Okinawa 沖縄 #2 Day 120 (31/07/21) 旧玉城村 (11) Tamagusuku Hamlet 玉城集落

旧玉城村 玉城集落 (たまぐすく)

  • グスクロード
  • 玉城グスク
    • 三の廓
    • 二の廓
    • 夫婦井泉 (ミートゥガ-)
    • ナカダンの殿 (トゥン)
    • 一の廓
    • 国火の神
    • アマチジ御嶽
    • 玉城按司の墓
    • グスク火の神
    • クラシミウジョー
    • 伊良部の殿 (イラブヌトゥン) [未訪問]
    • 伊良部井泉 (イラブガ-) [未訪問]
  • グスクジョー井泉 (ガ-)
  • お宮 [未訪問]
  • 琉球ゴルフ倶楽部内にある拝所
    • 後の御嶽 (クシヌウタキ) [未訪問]
    • 東の御嶽 (アガリヌウタキ) [未訪問]
    • 東の井泉 (アガリヌカー) [未訪問]
    • 宝城 (タカラグスク) [未訪問]
    • 西威 (イリ―、せいい) 王の墓 [未訪問]
    • コートー井泉 [未訪問]天孫子 [未訪問]
    • チンミーヤーユ [未訪問]
  • 夜中之世之大井泉 (ユナカヌユーヌウッカー)
  • 仲加 (ナーカ) の神屋
  • 赤嶺 (アカンミ) の神屋
  • 玉城産井泉 (タマグスクウブガー)
  • ユタ井泉
  • 玉城公民館
  • 玉城御嶽 (タマグスクウタキ)
  • 上の井泉 (イーヌカー)
  • ヌール井泉
  • 地頭火の神 (ジトーヒヌカン)
  • 玉城 (タマグスク)
  • 玉城村屋跡
  • サチバル井泉


旧玉城村 玉城集落 (たまぐすく)

玉城集落は、玉城村内でも最も古くからあった集落だったと考えられる。玉城間切時代には番所が玉城グスクに置かれ、間切の中心だった。部落元屋(もうとや) といわれた戦前の新門 (昔は嶺井) に天孫氏の位牌があって拝んでいたので、かなり古くからの集落であった事が分かる。また湧原山の西側には天孫氏と伝えられる墓があることでも想像される。昔は玉城城の城下町(村)だったと思われるが、60戸ぐらいのそれほど大きな部落ではなかったようだ。戦前、村内に行政区域分離の流行の折り「下り口屋取」が玉城ニ区として誕生、第ニ次大戦まで続いた。戦後は玉城グスク付近の玉城一区が軍用地域に接収されたため一部の者は親戚知人を頼りに百名、その他へ分散し、残った人びとがニ区 (下り口) と合併して新生玉城集落を形成した。部落に伝わる由来や伝説は多く、部落内に玉城城跡やノロ殿内があり、沖繩各地から拝みに来る赤嶺、仲加、根所 (にーどころ) があり、その関係で年中行事 (拝み) の多い集落だ。
集落は一区、二区とも玉城グスクのある丘陵の南斜面に位置している。
一区、二区とは少し距離があり、あたかも別々の集落のような感じだ。由緒ある昔から続く一区と那覇、首里からの帰農士族の屋取集落の二区とは今でも距離があるのかも知れない。
玉城集落の人口は旧玉城村の中では一番少ない。これは丘陵上にあった玉城一区が米軍に接収されていた事が大きく影響がある様に思える。もし接収されずに元の土地に住めたなら、もっと発展していたように思える。

玉城村誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
  • 御嶽雨粒天次 (神名: アガル御イベツレル御イベ)、垣花之嶽 (神名:アフイハナテルッカサノ御イベ、東の御嶽)、中森 (国之根ウラウシナダルワノ御イベ、後の御嶽)
  • 殿: ウヤ川、伊良部之殿、玉城巫火神 (赤嶺)、中之城ノ殿、中栄間之殿
古くからの集落である事から、今でも多くの拝所が村で拝まれている。

