Okinawa 沖縄 #2 Day 147 (25/11/21) 旧佐敷村 (7) Fusozaki Hamlet 冨祖崎集落
更新: 2021年12月14日 再訪問 (ハマジンチョウ公園 ハマジンチョウ開花)
旧佐敷村 冨祖崎集落 (ふそざき、フシザチ)
- 冨祖崎公民館 (サーターヤー跡)
- 慰霊之塔
- 字の風水 (フンシ)
- 冨祖崎の石獅子
- 村屋跡 (ムラヤー)
- 冨祖崎公園 (塩田跡 マースナー)
- 平和祈念像
- ハマジンチョウ公園 (ムーチーヤーモー)
- 冨祖崎海岸
- 浜川井泉 (ハマガーカ)
- 酸素ボンベの鐘
- サーターヤー跡
- 浜川の風水 (ハマガーヌフンシ)
- 名称不明の拝所
今日は佐敷集落の隣の冨祖崎集落と、時間があればその隣の仲伊保集落を巡る。冨祖崎集落は全部見終えたが、仲伊保集落は8割程度に終わった。ここでは冨祖崎集落の実の訪問記を載せる。仲伊保集落訪問記は次回全部見終わってからとする。
旧佐敷村 冨祖崎集落 (ふそざき、フシザチ)
冨祖崎は沖縄方言ではフシザチと読むのだが、フィシザチとは 「千瀬先」のことで、干潮時に現れるサンゴ礁の礁原 (干瀬) の先端を意味する。 冨祖崎より佐敷側の湾入部には河口があ り、塩分濃度の低下でサンゴ礁が発達せず、冨祖崎が知念地区字久原側からのサンゴ礁礁原 (千瀬) の先端をなし、そこでサンゴ礁の発達が止まっている。これが冨祖崎の地名になったそうだ。
冨祖崎は1740年頃に真栄城家 (練氏、名乗り頭は玄)と屋嘉部家が最初に住みついたと伝わる屋取 (ヤードィ) 集落で、それから150年程経って、1903年 (明治36年) から始まる土地整理の際に、屋比久村、平田村、 佐敷村の各一部をもって冨祖崎村が成立している。半農半漁の集落で太刀魚やタクジー漁等サバニ漁やスンチャー (地引網漁) も盛んだったが、太平洋戦争で、1942年 (昭和17年) に全面禁止になった。戦前から戦後の一時期まで大きなマースナー (塩田) があり、製塩業も行なっていた。
冨祖崎の現在の人口 (2020年末) は414人 (180戸) で旧佐敷村の中では比較的少ない集落のグループに入る。
1965年では650人まで増えた人口はその後、減少を続け一時期は300人程度まで落ち込んだ。(1990頃と思う) それから増加するも、また減少期が続き、ここ五年は増加傾向にある。とはいえ、現在の人口でも全盛期の60%程度だ。
集落の民家の変遷を見ると、最も変化があるのは浜川屋取集落で1919年の地図には冨祖崎屋取集落と同じぐらいの規模だったのが、それ以降縮小し、現在は昔と同じぐらいの民家の分布になっている。
明治以降の屋取集落なので、琉球国由来記にはこの地期で記載された拝所 (御嶽、殿) はない。現在、村落としての祭祀は行われておらず、住民個人がそれぞれの拝所を拝んでいる。
冨祖崎集落訪問ログ
冨祖崎公民館 (サーターヤー跡)
海岸近くに公民館がある。かつてはサーターヤーだった場所に建てられ、南城市ムラヤー建設補助事業で改修されている。
慰霊之塔
公民館広場の隅に慰霊碑が昭和32年に自治会によって忠霊之塔として建立されている。昭和の末から平成の初頭に改修され慰霊之塔と名が変わっている。満州事変、支那事変、第二次世界大戦で従軍した字民兵士の名が刻まれている。数えると42名でそのうちそのうち33柱が沖縄戦での戦没者で11名の地元民間人で組織された防衛隊も含んでいる。この他に準軍属戦没者が70余名とあるので、この集落では112名の犠牲者が出た事になる。
別の資料では犠牲者合計は159名とある。集落の規模から言えば、大きな犠牲だ。当時の人口は437人 (111戸) なので住民の36%が犠牲になっている。
字の風水 (フンシ)
公民館の広場北側に隣接するところに字の風水 (フンシ) があり御風水 (グフンシ) とも呼ばれている。 屋取として入植した直後につくられたそうだ。ムラの守護神を祀っており、平和と安全、 豊年の祈願がなされていた。 現在では村としての祭祀は行われておらず、集落民が個人で拝んでいる。
冨祖崎の石獅子
字の風水 (フンシ) から川を渡った所が広い三叉路になっており、その角に石獅子が置かれている。八重瀬岳に向かって祀られているそうだ。
三叉路にはいつも目にする酸素ボンベの鐘が吊るされている。ボンベは赤く塗られている。この後、東の外間集落との境付近でも酸素ボンベの鐘に出くわすが、それも真っ赤な鐘だった。
村屋跡 (ムラヤー)
三叉路を少し入った所がかつての村屋 (ムラヤー) があった場所で、現在は食堂と駐車場になっている。
冨祖崎公園 (塩田跡 マースナー)
