Okinawa 沖縄 #2 Day 157 (24/12/21) 旧知念村 (5) Kudeken Hamlet 久手堅集落 (2) 集落文化財
旧知念村 久手堅 (くでけん、クディキン)
- 南城市地域物産館、がんじゅう駅南城
- 大城 (ウフグスク)
- 知念岬
- 久手堅船溜
- 竜宮 (リューグー)
- 久手堅ビーチ (前ヌ浜)
- 久手堅海岸
- キノコ岩
- 慰霊之塔
- 久手堅公民館、神の庭 (カナナー)
- ボーザー石
- サーターヤー跡 (久手堅共同製糖所)
- くんぶちガーラ跡
- 久手堅石獅子
- 鍛冶屋ガマ
- 知念役場跡、知念尋常小学校跡
- 當間井泉 (トーマガー)
- アジシー墓
- 當間殿 (トーマトゥン)
- 當間の比屋 (トーマヌヒャー)
- 下茂 (シム) 根所 (ニードゥクル)
- 古道
- 汲井泉 (クミガー)
- 大アカギ
- 佐宇次根所 (ソージニードゥクル) 跡
- 井泉 (カー)
- ノロ墓
- アジシー墓
- 久手堅根人田
- 上の井泉 (ウィーヌガー)
- ナーワンダーグスク
先日 (12月20日)、斎場御嶽 (セーファーウタキ) を見学した後は、知念岬の海岸線を巡った。久手堅集落内の文化財をみる時間はなく、今日、集落内の文化財を見る事にした。2日に渡った訪問記をまとめて記載する。(ナーワンダーグスクは更に確認した井場所もあり12月30日に再訪している。)
旧知念村 久手堅 (くでけん、クディキン)
クディキンは神話の多い神の里と言われた。斎場御嶽 (セーファウタキ) は久手堅ノロの崇べ所であり、久手堅ノロはセーファノロとも言われている。 久手堅ノロは王府祭祀の時には、斎場御嶽と當間之ヒヤ火神 (當間殿) で祈願している。このように、久手堅ノロはクディとキンの両方の役目を果たしている。 歴代の聞得大君の神名は、御新下りの時に斎場御嶽で、久手堅ノロによって献られ、この神名は本人と久手堅ノロ以外に知る者はいなかったと言われている。この久手堅ノロの聖職は古い前型で、場天ノロによって行われていたが、宮廷と関係の深い久手堅ノロの手に移ったとされている。
久手堅集落は1919年に比べて、大きくは変化していないが、国道331号線沿いと斎場御嶽への参道に民家が増えている。
久手堅の人口は現在では旧知念村の中では、真ん中ぐらいで432人と小さな字。
人口の推移については、明治時代国勢調査が始まった1880年には534人でその後1923年には618人まで増え、現在よりも約二倍弱の人口がいたが、それ以降人口減少となり更に、1937年には吉富集落が分離し330人までに減少、その人口レベルが現在まで続いている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: サイハヌ嶽 (斎場御嶽)
- 殿: 当間之ヒヤ火神 (當間殿)、佐宇次根所、神社 (佐宇次権現 於吉富)
斎場御嶽が久手堅集落の拝所には含まれていない。これは斎場御嶽は琉球王府の霊場でい庶民は中に入ることが許されていなかった。現在では、唯一、安座真集落が御門口で遙拝している。
久手堅集落訪問ログ
南城市地域物産館、がんじゅう駅南城
大城 (ウフグスク)
この陣地壕は丘を北の崖まで伸びており、その内部にはいくつもの分岐壕があり、部屋もあるそうだ。崩壊の恐れがあるので侵入禁止となっているそうだが、注意書きなどは無かった。時々ニュースなどで沖縄戦当時の陣地号や避難壕の崩壊や取り壊すなどを目にするので、中に入るのは断念。
知念岬
知念体育館を過ぎると、知念岬にでる。ここ一帯は知念岬公園となっており、綺麗に芝生が刈り揃えられ、多くの観光客が訪れている。芝生を刈っていた青年は、夏は一日三回も刈っている。夏は草がすぐに伸びるので、綺麗な公園を見てもらいたいので、頻繁に行っていると言っていた。今年からは、公園の周りの斜面の眺望の妨げになる草も刈り廃めたそうだ。
岬から久手堅ビーチ (前ヌ浜) に降りる道がある。道があれば行ってみたくなるので、降りてみた。久手堅船溜への道は石垣が続いている。
久手堅船溜
竜宮 (リューグー)
久手堅ビーチ (前ヌ浜)
久手堅海岸
キノコ岩
慰霊之塔
久手堅公民館、神の庭 (カナナー)
集落に入り、まずは公民館に向かう。公民館の前の広場は神の庭 (カナナー) と呼ばれている。村屋の前の広場がこのように神の庭という神聖な場所になっている集落は初めてで、だいたいは、池や井戸、アシビナーなど集落住民の日常生活に直結したところだった。調べると、公民館がある場所は、元々は、神の庭 (カナナー) と呼ばれる屋敷があったそうだ。少し不思議の思ったのだが、この後、その理由が分かることになる。
