Okinawa 沖縄 #2 Day 105 (17/05/21) 旧真和志村 (3) Uema Hamlet 上間集落
旧真和志村 上間集落 (うえま)
- 安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ)
- 石の頂上
- 龕屋跡
- 真和志間切番所跡
- 役場前の小堀 (クムイ)
- 子之方之井 (ニーヌファーヌガ-)
- シチャ―ラガマ
- 上間公民館 (村屋 ムラヤー)
- 上間井 (ウエマガ-)、 村小堀 (ムラグムイ)
- 外間家神屋
- 饒波殿内之妻之井跡 (ヌファトゥンチヌトゥジヌカー)
- 安謝名之殿 (アジャナヌトゥン)、安謝名之殿之井 (アジャナヌトゥンヌカー)、安謝名之井 (アジャナヌカー)
- 阿座那嶽 (アザナノタキ)
- 中道 (ナカミチ)
- 古波蔵元屋の神屋
- 国吉門中の神屋
- クワディーサーバンタ (上間バンダ、上間中央公園)
- 半田嶽 (ハンタノタキ)
- 三つの拝所
- 前之殿 (メーヌトゥン)
- 小城之嶽 (コグスクヌタキ、雨給リ火ノ神)
- 石獅子カンクウカンクウ
- 下田 (シムタ) バンタ
- 下ン田 (シムヌター) 元屋の神屋
- 石獅子 ミートゥンダシーサー
- 尚徳王三男屋比久大屋之碑
- 島元神屋
- 大城門中の神屋
- 真地 (マージ) の神屋、井戸跡
- 新垣門中の神屋
- 山川原之湧水樋 (ヤマガーバルヌヒジャーガ-、イジュンガー)
- 一日橋跡
この上間集落は琉球王統時代、真和志間切の中心地だったところで、数々の歴史上のエピソードがある。先に訪れた糸数グスクを攻め落としたとされる上間按司の治めていたところということで、ぜひとも早く訪れたかった場所。集落内には多くの文化財があり、集落自治会が編集した「上間誌」もかなり詳しく上間に関しての事が紹介されている。上間誌を全部読み終わる前に訪問し、その後また図書館で読み直し、見落としていたところもあり、5月15日、17日、19日の3日間使い訪問した。今まで訪問した集落との繋がりも見えてきて、ますます面白くなってきた。
旧真和志村 上間集落 (うえま)
上間は那覇の東方、識名台地の南西端に位置している。識名台地の南は国場川が流れ、北側は深い谷となって金城川 (安里川) が流れている。川を越え、首里金城の料面を上った頂きに首里城が聳え、後背に首里台地が展開する。
察度が浦添から都を移す際には、まずは識名が候補地であった。上間集落で伝わっている話では、上間がその候補だったという。識名台地は三方が谷になっており、自然要害であって、防衛には最適な場所であったが、この広大な大地全体にグスクを築く資金がなく、結局、首里にグスクを築くことになったといわれている。識名台地には上間、識名、真地、繁多川の四つの集落がある。(真地、繁多川は明治時f代以降に識名から独立した行政区)上間集落がいつ頃発生したのかは確かではないのだが、現在の集落に移ってくる前は識名のシイマ御嶽遺跡周辺に集落を構えていたと考えられている。シイマ御嶽遺の発掘物からは10世紀には既に朝鮮や中国と貿易していたと考えられている。その後、住民は更に高台の識名に移住したものと、上間に移住したものに分かれたとされる。上間の有力門中であった安謝名家はニ代目までシイマ村 (御嶽) に住んでいたが、三代目になってより良い井泉を求めて上間に移って来たとか、外間家、真地家もシイマから上間に来たと伝承されている。安謝名門中は祝女元 (ノロムトゥ)、真地門中は国元 (クニムトゥ)、外間門中は嶽元 (タキムトゥ) とされている。 上間と識名は仲北山と後北山 (帕尼芝) の抗争で、北山今帰仁から敗れ逃れてきた移住者の子孫が住んでいる。大城門中、古波蔵門中、下ン田門中、今帰仁・花城門中などはその子孫という。安謝名も北山からの移住だが彼等以前に北山よりシイマ村へ移り、それから上間に移ってきたそうだ。
