Okinawa 沖縄 #2 Day 104 (15/05/21) 旧真和志村 (2) Nakaima Hamlet 仲井真集落

旧真和志村 仲井真集落 (なかいま、ナケーマ)

  • 古島 (仲井真中学校)
  • 芋発祥の地
  • 名称不明の拝所 (古島)
  • 国場川 (くねくね公園)
  • 軽便鉄道糸満線跡
  • 琉球製糖場跡
  • 仲井真自治会館
  • 池道之嶽 (ウフシヌアシジー)
  • 尚金福と仲井真の側室の墓
  • ハルミチ
  • 仲井真原ヌ産井戸 (ナケーマバルヌウブガー)
  • 仲井真村屋 (ムラヤー) 跡
  • びじゅる御嶽
  • 仲井真原ヌ村井戸 (ナケーマバルヌムラガー)
  • 大殿内 (ウフルンチ)、根屋 (ニーヤ)、 大殿内井戸跡、按司墓
  • 安次嶺御嶽 (アシンミウタキ)


旧真和志村 仲井真集落 (なかいま、ナケーマ)

仲井真部落は那覇市の最南端に位置し、国場川と44号線路を隔てて国場と上間の両邑の中に狭まれた小さな部落だった。

人口も真和志間切、後の真和志村では一番少なく明治時代1880 年では僅か55世帯、223人だった。仲井真集落がいつ頃始まったのかは確かなことはわからないが、元々は現在の仲井真中学校付近の国場側の畔に集落を始めたといわれる。この場所が仲井真の古島といわれている。仲井真集落に関する資料はほとんどなく、いつ頃、現在の場所に移住したのかも書かれてはいないが、現在の集落は丘陵の急な斜面にある。東西に2列に各5つの区画がきれいに並んでいる。明らかに区画整理をされた集落なので、琉球王朝時代、薩摩の侵攻後、経済が疲弊し、首里王府が農業政策の地割制度を寛文年間 (1661 - 1672) に行い、耕作地に適した場所に集落があるところは強制的に耕作に適していない場所に移住させた。強制移住させられた村は区画整理をしたうえで移住している。この仲井真集落もそのようになっているので、17世紀後半にこの地に移ったのではないかと思われる。

この仲井真集落は取り残された邑といわれていた。人口が伸び始めたのは1960年代後半からでそれまでは350人程で明治時代の1880年から80年間でわずか100人程しか増えていない。居住地が丘陵の急な斜面にあり、民家が増える余地があまりなかった。仲井真地区は耕作地ガ広く、そこを住宅地にすれば人口は増えるのだが、仲井真集落はサトウキビの生産で非常に裕福な家が多かった。その源泉である耕作地を手放すわけにはいかなかったのだろう。砂糖キビ生産が衰退するにつれて耕作地は住宅に替わり人口が増えていったのでないだろうか?前回訪れた国場はかなり早い時期から人口が急増していた。国場の方が人気があったのかも知れない。その一つは、仲井真は教育に対して、非常に消極的で、農家で裕福であったため教育にあまり価値を感じていなかったという。このようなことで、真和志市誌では取り残された村と紹介している。真和志市誌が発行されたのが1956年で、まだ人口が昔のままの時代だったこともあるのだろう。それ以降に人口は激増し、1970年から1980年にかけては毎年二桁之伸び率だった。現在は、小康状態にはなってはいるが、それでも微増している。

仲井真集落の文化財についての情報はほとんどなく、「歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい」に文化財の場所があるだけで、その解説はない。


仲井真集落訪問ログ



古島 (仲井真中学校)

国場側の南側にある現在の仲井真中学校の辺りが伊地当原で、仲井真集落が始まった古島だそうだ。いつ頃、集落が始まったのか書かれていない。


芋発祥の地

仲井真中学校のホームぺージではこの付近に拝所や古井戸跡があると書かれているが、場所や名前などの情報は無く、とにかくこの辺りを歩いて探すことにした。中学校のグラウンドの隣の空き地に拝所を見つけた。近寄ってみるとイモの発祥地と書かれた石柱があり、その横に祠のある拝所となっている。先日国場集落の登野城之御嶽 (トヌグスクヌウタキ) に芋之神を祀った香炉が置かれていたのを思い出した。その時は、なぜ芋の神が祀られているのかと思っていたが、ここにきて合点がいった。沖縄で甘藷の始まりは1605年に野国村 (現 嘉手納町) 出身の野國總管によって中国福建省からもたらされ、15年程で沖縄全土に広がったというのが通説になっている。宮古、与那国、石垣へは、独自に中国から直接、この時期に前後して伝わっている。この甘藷は栽培が容易なので、沖縄で幾たびも起こった飢饉の際に食料を補うことになった。それで芋の神が祀られているのだ。この後、琉球から種子島へは1698年、薩摩へは1705年に伝わっているので、サツマイモというよりはリュウキュウイモと呼んだほうが正しいのだろう。この場所にある「イモの発祥地」とはこの地域で始まった場所と考えたほうが良いだろう。おそらく、1605年から1620年頃だろう。まだこの古島に住んでいたころの出来事と思う。