集落中心部から、海岸沿いを行くと冨祖崎公園がある。明治から大正時代には、この冨祖崎と隣村の仲伊保の間の海岸で製塩が行なわれていた。ここはその塩田 (マースナー) が5万6千坪にもわたってあった場所。明治38年までは、塩は自由販売で、生産したマース (塩) は、女がバーキに入れ頭に乗せて、玉城村の前川あたりまでアチョール (行商) をしていた。当時はフシザチマース (冨祖崎ン塩) として有名だった。塩の専売制が施行された後は自由販売は許可されず、月二回ぐらいの割で専売局が冨祖崎にきて、マースの品質検査を行なう買付けに変わった。その後、燃料費高騰で専売局への出荷では利益が出なくなり、大正10年ごろに、製塩業は中止となり、戦後ある時期までは、細々と続いていた。戦前は全戸数の34%が製塩に従事していた。塩田跡地は公園になり、野球場、陸上競技場、体育館が建っている。陸上競技場ではパットゴルフを楽しむ老人達を見かけた。
平和祈念像
公園の入り口を入った所に、平和祈念像が置かれていた。デザインは半球と2本の柱で馬蹄形の中城湾沿いに広がる佐敷町の地形を象徴しているそうだ。半球を2本の柱が支える形は両手で包み込む和を強調し、中心に向かって祈念する求心性を表していると案内板には書かれていた。半球の中心に空いた穴は佐敷町の町花のテンニンカの輪郭を象っている。
この公園はスポーツ施設で「さしきスポ・レクセンター」がある。館内でスカッシュ場で汗を流している若者を見かけた。
公園で人懐っこい猫と出会う。子猫連れだったが、子猫の方は警戒して近寄れないが、母猫は平気な様で、暫くは一緒に散歩するくらいだった。子連れなので避妊は施されていない様だ。避妊の印の耳の切り込みも無かった。地域によっては、野良猫に避妊手術を施しているのだが、ここはそうでは無い様だ。今日はうさぎにも出くわした。沖縄では時々山で見かける。野良兎の筈だが、近くに寄っても全く逃げない。餌付けでもされているのだろうか?
ハマジンチョウ公園 (ムーチーヤーモー)
公民館の南西部には県内で、唯一ハマジンチョウが群生しているハマジンチョウ公園がある。昔はここから公民館まで遊歩道があった様だが、今は荒れ果てて、雑木林になってしまっていた。
浜沈丁 (ハマジンチョウ) は、九州から、沖縄、台湾などの地域の海岸だけに分布している珍しい高さ1メートルから2メートルの背丈の低い木で、本来は点在して自生するハマジンチョウが群落を形成するのは他に例がなく、貴重な地域として沖縄県の天然記念物に指定されている。近年の海岸の埋め立てなどで減少し、絶滅危惧II類とされている。1月頃から3月まで、うす紫色の小さな花を咲かせるそうだ。1月ごろにここに来れば花が観れるだろうか?
12月14日に知念の知名集落訪問の際、ここを通った。カメラを片手に撮影している人がいたので、声をかけた。ハマジンチョウの花が咲き始めたので、時々、ここにきてチェックしているのだそうだ。班が咲いていると教えてくれた。少し早めに咲き始めたようだ。
冨祖崎海岸
ハマジンチョウ公園から冨祖崎公園まで砂浜が続いている。この砂浜も軽石が打ち上げられていた。
中城湾の向かい側には、今まで訪れた、津波古、新里、佐敷の町が見えている。
次は、集落中心部から東側に向かう。土地のほとんどは畑になっていて、民家は少ない。
浜川井泉 (ハマガーカ)
少し民家が集まっている場所には浜川井泉 (ハマガーカ) 公民館の東約 350mにある。畑の中にある井泉。この井戸は屋取として入植した時に掘られたそうだ。 産井泉として使われ、1945年頃までは飲料水としても利用されていた。
酸素ボンベの鐘
浜川井泉のすぐ近くの三叉路にも赤く塗られた酸素ボンベの鐘が吊るされている。集落中心からは離れているので、ここにも置かれていたのだろう。
サーターヤー跡
酸素ボンベの鐘の前の道を集落中心部方面に入ったところにはサーターヤーがあった。現在は畑になっている。
浜川の風水 (ハマガーヌフンシ)
酸素ボンベの鐘から北への道を行くと浜川の風水 (ハマガーヌフンシ) の拝所があり、連立の祠の中に二つ香炉が置かれている。公民館の字の風水と同時期に造られたそうだ。それぞれが何を祀っているのかは書かれていないが、この付近には浜川屋取があったので、その土地の守り神だろう。
名称不明の拝所
更に北に進んだ所、字仲伊保との境にも祠造りの拝所がある。名称は不明だそうだ。村境にあるので、やはり土地の守り神だろう。
参考文献
- 佐敷村史 (1964 佐敷村)
- 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
- 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
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