那覇市のホームページでは過去10年ぐらいの人口データが掲載されている。他の市山chのホームページでも大体過去数年のデータがのっている。グラフを見ればわかるのだが、過去10年のデータを見て何がわかるというのだろう?詳細なデータはそれなりに意味はあるのだろうが、もっとマクロで見れるものを掲載すべきと思う。本当に知りたいのはどのように町が発展していったのかがわかるようなものが欲しい。そこで、図書館で那覇市が発行している年度ごとの人口、世帯数データをもとに下記のようなグラフを作ってみた。琉球王統時代から明治、大正、戦前にかけてはそれほど急激な人口増加はないのだが、それ以降、人口が激増している。1979年に人口が減っているのは、上間の小字の底田原を分離し、国場の一部と合わせて長田地区としたことによる。その後も人口は増え続け、近年は横ばい状態になっている。
明治時代はもとからあった丘陵の上の集落からそれほど広がりは見えず、その周りは農作地だった。戦後民家が丘陵の麓にでき、そして丘陵地斜面にも広がり、今では畑などは見つけることが難しいぐらい民家で覆いつくされている。
琉球国由来記に記載されている拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ 神名: 金之森金威部 カネノムイカネノウイベ)、阿座那嶽 (アザナノタキ 神名: 島根富威部 シマネトミノウイベ)、半田嶽 (ハンタノタキ 神名: 上間金威部 ウエマカネノウイベ)、仲井真之嶽 (ナケーマノタキ 神名: ヨリアゲ森ノ御イベ)
- 殿: 上間前之殿 (神名: 友寄ノカミ)、上間外間之殿 (神名: 島ツカサミカミ 所在不明)、ズガリ之殿 (神名: ズカリ森御イベ 所在不明)、下宮里之殿 (神名: ニギリキノミカミ 所在不明)
上間集落訪問ログ
国場集落から真珠道を登り、上間集落に向かう。
安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ)
真珠道を進み、仲井真集落の上にある仲井真の安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ) を過ぎてすぐ、真珠道から少し東に入った所に、ここにも安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ) がある。何故、同じ名前の御嶽が集落別にあるのか、気にはなったのだが、それについて書かれているものは見つからなかった。この上間の安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ) は旅立ちの時の祈願所という。かつては唐や大和への旅に出るとき、戦時中は出征時に、航海安全と無事の帰省を祈願したそうだ。ここからは那覇港の船の出入の様子が良く見え、直接那覇港まで見送りに行けない人達が、ここからチジン (沖縄の太鼓) と三線で、歌い踊り見送ったそうだ。琉球国由来記には旱魃の時に、雨乞祈願をしていたと書かれている。伝承では、「昔、小禄の安次嶺から、夜になると遠く上間の方から天に届く金色の光がさしているのが見え、人は何だろうと思いながら、光の発している方向をたどっていくと、その光は今の安次嶺の御嶽から出ていた。不思議に思いながら光の発している所を掘ってみると、黄金が出てきたという。大金持ちになったその家は子々孫々に至るまで安次嶺之御嶽にお礼参りに来たそうだ。」安次嶺の御嶽の名称は、小禄の安次嶺から光が見えたことから付けられたといわれている。安次嶺之御嶽の祭壇のうしろに空洞があり、沢山の遺骨があったという。
石の頂上
真珠道に戻り、少し進むと右手側が小山になっている。その斜面にいくつもも墓がある。この場所は石の頂上と呼ばれている場所。
龕屋跡
先に進むとかつて龕屋が置かれていた場所がある。ここは集落の西の端に当たる。現在は駐車場になっており、拝所も見当たらなかった。
真和志間切番所跡
第二尚氏琉球王統時代には、真和志間切の番所は上間に置かれていた。番所の前の坂道は真珠道で那覇港から首里城に向かう道となっており、真和志間切番所は関所の役割も兼ねていた。
下の図が真珠道のルートを示している。この地図では当時の海岸線が現在の那覇市内部まで入り込んでいたことがわかる。現在の那覇の中心地は当時はまだ島で浮島と呼ばれていた。
琉球王統時代の真和志間切は最大の行政区で、多くの集落を含んでいた。創設当時は24カ村だった。その後、何度となく構成する集落の入れ替えがあり、明治時代の終わりには、現在の那覇市真和志支所の基本的な構成に近い形となった。その後、人口が増えるにつれて、行政区分をそのたびに細分化している。この細分化は人口増加が主要な要因で計画的なものではない。ある意味で、無秩序に行ったために非常に複雑な構成になっている。
