Okinawa 沖縄 #2 Day 250 (27/09/23) 那覇垣花三町 (7) Kakihana 3 Villages 山下町、垣花町、住吉町
那覇 垣花町三町
山下町
- 山下町第一洞穴遺跡公園
- ペリー区、ペリー劇場跡
- 落平 (ウティンダ)
- タチチガー、山下西公園
- 住吉神社
- がじゃんびら公園
- 高射砲台座跡 (独立高射砲第27大隊第1中隊)
- 美空ひばり 花風の港歌碑
垣花町 (カチヌハナ、かきのはな)
- 蚊坂 (ガジャンヌヒラ、ガジャンビラ)
- 御物城跡 (オモノグスク)
- 袋中寺跡
- 那覇軍港 (那覇港湾施設)
住吉町
- スラ場 (スラバ) 跡 (旧刑務所跡)
- 屋良座杜城 (ヤラザムイグスク) 跡
前回 (8月14日) は首里石嶺を訪れたのだ、途中で熱中症の症状と捻挫をしてしまい、途中で切り上げざるを得なかった。その後、足の痛みはまだ残っているので、足に負荷がかからないように徒歩ではなく自転車で首里石嶺を訪れることにしたが、長い坂道を登る途中で熱中症野症状がでて、目的地に辿り着く前にリタイヤとなった。その後ももう1度、首里石嶺を目指したのだが、同じく坂道で気分な悪くなり途中休憩をした際には、立ちくらみで気を失い道に倒れてしまった。気がついた時には自転車の下敷きになっていた。これでこの時もリタイヤとなってしまった。今日はきつい坂道を避けて平坦な道で行ける集落を巡ることにした。旧那覇地区で未訪問の垣花三町を訪問する。
垣花三町
察武寧王の頃、大城按司真武が島添大里按司に滅ぼされ、その長子大城真宗は、母親の生家である玉城間切垣花村に隠れたが、追手が迫ったので親子は、真和志間切儀間村の下田原の藪に隠れ住んでいた。その儀間村の人々が寄り集って垣花村を創ったと言われている。玉城村の宇垣花に対しては東垣花と呼ばれていた。 住吉町二丁目にある「火の神」は、最初の住居だった殿(トゥン)への遙拝所、同じく二丁目の「ウフ又吉家」の 屋敷は、その後の住居で、麻氏三世儀間真福が地頭として王府から拝領した木造瓦葺きの住宅であった。 1554年屋良座森城の落成式には、尚清王も立寄ったという。産業界の恩人儀間真常の生家で、糖業発祥の地、野国総管と共に甘藷を拡めた土地、また本県の木綿布の琉球絣アガリカチスハナの発祥地でもある。昔は真和志間切儀間村 (住吉町)、湖城村 (垣花、山下町)であったが、 後に小禄間切となり、明治36年に那覇に編入、大正3年に町制がしかれ三町になった。
王朝時代の唐船、船の出入港のときの作業員は、小禄、豊見城の百姓も屋良座森城と三重城に集合した。儀間の地頭と平等役は小舟二艘で両側から送迎したという。各屋敷は石垣囲いで福木を植えてい た。 垣花は農漁村と都邑の中間的存在であった。生業は、男は漁師、通堂仲仕、荷馬車業、 築港作業人、サバニ造船 (くり舟) などで気性は荒かった。 婦女子は、機織り、パナマ帽子編み、農業などであった。
沖縄戦後、山下町を除いた垣花三町全域は米軍に接収され、住民は他の地域への移動が強制されている。
垣花三町 訪問ログ
山下町
山下町第一洞穴遺跡公園
ペリー区、ペリー劇場跡
落平 (ウティンダ)
タチチガー、山下西公園
住吉神社
住吉神社は往昔儀間村の地頭で、甘藷の伝播栽培法を木綿織および砂糖創製などで産業界の大恩人といわれている麻氏六世儀間真常公が、1611年(慶長16年)に尚寧王の随員として薩摩から帰国のときに、海上守護の神として請来し当初儀間村の自宅内に奉安尊崇した。祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命の御三神である。神社は村人達の尊崇もあって間もなく那覇港南岸の住吉森に社殿を造営し、爾来三百数十年にわたり垣花三町民および県民が尊崇して来たが、1945年(昭和20年)初夏の沖縄戦において社殿は滅失し、米軍の港湾工事で境内は住吉森とともに海没した。戦後は垣花三町有志が山下町の東南の地に仮社殿を造営し尊崇して来たが、近年に至り腐朽甚だしくなり再建の運びにいたった。今ここに山下町西の殿の山中腹に良地を選び、工事費2000万円也で昭和56年8月22日起工、昭和57年3月15日竣工、同時に垣花町内の各拝所の合同社殿も併せて造営した。住吉、垣花、山下の三町民ならびに県民の心の拠り所として尊崇し社殿復興落成を記念してその経緯を碑に刻銘し永く後世に伝承するものである 昭和57年壬戌3月15日
がじゃんびら公園
高射砲台座跡 (独立高射砲第27大隊第1中隊)
美空ひばり 花風の港歌碑
花風の港
赤いさんごの波散る島を
何であなたはすててゆく
出船ほろほろ花風の港
紅の手さじを前歯で噛んで
しのび泣くのも 恋のため
白く尾を引く ひめゆり丸の
船が残した みおの糸
切れずおくれよ 花風の港
切れてしまえば 別れていつか
会える夢さえない二人
誰も恨まず 悲しい胸を
抱いて見送る 青い海背のびつまだち 花風の港
恋に死ぬのが 女であれば
石になっても 待ちましょう
垣花町 (カチヌハナ、かきのはな)
戦後、垣花住民は元の村は接収されており帰還が叶わなかった。垣花住民は那覇若狭にある夫婦瀬公園の奥の地域、1951〜53年頃米軍援助で泊港を浚渫した際に埋め立てられた場所に移り、重民町 (現在の若狭3丁目、前島3丁目) を設立して居住していた。
蚊坂 (ガジャンヌヒラ、ガジャンビラ)
御物城跡 (オモノグスク)
袋中寺跡
那覇軍港 (那覇港湾施設)
那覇港は琉球王国の玄関口で幕末にはペリー艦隊が日本二訪れる前に寄港し、沖縄本島を探検している。下の絵はその時の那覇港での軍艦。
戦前から戦後にかけての那覇港の写真が残っている。
1945年 (昭和20年) の沖縄戦で米軍は小禄に上陸以降、小禄半島の小禄村は、そのほぼ全域 (83%) が米軍基地として接収されていた。1972年の沖縄返還協定で「那覇軍港」は「那覇港湾施設」と改称されている。
住吉町
スラ場 (スラバ) 跡 (旧刑務所跡)
屋良座杜城 (ヤラザムイグスク) 跡
両城の間には鉄の鎖の防波網を張り、船の入港を防ぐことができた。屋良座森城は大砲で武装していた。1609年の薩摩軍の侵攻の際には、薩摩の艦隊を追い払うことに成功している。元々は海上に築かれた城で、長い土手道が本土との間を結んでいた。しかし、時が経つにつれ、土手と南側の土地の間に土砂が堆積し、土手が海岸の役割を果たすまでになった。
1945年の沖縄戦後、アメリカは那覇港の南岸に海軍基地を設置し、1950年、基地拡張の際に屋良座森城は取り壊されている。
これで垣花三町巡りは終了。今日は熱中症に気を付けて、軽めの行程としたので、問題なくゆっくりと見て回れた。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- 青い目が見た「大琉球」 (1987 ラブ オーシュリ)
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