Okinawa 沖縄 #2 Day 146 (21/11/21) 旧佐敷村 (6) Sashiki Hamlet / Tsukishiro 佐敷集落/つきしろ
旧佐敷村 佐敷集落 (さしき、サシチ)
- 佐敷上 (サシキウイー) グスク
- ノロ殿内 (ドゥンチ)
- 三の郭
- 内原の殿 (ウチバルヌトゥン)
- 慰霊碑
- 二の郭
- 竈 (カマド) 跡
- 親井泉 (エーガー)
- 一の郭
- 月代宮 (つきしろのみや)
- 上城の嶽 (ウィーグスクヌタキ)
- 洗心泉 (シーシンガー)、タキノー御嶽への遙拝所
- クンナカの嶽 (未訪問)
- タキノー御嶽 (未訪問)
- 佐敷ようどれ
- 下代樋川 (シチャダイヒージャー) (未訪問)
- 苗代大親 (ナーシルウフヤ) の屋敷跡
- つきしろの岩、苗代井泉 (ナーシルガー)
- 苗代殿 (ナーシルドゥン)
- 土帝君 (トゥーティークン)
- 美里井泉 (ンザトゥガー)
- 美里殿 (ンザトゥヌドゥン)
- 佐敷国民学校跡 (佐敷小学校)
- ナバーグムイ跡
- 川当殿 (カータイドゥン)
- 月代宮の大鳥居
- ヰージャラモーのガジュマル
- 一班の風水 (フンシー)
- ヰージャラ毛、闘牛場跡 (一班公園)
- 一班のサーターヤー (砂糖所)
- 阿旦 (安谷、アダニ) 山、井戸跡
- 佐敷海岸
- 竜宮神
- シュガーホール
- 佐敷間切下知役詰所跡、佐敷役場跡
- 能久親王御寄港之碑
- 忠魂碑
- 松尾御嶽 (マーチューウタキ)
- 村屋跡 (ムラヤー)
- 佐敷公民館、二班のサーターヤー (砂糖所) 跡
- 三班の風水 (フンシー)
- 三班のサーターヤー (砂糖所)
- 二班の風水 (フンシー)?
- 公民館の火の神
- 佐敷の馬場跡
- 穂取田 (トンジャー) 跡
- 佐敷農村公園 (ナン毛跡)、四班の風水 (フンシー)
- 苗代樋川 (ナーシルヒーカー、ナンモー井泉)
- 四班のサーターヤー (砂糖所) 跡
- 戦後のサーターヤー (砂糖所) 跡
- 龕屋 (ガンヤ―) 跡
つきしろ (12月4日 訪問)
- つきしろ公民館
今日は11月19日に続いて佐敷集落巡り二日目。今回は丘陵斜面にある文化財を巡る。
旧佐敷村 佐敷集落 (さしき、サシチ)
佐敷の地名は、琉球三山統一を果たした尚巴志王の生誕の地として、「城治 (さしち)」と呼ばれていた。「さしち」は日本古語の「さし(城) (古代朝鮮語)」 +「ち(治)」となる。 城を治めたことを意味し、三山の城を統一したという意味が込められている。
別の説では、肥後の八代・葦北にわたって勢力を振るっていた名和氏の支流が、葦北の佐敷から渡琉して、ヤマトバンタにたどり着き、葦北の佐敷に因んでその地を佐敷と呼称したとある。尚巴志は倭寇の出身という説に繋がっている。
佐敷は琉球を統一した尚巴志ゆかりの地で、数多くの史跡が残っている。現在の南城市佐敷は琉球王統時代の佐敷間切とほぼ同じで、今日訪れる字佐敷は間切の番所、後には佐敷村、佐敷町の中心地で役場が置かれていた。水の豊富な地域で、農業が主体の産業だった。現在宇佐敷には 17門中があり、そのうち8門中 (喜友名門中、川良端門中、場佐良門中、安堂門中、 仲渠村門中、新屋門中、 ナカントゥ門中、安武謝門中) は、元々佐敷集落の村立て時代からの門中で御引 (ミヒチ) と言われる。 他の9門中は、その後、他の地域から移住してきた門中。
時代ごとの佐敷の民家の広がりを見ると、字佐敷の北側、丘陵の麓の集落は、ほとんど変化がなく、丘陵の上のつきしろ地域が1970年代以降、住宅地、集合団地が開発され、急速に民家が広がっている。このつきしろ地域は佐敷、玉城、知念の旧三町村にまたがっていたため2013年に独立行政区として、「つきしろ」となっている。
現在の字佐敷の人口は旧佐敷村の中では真ん中に位置している。2013年に字佐敷から分離したつきしろ地区の人口は字津波古に次いで2番目に多くなっている。
