Okinawa 沖縄 #2 Day 132 (06/09/21) 旧小禄村 (1) Oroku Hamlet 小禄集落
旧小禄村 小禄集落 (おろく、ウルク)
- 小禄自治会館
- 小禄星空公園
- 真玉嶽 (マダンウタキ、前ヌ御嶽 メーヌウタキ)
- アモールシガー
- 島田井泉 (シマダガー)
- 井戸跡 (名称不明)
- 崎山 (サチャマ) 拝所
- 崎山之井泉 (サチャマヌカー)
- 神道 (カミミチ)
- 呑殿内 (ヌンドゥンチ)
- ヌールガー跡
- ハワイ会館 (旧公民館)
- 高良隣徳顕彰碑
- 拝所
- ビンガー
- 賓頭盧 (ビジュン)
- 森口公園
- カミンガー殿 (トゥヌ、トゥン)
- 小禄の御嶽 (ウロクヌウタキ)
- バンヌカー
- 後原樋川小 (クシバルヒーザーガーグヮー)
- ナカミチの裏道
- 中道 (ナカミチ)
- 九班之井泉 (キュウハンヌカー)
- 班之井泉 (ハンヌカー)
- ミーガーモー、川原の印部石 (シルビイシ、ハル石)
- 後之川井泉 (クシンカーガー)
- ウシヌシンカー
- ガーナームイ(鵞鳥森・鵝森)
- ハマカーガー
- 小禄馬場跡
- 小禄の橋口 (端口)
- 前道 (メーミチ)
- 袋中寺
- ターガー
- 小禄間切番所跡
- マヘ原の印部石 (シルビイシ、ハル石)
- 上之井泉 (ウィーヌカー、一班之井泉)
- アシビナー跡
- 小禄里主所火之神
- 黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー)
今日から新しい間切を周り始める。琉球王統時代から明治にかけて小禄間切といわれた地域で、現在は那覇市の一部になっている。
小禄間切 旧小禄村
- 1673年 (寛文12年 第二尚氏王朝第11代尚貞王) に真和志間切から小禄・儀間・金城の3村を、豊見城間切から赤嶺・安次嶺・当間・大嶺・具志・高良・宇栄原・宮城の8村をそれぞれ分割・合併し、小禄間切となる。
- 1896年 (明治29年) 郡区制導入により島尻郡に編入される。山下などの北側の一部は那覇区に編入。
- 1908年 (明治41年) 島嶼町村制により小禄間切が小禄村となる。
- 1946年 (昭和21年) 沖縄戦後、大嶺・当間など海沿いの西部が米軍に接収され、住民は集団移転。
- 1954年 (昭和29年) 首里市とともに那覇市に編入され、小禄村は廃止。
旧小禄村 小禄集落 (おろく、ウルク)
小禄集落の人口はやはり旧小禄村の中では一番多い。2020年末の人口は18,000と一つの町としてはかなり多い方だ。那覇中心地までも数キロの距離でゆいレールも通り、商業地も多く利便性は高い。最近の人口の増減は小康状態だが世帯数は伸び続けている。沖縄でも人気エリアだ。
民家分布の変遷図を見ると、1919年 (大正8年) には昔からの集落の外側には民家はほとんどない。多分、この状態は戦前まで続いていたと思われる。小禄が発展し始めるのは、米軍が那覇と小禄を橋で結び往来が便利になってから、そして米軍基地関係の仕事を求めて人が集まった事、南部に大規模な集合団地が造られた事も大きな要因だ。1919年 (大正8年) 当時及び戦後の人口が判れば、その発展度合いがもう少しはっきりするだろう。
小禄字誌も発行されているのだが、図書館が休館中で、詳しく調べる事ができず、インターネット上で知り得る範囲で、この集落を巡った。「歴史散歩マップ 小禄まーい」という簡単な文化財パンフレットが見つかり、これを中心に巡った。またその他、文化財を紹介している資料や、街角の案内板も参考にした。(図書館再開後、調べなおし修正追記予定)
小禄集落訪問ログ
小禄自治会館
小禄星空公園
真玉嶽 (マダンウタキ、前ヌ御嶽 メーヌウタキ)
アモールシガー
島田井泉 (シマダガー)
井戸跡 (名称不明)
崎山 (サチャマ) 拝所
崎山之井泉 (サチャマヌカー)
神道 (カミミチ)
呑殿内 (ヌンドゥンチ)
ヌールガー跡
ハワイ会館 (旧公民館)
高良隣徳顕彰碑
拝所
ビンガー
賓頭盧 (ビジュン)
