Okinawa 沖縄 #2 Day 145 (19/11/21) 旧佐敷村 (5) Yonamine Hamlet 与那嶺集落

旧佐敷村 与那嶺集落 (よなみね、ユナンミ、佐敷集落に編入)

  • 与那嶺井泉 (ユナンミガー)
  • ナカヤマ
  • 森山之嶽 (ムンヤマヌタキ)
  • 久場山御嶽 (クバヤマヌウタキ)
  • 与那嶺殿 (ユナンミドゥン)
  • 初香井泉 (ハチコーガー)
  • 毛遊毛 (モーアシビーモー)
  • 古小学校跡
  • 与那嶺毛 (ユナンミモ―)、ユナンミのガジュマル
  • 与那嶺橋小 (ユナンミバシグヮー)

昨日訪問予定していた佐敷集落訪問は、終日雨となり、今日に延期した。今朝も雨が降っていた、正午近くになり雨もやみ、晴れ間も見えていたので、思い切って佐敷集落訪問に出かけることにした。佐敷は見るところが多く、この時間帯に出発しても全部は見切れないので、二日間にかけてみて回る。佐敷集落の民家がある地域と、明治時代に吸収した与那嶺集落をめぐり、佐敷上グスクの古琉球の文化財は次回に回す。今日の訪問記では与那嶺集落の実を期すことにして、今日巡った佐敷集落関連文化財は次回の訪問記に含めている。



与那嶺集落 (よなみね、ユナンミ)

佐敷集落から少し外れた畑地帯に、パラパラと民家がある。この場所は琉球王府時代17世紀半ばごろから明治36年にあった与那嶺集落 (よなみね、ユナンミ) で、佐敷間切の内の一つの村だった。佐鋪 (佐敷) 間切は、佐鋪 (佐敷) 邑、屋比久邑、手登根邑の三つの村で後世されていた。後に、与那嶺集落が佐敷村から独立している。1903年 (明治36年) に佐敷村に編入されている。旧佐敷村の人口を調べた際に1880年 (明治13年) の国勢調査で、この与那嶺が出ていたが、それ以降の国勢調査では見当たらず疑問に思っていたのだが、編入され行政区ではなくなっていたのだった。1880年 (明治13年) 当時は戸数20、人口67と出ていた。当時としては世帯当たりの家族数が3.4人と非常に少ない。この数字は当時の沖縄の世帯当たり人数では、低すぎるので、多分、村での生活は苦しく子供達は村を離れ別の地域で暮らし始めたのではないだろうか、既に村として存続するには小さすぎる村になっていたのだろう。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 森山ノ嶽 (神名: アツ メクダノ御イベ)
  • 殿: 殿 (与那嶺殿)


与那嶺集落訪問ログ




与那嶺井泉 (ユナンミガー)

集落の奥丘陵の麓の畑地のそばに与那嶺村の産井泉だった与那嶺井泉 (ユナンミガー) がある井泉。きれいな水が湧き、与那嶺集落住民の飲料水、生活用水に使われた。旧与那嶺集落含め佐敷集落で、ハチウビー (初拝み) の祭祀で拝まれている。


ナカヤマ

与那嶺井泉 (ユナンミガー) の前の道を丘陵に上りかけたところに、ナカヤマと呼ばれた小山があり、そこから二股に道は分岐し、まっすぐ行くと久場山の嶽と森山御嶽へ、左に行くと与那嶺之殿と案内表示がある。まずは久場山の嶽と森山御嶽方面に向かう。


森山之嶽 (ムンヤマヌタキ)

急な坂道で、今日午前中に雨が降ったので、路面が滑りやすくなっており、道の脇のガードレールを伝って進み。道の途中に、森山之嶽への登り口の表示板が見えてきた。階段になっており、登っていく。森山之嶽はこの階段中腹にあると書かれていた。階段は急で、草で覆われ見通しが悪い。持参してきた鎌で草を薙ぎ払いながら登っていくが、次の表示板があるかと思っていたが、それもなく、森山之嶽は見当たらない。とにかく階段を上っていくことにした。この道は給水パイプライン道で階段の所々に貯水層が置かれている。麓の畑や集落集落に給水していたのだろう。この階段道が昔からあったのかは分からないが、少なくとも森山之嶽までは、昔からの道だったのだろう。昔からこのパイプラインの先にある水源池を使っていたならば、昔からの道であった可能性がある。今は多分通る人も少なく、草で覆われてしまったのだろう。とにかく登っていくと、頂上が見えてきた。そこを出ると、新興住宅街のつきしろ地区に出た。南城市でも人気住宅地だ。

ここからの眺め。佐敷港が一望できる。中城湾の向こうには、勝連グスクのある勝連半島まで見える。

登ってきた道のどこかに、森山之嶽への入り口があるはずだ。佐敷集落ではこの森山之嶽は御願の対象になっているので、定期的に草刈りをしている。周りに草の少ないところや、林の中に空間があるかを注意深く見ながら、階段道を下っていく。林の中に少し空間が見えた。入り口を探し、少し草が少なくなっているところの進むことにする。少ないと言っても、草やツルで追われているので鎌で刈りながら中に入ると、広い整地された空間があった。ここに違いないと思い奥へ進むと、大きな岩の前に石を積んだ拝所が見つかった。この山は地元ではムンヤマ (森山) と呼ばれており、そこにある御嶽という事で、森山御嶽と呼ばれている。琉球国由来記の森山ノ嶽 (神名:アツ メクダノ御イベ) に相当する。森山之嶽は与那嶺村の守りの御嶽で、佐敷ノロ (当時は佐敷と与那嶺を管轄していた) により、年浴、麦初種子 ミヤ種子が司祭されていた。仲村渠門中が管理していた。現在は、旧暦12月24日のウガンプトゥチ (御願解き) に拝まれている。