字佐敷の人口は明治時代には700人程で、津波古、屋比久とほぼ同じで旧佐敷の中心地だった。その後1000人近くまで人口は増えたが、1978年をピークに減少が続き、明治時代の700人程までになってしまっている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: クンナカノ嶽 (神名: イベヅカサノ御セジ) 、タケナフノ嶽 (タキノー御嶽、神名: タカモリノ御イベ) 、苗代ノ嶽 (神 名: イヅクミダノ御イベ 所在地不明) 、松尾ノ嶽 (松尾御嶽神名: タケツカサノ御イベ) 、森山ノ嶽 (神名: アツ メクダノ御イベ)
- 殿: 美里之殿、苗代之殿、殿 (佐敷上城内、所在地不明)、殿 (佐敷按司屋敷内、内原の殿)、殿 (与那嶺村)、 佐敷巫火神 (ノロ殿内)
公民館の前に置かれた集落文化財の案内板
佐敷集落訪問ログ
佐敷上 (サシキウイー) グスク
琉球王朝第一尚氏尚思紹は伊平屋島から佐敷の馬天へ移り住み、新里に屋敷を構えていた佐銘川大主の息子で、苗代大親と呼ばれていた。佐銘川大主と同じく、大城グスク領主の大城按司に仕えていた。(佐銘川大主は東大城按司に従事、苗代大親は大城カヌシーと大城真武の大城按司二代にわたって仕えていたと考えられる) この期間に苗代大親は佐敷の統治を任され、佐敷按司となった。この時にこの佐敷上グスクが築城されたと思われる。
- 1385年に長堂原の戦いで大城按司真武が島添大里按司の汪英紫に滅ぼされた後は、佐敷按司は、独立して佐敷一帯を領地として、島添大里とは緊張関係にあった。この佐敷按司の地位は息子の後の尚巴志に引き継がれた。
- 1402年、尚巴志は城主が汪英紫から息子の屋富祖に引き継がれていた島添大里グスクを攻め落とし、佐敷按司から島添大里按司となり、居城を佐敷上グスクから島添大里グスクに移した。
- 1406年、中山国の武寧王を滅ぼし、尚巴志の父の尚思紹を第一尚氏琉球王朝の初代中山王に即位させている。
- 1416年、北山国の攀安知を滅ぼし、北山を手中に収め、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。
- 1421年に尚思紹王が薨去、1422年に尚巴志が中山王に即位。
- 1429年には南山国の他魯毎を滅ぼし、三山統一で沖縄島の覇権を掌握した。
佐敷城跡は第一尚氏王統にとっての聖地となり、琉球王朝以降聖地巡礼としての東御廻り (アガリウマーイ) の聖地のひとつとなっている。
城跡には、多くの史跡が残っている。それぞれの文化財を見ていく。
佐敷城跡の範囲は、佐敷集落内に延びる尾根の先端近くまで広がり、段々状の平場が10段あまりの構成だったと考えられる。このグスクは城郭としてのグスクの造りになっている。城の守りは、北の平野部から攻められることを想定し、グスクへの登り道の両脇に何段もの小郭が設けられている。その小郭に有事の際には兵士を配備し守りを固めたと思われる。その10の平場の内、主要な郭が上部からの三段になる。最上段が一の郭で、そこには上城ヌ嶽があり、二の郭、三の郭と下に広がっている。南側は急峻な斜面の丘陵になっており、自然の要害となっている。ただ、近くの島添大里グスクや大城グスクなど守りを重視し、丘陵の頂上付近にあるグスクと比べると、佐敷グスクは守るにはそれほど有利な場所とは思えず、それほど守りを意識したグスクではなく、グスクのすぐ下に東西に延びる城下町と密接している構造で、村との連携を重要視したグスクのような気がする。場天港を核として、貿易で経済活動を重要視し、領内の発展を意識したように思える。実際に、残っている記録では、佐敷グスクが敵から攻められたことはない様だ。
発掘調査によって、佐敷城跡の変遷過程は六期に区分されているのだが、その時期には幅がある。
- 第一期は佐敷城跡に人が住み始めた段階で、石積などの施設はなく、グスク土器を中心とした遺物が出土する。
- 第二期は、第一期に石積の石列が追加され、グスクの構造化が進んだ段階で、尚思紹・巴志が居城とした時代。(14世紀初頭から15世紀) この間に2~3回のグスク改変が行なわれている。
- 第三期はグスクの整備が終了した後の段階で、出土遺物に青花製品が増加することから、 15世紀以降と想定される。 第二尚氏琉球王朝の時代
- 第四期は第二尚氏琉球王朝の時代から戦前までか?