役場前の小堀 (クムイ)
真和志間切 (後の真和志役場) の前にはクムイ (小堀、溜池) があった。集落には5つのクムイがあったそうだ。(役場前の小堀、東の小堀、毛小小堀、当原小堀、村小堀) 役場前の小堀 (クムイ) は西之小堀 (イリヌクムイ) とも牡馬れていた。現在は埋め立てられ、郵便局や民家になっている。このクムイでは集落の外に広がっていた畑から仕事を終え、クムイに設けられていた石畳の馬浴せ (ウマアミシ―) で農機具や馬を洗ったそうだ。集落には幾つかクムイがあったが、それは高台にある識名から流れ込む雨水をこれらのクムイで集め処理する目的でもあった。
子之方之井 (ニーヌファーヌガ-)
真和志間切番所跡の後方の細い路地奥に子之方之井 (ニーヌファーヌガ-) がある。ハンタの嶽とクサイ (鎖、対) の井戸だそうだ。今は水は涸れているが、戦前までは集落の飲料水として使われていた。上間集落にはこのほかに、真嘉戸井、底田井跡、饒波殿内之妻之井、饒波殿内之妾之井、安謝名之井、安謝名殿之井、真地屋敷の井、ミサマの井の九つの井戸跡があるが最後のミサマの井 (海グサイ、国グサイ、村グサイ) は埋められて現在は消滅している。その他の井戸跡はこの後訪問した。
シチャ―ラガマ
子之方之井 (ニーヌファーヌガ-) の近く北側の斜面に自然壕 (ガマ) がある。住所は識名にあたり、ちょうど上間と識名の境になるのだが、ここは上間集落の拝所のひとつになっている。資料では中に入って反対側の光明寺北に出られるように書かれていたが、入り口は網で塞がれて中には入れなかった。旧石器時代の遺物が出土され、識名原遣跡という古代住居跡とされている。上間側入口近くに厨子甕が二つあるそうだ。上間の二大元屋 (ムトゥーヤ) 之祖の安謝名子と外間子の墓といわれている。中に入れなくなったからだろう、墓に置かれていた祠と香炉を入口の上に移設している。その横にはもう一つ香炉が置かれているのだが、これはある宗教団体がこの洞窟に神が宿っているとして置いたものだそうで、村の拝所ではない。村が御願するのは墓の方だ。
上間公民館 (村屋 ムラヤー)
集落の中心には公民館が建っている。かつての村屋 (ムラヤー) があった所だ。
上間井 (ウエマガ-)、 村小堀 (ムラグムイ)
上間集落は高台にも拘わらず比較的水には恵まれており、集落には多くの井戸や各屋敷にも個人の井戸があったが、戦後、水道が整備され、上間井 (ウエマガ-) 以外はすべて廃井となった。この上間井戸は公民館 (村屋 ムラヤー) の前にあり、真嘉戸川 (マカトガ-)、真川 (マガ-)、真川井 (マカーガ-)、村井 (ムラガー) 等と色々な名称に変化し、呼ばれており、水質は極めて良かった。 遺老説伝にこの井戸に係わる伝承が残っていおり、上間集落に伝わる伝承と酷似している。
- 大元屋の一つである外間家の娘マカトはたいそう美しい娘で、霊感が強く、地下水の存在を感じ、井戸を撮り始めた。たまたま集落に宿泊していた玉村の按司が、この光景を見て、マカトを一目で気に入り、「水が出たらあなたを妻にしたい」と申し出た、マカトはまもなく水脈を第り当てた。勢いよく湧き出す流水に玉村按司は大そう喜び、宿泊した家の主に「何の持ち合わせもないので、宿を借りたお礼にこの名を差し上げましよう」と「玉元」と書いて渡した。マカトは玉村按司の室となり真嘉戸樽按司 (マカトタルアンジ) と称されるようになった。そして、この井は真嘉戸川 (マカトガ-) といわれるようになったという。玉村按司が宿泊していた家は、その後屋号を「玉元」とした。玉村按司が座っていた所には拝所が建てられた。
上間井 (ウエマガ-) は上間集落唯一の共同井戸で村井 (ムラガー) ともいう。この井戸の水は初水や産水にも使われた産井 (ウブガー) でもあった。上間ガーは飲料用井戸 (写真左下)、洗濯ガー (右下)、防火用水や馬、野菜を洗うのに利用した村小堀 (ムラクムイ、池 写真上) で構成された大掛かりな井戸でそのまま残っている。当時上間では、ほぼ全世が帯馬を飼っていたので、この村の小場は夕方になると仕事を終えた馬でごった返していたという。現在は工業用として使われている。