公民館の前に置かれた集落文化財の案内板


玉城集落訪問ログ


今日は標高180mにある玉城グスクを訪れる。二年前にこのグスク跡には来たのだが、それ以外の文化財は見学しなかった。今回はグスク跡以外も巡る予定だ。



グスクロード

沖縄にも自転車専用道路がある。沖縄県南城市玉城前川と那覇市首里を結ぶ玉城那覇自転車道だが、未施工区間も多くあり、整備予定も経っていない区間も多くある。構想はあったが、計画倒れといった感じだ。その区間内にグスクロードがあり、この区間はちゃんと整備されている。グスクロードは沖縄ワールドがある前川から糸数に行き、そこから琉球ゴルフ倶楽部の南側の道路を通って、玉城グスク、ミントングスクのある仲村渠までになる。まだ通しで走ったことはないのだが、集落巡りをする中、結果的にはグスクロード全区間は走っていた。グスクロードは歩道に自転車専用のエリアが設けられている。前川あたりは路面がかなりあれており、走りにくい場所もあった。

糸数からグスクロードを走り、グスクロード公園を通過すると、前方に山が見えてきた。あそこが玉城グスクだ。


玉城グスク

現在の玉城集落の北西方の標高約180mの丘陵に玉城 (タマグスク) グスクがある。「琉球国由来記」には、築城年代は不明であるが、沖縄開闢の神の阿摩美久 (アマミキヨ) が築いた城であるとの伝説があり、かなり古いグスクと考えられている。この阿摩美久 (アマミキヨ) の子孫の天孫氏の居城となり、その後、玉城グスクは英祖王統第四代の玉城王 (1313 ~ 1336年) の居城となったと伝えられ、義本王焚刑や白米城の伝説がある。玉城王が即位した後は、自分の弟を玉城按司 (弟を玉城按司とした系譜は見当たらない。系譜は色々なバージョンがあり、実際は不明だ) として城を守らせ、この時代に城の修築拡大を行ったと伝えられている。

  • 義本王焚刑伝説 この玉城グスクに伝わる義本王にまつわる伝説が残されている。舜天王統代三代で最後の王の義本 (1249~1259年) は、英祖に王位を禅譲し退位後 (英祖のクーデター説もある) の義本は玉城グスク (義本王の居城との説あり、義本王の五男は玉城按司だった) で、自分の不徳を天に詫びるため焼身自殺を図ったとされている。城内で薪を積み上げ、その上に座り、臣下に火をつけるよう命令した。(当時は大旱魃で城内の屋良座御嶽で雨乞の儀式中に火が義本王に燃え移りそうになったとの説もあり) しかし、義本に燃え移ろうとした時、突然空が曇り始め、大雨をもたらした。これにより、焼死は免れ、失意のうちに臣下と共に帰路についたが、大雨による増水で来た道が川となっていたので、義本は仕方なく泳いで渡った。この渡った場所が、「泳ぎ口 (ウィージグチ)」と呼ばれ、後に「上江洲口(イイジグチ、ウィージグチ)」となったと言われている。(全く反対に、上江洲口という地名から派生した物語という説もあり)
  • 白米城伝説 もう一つ沖縄では有名な伝説が残っている。この白米城伝説は本土にも多く残っており、戦国時代の籠城戦において、籠城方が馬などを白米で洗い流す様子を遠くの敵兵に見せることで、水が豊富にあるように装ったという話だ。本土でも幾つもの「白米城伝説」が確認されているそうだ。この伝説は本土から伝わったとする見方もあるが、単なる造り話ではなく、追い詰められた戦場では実際にそんなことも行われていたとも考えられる。この玉城グスクでの白米城伝説は三山時代の初代南山王の承察度 (1337年 - 1398年?) は、東方 (アガリカタ = 大里、玉城、知念、佐敷 = 現在の南城市) を支配する按司たちの攻略を計画、先ずは、東方の盟主的存在であった玉城按司を懐柔を試みるも失敗。そこで、玉城グスクを攻めことになる。この時に、承察度の大軍勢勢 (高嶺按司という説あり) に玉城グスクは水源を絶たれ兵糧攻めに合い、苦戦を強いられ籠城となる。このとき玉城按司は、白米を馬の背に流して水浴びに見せかけたが、この白米作戦は見抜かれてしまいグスクは陥落したと伝わる。ただ、歴史文献には玉城グスクが落城下したという記録はなく。承察度王の後、三山時代には相変わらず玉城按司がこの玉城グスクを居城とし、東方連合の盟主の一人で南山と中山と同盟、緊張などバランスをとっていた。この話は、承察度ではなく尚巴志軍が攻めたときの事かもしれない。