- 第五期は戦後のコンセット住宅の設置などで、工作がみられる段階。
- 第六期はつきしろの宮の拝殿や参道階段などの整備が図られて以降、現在に至る段階である。
ノロ殿内 (ドゥンチ)
集落から坂道を登っていく。佐敷の集落と場天港が眼下に広がっている。
佐敷グスクへの入り口に向かう途中にノロ殿内 (ドゥンチ) がある。この場所は三の郭から二段下がった平場にあたる。尚巴志の妹の佐敷ノロが居住していた屋敷跡とされ、伊平屋島へのお通し (ウトゥーシ、遙拝所) といわれている。戦前は石柱、茅葺き屋根の祠だった。 琉球国由来記の佐敷巫火神に相当する。 佐敷巫火神では佐敷ノロにより、麦穂祭、稲穂祭三日崇、毎年三・八月 四度御物参、年浴、年浴三日崇、麦初種子 ミヤタネ三日崇、麦初種子・ミヤタネが司祭された。
三の郭
公園に整備されているグスク跡に入る。入り口を入った所は三の郭で、グスク縄張りの中では一番広い平場になっている。兵士達の集合場所や、会議などが行われていたところのような気がする。
内原の殿 (ウチバルヌトゥン)
三の郭には内原の殿 (ウチバルヌトゥン) があり、上城ヌ殿 (ウィーグスクヌトゥン) 友呼ばれている。もともとは二の郭の竈跡の付近にあったものを、 慰霊碑建立時に現在の場所に移動し、1980年にコンクリート造りの祠に建て替えられている。5月と6月のウマチーで拝まれている。
慰霊碑
グスクの三の郭敷地内には戦没者の慰霊碑が建立されている。支那事変、大東亜戦、防衛隊勤皇隊、義勇隊、篤志看護婦、軍属等の犠牲者を慰霊し、佐敷集落では毎年11月に慰霊祭を行っている。
沖縄戦の犠牲者は191名で集落住民の32%にのぼる。
二の郭
三の郭の一段上にも平場がある。この場所は内原之殿があった。内原は大きなグスクには領主やその親族の私的な空間で、グスク内にある御嶽の祭祀を司る女官たちの詰所だったと思われる。
竈 (カマド) 跡
二の郭の敷地内にカマド跡が残っている。この辺りには、佐敷按司に仕えた女官の詰所があったと考えられている。三の郭に建てられている内原之殿は、戦前はこのカマド跡付近にあった。
親井泉 (エーガー)
二の郭から一の郭のを周りこむ形で濠の様な構造になっており、そこに親井泉 (エーガー) がある。ウフ井泉とも呼ばれ、佐敷グスクの生活用水としてだけでなく、集落の人々の生活用水としても使用されていた。1月2日のハチウガミ (初御願) で拝まれている。
一の郭
佐敷グスクの最高部にある平場で、上城の嶽があるので、グスクの守り神を祀った神聖な御嶽拝所となっていたのではないだろうか?尚巴志などの日常生活は二の郭で行われていたと思う。
月代宮 (つきしろのみや)
三の郭から一の郭に向けて月代宮 (つきしろのみや) への鳥居と参道階段がある。
参道階段を上がるとお堂があり、お堂の側には1922年 (大正11年) に沖縄史蹟保存会が設けた「尚巴志王遺跡」の碑が立っている。
そこをくぐると月城宮の本殿がある。月城宮は1938年に、つきしろ奉賛が尚巴志の五百年祭を記念事業で領主奉斎神社として建立され、尚氏の守護神の「つきしろ」、第一尚氏歴代王の尚思紹王 (第一尚氏初代王)、尚巴志王 (二代)、尚忠王 (三代)、尚思達王 (四代)、尚金福 (五代)、尚泰久王 (六代)、尚徳王 (七代)、後に佐銘川大主が追加され、八柱がまつられている。拝殿は太平洋戦争で戦災に遭い、城内には一時期コンセット住宅が建てられていたが、1962年にコンクリート製の拝殿と参道が新たに設けられ復元されている。 9月15日に近い日曜 日に例祭が行われている。
上城の嶽 (ウィーグスクヌタキ)
つきしろの宮の本殿の後ろ側には上城の嶽 (ウィーグスクヌタキ) がある。琉球国由来記の上城ノ嶽弐御前 (神名: スデツカサノ御イベ、若ツカサノイベ) に相当する。上城ノ嶽では、佐敷ノロにより、年浴と麦種子ミヤタネが司祭されていたが、現在では、なぜか、村落祭祀は行われていない。 つきしろの宮があるからだろうか?