参照した資料にこの村小堀 (ムラクムイ) の古写真があった。何となく面影が残っているようだ。
外間家神屋
上間井 (ウエマガ-) を霊感で掘り当てた娘の実家が村屋の隣だった。現在は昔ながらの平屋ではなく三階建てでその横に神屋があり、中には石の祠が置かれていた。外間門中は安謝名門中とともに上間の最も古い旧家で、上間の二大元屋 (ムトゥーヤ) と考えられ、上間集落の嶽元 (タキムトゥ) とされている。三月遊び、七月ェイサー、八月十五夜などのリシチ (儀式) はこの二つの元屋から始まる。外間門中は南山系の上間大屋子を祖とし、上間の村立てをしたと伝わる。この外間門中も元はシイマ村から移住してきたといわれ、安謝名が移ってくる以前だったとされる。
饒波殿内之妻之井跡 (ヌファトゥンチヌトゥジヌカー)
公民館の裏手に井戸跡が形式保存されて拝所となっている。屋号 饒波殿内の妻の井戸とある。解説は全くないのだが、集落巡りをしていると、たまに長男の井戸、妻の井戸というのに出くわす。その人に何らかの縁があるのか? 便宜上そう名付けたのか? 疑問は残る。
饒波殿内之妻之井跡 (ヌファトゥンチヌユーべーヌカー)
公民館の前の路地にもう一つ形式保存された井戸跡がある。こちらは屋号 饒波殿内の妾の井戸とある。妾の井戸は初めて見る。普通、妾は表には出ないのだが、先ほどは妻の井戸でこちらは妾の井戸。正妻と妾が張り合っていたのだろうか、饒波殿内の主人も妾の井戸を造る波面なったのだろうか?勝手な想像が沸いてくる。
安謝名之殿 (アジャナヌトゥン)、安謝名之殿之井 (アジャナヌトゥンヌカー)、安謝名之井 (アジャナヌカー)
公民館の東側にはかつて広大な屋敷があった。安謝名家の屋敷だった。安謝名は上間の旧家で、上間集落の村立てをした人物で根屋 (ニーヤ) に当たる。代々ノロを出しておりノロ元 (ムトゥ) である。通常ノロは世襲なのだが、上間集落では、安謝名から川ヌ上、大城、真地小二引き継がれたそうだ。 安謝名家の祖は北山王の三男で、一時中城村の安谷屋に居住していたが、まもなくシイマ村 (識名にあった村) に移る。屋敷がシイマ村の高台にあったことからアザナ(高所の意) と称し、転じてアジャナとなり、この地を支配していた。そして安謝名家三代目 (シイマ按司) の時にこの上間に移ってきた。初代と二代の遺骨はシイマ村の旧屋敷内 (後のシイマの御嶽で後日訪問予定) に埋葬されているそうだ。安謝名がこの地域の支配者だったことから、住民もこぞって先代の墓を拝む習しになった。そしてその墓のある屋敷跡は、いつしかシイマの御嶽といわれるようになった。上間のこの場所は安謝名が上間に移ってきてからの屋敷跡で、殿 (トゥン) が建っている。シリ―之殿 (トゥン) とも呼ばれ、シリ―は後方の意味で、クワディーサーバンタにある前の殿に対して後ろの殿との意味だ。中には向かって左下に地頭火の神、祭壇の上段には千手観音の絵像の厨子、下段には10の香炉が並べられている。それぞれの香炉は複数の祖先を祀っており、実際に別の場所に墓があるそうだ。殿の敷地の入り口近くにノロが馬に乗る時の踏み石 (馬回し石) が残っている。
殿の裏側には幾つかの拝所がある。解説では写真左下は安謝名之殿之井 (アジャナヌトゥンヌカー) で多分、ノロや神人が見を清めた井戸だろう。右下が安謝名之井 (アジャナヌカー) でこちらは安謝名屋敷内にあった井戸をこの殿の所に移設したものだそうだ。 写真上の拝所は解説はなく詳細は不明。