先日訪れた奥武集落の国立ちは、玉城王の息子の玉城若按司兼松金 (カニマチガニ) の孫にあたる玉城大屋子 (たまぐすくうふやく) と新垣大屋子 (あらかちうふやく) が玉城グスク落城時に落ち延びたとある。時代から推測すると、察度王の時代から尚巴志が1429年に南山国を滅ぼした頃にあたり、数年後になるが、尚巴志が安謝名按司糸数グスクを攻め落とさせた際にこの玉城グスクも攻め落とされたのではと思う。 (糸数グスクを攻めた年は諸説あり)

その後、第二尚氏王統時代にはこの玉城グスクには玉城間切の番所が置かれ、番所が富里に移るまでは、玉城間切の中心地であった。

玉城グスクの築城年代は不明だが石垣の積み方から約600年前のものと推定されている。1453年に編集された「海東諸国記」の琉球国之図には「玉具足城」としてこのグスクが表されているので、この頃以前から玉城グスクが存在していた。


三の廓

グスクの縄張りはは高台に主郭、その下に二の廓、更にその下の平場に三の郭に分かれ総石垣のグスクだった。 三の廓は広場になっている。当時は今よりもっと広い敷地だった様だ。
三の郭の石垣の殆どは沖縄戦や戦後の米軍統治下で、米軍の用地に隣接していたため建築用石材に崩され利用され消失してしまった。かろうじて二の廓との間の石垣の一部が残っているのみ。
三の廓から二の廓へは緩やかな坂道がある。昔からあるのかはわからないが、石畳が少し残っている様に見える。

二の廓

二の廓はそれほど広くは無い。三の廓からは緩やかな坂なのだが、思っていた以上に高台にある。外壁の石垣は残っていない。かつてはここに物見台あったのではと思える造りだ。
二の廓の東側には一の廓への壮大な石垣が残っている。この石垣は破壊を免れている。

夫婦井泉 (ミートゥガ-)

玉城グスクの二の郭には夫婦井泉 (ミートゥガ-) と呼ばれる井泉跡がある。石積みが左右に分けられ、それぞれに香炉が置かれている。雨が多い時には水が染み出し、その水を飲料水としたという。ミートゥ (夫婦) といわれるが、左右どちらが夫、妻にあたるかは不明。この井戸跡は二年前に訪れた時に比べて、荒れている様だ。倒木が井戸にかかり、香炉も落ちていた。倒木を退けて写真を撮ったが撮った草で覆われて井戸の石積みの輪郭がよく見えない。二年前に撮った写真が右下だ。随分と印象が変わってしまった。

ナカダンの殿 (トゥン)

一の郭の外側 (東) の石積みの下部にナカダンの殿 (トゥン) があり、岩盤に石が積まれ香炉が置かれていると資料には書かれていた。写真も掲載されているのだが、少々ぼけており、はっきりは分からないのだが、それらしき拝所を探す。玉城グスクの南側のある風葬の墓を拝むための拝所といわれているそうだ。資料にある東の石垣の斜面には幾つもの拝所があったが、掲載されていた写真では祠造りでは無いので、これでは無いだろう。ただ、これも風葬墓への拝所と思われる。
更に周りを探すと、この祠の上の石垣に香炉が置かれているのを見つけた。崖をよじ登り近くまで行った。これがナカダンの殿かも知れない。

一の廓

一の郭へは木製の階段が設けられている。二の廓から一の廓へはかなり急な斜面で、石垣の崩落の危険もあるという事で設置されているのだろう。10年程前までは、階段横にある石段をロープ伝いで登っていたそうだ。
階段を登り切った所には自然の一枚岩を刳り抜いて造られたアーチの城門がある。このアーチ門は、神の世とこの世をつなく穴と言われ、神がそこを通ってこの世へ姿を現す穴を象徴しているという。玉城グスクは単純に軍事的なものというより祭祀的性格も持っていたと考えられている。アーチの城門は夏至の日には、「太陽の門」となり、そこから、太陽の光が城内中央の御威部を照らし神秘感を増すようになっている。
アーチの城門の両側には野面済みの石垣がほぼ当時の姿で残っている。
一の廓の奥にも石垣跡が残っている。こちらの方はアーチ門側の石垣の様には綺麗には残ってはいない。