名称不明の拝所 (古島)

更にこの周りを歩き、拝所を探し、住宅街の一角の広場に拝所を見つけた。名前などは判らないが、今でも大事にされているように思われる。古島時代からの拝所なのだろう。この後も探したのだが、これ以上は見つからなかった。


国場川 (くねくね公園)

となりの国場から仲井真古島の北側に国場川が流れているが、その国場川の畔にくねくね公園がある。公園がくねくねと曲がっている。

おそらくかつての河川跡と思い調べてみると、この公園はかつての国場川が流れていた場所だ。国場川のこの付近ではしばしば水害が起きていた為、その対策として河道を直線化する改修が行なわれた。その埋め立てた川の跡地を公園にしたのが、国場川くねくね公園だった。国場から仲井真にかけては、戦前までは船着き場が10か所も置かれていた。


軽便鉄道糸満線跡

先日、国場集落にあった国場駅跡や橋げた跡などを見たが、国場から、この仲井真を通って、津嘉山に軽便鉄道糸満線が伸びていた。町の道路をよく見ると何となくここに線路があったというのがわかる町並みになっている。写真左は国場から仲井真への線路跡、写真右が仲井真から津嘉山への線路跡。


琉球製糖場跡

仲井真と津嘉山の境界の所にあるマンションの一階にサーター車のモニュメントが置かれている。サーター車はサトウキビを搾る装置で馬でギアを廻してそこに佐藤儀日を挟んで搾る仕組みになっている。

この場所には戦後開業した琉球製糖の工場があった。国場川から分かれた長堂川に橋が架かりその向こうの広大な空き地に工場があった。橋は琉糖橋と呼ばれている。この地域はサトウキビ産業が盛んな場所だった。仲井真集落に金持ちが多かったのは、生産したサトウキビをこの工場に納入していたことにもよる。その後、砂糖産業が下火になり、琉球製糖は1993年 (平成5年) に製糖事業を中部製糖 (現在の新中糖産業)、第一製糖 (現在の金秀興産) と合弁会社の翔南製糖を設立し、琉球製糖は「りゅうとう」と社名を変え不動産業に集中している。


仲井真自治会館

次は、古島から移住した現在の集落内を巡る。現在の集落がある場所は仲井真原に当たる。まずはその中にある公民館を目指す。公民館はかつての集落の一番下のブロックの所にあるが、この場所は元々は村グムイ (溜池) があった場所で村屋跡ではない。国場での自治会加入率が15%程とかなり低い事に触れたが、この仲井真は35%と高い比率を示している。明治から現在までのこの二つの地区の人口を見ても、仲井真の加入率はかなり高い。何が理由なのかが気になる。機会を見つけて聞いてみようと思う。公民館の裏手には拝所が二つある。何を祀っているのかの情報は見つからなかったが、ここには村グムイがあったことから、そのグムイの拝所ではないかと思う。公民館の前を東西に走る道が前道 (メーミチ) でここから丘陵の上に集落が広がっている。この前を丘陵に上る道が中道 (ナカミチ) になる。


池道之嶽 (チミチヌタキ、ウフシヌアシジー)

集落の東に出た所に池道之嶽 (チミチヌタキ) と呼ばれる拝所があり、琉球国由来記にも記載されている御嶽だ。地元ではウフジヌアジシーと呼ばれている。祠の横には井戸の形式保存した拝所がある。この近くにあったシチャヤマガ-の井戸の拝所かもしれない。


尚金福と仲井真の側室の墓

池道之嶽 (チミチヌタキ、ウフシヌアシジー) のすぐ側に尚金福と仲井真の側室の墓がある。尚金福 (1398 - 1453年 在位 1450 - 1453年) は尚巴志の五男で、兄の第一尚氏王統三代王の尚忠 (1391 - 1444年、在位1440 - 1444年) の子の四代王尚思達 (1408 - 1449年 在位 1445 - 1449年) が死去した後、王に即位した。1451年に明からの冊封使を迎えるため、当時は浮島と呼ばれていた小さな港の那覇を貿易港として整備し、懐機に那覇港から沖縄本島の安里川側までの間に長さ1kmに及ぶ堤道の「長虹堤」を建設し、首里との道を繋いだ。1453年に尚金福王が55歳で薨去したことで、息子の志魯と弟の布里が王位をめぐって志魯・布里の乱が起きた。第一尚氏の歴代王の墓は様々な場所に散らばっており、複数の場所がその墓と伝わっている。これは、元々は王の墓は首里の玉陵、天山陵にあったが、金丸 (尚円) がクーデターを起こした時に王族や家臣が墓が荒らされることを恐れ、各地に遺骨を持ち出したとされている。その後どこに移葬されたのかは明確な文書はなく、言い伝えで墓とされているところが複数ある。この尚金福の墓も同様で、尚金福の墓は浦添市の城間のキャンプギンザーの中にあり、キャンプの外側に遙拝所がある。こちらのほうが一般的に尚金福の墓とされている。この仲井真、国場の言い伝えでは、ここには尚金福の側室の墓があったとされている。その関係で、2012年 (平成24年) にこの側室の墓に尚金福が移葬されたように書かれている。