察度が浦添から都を移す際にはこの識名台地を候補にしていた。この場所は南に南山の長嶺グスクがあり、南山から守る要害の地であった。識名台地は安謝名が支配するところで、察度とは親交があった。察度は安謝名から側室を迎え、その子を安謝名の養子にするなど、安謝名との同盟を一層強固なものとし、南山に対する守りを任せて、首里に都と置くことになる。尚巴志が中山を滅ぼすと、安謝名は尚巴志の傘下に入る。尚巴志にとっても南山への守りの為には察度の血縁となっていた安謝名を味方に引き入れたほうが得策と考えたのだろう。察度の時と同様に尚巴志の子の真和志按司を安謝名の後継ぎにし同盟を結んでいた。これはただ単に南山への備えというだけでなく、その後の北山攻略計画の一部であったかもしれない。安謝名は仲北山の末裔で、仲北山が怕尼芝により攻略された際に仲北山系の士族は各地に逃れ、この識名、上間にも移って来ている。上間集落の古い門中の多くは安謝名を頼って北山から移ってきたと思われる。安謝名は仲北山系のリーダーの一人とも考えられていたのだろう。尚巴志としては仲北山系の士族を味方に入れるためには安謝名は無視できない存在だっただろう。安謝名の第一尚氏との関係は強く、真和志按司は第一尚氏最後の王である尚徳の守役を務め、金丸のクーデターでは尚徳をかくまったとされている。第二尚氏王統になっても第三代王尚真には側室を出し、その子が安謝名を継いでいる。三山時代を巧みに生き延びている。政治手腕があったこともあるだろうが、安謝名の影響力が無視できないくらい強かったと考えたほうが良いと思う。
阿座那嶽 (アザナノタキ)
安謝名屋敷内にあった阿座那嶽 (アザナノタキ) を宅地開発された際に、元の御嶽に近い道路沿いに移している。宅地造成時、御嶽内から神骨が出土している。シイマ村から上間に移住して来た人の骨とされ、村創建の神とされている。
中道 (ナカミチ)
阿座那嶽 (アザナノタキ) の前を東西に突っ切っているのが中道で、これを境に西と東に分かれ綱引きを行う。
古波蔵元屋の神屋
安謝名屋敷の上のブロックには古波蔵元屋の神屋がある。古波蔵門中も北山から逃れてきた一族で、1313年頃、北山の今帰仁城の城主 仲昔仲宗根若按司が怕尼芝に減ぼされた時に離散した子供の一人が三人の男子を生み、そのうち一人が伊波按司となる。この伊波按司の子孫のうち金武村の金城大屋子の三男屋嘉殿内の子が小波蔵子で1700年頃、上間に移住し、波蔵子を元祖となったと伝わっている。
国吉門中の神屋
中道 (ナカミチ) の南の端に上間集落の根人 (ニーチュ) である国吉門中の住居があり、その敷地内に神屋が置かれている。上間集落には12の門中がある。そのうち、安謝名、外間、真地、真地小、国吉、島元、平安山、を七元 (ムトゥ) とし、その他に大城、古波蔵、新垣 (新垣小)、下ン田、西嘉数がある。このうち国吉、真地、真地小は兄弟で識名 前ヌ花城の子係という。国吉家はその後に後継ぎが絶え、大城門中の分家である大城小メ前がの国吉門中の管理をするようになった。上間村の根神墓も預かり管理している。国吉門中は村立ての安謝名、外間、真地ではないにも関わらず、根人 (ニーチュ) とされているのは、このように根神墓を管理してきたことによるそうだ。
クワディーサーバンタ (上間バンダ、上間中央公園)
集落の南の端は崖になっており、この崖の上にクワディーサーバンタがある。現在は上間中央公園になっており、広大な広場になっている。かつてはこのような平坦な広場ではなく、起伏もあり、雑木林もあり、広場はこれほど広くはなかった。とはいえ、この広場は集落住民の憩いの場でまり、行事の練習や、製糖期はキビ殻干し場、相撲大会など村行事が行われていた。クワディーサーは沖縄方言で木の名前で、このハンタ (端) にその木が生息していたことから、この名が来ている。クワディーサーバンタの前の道路はかつての馬場 (ウマィー) があった場所で、馬場としてだけでなく、綱引き、原勝負 (ハルスーブ、農産品品評会) やアブシバレーがおこなわれその際に競馬も催されていた。
半田嶽 (ハンタノタキ)
クワディーサーバンタ内 (上間中央公園) に半田嶽 (ハンタノタキ) がある。元は現在地よりも南側のやや広場中央寄りにあったが、公園整備の際に広場の北端の道沿いに威部石を設置し移された。琉球国由来記に記載されている半田嶽 (ハンタノタキ) と考えられている。学者は今帰仁上りのお通しとしているが、集落ではここから今帰仁を遙拝している門中はなく、天久の崎樋川 (サチヒージャー) で行っているので、この説には少し疑問が残る。集落では三月遊びのときこの御嶽を拝み、三月遊びの神ともいわれる。ウマチーのとき、この御嶽に元屋のクデングヮが集まり儀式を行った。この嶽とクサイ (鎖) の井戸の子ノ方ノ井戸が公民館後方の集落の北西端にある。クサイ (鎖) 井としては少し距離が離れているのはなぜだろう?