国火の神

アーチ門をくぐり、一の郭に入る。正面に見える場所に火ヌ神を祀った国火の神と呼ばれている拝所がある。一般的には、この拝所が琉球国由来記の「雨粒天次」と考えられているが、玉城集落では、沖縄全体を守る火ヌ神であると伝えられている。中山世鑑に、玉城グシクは琉球の開闢神の阿摩美久が創った琉球開闢の七岳 (安須森御嶽 [国頭村辺土]、クバ御嶽 [今帰仁村]、斎場御嶽 [知念]、薮薩御嶽 [玉城]、雨粒天次 [玉城]グスク]、クボー御嶽 [久高島]、首里真玉森御嶽 [首里城]) の一つとされる御嶽の一つで「玉城アマツツ」と記されている。琉球国由来記には雨粒天次 (神名: アガル御イベツレル御イベ) と書かれている。雨粒天次 (アマチジ) は天頂の意 (天つぎ) だったが、いつしか雨粒の意に解され、早魃の年に国王により行われる祈雨の霊場とされるようになった。琉球国王が聖地を巡礼した「東御廻り(アガリウマーイ)」の最後の拝所にもなっている。琉球王国時代には、国王は毎年正月に大勢頭という役人を勅使として派遣し、国家安泰・五穀豊穣の祈願を立てさせた。 また、 国王は、隔年で旧暦の稲シチュマの時に聞得大君加那志及び司雲上按司などを連れて同御嶽を参拝した。


アマチジ御嶽

玉城集落では、国火ヌの神の後方にある拝所がアマチジ御嶽と考えている。玉城アマチジ、アマチジグスク、ティンチジ御嶽等とも呼ばれている。1月1日の初ウビー、5月15日のウマチー、6月15日の六月ウマチー、6月25日のアミシ (六月カシチー)、8月15日の八月十五夜、10月1日のアカナー御祝、12月24日の御願解きの村落祭祀において最初に拝まれている。一般的には先ほどの、国火の神がアマチジ御嶽だと紹介されている。

国火の神から石垣へは石畳が伸び、一の廓の南側にも拝所が二つほどあった。資料には紹介されていないので、何を祀っているのかは不明。


玉城按司の墓

一の郭に入って右側に古墓跡があり、玉城按司の墓といわれている。どの代の玉城按司かは資料では分からなかった。


グスク火の神

玉城按司の墓の右側にある石積みが、グスクの火ヌ神といわれている。

一の廓は標高180mで北側にはかつての玉城集落があった丘陵上部 (左上 現在は琉球ゴルフ倶楽部)、東には垣花方面 (右上)、南側が急峻な崖の下に広がる太平洋 (右下) で、先日訪れた奥武島 (左下) の絶景が臨める。

クラシミウジョー

玉城グスク一の郭南方の崖下には、城跡内から下りることができる聖域であるクラシミウジョー (暗い道) の森が広がり、古墓群が散在しているとあったので、一の廓から降りる道を探すが、四方とも急峻な岩の崖になっており、とても降りる事が出来る地形では無かった。諦めて一の廓を後にして二の廓に降りる。何気なく二の廓にあった祠の方面を見ていると、崖を登る為にロープが垂れ下がっているのを見つけた。この場所は、ここを訪問する前にインターネットや資料では出てこない所だ。きっとクラシミウジョーに違いない。この入り口に祠が幾つものあるのも、そこに行けない人がここから御願する場所になっているのだ。思い切って行く事にした。

中に入っていくと、道の両側は崖が切り立っている。こちら側からは玉城グスクを攻めることは不可能なように思えるほどだ。

所々に洞窟がある。ここには風葬墓が多数確認されており、他にも日本軍陣地跡などの戦跡が残されているそうだ。

道の途中に拝所 (多分古墓) と井戸跡があった。 


伊良部の殿 (イラブヌトゥン) [未訪問]

クラシミウジョーには石積みの伊良部の殿 (イラブヌトゥン) があると書かれていたが、それらしき紋は見当たらなかった。現在、村落祭祀は行われていないので、そこへの道もあるかどうかも分からない。由来記の「伊良部之殿」に相当するとみられる。「伊良部之殿」では玉城ノロにより、「稲穂祭」が司祭された。