ボーザー石
この神の庭 (カナナー) の広場の中に琉球石灰岩のボーザー石と呼ばれるものが大切に残されている。これは聞得大君が馬から乗り降りするときに使っていた踏み台といわれている。琉球王統時代から戦前までは、久手堅集落が斎場御嶽への入り口で、俗にいう門前町の様なものだった。久手堅集落では琉球王朝の斎場御嶽での神事の手伝いで生計を立てていたという。御新下りの際、この久手堅に到着した聞得大君や琉球王朝の役人を斎場御嶽までの案内や世話をしていたそうだ。久手堅が「神の里」などと紹介されているものもあったが、これで合点がいった。
サーターヤー跡 (久手堅共同製糖所)
くんぶちガーラ跡
久手堅石獅子
鍛冶屋ガマ
知念役場跡
戦争時は知念役場の道路を挟んだところには慰安所が設けられていた。昭和19年12月中旬から石部隊 (第六十二師団) が駐留にともなって軍人倶楽部 (慰安所) が設けられていた。知念村役場の西隣りの知念村診療所のセメン瓦葺建物がそのまま慰安所として利用されていた。
知念村診療所の建物はすぐ近くに知念国民学校があり、風紀上好ましからぬ場所にあった。国民学校の生徒が帰りに慰安所の周囲に物珍しそうに集っていた。業婦は沖縄出身の那覇市辻町の遊郭から来た女性で、当時辻の女性たちは10月10日の那覇大空襲で焼け出され、各地に分散していた。知念村内の慰安所も辻の女が8~10名ぐらいいた。大隊長は専ら1人の慰安婦をもち、日夜宿舎に同居していた。昭和20年2月頃、石部隊が球部隊 (混成第四十四旅団) と交代後は慰安所も中部の方へ移転していった。
知念尋常小学校
旧藩時代は首里、那覇に士族の子弟に対し村学校、平等学校、国学等があったが、地方の間切、村にはほとんど学校はなく、一部の村に筆算稽古所や、村の格式のある家の子弟のみが、御殿殿内 (地頭の家) 奉公で読み書き算盤の稽古をするぐらいで、百姓、庶民の教育はおろそかにされた。廃藩置県により、明治13年に教育制度が施行され、島尻地方には10校が新 設された。知念間切では、明治16年に知念間切番所内に知念小学校が創設された。明治21年に知念尋常小学校と改称され、島尻郡では唯一の高等小学校が兼城間切座波村に設立され、各間切から選抜された者が入学した。明治22年に、番所内学校から佐敷/知念両間切合併の佐知尋常小学校となる。番所内の建物の老朽化により、明治23年、佐敷間切与那嶺村に佐知尋常小学校 (古小学校跡) が建てられた。新築間もなく明治24年に台風によって倒壊し、合併校だった佐知尋常小学校は分離し、明治25年に久手堅村ソージ原に茅葺校舎が建てられた。明治39年には、知念尋常高等小学校となり、大正10年に現在地の久手堅ワンジン原の現在地に移転してきている。
當間井泉 (トーマガー)
アジシー墓
當間井泉の西方に続く道があり、そこには古墓がある。墓がどこにあったのかは正確な位置は不明で、彼岸、清明、御願解き (ウグァンブトゥチ) の御願の際には、拝所入口の階段から遥拝されているそうだ。
當間殿 (トーマトゥン)
當間の比屋 (トーマヌヒャー)
下茂 (シム) 根所 (ニードゥクル)
古道
下茂 (シム) の神屋から山の中に入る道があった。ガイドマップでは古道と書かれているが、この道は公民館前の神の庭 (カナナー) で聞得大君が馬を降りて、斎場御嶽に向かった道といわれている。戦前までこの道が斎場御嶽への入り口にあたっていた。古道は県道で出てそこから斎場御嶽に降り緑の館に通じるようになっている。佐敷からユックイヌビラを登り、アカバンダーを経由してこの道に入ったのだろう。戦後は斎場御嶽へは、先日訪れた国道331号線のウローカーへの里道が使われていたそうだ。
古道は丘陵の尾根を通っており、そこからは中城湾が一望できる。
汲井泉 (クミガー)
古道を通り言動に出て、斎場御嶽方面と反対側、西に向かった所に汲井泉 (クミガー) という井泉跡があった。この井戸の詳細は見つからなかった。
大アカギ
佐宇次根所 (ソージニードゥクル) 跡
井泉 (カー)
ノロ墓
アジシー墓
久手堅根人田
上の井泉 (ウィーヌガー)
ナーワンダーグスク
それで、今日は別の道でナーワンダーグスクに向かう。上の井泉 (ウィーヌガー) の道を北に行くと行き止まりとなり、そこから階段を登り、山道がナーワンダーグスクへ通じている。道は整備されているようで、集落の人たちが御願に音連れているのだろう。現在、字久手堅ではナーワンダーはこの階段前から遥拝されている。