三つの拝所
クワディーサーバンタ内には現在は三つの拝所があるのだが、崖の上にその一つがあり、そこには三つの香炉が置かれ祀られている。この拝所は安謝名が管理しているそうだ。元は三つの拝所が近接してあったが、崖の崩落等によって崩壊したので、昭和58年の公園整備のときに一か所にまとめた。威部石もその時に設置された。向かって右側の拝所は豊見城嘉数バンタの長嶺城への返し (ケーシ) で、南山の長嶺城から攻め込まれない為のものという。元の場所は低い石で囲われていたが、崖くずれにより元の場所は消失した。中央の拝所は上間の村を守るジーチヌカミ (土地の神) で、サジャカイ (授かるの意で神を斎き祀る者) の拝所という。左側の拝所はクサンの御嶽 で、東リ世 (東御廻り) の拝所の一つの米の発生地である受水走水 (知念 三穂田 ミフーダ) へのお通し (遙拝所) だそうだ。
クワディーサーバンタからはすぐ近くに長嶺グスクのあった丘陵がはっきりと見える。上間の安謝名ト敵対関係にあった南山の長嶺按司軍勢の動きは手に取るように見えていただろう。
前之殿 (メーヌトゥン)
クワディーサーバンタ内の三つ目の拝所で、ここは前之殿 (メーヌトゥン)。集落内には四つの殿があったと琉球国由来記で記載されている。上間前之殿 (神名: 友寄ノカミ)、上間外間之殿 (神名: 島ツカサミカミ)、ズガリ之殿 (神名: ズガリ森御イベ)、下宮里之殿 (神名: ニギリキニミカミ) なのだが、上間前之殿以外は現存しない。前之殿 (メーヌトゥン) は殿小 (トゥングヮー) とも呼ばれ、ヌル火の神を祀っている。
小城之嶽 (コグスクヌタキ、雨給リ火ノ神)
クワディーサーバンタから西に少し進むと小城之嶽 (コグスクヌタキ) がある。前ヌ毛小之御嶽 (メーヌモーヌウタキ) ともいう。本来、火ノ神だったのが、後に御嶽になったと考えられている。日照りが続くと井戸水を桶に汲んで、ここの石の祠に雨タボーリ (雨を下され) と祈り参拝者に桶の水をかけあって別れるという風習があったそうだ。昔、首里の上級女神官 (大アムシラレー) のヌーマンヌアヤーメーが雨乞い祈願をここで行い、たちまち大雨が降ったという伝承が残っている。玉城グシクへのお通しも行う。先に訪れた安次嶺之嶽 (アシンミヌタキ) のクサイ (鎖) だそうだ。
石獅子カンクウカンクウ
クワディーサーバンタから崖沿いに東に進むと石獅子がある。カンクウカンクウの石獅子ト呼ばれているのだが、その意味は不明だそうだ。上間集落には石獅子が昔は五体あったが、現在でも残っているのはそのうち三体。ここはその一体。設置年代は不明だが、民間で魔よけの為に石獅子が造られるようになったのは、尚真王 (1689年) の項に八重瀬岳からの火返しとして、冨盛集落に置かれて以降とされているので、17世紀末以降と考えられる。この石獅子は長嶺グスク、南山の方向に向けて置かれていた。三山時代、上間は察度、尚巴志と同盟関係にあり、南山に対する前線で、南山の前線基地であった長堂の長嶺グスクとは常に緊張関係であった。集落に伝わっている話では、昔、南山の長嶺按司軍と豊見城軍が上間に攻め寄せ、撃退したとある。おそらく南山の汪応祖か他魯毎の時代の事だろう。これ以降も尚巴志が琉球統一までは、中山、南山がこの地でにらみ合っていた。石獅子が置かれたのは、第二尚氏の南山国が滅びた後の事であるので、長年緊張関係にあった長嶺からの怨念を払いのける意味だったのではないだろうか?