伊良部井泉 (イラブガ-) [未訪問]

クラシミウジョーの別の場所には伊良部井泉 (イラブガ-) 跡があるそうだが、これも見つからなかった。伊良部王が城だった時代に水源として使用されたという。伊良部王が誰なのかはどこを探しても見つからなかった。玉城グスクは、戦の際に城の水源のこの伊良部井泉 (イラブガ-) が敵に奪われたために落城したと伝わっている。これが、白米城伝説に繋がっているのだ。


グスクジョー井泉 (ガ-)

玉城グスクから出て、その北側にはグスクジョー井泉 (ガ-) と呼ばれている拝所がある。周囲に石が積まれた深さ6m程の井泉があったが、車道整備の際に埋められ、現在は車道の横に香炉が置かれ拝所となり、そこで祭祀が行われている。グスクジョーとは「城門」の事と思うが、この辺りに玉城グスクへの門があったのだろうか?


お宮 (火ヌ神屋敷) [未訪問]

玉城グスクの東側 (現在の玉城集落北東側の丘陵高台) にある研修施設県立玉城青少年の家の敷地内、北側遊歩道沿いにお宮と呼ばれるお通し (ウトゥーシ、遙拝所) があり、火ヌ神屋敷、殿、七御嶽ンカイヌ遙拝所等とも呼ばれている。ここを見学しようと玉城青少年の家に行ったのだが、閉鎖されていた。拝所への入り口がないか、周辺を歩くが見当たらない。正門まで戻ると職員がいたので、確認すると、数日前に職員に新型コロナの感染者が出て、生憎、今日から8月15日まで臨時閉鎖になってしまった。申し訳なさそうに、規則で立ち入りは出来ないと言われた。
1946年にこの地一帯 (現在の琉球ゴルフ倶楽部) は米軍に接収され、そこに米国陸軍政府が設置され、その敷地内にあった東ヌ御嶽、後ヌ御嶽、タカラグスク、西威王の墓、チンミーヤーユ、天孫子、コートー井泉の7つの拝所へのお参りが規制された。そのため、仲加の人が各所の香炉を「サン」と呼ばれる岩に移して安置したという。1949年の軍用地返還後、跡地がゴルフ場となったため、7つの拝所は引き続き、サンから遙拝されていたが、1996年、戦前はサーターヤーだった現在地に切石造りの赤瓦の拝所が建立されここから遙拝されるようになった。祠は、向かって右側の三つの石と香炉で、火ヌ神が祀られている。お宮は1月1日の初ウビー、5月15日のウマチー、6月25日のアミシ (六月カシチー)、8月15日の八月十五夜、10月1日のアカナー御祝、12月24日の御願解きの村落祭祀において拝まれている。祈願では先に火ヌ神を拝み、次いで一斉に7つの香炉から遙拝の祈願がなされる。

青少年の家は研修設備やキャンプ場があり、活動施設としてハイキングコースも整備されている。後でわかったのだが、クラシミウジョーの中にある道はこのハイキングコースの一部だった。


琉球ゴルフ倶楽部内にある拝所

この場所は門原 (ジョーバル) と呼ばれ、戦前には玉城集落があった場所で玉城一区と呼ばれていた。三山時代には玉城グスクの城下村として発展していた。戦後、この地区は米軍に接収されたため、玉城一区の住民は丘陵の麓の屋取集落として始まった玉城二区に移住している。沖縄の本土返還後はここは琉球ゴルフ倶楽部となり、元の集落の形にはもどらなかった。琉球ゴルフ倶楽部内にある拝所はゴルフの休みの日に見学ができるそうだ。機会を見て未訪問文化財と合わせて見学の為、戻って来る事にしよう。

ゴルフコースの中に幾つもの雑木林がある。写真手前の小さな雑木林の中に後の御嶽 (クシヌウタキ) があり、その奥に広がる雑木林には宝城 (タカラグスク) と呼ばれ、玉城王の墓、西威王の墓、東の御嶽 (アガリヌウタキ)、東の井泉 (アガリヌカー) が拝所として存在している。
ゴルフ場のクラブハウスからこちら側に見える雑木林にも、チンミーヤーユ、天孫子、コートー井泉の三つの拝所が散らばっている。


後の御嶽 (クシヌウタキ) [未訪問]