賓頭盧 (ビジュン) の周りには幾つもの石造拝所が建っている。これは小禄集落の七つの有力門中の七ハロージの拝所。この石造拝所は独特の形をしている。三角形の屋根の様な形をしている。家形の祠は他の集落でも見ることはあるのだが、ここ小禄のものは独特だ。
森口公園
カミンガー
殿 (トゥヌ、トゥン)
一般の住民が入れるのはこの殿迄で、この先の小禄の御嶽は男子禁制で神人 (カミンチュ) だけが入る事が許されていた。ここに各門中の代表者が集まり、御願を行ったのだろう。
小禄の御嶽 (ウロクヌウタキ)
泰期 (タイチ) は察度の異母兄弟だったというのが通説で、察度の父の奥間大親と天女との間に生まれたのが察度で、天女が去った後に後妻に迎えた又吉家の娘との間に泰期が生まれた。泰期 (タイチ) の名の由来ははっきりとはしないのだが、鍛冶屋で作る太刀 (たち) から来ているとの説がある。泰期の一族は鍛冶屋ともされて、これが泰期を金満と称し、金満は鍛冶屋の守り神になった。
兄の察度が中山王と君臨した時代には、明より来貢の催促があり、この時 (1372年) に察度の使者として明国へ渡り進貢したのが泰期だった。これが琉球と明との公式な外交関係の始まりだ。それ以降10年の間に5回も明国へ渡って進貢し、琉球の経済の大いに貢献をした。サトウキビを持ち帰り製糖法を伝えたのも泰期といわれている。察度は交易で鉄を大量に輸入し、農民に道具を分け与えたと伝わっているので、これは泰期が主導した事だったのだろう。東南アジアに及ぶ大交易による黄金時代を築き上げたとして、「商売の神様」ともされ、読谷村の残波岬の灯台近くには銅像が立てられている。
アミタボーリガー
火之神 (ヒヌカン)
嶽グサイガー
金満 (カニマン) ミテン
お通し所 (ウトゥーシドゥクル)
バンヌカー
森口公園がある丘陵の西南の麓に井戸跡がある。バンヌカーと呼ばれている。詳細は見つからなかった。
バンヌカーの奥、丘陵の斜面に多くの門中墓が並んでいる。どれも立派な当世墓だ。
小禄の御嶽の北の丘陵の斜面にも多くの門中墓がある。写真はその中の大型の墓。
更にこの丘陵の東側斜面にも多くの門中墓があった。この丘陵自体が昔からの聖域になっていた。
後原樋川小 (クシバルヒーザーガーグヮー)
ナカミチの裏道
中道 (ナカミチ)
九班之井泉 (キュウハンヌカー)
九班之井泉の近くの空き地に拝所があった。多分ここに住んでいた家の拝所だったのだろう。
班之井泉 (ハンヌカー)
更に南に進んだ所にも井泉跡がある。班之井泉 (ハンヌカー) と案内書にはあったのだが、どの班に属するのかは分からなかった。
ミーガーモー、川原の印部石 (シルビイシ、ハル石)
班之井泉 (ハンヌカー) の前の中道の反対側には小禄村のアシビナー (遊び庭) だったミーガー毛 (モー) がある。ここは、地域の人が集まって話し合いをしたり、祭りの時に出し物を披露したりする集会所のような憩いの場。若い男女が集まって、三線を弾いたり、おしゃべりをしたりでいわゆる「出会いの場」でもあった。ここには琉球王統時代の1735年~1759年にかけて両先島を除く沖縄島と周辺離島で行われた検地 (乾隆大御支配=元文検地) の際に測量の図根点として使用した原石 (ハルイシ) が置かれている。この原石は印部石 (シルビイシ、シルビグヮー) 、主に土手の上に置かれたので印部土手石 (シルビドテイシ、ドゥティグヮー) と呼ばれていた。印部石の破損は土地領域の混乱を招くため、その保護の為、地方 (じかた) 役人は年に二度の点検が義務づけられていた。廃藩置県後も保護されてきたが、1899年~1903年 (明治32年~36年) の土地整理で、そのほとんどが消失。印部石には土手の所在・原名 (ハルナー) と、順序を示す記号が、カタカナ、ひらがな、または変体がなで大きく彫られている。ここに置かれた印部石には「ユ」の文字が刻まれている。1737-50年に造られた。もともとはこの場所にあったのではなく、刻まれた文字によると川原から移設されている。「ユ、川原」と書かれている。この原石は祠の中に納められ拝所になっている。祠の傍に丸い石が二つ置かれている。これはこのアシビナー (遊び庭) で力自慢を競った力石 (差石) だ。