ハルミチ

池道之嶽 (チミチヌタキ) から上に上る道がある。ハルミチと呼ばれていたそうだが今は使われていないようだが、この道を通って上に上る。


仲井真原ヌ産井戸 (ナケーマバルヌウブガー)

集落の半ばの西側の細い路地に井戸の拝所がある。仲井真原ヌ産井戸 (ナケーマバルヌウブガー) と呼ばれている。集落がある場所が仲井真原 (ナケーマバル) で、その地域の産井 (ウブガー) なので、村の重要な井戸だった。正月の初水や子供が生まれたときの産水に使われていた。


仲井真村屋 (ムラヤー) 跡

公民館から中道 (ナカミチ) から4ブロック上った所が、かつての村屋 (ムラヤー) があった場所で、駐車場になっているが、奥にアサギが建てられてその中に火ヌ神 (ヒヌカン) が祀られている。村の火ヌ神 (ヒヌカン) だ。そのアサギン隣にも三つの拝所がある。真ん中は井戸之拝所と判るが、両端の二つの拝所が何を祀っているのかは情報がない。


びじゅる御嶽

仲井真村屋 (ムラヤー) 跡から一ブロック上った東の端に、びじゅるお嶽と呼ばれる拝所がある。ここは集落の一番上の地域になる。この拝所には伝承が残っている。「この地に神に仕えた絶世の美女 (ノロだろうか?神人だろうか?) が住んでおり、この地で年老いて亡くなった。この地域の人々が彼女の御霊を慰める為にこの拝所を造った」とされている。それ以降、このびじゅる御嶽は土地の守護神として崇められているそうだ。びじゅる御嶽之周りには3つも井戸の拝所が置かれている。ここに井戸が三つもあったとは思えないので、集落内にあった井戸を、それが埋められた時に形式保存して拝所をここに集めたと思われる。そうであれば村の住民にとってはこのびじゅる御嶽は村の中心的な拝所なのだろう。琉球王統時代にはこの仲井真にはノロはおらず、上間ノロが上間と仲井真を管轄していた。絶世の美女とはそれ以前に仲井真にノロがいた時代之ンロの一人だろう。


仲井真原ヌ村井戸 (ナケーマバルヌムラガー)

びじゅる御嶽のすぐ西側の路地の隅に井戸跡がある。仲井真原ヌ村井戸 (ナケーマバルヌムラガー) で、仲井真集落の共同井戸だった。その奥にも、もう一つ井戸の拝所がある。小さな村としては多くの井戸があったようだ。


大殿内 (ウフルンチ)、根屋 (ニーヤ)、 大殿内井戸跡、按司墓

仲井真原ヌ村井戸 (ナケーマバルヌムラガー) の更に上に、大殿内 (ウフルンチ) という旧家の屋敷があった場所。集落の一番高いところで、ここからは仲井真集落が眼下に一望できる。大殿内 (ウフルンチ) は島添大里グスクがある大里間切の西原村から移ってきたそうだ。そういえば西原には立派な大殿内 (ウフルンチ) の屋敷跡が残っていた。根屋と呼ばれているところから、仲井真村の村立ちに係わった門中と思われる。その根屋の拝所が建てられている。根屋の裏には小さな祠があり、根屋への階段の下には井戸跡の拝所、按司墓などがあった。


安次嶺御嶽 (アシンミウタキ)

大殿内 (ウフルンチ) から更に上の丘陵頂上部分の安次嶺毛 (アシンミモー) に安次嶺御嶽 (アシンミウタキ) がある。ここには集落からはびじゅる御嶽から細い路地で登っていくか、国場からおこげ坂を登っていく。この安次嶺御嶽 (アシンミウタキ) は古島時代から集落の御嶽としてあったものだ。この場所は仲井真集落の北の端で、上間集落と隣接している。このすぐ近くには上間集落の安次嶺御嶽 (アシンミウタキ) がある。


これで仲井真集落巡りは終了だが、今日はまだ時間があるので、この丘陵の上に広がる上間集落も散策した。半分ぐらいの文化財は見たが、まだまだ見ていない文化財が残っているので、次回訪問の際のレポートに含める予定。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)

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