この佐敷には、尚思紹、尚巴志父子に係わる伝承があるのだが、それぞれがイメージとして繋がらない。伝承なので、史実とは異なると思われるが、大まかに当時を想像するには役に立つ。この佐敷グスクを居城とした時期について興味が沸き、尚思紹、尚巴志父子の佐敷時代の年表を「小説 尚巴志」をもとに作成してみた。赤線で囲った範囲が尚思紹、尚巴志父子が佐敷グスクを拠点として活躍したきかんにあたる。これは小説なので、著者の創作も含まれてはいるだろうが、色々な文献と比較しても、最も詳しく当時の様子をイメージできるものだ。個人的には、この歴史小説は学術的な論文よりも有益と思っている。限られた情報から、人間関係や時代背景を考慮して、創作されている。歴史を学ぶ価値は、単に史実だけを暗記することではなく、その背景や動機を考えることにある。この年表はこの作者の一つの仮説ではあるが、これをベースに、佐敷にある文化財とそれにかかわる伝承などを見ていく。
洗心泉 (シーシンガー)、タキノー御嶽への遙拝所
上グスク南西側に位置する丘はタキノーと呼ばれ、尚巴志の時代にはグスクの見張り台があったとされている。その他に、タキノーの嶽やクンナカノ嶽があるのだが、そこに行くには、急峻な坂道で厳しいため、この場所に遙拝所が設けられ、ここから拝んでいる。今では、タキノーの嶽やクンナカノ嶽まで足を運ぶ人は殆どいない。遥拝所の隣には沖縄戦後に高等弁務官資金により設置された洗心泉があり、丘陵の上部にある下代樋川 (シチャダイヒージャー) から水を引き貯水し住民の飲料水タンクとして利用されていた。12月24日のウガンブトゥチ拝まれている。
クンナカの嶽 (未訪問)
資料ではクンナカの嶽は洗心泉の傍らに設置されているとある。先程の遥拝所が、これにあたるのだろうか? 別の資料ではつきしろの宮からみて南西の森の中にあるとなっている。 はっきりしない。琉球国由来記の 「クンナカノ嶽 (神名: イベヅカサノ御セジ) に相当し、かつては、佐敷ノロにより年浴、麦初種子 ミヤタネが司祭されていた。戦後はほとんど拝んでいないそうだ。資料にはクンナカの嶽の写真が載っているが、特徴も目印もなく、森の中に入り探すのは難しいだろう。
タキノー御嶽 (未訪問)
遥拝所から急な坂道になっている旧道の下代原バンタを登る。この下代原バンタ道は、丘陵の崖上のつきしろ地区にある下代樋川 (シチャダイヒージャー) に通じているそうだ。そこを目指して進む。道の途中にタキノー御嶽 (写真右下 資料から借用) があるはずなのだが、結局は見つから無かった。 タキノー御嶽は琉球国由来記のタケナフノ嶽 (神名:タカモリノ御イベ) に相当し、佐敷ノロにより、年浴、麦初種子ミヤタネが司祭されていた。現在は、ここまで御願に来る人はほとんどおらず、御引 (ミヒチ = 村立て時代から続く門中の事、今帰仁ヒチ、喜友名ヒチ、カーラバタヒチ、バサーラヒチ) が佐敷グスク近くの遙拝所から拝んでいる。
更に道を登って行くと頂上が見えてきた。ここで道が途切れている。道が崖崩れで分断されている様だ。もう少しで頂上なのだが残念。丘陵の上部が崖崩れの跡が見える。
道を引き返す。標高120mのここから見える中城湾の風景。
佐敷ようどれ
この佐敷ようどれは2019年9月23日に訪問している。写真はその時のもの。航空自衛隊知念分屯基地内にある古墓。この墓には尚思紹王夫婦、美里子夫婦 (尚思紹王の姑夫婦)、美里の大比屋夫婦 (尚思紹王の次男夫婦)、佐敷大のろ くもい (尚思紹王の娘) の計7人の第一尚氏に関係する人物が合祀されている。 第二次大戦後、1959年に新里の軽石 (カラシ) 山にあった佐銘川大主の墓が、 地滑りおよび山崩れにあったため、佐銘川大主も合祀されるようになった。佐敷ようどれは、元々は佐敷西上原の崖下にあったのだが、風雨のため墓の欠損が激しいことから、1764年に、現在地に移築されている。
下代樋川 (シチャダイヒージャー) (未訪問)
苗代大親 (ナーシルウフヤ) の屋敷跡
佐敷集落南東の傾斜地に、尚巴志の父親の苗代大親 (ナーシルウフヤ、後の尚思紹) の屋敷跡と伝わる場所がある。佐敷集落ではハチウビー (初拝み)、5月と6月ウマチー、ウグァンプトゥチ (御願解き) で拝まれている。この苗代殿へは佐敷農村公園 (ナン毛跡、後述) から、苗代殿道と呼ばれる急な坂を登っていく。
屋敷跡の隣にもコンクリート造りの祠があった。屋敷との関係はわからない。多分ここにあった民家の屋敷神を祀った祠ではないだろうか?