道を進むと、登坂になる。ここがナーワンダーグスクの入り口の虎口になる。横には大岩があり、そこから侵入する敵を攻撃できるようになっている。
ナーワンダーとは「なでるわ」の転語で「守護霊の霊力」という意味だそうだ。調査で貿易陶磁器が発見されており、その年代からグスク時代(13〜15世紀)以前に築かれたと考えられている。当初は守護霊の祭祀場で、聞得大君が国家祭祀のために崇める以前は、村の聖地だったとされている。その後城塞としての性格も持ったのではと考えられている。地元ではグスクと呼ばずにナーワンダーの名で呼ばれている。
虎口を入ると小さな広場があり、その東側には大岩が聳え、そこには古墓があった。
二の郭と主郭にまたがって、ヰナグナーワンダーがあり、城壁の石垣が広範囲に残っている。ヰナグとは女性の意味で、女陰を表し、ヰナグナーワンダーと呼ばれているという。ここがグスクの主体部となる。
二の郭から主郭へは、石垣で仕切られている。石垣は平場部分は残っていないが、かつてはもっと高い石垣だったと思われる。
主郭は広場になっており、昔は何があったのだろう。住居があったのだろうか?
主郭からヰナグナーワンダーへの登り口がある。ここにも石垣が残っている。
ヰナグナーワンダーの上部は平場になっており、石垣で囲まれている。その平場の一画に拝所が置かれている。何を祀っているのかは、調べられなかった。
ヰナグナーワンダーの登り道の北側には、ヰキガナーワンーダーの岩山がつながっている。ヰキガは男性の意味で、男根を表しているという。昔、戦争があり、そのときヰナグナーワンーダーとヰキガナーワンダーの間に布橋をかけ、ヰナグ ナーワンーダーからヰキガナーワンーダーに食べものを持って行ったという。グスクはこの二つの岩塊を中心に、周辺の岩塊などを巧みに利用して築かれている。このグスクが何のために築かれたのかははっきりとはしないのだが、岩山には立派な高い石垣が築かれていることから、単なる拝所としてのグスクではなく、城塞としてのグスクでもあったと思われる。ここは標高120m程で、かつてはグスクの上からは、太平洋や中城湾が見通せたので、物見台の役割もあったと考えられている。
主郭の反対側にも岸壁の山があり、底にも主郭から道が通じている。ここにも石垣が築かれ、岸壁には古墓がある。
この岩山は岩肌がはっきりと見える、キノコ状の山になっている。周囲には道が通ており、裏からは、岩の中腹まで登れるようになっていた。
この岩の斜面にも古墓が設けられている。
この岩山の奥には先日訪れた大神宮 (ウフジチュー) の墓がある。
大神宮 (ウフジチュー) の墓から道が北東方面に分岐していた。道を進むと、斎場御嶽の寄満にでた。ここが先日訪れたが、立ち入り禁止となっていた道だった。
道の途中には、人工的に掘られた跡が残る洞窟があった。沖縄戦当時の避難壕だろう。
避難壕の近くには、小さな洞窟があった。覗いてみると頭蓋骨が転がっている。ここは古墓だったのか?いつの時代に葬られたのか?それとも沖縄戦の犠牲者なのか?多分古墓だったのだろう。沖縄ではこのように骨が散乱した古墓によく出会う。当初は、人骨を見ると戸惑ったのだが、何度も見ていると特に恐れとか、気味悪さはなくなっている。当時は風葬で手厚く葬られ、拝まれていたのだろうが、時代が過ぎていくにつれ、墓を守る子孫が絶え、忘れ去られ、このように人骨が散乱している。東京で人骨を発見すると警察沙汰だろうが、沖縄ではこのような光景に出くわすことは多くある。特にグスクなどがある森の中ではよくあることだ。薄暗く、木々で覆われた森の中を一人で歩いているときに出くわすのだが、今では不思議と気味悪さはなく、ただ冥福を願い合掌。
久手堅集落は12月20日、24日、30日と三日間にわたって訪れた。特に印象に残ったのはナーワンダーグスクで立派な石垣が残る貴重な文化財と思える。南城市の文化財保存計画にもこのナーワンダーグスクが含まれてはいるが、私有地ということもあり、なかなか進展していないようだ。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
- 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
- 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)
- 国指定史跡斎場御嶽保存活用計画 (2018 南城市教育委員会)
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