ゴルフ場内の小山の中に祠があり、これが後の御嶽 (クシヌウタキ) 。夜分ヌ御嶽 (ユーワキヌウタキ)、中森ヌ御嶽 (ナカムイヌウタキ) とも呼ばれている。(「夜分」= 夜明け)  アマミキヨを崇める御嶽だそうだ。 玉城集落では、お宮から後の御嶽 (クシヌウタキ) を遙拝している。由来記の中森 (ナカムイ 神名: 国之根 ウラウシナダルワノ御イベ) に相当するとみられる。和名ノ口により司祭された。「中森 国之根ウラウシナダルワノ御イベ」とは「浦を保護する首長の神霊」の意味。「ウラウシ」= 浦襲(うらおそい)= 浦添(うらそえ)


東の御嶽 (アガリヌウタキ) [未訪問]

ゴルフ場内には東の御嶽 (アガリヌウタキ) があり、垣花嶽とも呼ばれている。後の御嶽 (クシヌウタキ) と同じく、アマミキヨを崇める御嶽とされる。玉城集落では、県立玉城青少年の敷地地内にあるお宮から遙拝している。字垣花が6月25日のアミシの御願に東の御嶽 (アガリヌウタキ) を参拝している。由来記の垣花之嶽 (神名:アフイハナテルッカサノ御イベ) に相当するとみられる。垣花ノロにより司祭された。神名のアフイハナテルツカサとは、「最高神を迎えるための日傘 [あふり] をさす神女」のこと。垣花の御嶽のもっとも奥まった場所に「ミルクの墓」がある。なぜ墓というのかは不明。


東の井泉 (アガリヌカー) [未訪問]

東ヌ御嶽の近くに東の井泉 (アガリヌカー) がある。垣花集落が6月25日のアミシヌ御願で拝んでいる。


宝城 (タカラグスク) [未訪問]

ゴルフ場の東部に広がる森の中にある古墓がある。英祖王統4代目である玉城王の墓といわれている。村落祭祀では、お宮から遙拝されている。地元では、このタカラグスクを、「御先(うさち)ゆーどぅり(墓)」とも呼んでいる。


西威 (イリ―、せいい) 王の墓 [未訪問]

集落北方にあるゴルフ場の東部の森にある古墓で、英祖王統の五代目、玉城王の三男である西威王の墓といわれている。村落祭祀では、お宮から遥拝されている。


コートー井泉 [未訪問]

ゴルフ場のクラブハウスの北西の林の中にコートー井泉跡がある。戦前まで玉城一区の飲み水として使用されていた。村落祭祀ではお宮から遙拝されている。


天孫子 [未訪問]

コートー井泉の近くに古墓があり、天孫子と呼んでいる。村落祭祀ではお宮から遙拝されている。


チンミーヤーユ [未訪問]

天孫子の近く、森の中に2ヶ所で構成される拝所がある。どちらも岩盤の穴で、大昔、人に角 (チン) が生えていた時代 (世) の住み家と伝わる。現在、お宮から遙拝されている。


これで丘陵之上にある玉城グスク周辺、旧玉城一区の文化財巡りを終えて、丘陵の麓にある現在の玉城集落に向かう。集落への道は玉城グスクとグスクロード公園の中間地点から下る細い道しかない。これ以外は大きく迂回していく自動車道路だけだ。この下る道の入り口にはアドベンチャー・ウォークと表示が出ていた。先ほど歩いたクラシミウジョーの中を突っ切っているハイキング道の一部だ。


夜中之世之大井泉 (ユナカヌユーヌウッカー)

アドベンチャー・ウォークの道はかなり急な下り坂だ。下り坂の途中、ちょうどクラシミウジョーの下に当たる場所に夜中之世之大井泉 (ユナカヌユーヌウッカー) の井戸跡がある。夜中ヌ御嶽 (ユナカヌウタキ) とも呼ばれている。太陽が生まれる前 (夜中ヌ世) の時代に使われた井泉といわれている。