つきしろの岩、苗代井泉 (ナーシルガー)
殿のある平場の上にも平場があり、そこにつきしろの岩とその前に井戸跡がある。この場所は佐敷集落では、尚巴志が生まれたときに産湯として使われたとある。尚巴志は苗代大親と美里之子の娘の結婚前にできた子供といわれ、娘の親にはまだ結婚の承諾を得ておらず、不義の子となる。娘はそれを恥じ、ここに赤子を捨てたという。心配になり戻ると、白鳥が羽で赤子を温め、犬が乳を与えていたという伝承がある。以前訪れた玉城の親慶原集落では、尚巴志が捨てられたのは天次門 (アマチジョー) ガマと伝わっている。伝承の内容は場所と白鳥が鶏になっている以外は同じだ。娘は自分の行動に恥じ入って、親の許しを得たとなっている。
苗代殿 (ナーシルドゥン)
更に上にも平場があり、そこには苗代殿 (ナーシルドゥン) がある。第一尚氏の守護神というつきしろの石があったが、現在は消失している。琉球国由来記の苗代之殿に相当する。苗代之殿の庭には、月白というイビがあり、祭祀の時に拝まれたという 。佐敷ノロにより麦穂祭、稲二祭が司祭されていた。
土帝君 (トゥーティークン)
この土帝君の場所からも、丘陵の上のつきしろ地区に通じる中ヌハンタグヮー道と呼ばれる古道があるそうだ。昭和30年ほど前までは、農道として、またそれ以前は龕を運ぶ道として使われていたとあるので、まだ残っている可能性がありそうだ。土帝君の脇の道を丘陵に向けて進んでいったのだが、途中で行き止まりとなってしまった。道らしきものを探すが見つからず断念。地元の人に聞くしかない。公民館の女性の方に聞いたのだが、古道の存在自体知らなかった。
ここから知念の方向が良く見える。あの山の向こうが知念になる。
美里井泉 (ンザトゥガー)
土帝君と佐敷グスクとの間に苗代大親の義父にあたる美里之子の屋敷跡がある。その屋敷に向かう途中に美里井泉 (ンザトゥガー) があり、佐敷上グスクの神役達が、みそぎをした所といわれている。
美里殿 (ンザトゥヌドゥン)
美里井泉 (ンザトゥガー) の道を進むとコンクリート造りの祠がある。ここが美里之子 (ンザトゥヌシー) の住居跡といわれ、そこにある祠は美里殿 (ンザトゥヌドゥン) で、琉球国由来記の美里之殿 (与那嶺大屋子根所 也) に相当すると考えられている。美里之殿では、佐敷ノロにより、麦穂祭、稲二祭が祭されていた。この美里之子 (ンザトゥヌシー) の屋敷は佐敷グスクの三の郭の下にあたり、佐敷グスクの一部と考えられている。美里之子も佐銘川大主親子と共に大城按司に仕えており、苗代大親が1380年佐敷按司に昇進した際には、美里之子は佐敷按司之香椎となっていただろう。美里之子は1385年の長堂原の戦いで汪英紫に敗れ、大城按司と共に戦死している。彼の息子が美里之子を継ぎ、この屋敷に住んでいただろう。その美里之子の屋敷を佐敷グスク之中に取り込んだと思われる。息子の美里之子は1416年に尚巴志が北山の今帰仁城を攻めた際に従軍し、戦死している。後継ぎがいなかったので、尚巴志の弟 (次男) が美里家に養子に入り、美里大比屋となっている。佐敷集落の喜友名門中 (チュンナームンチュー) は美里大比屋の子孫といわれ、また、場佐良門中 (バサーラムンチュー) は美里之子の子孫と伝わる。
11月19日には佐敷集落内にある文化財などを巡った。佐敷集落は東西に長細く伸びている。西の端から、集落内を探索する。
佐敷国民学校跡 (佐敷小学校)
明治時代から与那嶺にあった尋常小学校から、この地に移転し、1941年 (昭和16年) に国民学校に移行した。ここはその国民学校があった場所。戦時中は国民学校には日本陸軍の海上輸送を担っていた暁部隊が駐留していたそうだ。沖縄戦で1945年 (昭和20年) 4月に米軍の艦砲射撃で全焼している。
ナバーグムイ跡
佐敷小学校の前は、池があり綺麗に整備されている。ここは以前はナバーグムイと呼ばれる池があった。実際にあった池は月代宮の大鳥居の横にあった。今はそこには貯水槽が建っている。
川当殿 (カータイドゥン)
佐敷小学校の裏の細い上り道の途中に、殿 (トゥン) がある。川当殿 (カータイドゥン) という。下代殿とも書かれる。もとは佐敷小学校の敷地内にあったのを、1999年にこの場所に移設している。この殿は佐敷集落だけでなく、元々は佐敷集落の一部だった兼久集落でも、拝んでいる。この辺りは、沖縄貝塚時代後期 (弥生、平安時代にあたる) から15世紀までの下代原遺跡があり、尚巴志の時代には鉄製品生産場があったと推測されている。