下田 (シムタ) バンタ
石獅子カンクウカンクウから、更に集落の端の崖沿いを東に進むと、東の端に下田バンタがある。クワディーサーバンタの様な広大な広場でなく、小さな広場になっている。この崖の下がタンなっていたことから下之田 (シムヌター) と呼ばれ、この近くの門中が下田 (シムタ) と名乗り、このハンタも下田バンタと呼ばれている。
ここからは識名、幸地、西原、そして与座台地、嘉数台地が臨める。
下ン田 (シムヌター) 元屋の神屋
下田 (シムタ) バンタ の集落側に、名称の起源かといわれる下ン田 (シムヌター) 門中の神屋がある。下ン田 (シムヌター) 門中は識名の北山 今帰仁城主の子を祖とする下茂門中から分かれたといわれている。兄の今帰仁仲宗根若按司が怕尼芝に亡ぼされ、子等のうち男子二人は識名に落ち延び、そのうち一人が下茂家となり、後に、識名 下茂家から独立し、下ン田 (シムヌター) 門中を興すことになる。この家も仲北山系だ。この下ン田 (シムヌター) 門中の祖先に糸数親雲上 (ペーチン) がいる。上間按司 (安謝名子) が糸数グスクを落とした後に、糸数グスクに赴任したのが糸数親雲上 (ペーチン) と伝わる。糸数集落では糸数グスクを攻めたのは、上間按司とされ、その上間按司は安謝名子、外間子、上間下田などと色々伝わっている。おそらく、そのすべてが戦に係わっていたであろう。糸数集落住民にとっては、見知らぬ土地の武将たちで、それぞれの家での伝わりかたが異なっていたのだろう。
石獅子 ミートゥンダシーサー
下田 (シムタ) バンタの隣にも石獅子が置かれている。ミミートゥンダの石獅子と呼ばれている。ミートゥンダとは夫婦の意で、雄と雌の石獅子が南に向かっている。
玉城グスク、糸数グスクへの返し (ケーシ) といわれている。先日、糸数グスクを訪れた際に、糸数集落で伝わっている話では、上間按司が糸数グスクを急襲し滅ぼしたとある。その他にも、糸数集落の端にあった「上間グスク」を守っていた家臣の裏切りで滅んだとかあるが。ここ上間集落では安謝名が尚巴志軍として、糸数グスクを攻め滅ぼしたと伝わり、その際には玉城グスク軍も糸数グスクの加勢していたとされている。その糸数、玉城からの災いの返し (ケーシ) として置かれたとも伝わっている。糸数集落で「上間按司」とされているのはこの上間集落の安謝名子の事と考えられている。この上間の安謝名の事を調べていくと、糸数を攻めたのはこの安謝名子であったという説が最も説得力があるように思える。
上間集落からは、長嶺グスク、糸数グスクへの返し (ケーシ) として石獅子を置いていたのだが、上間集落に向けて石獅子を返し (ケーシ) として置いていたところがある。それが兼城だ。兼城は隣の集落で、兼城グスクに石獅子が置かれていた。どうもこの二つの集落の間には何か緊張関係があったようだ。伝承では、若者のたわいもないいさかいが原因とあるが、これだけの理由なのかには疑問がある。
尚徳王三男屋比久大屋之碑
尚徳王の長男、佐敷王子志義は首里城で金丸がクーデターがおきたとき、首里城内の真玉森で母とともに殺害されたが、次男の浦添王子は守役 (ヤカー) であった安謝名の養子となり家を継いだ尚巴志の息子の真和志按司に助けられ薩摩へ、三男の屋比久大屋子は乳母とともに佐敷間切の新里に逃亡した。この様に安謝名と第一尚氏とは深い関係があった。集落の東の崖の上に屋比久大屋子の碑なるものが建っている。もともとは逃亡先の佐敷にあったのだが、父の尚徳王の墓の近くへと、子孫たちが、沖縄戦の後、この地に移設している。
島元神屋
下ン田 (シムヌター) 元屋の神屋から集落の入ったすぐの所に、新しく建てられた神屋があった。調べると、島本門中の神屋だそうだ。島本門中は仲北山系の伊波按司の子孫にあたる護佐丸の守役だった人を祖としている。中城村久場の護佐丸の墓の下方にその人の墓があるそうだ。現在でも島元門中では清明祭に護佐丸の墓と守役だった元祖の墓を拝んでいるそうだ。いずれ、護佐丸所縁の地も巡ることになるだろうから、その時にこの島元の祖の墓も見てみよう。