ここからは奥武島が綺麗に見える。手前の畑が玉城集落の住民が耕作している場所。


仲加 (ナーカ) の神屋

夜中之世之大井泉 (ユナカヌユーヌウッカー) から、急坂を降りていく。玉城二区と玉城グスクとの中間地点に何軒かの集落がある。ここに屋号 仲加の神屋がある。仲加は、戦前は現在の琉球ゴルフ倶楽部敷地内にある後ヌ御嶽の隣に立地していたという。仲加は、字玉城の「国グサイ」、「国元」、「国番」等と呼ばれ、古くは根屋大殿内という屋号だったことから、玉城集落の根屋と考えられている。ここにある神屋には「村の守り神」、「神人」、「ウサチュー」、「タカラグスク」、「玉城按司」、「タロマイ(タルミー)」が祀られている。床面には「クニ火ヌ神」、「屋敷の火ヌ神」、「前川の東」の香炉が安置されているそうだ。玉城集落では一月の初ウビー、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、6月25日のアミシ (六月カシチー)、8月15日の八月十五夜、10月1日のアカナー御祝、12月24日の御願解きの村落祭祀において拝まれている。仲加に保管されている獅子はムラの守り神として字民から崇められ、戦前にはここの仲加の神屋の庭で十五夜の獅子舞が行われていた。ここで、たまたま仲加のおじいが出てきたので、話をして疑問に思っていたことを聞いてみた。何故米軍基地が返還された時に元の土地に戻らなかったのかと聞くと、戦争が終わったのが1945年、土地が戻って来たのは1976年で、この地で既に30年も暮らしている。行政機関、学校や商業施設も元の場所には何もなく、富里、當山に移っている。その生活が馴染んでいる。元の土地に住んでも生活が良くなるわけでは無いと言っていた。確かにおじいの言う通りだ。東北地方を旅した際にも同じように話す人がいた。震災から8年間別の場所で住むと、そこに生活基盤が移る。復興したとしても、元の村に戻る勇気は無いと言っていたのを思い出した。元の村であった玉城一区は今は琉球ゴルフ倶楽部になっているが、このゴルフ場が建設されたので戻らなかったのかと思っていたが、このゴルフ場は土地所有者だった元住民で話し合い、誘致に踏み切ったのが経緯だった。資料では住民は玉城二区に移住したと書かれていたが、おじいはここが一区と言っていた。ここは玉城二区とは距離が離れている。ここに移って来た時は一軒しか民家がなかったそうだ。玉城二区に移らずにここに移住したのは、玉城二区は屋取 (ヤードゥイ) 集落で、昔からの集落の玉城一区住民とは疎遠だった事があるのではと推測する。どこの集落でも屋取と本集落とは交わりが希薄だった。


赤嶺 (アカンミ) の神屋

仲加 (ナーカ) から二軒程先に玉城ノロ火ヌ神を祀る赤嶺の神屋がある。玉城ノロ殿内は絶家し、その神アサギは根所である仲加の分家である赤嶺の屋敷地に移された。玉城ノロ殿内は、1673年に国王の知念玉城行幸が廃止される以前には、知念間切の知念御殿に代わり臨時の宿合とされたことがあったという。また大正初めまで続いた聞得大君の東御廻りでも宿として利用された。「琉球由来記」よると、「玉城巫火神」では、正月の初御立願、9月の麦初種子・ミヤ種子の祭礼には王府から勢頭が遣わされ、正月、12月の祭礼には大勢頭が遣わされた。また、3年に一度、9月の麦の初種子・ミヤ種子には当職が遣わされ祈願された。また、3月、8月には玉城ノロによる四度物参が行われた他、大旱魃時には国王の行幸による雨乞い祈願がなされた。現在の神屋には玉城赤嶺の祖先や、火ヌ神、ノロ殿内が祀られているそうだ。赤嶺は、1月の初ウビー、 5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、6月25日のアミシ (六月カシチー)、8月の八月十五夜、10月1日のアカナー御祝、12月24日の御願解きで拝まれている。


玉城産井泉 (タマグスクウブガー)

玉城産井泉 (タマグスクウブガー) へ向かうと途中で天気が急に変化し、大雨になった。汗で衣服はびしょびしょなので、雨に濡れても大差はない。かえって、体や顔のほてりが治まる。玉城産井泉 (タマグスクウブガー) への山道の入り口に自転車を停め、カバーをかけて山道を登って行く。この道もアドベンチャー・ウォークコースの一区間となっている。