月代宮の大鳥居
国道311号線沿いにある佐敷小学校の横から佐敷グスクへの登り道がある。道の下には佐敷城跡に建てられた月代宮の大鳥居がある。この鳥居は、明治以降の皇民化政策により、沖縄の御嶽や殿がお宮として神道施設化された時、1938年 (昭和13年) に建立されたもの。
ヰージャラモーのガジュマル
大鳥居を入った所に大きなガジュマルがそびえている。佐敷には、かつて3本のガジュマル大木があった。ヰージャラモー、ナンモー、ユナンミの三本で、ここのヰージャラモーのガジュマル以外は台風で倒れてしまった。先日、与那嶺を訪れた際には与那嶺毛 (ユナンミモー) 植樹されたガジュマルがあった。この三つのガジュマルは500mの間隔で植わっていた。ヰージャラモーとユナンミは集落のほぼ両端にあたる。村の境界線に植えていたのかもしれない。
ガジュマルの枝には戦後、集落内の連絡用に使われた酸素ボンベの鐘が吊るされている。
この他に、集落の路地に小さな酸素ボンベの鐘が吊るされていた。連絡用なのか子供の遊び用なのかと思うぐらい小さいものだった。
一班の風水 (フンシー)
ガジュマルの根元には字佐敷の風水 (フンシー) と書かれた拝所が建っている。旧佐敷村ではこの風水の拝所と土帝君 (トゥティークン) が各集落に残っている。これは、今まで廻ってきた島尻の他の集落と異なる点だ。各集落で、何の神に重きを置くかは異なっている。旧佐敷村ではこの風水と土帝君が信仰の場として大切にされているようだ。これは佐敷集落にあった四つの班の一班の風水。この後にも、佐敷の他の班の風水の拝所に出会うことになる。
ヰージャラ毛、闘牛場跡 (一班公園)
字佐敷の風水の前、佐敷城への道沿いに一班公園び広場がある。この公園はヰージャラ毛だった場所で、ウシモーとも呼ばれ、かつては闘牛場 (ウシオーラセー) で、佐敷集落民の大衆娯楽の場所として親しまれていた。沖縄の闘牛は明治時代後期から始まったとされ、牛同士で戦うスタイル。この闘牛はあっという間に沖縄全土に広がり、戦前では男たちが闘牛に夢中となりすぎて、仕事がおろそかになり、退廃していく集落も現れ、闘牛を規制したり、禁止する村もあったそうだ。太平洋戦争激化で、一時、途絶えていたが、戦後、闘牛大会が復活している。その後、闘牛には浮き沈みがあり、多くの村では、大会を維持できず、沖縄全土の闘牛組合を束ねる沖縄県闘牛組合連合会ができ、今では沖縄全土で10か所程の闘牛場が残っている。沖縄全土の大会もある。
一班のサーターヤー (砂糖所)
一班の広場だったヰージャラ毛近くには、一班のサーターヤーがあった場所。佐敷には四つのサーターヤーがあった。それぞれの班がサーターヤーを持っていた。ここは一班が使っていた場所で、今は空き地になっている。
阿旦 (安谷、アダニ) 山、井戸跡
一班のサーターターの東側には阿旦 (アダニ) 山跡がある。山と呼ばれていたから、昔はこんもりとした丘があったのだろう。この場所は尚巴志が農耕をしていた水田だった場所とされて、尚巴志が水田用に使った井戸跡もある。今では字としては御願の対象にはなっていないが、明治終わりごろまでは、近くの佐敷間切の役所職員が結婚の際は拝む習慣があったそうだ。
佐敷海岸
佐敷には遠浅の砂浜の海岸がある。今は小笠原諸島の海底火山噴火で大量の軽石が流れ着いて、沖縄では大きな被害が出ている。この佐敷の海岸にも流れ着いて、海岸や河川を覆っている。砂浜も軽石で覆われてしまっている。
11月19日に訪れた際には、大勢の人たちが海岸で軽石除去作業をしていた。佐敷外からも駆けつけて総勢600人にも協力してくれたそうだ。旧佐敷村には場天港があり、漁船も出向できず、漁師さんには不安が広がっている。沖縄全土に軽石被害が広がっている。
竜宮神
この海岸には竜宮神があると、公民館前の案内板にあった。探すも見つからない。公民館でこの竜宮神についてたずねると、この竜宮神は古来からあるのではなく、戦後に佐敷にも竜宮神をということで設置したのだが、その後、色々とあり (詳しくは言いにくそうだった)、 現在では字では拝まれていない。この拝所は竜宮神の拝所と呼ばれるのだが、竜宮神を祀っているわけではないそうだ。葬式の翌日、墓参りの後に拝むそうで、これは古来の竜宮神信仰だそうだ。他の集落では海の神として公開の安全、大漁祈願で拝んでいるのと異なっている。今でも竜宮神はコンクリートで固めた拝所があり、一部の住民には拝まれているそうだ。竜宮神は、回収した軽石の集積所になっており、その下あるそうだ。