久場山御嶽 (クバヤマヌウタキ)

森山之嶽の表示板があった道まで降り、その道をさらに進み久場山御嶽 (クバヤマヌウタキ) を目指す。道は行き止まりになった。御嶽への入り口は見当たらない。林の中に空間があるか探すと、それらしきものが見える。そこに向かって強引に林の中を木の枝を刈りながら、進むと、大きな岩の前に拝所があった。久場山御嶽 (クバヤマヌウタキ) はウマンザノ嶽とも呼ばれている。 西門ヒチと東門ヒチが拝んでいる。現在は、旧暦12月24日のウガンプトゥチ (御願解き) に佐敷集落として拝まれている。おそらく、かつての与那嶺集落関係の古墓が御嶽として拝まれているのかもしれない。

この辺りからは、佐敷集落の東に当たる住宅街が見える。

山を下りて、先ほど登った道を確認する。向かって左側に見える建物の脇まで登ったのだ。GPSログをチェックするとそこは標高130m、階段が標高20mぐらいから130mまで続いていたのだ。(この夜は少し腰が痛むほど)


与那嶺殿 (ユナンミドゥン)

ナカヤマの表示板まで戻り、次は左側に分岐した道を進み、与那嶺殿 (ユナンミドゥン) を訪れる。アサギが建っており、四つの香炉が置かれている。ここには与那嶺村の先住者が祀られているという。 与那嶺ヒチ (徳川、玉城) と旧佐敷村外間集落の門 (ジョー) 門中 (玉城) によって拝まれているそうだ。琉球国由来記の殿に相当する。 殿は佐敷ノロにより 稲二祭」が司祭された。昔はウマチー (旧暦の二月、五月、六月) に馬を風呂敷で着飾り鞍掛けをして根神を乗せ、それを先頭に字民が殿を拝んで廻った。現在では、グングッチウマチー (五月ウマチー、稲の穂祭り) とルクグッチウマチー (六月ウマチー 稲の収穫祭) で、苗代殿、与那嶺殿、美里殿、内原の殿、川当殿を廻り、ビンシー (お供えの重箱) とウチカビ (打ち紙、紙銭) を供え、御願の後、供物を「うさんでーさびら」と唱え、みんなでいただくそうだ。ウサンデーは「供え物を下げる」という意味で、御願の後に供物をいただくことウサンデーと言っている。


初香井泉 (ハチコーガー)

与那嶺殿 (ユナンミドゥン) のある山の麓の畑の奥に、与那嶺村の産井泉 (ウブガー) だった初香井泉 (ハチコーガー) があり、初御香井泉 (ハチウコーガー) とも呼ばれている。井泉は埋められて現存しないが、拝所として、丸く石積が造られている。かつて旧正月の初拝み (ハチウビー)、井泉の拝み (カーウガミ) の時、この井泉から巡拝を始発したことが名称の由来といわれる。


毛遊毛 (モーアシビーモー)

かつての与那嶺集落の北の海岸との間にある畑の中に毛遊毛 (モーアシビーモー) 跡がある。昔、毛遊び (モーアシビ) が行われていた。毛遊び (モーアシビ) は若者たちの集まりで、独身の若者たちが晩から明け方にかけて集ま り、三線や太鼓に合わせて歌ったりしての交わりの機会だった。若者たちの遊び、男女交際としての性格が強く、男女交際の機会が少ない時代、ここで知り合い、夫婦になるという例も少なくなく、おとなたちから黙認されていた。近代教育制度が神道するにつれて、社会の良俗を乱すものとして規制の対象になっていった。本土でも村の祭りは同じような性格を持っていたのと似ている。


古小学校跡

与那嶺の畑地の中に佐敷尋常小学校跡がある。現在の佐敷小学校から随分と東にあったのだ。佐敷尋常小学校は1906年 (明治39年) から始まり、1941年 (昭和16年) に佐敷国民学校に改称された。現在の佐敷小学校の地には国民学校があったので、1941年 (昭和16年) 以前に現在の地に移転したことになる。


与那嶺毛 (ユナンミモ―)、ユナンミのガジュマル

畑地の一画に綺麗に草が刈りこまれた場所があり、民族地図では与那嶺毛 (ユナンミモ―) となっている。毛 (モー) は大体のケース、集落の広場にあたる。ここも与那嶺集落の広場で、集落の行事などが行われていたのだろう。広場には大きなガジュマルがある。佐敷には、かつて3本のガジュマル大木があった。ヰージャラモー、ナンモー、ユナンミの三本で、ここのユナンミのガジュマルは台風で倒れてしまったが、後に植樹されたのがこのガジュマルだ。


与那嶺橋小 (ユナンミバシグヮー)

与那嶺毛 (ユナンミモ―) の横には海岸に向けて、細い川が流れている。与那嶺毛の北側はここも草が刈りこまれた広場になっている。この川に橋が架かっていたのだろう、この場所は与那嶺橋小 (ユナンミバシグヮー) と呼ばれている。


今日は出発が遅かったので、5時間ほどでやっと与那嶺集落巡りが終了。ここから一時間かけて、家に向かう。途中で日没となり、自転車ライトを点灯して向かう。冬至が近く、今は日没は5時半ごろまでになっている。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)

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