14 (11/5/20) 南風原町 まとめ
- 集落の歴史
- 人口推移
- 南風原町観光振興計画 平成26年
- 観光資源
約1ヶ月かけて南風原町の史跡巡りをして、始めた頃と今では随分と南風原町に対しての知識や感想が変わってきている。そこで、今日は史跡巡りではなく、自宅にて、いろいろな切り口でこの南風原町をまとめてみることにした。下の地図がこの1ヶ月の期間自転車と徒歩にて見て回った経路のGPSログでもともとの集落だけではなく、その周辺も巡り、もともとの集落があったところとの比較ができたのは面白かった。町並みは全く異なっていた。やはり現場を回らないと、気づかないことが多くある様に思えた。
集落の歴史
琉球には独自の文字が無かったために、過去にいくほどその時代を知る書簡が乏しい。まずは漢文が用いられたが、それはごく一部の文化人に限られていた。のちに平仮名が公用語としての文字にはなったが、それも市民には浸透しなかった。もう一つの大きな理由は沖縄戦だ。この戦争で沖縄全土は焼け野原となり、多くの貴重な歴史的文書が焼失してしまったことがある。特に地方がわかる歴史を表した資料は非常に少ない。
沖縄の歴史を見ていく時に、不便を感じるのは文書に現れてくる人物の時代特定だ。多くの歴史書簡はその人物の役職名で記載されている。この役職名は何世代にわたって変わらず、どの時代の役人であったかは、それだけでは特定できない。
以上のような要因で、地方集落の歴史の編纂は困難を極め、多くは伝承を元に書かれている多い。伝承なので、時代とともに、着色や修正などが行われ、同じ伝承でも村により伝わり方が異なっている。これは正確な歴史を知るには不都合だが、その村人たちがどう感じていたかの違いを知るには面白い。個人的には、正確な歴史を知るよりは、村によりそれの捉え方が異なっていることを知る方が意味があると思える。
この表は今まで見たり、聞いたことを歴史年表にまとめてみたものだ。南風原という間切がどのように形成されていったかが、大まかに理解できる。三山時代以前に集落が形成されたと考えられるのが津嘉山 (つかざん) と宮城 (みやぐすく)、三山時代の中山の集落として始まったと考えられるのが兼城 (かねぐすく) と与那覇 (よなは)、尚巴志の三山統一で南山からの移住で始まったのではないかと考えられる本部 (もとぶ)、照屋 (てるや)、喜屋武 (きゃん)、そして琉球王朝時代から廃藩置県で職を失った士族が首里からの移住してきた屋取 (ヤードゥイ) 集団。それぞれの時代背景が見えてくる。残念ながら、山川 (やまかわ) と神里 (かみざと) はその起源については資料が見つからなかったが、残っている史跡を他の集落と比較すると琉球王朝時代ではないかと想像する。
集落形成の中で大きな要素は門中 (ムンチュウ) だ。集落の始まりは、一族 (のちに門中となる)が住みかを探し、ある場所に定住をしたこと。集落の拡大も、門中から分家として新たな門中を形成し、新たな居住地を開拓したことによっている。
南風原には12の字があるが、琉球王朝から現在に至るまで、地理的にはほとんど変わっていないことは興味深い。もともと集落があったところは容易に判別することができる。
1919年 (大正8年) 民家はもともとの集落があった場所に限定されている。これは左上の那覇も道誉に見える。
1948年 (昭和23年) 米軍作成 終戦後住民が収容所から戻って1−2年の時期なので、これが集落の様子を正確に伝えているかは疑問だが、まだもともとの集落の場所に民家は限定されている。
1975年 (昭和50年) 集落が少し広がっているのがわかる。最も顕著に民家が増えているのは地図の左上の那覇で、大正8年の地図と比べると発展がかなり大きいことがわかる。
1994年 (平成6年) 民家は集落にとどまらず、集落外の地域にも広範囲で広がっている。
2018年 (平成30年) 民家は那覇からぎっしりと国道沿いに、南風原、与那原まで続いている。
もともとの集落の範囲は非常に小さく、どの集落も地理的にはグスクや御嶽を核として形成されている。巡った集落の規模などから、個人的な想像は、一つの集落は100人から400人ぐらいの人が住んでいたのではないかと思う。三山時代からの10の集落は、毛 (モー) と呼ばれる丘陵にグスクや聖域としての御嶽 (ウタキ) を配置し、その丘陵の斜面に住居群を形成していた。時が立つに連れて住居群は密集の度合いが増して行った。沖縄戦で殆どが焼失したが、戦後、集落の区画はそのままで、住居が再建されている。戦前の地図と現在の地図を比較しても大きな変化はない。