シュガーホール
この海岸には沖縄唯一の音楽専用ホールで、音楽イベントやその他の催しが行われているシュガーホールがあり、屋外ステージや図書館も併設されている。
佐敷間切下知役詰所跡、佐敷役場跡
国道331号線脇に「佐敷役所跡入(口?)」の石柱が建っている。そこを入ると石垣に囲まれた佐敷役場跡がある。(こちらは役所ではなく役場となっている) ある資料ではここには王府から派遣された臨時の役人である下知役の詰所も置かれていたとあるので、琉球王統時代から佐敷間切番所で明治以降に役所、役場として使われていた。現在は駐車場になっている。
能久親王御寄港之碑
この駐車場の隅の資材置き場の奥に「能久親王御寄港之碑」がひっそりと建っている。「能久親王 (よしひさしんのう)」とは北白川宮能久親王のことで、石碑裏面には明治28年4月17日、下関条約の締結により日清戦争が終結し、台湾は清から日本へ割譲され、その平定の為に近衛師団が向けられた。当時、陸軍中将として近衛師団長の能久親王は、沖縄に於いて初代総督 樺山資紀と合流し、翌日、台湾へ出港したとある。当時は、台湾では激しい抵抗運動が展開され、これを平定するために日本軍が派遣され、能久親王が師団長として従軍していた。佐敷がある中城湾は台湾への海軍の物資中継地にないた。能久親王はこの後、現地台湾でマラリアにかかり戦病死となる。 石碑の揮毫は東郷平八郎によるものだそうだ。
忠魂碑
能久親王御寄港之碑の前にも石碑がある。木々で覆われてよく見えないのだが、忠魂碑と刻まれている、石碑の下の部分はかけてしまっている。沖縄戦当時の集落の地図を見ると、この忠魂碑は旧国民学校に奉安殿と共に置かれている。戦後この場所に移設されているようだ。忠魂碑は明治以降、日本政府の軍国化に伴って、戦死者の天皇への忠義を称える意味合いが強かった。多くはは神社や学校に建てられていたが、戦後GHQは忠魂碑を国家主義や軍国主義的な意図があると考え、多くは撤去されている。この佐敷には国民学校 (現 佐敷小学校の校庭) にあったので、子供達への思想教育のきっがあったのだろう、破壊はされず、学校からは撤去されてこの場所に移されたと思われる。天皇と皇后の写真 (御真影) と教育勅語を納めていた奉安殿は撤去されて残っていない。
松尾御嶽 (マーチューウタキ)
佐敷役場跡から東へ2ブロック程の山側に階段を上った所に、松尾御嶽 (マーチューウタキ) がある。マーツー御嶽とも呼ばれている。琉球国由来記の松尾ノ嶽 (神名: タケツカサノ御イベ) に相当する。松尾ノ嶽では、佐敷ノロにより 年浴、麦初種子 ミヤタネが司祭された。
村屋跡 (ムラヤー)
松尾御嶽 (マーチューウタキ) から更に2ブロック東には、かつての村屋 (ムラヤー) があった場所。現在は民家となっている。 戦前、戦後は茅葺の建物が建っていたそうだ。
佐敷公民館、二班のサーターヤー (砂糖所) 跡
村屋跡 (ムラヤー) の前の道を海岸側に降り、国道331号を渡った所が現在の公民館だ。1968年に、先ほどの村屋から、ここに移転し、コンクリート建公民館となり、2003年に赤瓦の現在の公民館に建て替えられている。この場所は、かつては二班のサーターヤーがあった。佐敷訪問二日目は、自転車を、女性職員にことわり、ここに停めさせてもらい佐敷を巡った。この女性職員はここ佐敷出身で佐敷の事をいろいろと話してくれた。集落巡りをしていることを話し、色々と質問をさせてもらうと、自分は詳しくはないのでと、佐敷で発行している字誌を出してきて、それを見ながら説明をしてくれた。佐敷をもっと知ってほしいですと言って、その字誌を提供してくれた。感謝だ。
三班の風水 (フンシー)
公民館の裏手に三班の風水 (フンシー) が置かれている。ここは二班のサーターヤー跡だったはずなのでなぜ二班の風水 (フンシー) があるのかと思っていたのだが、この隣が三班のサーターヤーだったので、ここに移したのでなないだろうか。
三班のサーターヤー (砂糖所)
公民館の裏が三班のサーターヤー (砂糖所) だった場所。
二班の風水 (フンシー)?