雨の中、山道をかなり登っていった所に玉城産井泉 (タマグスクウブガー) がある。玉城樋川 (タマグスクヒージャー) ともよばれている。この道を後100m も進むと先程訪れた玉城青少年の家のキャンプ場に通じている。この井戸はかつては玉城グスクの水源にもなっていたといわれる。玉城集落ではこの井泉から飲料水、若水、産永、死水を汲んだそうだ。雨でスマホが濡れて画面操作が全くできない。井戸の奥に洞窟があったので、暫くその中で雨宿りをし、洞窟内に生えていた葉っぱでスマホ画面を拭いなんとか操作する事ができたが、カメラ部分は濡れたままで、撮った写真は少しぼやけている。

ユタ井泉

雨が小降りになり洞窟から出て、次の文化財に向かう。仲加 (ナーカ) の神屋から急坂を下り、国道331号 を横断したすぐ下方にユタ井泉がある。唐から来た人が使用したと伝わる。この井泉近くに船を係留した「トーシンブリ」いう岩があったといわれている。ここはまだまだ高台なのだが、昔はこの付近まで海が迫っていたのか? 現在の地形では、海岸はまだまだ遠く向こうにある。トーシンブリの岩は土地地改良で削岩、整地され消滅している。


玉城公民館

玉城二区の上部高台に公民館がある。写真右のおくの丘陵が玉城グスクだ。随分と距離がある。かつての村屋 (ムラヤー) は玉城二区集落の一番下側にあったのだが、ここに移って来ている。多分、玉城一区がこの公民館の上側に移住して来た後に、一区と二区の中間点にしたのでは無いだろうか?


玉城御嶽 (タマグスクウタキ)

公民館から坂を下ると玉城御嶽 (タマグスクウタキ) がある。中山下ヌ御嶽 (ナケーマシチャヌウタキ)、中山下ヌ火ヌ神 (ナケーマシチャヌヒヌカン)、下玉城ヌ火ヌ神 (シチャタマグスクヌヒヌカン) とも呼ばれている。中山下 (ナケーマシチャ) は玉城二区が屋取集落として始まった場所。ムラの守り神といわれる。

玉城御嶽の道向かいには玉城農村公圏があり、老人たちがゲートボールを楽しんでいた。


上の井泉 (イーヌカー)

玉城御嶽 (タマグスクウタキ) の東側には上の井泉 (イーヌカー) がある。玉城二区の産井泉だったという。戦前、行政区域改変の際、「下り口屋取」が玉城二区として誕生。戦後は、玉城一区の一部が米軍基地 (現在はゴルフ場) に接収されたが、同区の未接収地で残った人々は、二区 (下り口) の上側に移住して来て、二区 (下り口) と合併してできた玉城区で生活を立て直すようになった。


ヌール井泉

上の井泉 (イーヌカー) から更に坂道を降るともう一つ井戸跡がある。ヌール井泉、又は、中ヌ井泉 (ナカヌカー) と呼ばれている。公民ノロ (ヌール) が見つけた井泉といわれ、それが呼称の由来とされる。


地頭火の神 (ジトーヒヌカン)

ヌール井泉のすぐ近くに地頭火の神がある。当地にいた役人 (役職等は不明) の火ヌ神といわれている。


玉城 (タマグスク)

地頭火の神の1ブロック下ったところにある民家の一角に拝所がある。「南城市の御嶽」で玉城 (タマグスク) と紹介されているが、公民館のところにあった案内板では中山下ヌ根屋 (ナケーマシチャヌニーヤ) となっていた。ムラ火ヌ神とも呼ばれている。中山下 (ナケーマシチャ = 玉城二区) の始祖等を祀っているといわれる。


玉城村屋跡

集落の一番下まで降りて来た。この場所には現在の公民館ができるまで村屋があった。


サチバル井泉

集落の南側は海岸線までは一面耕作地が広がっている。この畑は屋取集落 (玉城二区) が開墾した畑だろう。畑を突っ切り海岸線を東に進んだところ、隣の百名との境あたりにサチバル井泉がある。この地区はサチバルと呼ばれている事から来ている。旧家である稲福家の屋敷内の井泉であったといわれる。この井泉の周辺は、御先塩田 (ウサチマースダー) と呼ばれている。

サチバル井泉の前は砂浜が広がっている。

ここで今日の予定は終了。何度も豪雨があり、衣服も靴も自転車のバックはずぶぬれになった。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 玉城村史 (1977 玉城村役場)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)

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