人口推移
戦後しばらくして、どんどん人口が増えるにしたがい、元の集落の外側が開発され、字の人口は増えていった。想像するに、集落にいる住民は昔からの門中の人たちで、外側は新たに移ってきた人達が住んでいるのだろう。南風原町の半分以上は南風原町以外から転入してきた人と紹介されていた。
特に南風原は那覇に隣接し、那覇のベッドタウンの様相がある。南風原町の人口推移のグラフがある。人口は昭和45年までは微増で推移しているがあまり変わっていない。これはこの時期まではまだ移動手段としての車の普及がない事も一つの理由で思われる。集落の密集を著した上に挙げた地図でもこの時期まではもともとの集落が少し拡大したぐらいだ。爆発的に増え始めたのは昭和45年からの高度成長時期に一致している。現在の人口は昭和初期に比べて4倍以上になっている。このグラフで少し疑問を感じるのは昭和20年の終戦時の人口の減少度合いが思っていたよりも少なくなっている事。南風原町発行の案内所では、沖縄戦で南風原町住民の40%が犠牲になったと書かれていた。グラフではそれが現れているようには思えない。
もともとの集落は斜面にあるからなのか、そこに住む住民の意思からなのか、集落内の発展は、その外側のそれとは大きく異なっている。最も集落内でも公民館や村役場は新しい建物に変わり、集落の家も伝統的な平屋から低層アパートに変わっているが、商業施設は殆ど見当たらない。コンビニなどはもともとの集落の外側にある。戦後間も無くの時期には、地元の人の経営による小規模のよろず屋の様な店舗はあったのだろうが、自動車の普及で、買い物は集落の外になり、集落内の店舗は閉められたと想像。更に沖縄の人たちの土地に対しての考えによるのではと思っている。土地は祖先から受け継いだもので、祖先信仰が非常に根強い沖縄の人は簡単にコンビニに土地を売りたくない、そして世間体から売ることが憚れると言った要因があるのではないかと思っている。
南風原町観光振興計画 平成26年
南風原町が発行している「南風原町観光振興計画 平成26年」がある。観光産業が県の経済の牽引役で、各市町村も観光を重要な成長戦略に据えている。
観光資源
- 南風原町の成り立ちを追いかける。グスク時代 (津嘉山) -三山時代 (兼城) -琉球王朝時代 (黄金森/喜屋武/本部/照屋) -琉球処分 (大名) 各所にストーリー性を持った共通デザインのパネルを設置するなどのアイデアが必要。(これは鹿児島市が明治維新をストーリー化して綺麗なパネルを展示していたのがヒントになった。物理的な史跡よりもストーリー自体を観光資源化している。)
- 琉球王朝文化体験 - 南風原は琉球王朝直轄地であったことより、琉球の王朝文化が移植されている。組踊、獅子舞、舞方棒、琉球絣などの実演をツアーに組み込み披露するのも良いかなと感じた。南風原文化センターに舞台が有ればそこでやるのも良い。絣センターに舞台があればそちらの方が良いかな。なければ、文化センターか絣センターの隣に舞台小屋を造るのも手だ。琉球絣は若い女性にはうけると思う。新品は高いので、数千円で手に入る中古品を展示即売もひとつのアイデア。
- 沖縄戦 陸軍病院見学と語り部。これは既にある程度完成しているので、それを継続すれば良いだろう。
- 宿泊 2日ツアーにし、南風原町内のホテルや民宿での宿泊をセットにすれば、南風原町に金が落ちる。ツアーでの昼食も南風原特産品を使った食事を出せるレストランを使えば金が落ちる。観光事業は立ち寄りだけでは金が落ちず長続きしない。その為にも金が落ちる観光の仕組みを作ることが必要。南風原町を巡って、気がついたのは沖縄伝統の家屋が少ない点だ。沖縄に観光に来る人の期待は沖縄らしさに触れることだ。ツアーで訪れる集落に沖縄伝統家屋を整備してそこで昼食を出すのも一つのアイデア。通常は集落の集会所として使うとか、観光客の休憩所としても良い。首里の金城町の石畳では休憩所として伝統的な家屋を解放していた。これは良い印象を持った。
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