大城門中の神屋
大城門中の祖は先ほどの古波蔵門中の祖とつながりがあるようだ。今帰仁城の城主 仲昔仲宗根若按司が怕尼芝に減ぼされた時に離散した子供の一人が三人の男子を生み、そのうち一人が伊波按司となる。この伊波按司が大城門中の祖にあたる。伊波按司の四男が上間に移り住み大城門中を始めた。
下田 (シムタ) バンタの崖の斜面に大きく立派な亀甲墓があった。これは中国への進貢専使節の一員としての功績での拝領墓だそうだ。
真地 (マージ) の神屋、井戸跡
七元 (ムトゥ) の一つで、国吉門中と真地小とはその祖が兄弟で識名 前ヌ花城の子係という。上間集落の国元 (クニムトゥ) で、安謝名 (ノロ元) と外間 (嶽元) と共に村立てを行った最も古い旧家の一つ。敷地内には井戸が残っていた。
新垣門中の神屋
安謝名家の分家の前ヌ安謝名のノロであった娘と外間家の長男の間に生まれた子が新垣家の初代。集落の12ある門中の一つ。
これで丘陵上にあった上間集落の文化財は大体見終わったので、丘陵から下る。上間地区はこの丘陵の上だけでなく、丘陵の麓まで広がっていた。戦前はほとんど畑で民家などはほとんどなかったのだが、人口が急増し、この丘陵の麓まで、住宅地で埋め尽くされている。
山川原之湧水樋 (ヤマガーバルヌヒジャーガ-、イジュンガー)
上間集落から一日橋への下り坂の所に、山川原之湧水樋 (ヤマガーバルヌヒジャーガ-、イジュンガー) と呼ばれる井戸跡がある。Google地図で文化財として載っていたのだが、この井戸についての情報は詳しいものは見当たらなかった。上間誌にも掲載されておらず、村の井戸ではなく、個人宅の井戸だったのかもしれない。
一日橋跡
坂道を下った所にある上間交差点の場所に一日橋跡の案内板があった。この場所には国場川の支流の板敷川が流れている。その川に架かっている橋が板敷橋で通称一日橋と呼ばれていた。現在かかっている橋は「一日橋」とプレートがかかっていた。この橋の名についてはエピソードがある。
- 尚巴志に滅ぼされた南山王の他魯毎の弟であった南風原按司守忠が戦場から逃れ、具志頭間切の安里大親に匿われ、後にその娘と結ばれ、守知を生んだ。この守知がエピソードの主人公なのだが、後に、尚円王は世子の尚真の守役となった。尚真が王になり、守知は首里金城村に屋敷を賜り、具志頭間切花城村の地頭職となり、花城親方と名乗るようになった。
- 1511年に花城親方が病気でたおれ、臨終近くになった時、花城親方は尚真王に遺体を郷里の父母の墓に埋葬してくれるように懇願し、尚真王は承諾した。花城親方が亡くなり、遺体を龕で運ぶ途中、この板敷橋が数日来の豪雨で流され、前に進めなくなった。そこで、尚真王は、板敷橋を一日のうちにもとどおり架けるよう命令し、昼夜工事を強行し、難工事の末、板敷橋を一夜ニ昼で架けたので、それ以来、この板敷橋を一日橋というようになった。
- 遺体は無事に父の南風原按司守忠の眠る具志頭の伊舎堂に葬られた。具志頭集落を訪れた際にこの伊舎堂にも立ち寄った。
板敷橋は1689年に石橋に架け替えられ、沖縄戦までアーチ型の石橋が残っていたが、戦災で壊され、戦後米軍が鉄製の橋を架けかえた。この橋では何度も事故が起き、沖縄戦でこの場所で亡くなった人たちの祟りともいわれていた。昭和6年頃、那覇波之上の辻遊郭の女郎と恋仲の男が、一日橋から川に身を投げた心中事件が起こり、それ以降、一日橋には幽霊が出ると騒がれたそうだ。上間集落の若者の間では肝試しで深夜にこの一日橋まで往復するといったこともあったそうだ。
集落の外側の文化財は一日橋の実紹介されていたので、これで上間集落巡りは終了。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 上間誌 (2009 上間誌編集委員会/上間自治会)
- 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)
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