公民館敷地内にの拝所がある。祠とその右隣は井泉の拝所。
公民館の火の神
佐敷公民館内の調理実習室の窓際に丸い緑色の陶磁器の香炉の火ヌ神が置かれているそうだ。佐敷集落の全行事で、最初に拝まれ、また行事終了後その報告のために拝まれる大切な拝所。写真は資料から借用。
佐敷の馬場跡
公民館の前の国道331号線沿い、サーターヤー (現 公民館) から東側の穂取田 (トンジャー) 跡までがかつての馬場があった場所。現在は、跡地には民家が国道沿いに建っている。
穂取田 (トンジャー) 跡
佐敷の馬場の東側には穂取田 (トンジャー) があった。集落で田植えを始めるときに、まずはこの穂取田に苗を植え、御願行事を行ってから、各家の水田で田植えを行った。
佐敷農村公園 (ナン毛跡)、四班の風水 (フンシー)
東西に延びる集落のほぼ真ん中には四班のアシビ―モーだったナン毛があった場所で、現在は農村公園になっている。佐敷集落にあった目印となったガジュマルがあった所だが、ガジュマルは台風で倒れて現在はない。公園の片隅には四班の風水 (フンシー) が置かれている。
苗代樋川 (ナーシルヒーカー、ナンモー井泉)
農村公園の南側には苗代樋川 (ナーシルヒーカー) 跡がある。ナンモー井泉とも呼ばれている。昔の形は残っていないが、コンクリートでかつての水場が形どられている。戦後、上水道が敷設されるまでは、三班と四班の住民が飲料水として使用していた。
四班のサーターヤー (砂糖所) 跡
四班のサーターヤーは四班のアシビ―モーだったナン毛の東側にあった。地図では二つあり一つはミ―サーターヤーとあるので、後で近くにもう一つサーターヤーを造設したようだ。
戦後のサーターヤー (砂糖所)
集落と海岸の間には戦後造られたサーターヤーがあった場所がある。戦争で集落は破壊され、四つの班のサーターヤーも破壊されていたのだろう。ここに共同のサーターヤーが置かれていた。
龕屋 (ガンヤ―) 跡
佐敷集落の東の端、かつての与那嶺集落との境あたりに龕屋があったそうだ。今は龕もなく、龕屋もなくなってしまっている。資料によれば、佐敷の丘陵地には墓がないという。ほとんどの集落では、集落の後ろの丘陵地は墓群になっている。佐敷集落の人たちも、なぜ先祖たちが丘陵地に墓を造らなかったのかは謎だそうだ。
つきしろ (12月4日 訪問)
12月4日に手登根集落を訪れた帰りに、丘陵の上に開発された「つきしろ」に立ち寄った。つきしろは、1976年に入居が開始され、1979年に行政区となって以降、急速に人口が増え、玉城と知念のつきしろ地区が合併する直前の2012年では800人近くまで増え、佐敷の人口の半分以上を占めていた。この佐敷、玉城、知念の旧三町村にまたがっていた住宅街は、2013年に「つきしろ」として独立行政区になった。それ以降も人口は増え続けている。この地域の名前となった「つきしろ (月代)」は苗代大親 (尚思紹王 第一尚氏初代王) の屋敷の庭に祀られていた第一尚氏の守護神の霊石の名からとっている。
つきしろ公民館
何か情報があるかと思い公民館に来てみた。新しい街なので、小ぎれいな公民館だ。
公民館の前にはつきしろ地区の案内マップが置かれていたが、この地域には昔からの文化財はない。
公民館の隣には公園があり、小高い丘に展望台があった。
展望台を登ると、はつきしろの規則正しく区画された町並みが一望できる。
参考文献
- 佐敷村史 (1964 佐敷村)
- 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
- 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- ふるさと佐敷のあゆみ (2003 字佐敷公民館建設委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- 佐敷上グスク 平成12年度 平成14年度範囲確認調査概報 (2003 沖縄県佐敷町教育委員会)
- 尚巴志活用マスタープラン (2014 南城市教育委員会)
- 琉球王国の真実 (2016 伊敷賢)
- 新 琉球王統史 3 思紹王 尚巴志 尚泰久 (2005 与並岳生)
- 尚巴志伝 (酔雲)
南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
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