後之川井泉 (クシンカーガー)
ミーガーモーから少し南に進むと先程訪れた森口公園の入り口に通じる細い路地が西側にある。この道の脇に後之井泉 (クシンカー) と呼ばれる井泉がある。この井戸はかつてはノロが殿 (トゥン) や小禄の御嶽に赴く際に使用した専用の井戸で、村の人は使用することは出来なかったそうだ。
中道は小禄の御嶽のある丘陵の中腹を走っており、かつての海岸線に向かっていくつもの下り坂や下り階段が枝のように出ている。
坂道を下ると大通りに出る。7号線 奥武山米須線で、ここがかつての海岸線だった。これより東は何回かに分けて埋め立てられて、現在は住宅街になっている。
ウシヌシンカー
中道の九班之井泉から、坂道を下った所の住宅街の奥にウシヌシンカーがある。詳細は掲載されていない。
ガーナームイ (鵞鳥森・鵝森)
かつての海岸線だった7号線 奥武山米須線より東は戦後埋め立てられ現在は鏡原 (きょうはら) 町にとなっている。小禄地区には含まれていないのだが、昔は小禄集落の前に広がる漫湖で、その西の沖に浮かぶ小さな島がこのガーナームイだった。ガーナムイは漢字では鵞鳥森・鵝森と書くのだが、昔は鵞鳥が住んでおり、その鳴き声から名がついたとか、沖縄方言でガーナーはたんこぶという意味で、島の形から名がついたとも言われている。この湖上に浮かぶガーナ森の姿は那覇八景の一つに数えられる程、風光明媚な所で、中国からの冊封使は鶴頭山 (かくとうざん) と呼んでいた。ガーナムイは地域ではクジラ山とも呼ばれている。下の写真を見れば、その理由が分かる。
- ガーナー森は湖面に住み、しばしばヒナラシ森へ喧嘩を仕掛けていた。身動きが出来ないヒナラシ森も地域住民も困っていた。様子を見ていた神様はある日、怒って天からガーナー森の尾に石を数個落として動けなくした。その後、ガーナー森は息絶え小島となった。ヒナラシ森 (真玉橋集落のヒララス杜 [御獄] のこと) は、地域住民の守護神である神を祀る神聖な場所となった。
- ガーナー森は、夜になると漫湖から陸地へ上がり、集落の家畜や人を襲うので村人は困っていた。それを見ていた神様は、ある日天から石を投げ、ガーナー森の尻尾を漫湖に押し付けた。これでガーナー森は湖から動けなくなった。村人たちは神様に感謝し、また、ガーナー森を見張る意味もかねて、集落内に石獅子を立てた。
- 琉球王朝尚敬王の時代、このあたりに暴れ者の巨大な怪物が出没して周辺の村人を困らせていました。 怪物は北に向って来て、真玉橋、嘉数、根差部の集落を喰らおうと集落に被害が及びそうになったとき、天の神様が怪物を退治するために岩を落します。 とても大きい怪物は、それでも一つ目の岩ではとめる事ができず、二つ、三つと落とすと尻尾にあたり、ようやく動きを止める事ができました。(昔の写真には尻尾にあたるところに岩が三つ四つ見えている) それでも口から魔風を吹きだし暴風などで付近の人達に迷惑をかけ続け、これに困った真玉橋周辺の人達はこれを防ぐためにシーサーをつくり集落の端に祀りました。 これが今でも残る真玉橋のイリヌシーサーです。それ以来怪物の魔風による被害も収まって、以前のように平和に暮らせたそうです。そして、月日がたつとやがて怪物は現在のガーナムイと呼ばれる森になりました。
現在のガーナムイは住宅地の中の小さな雑木林の小山として残っている。
浜川井泉 (ハマカーガー)
ウシヌシンカーから7号線 奥武山米須線を南に行く。道路の側の駐車場の一画に香炉が置かれている。ここはかつては浜川井泉 (ハマカーガー) と呼ばれる井戸があった。ここも昔は海岸近くで、名前もそれから来ているのだろう。
小禄馬場跡
7号線 奥武山米須線を更に南に進むと、かつては小禄馬場だった交差点に出る。馬場跡は近年整備されてちょっとした休憩所となっている。馬場がどの方向に伸びていたのかは書かれていないのだが、多分道幅が広い7号線ではないだろうか?
小禄の橋口 (端口)
現在の県道7号線から東側の現在小禄1丁目付近は湿地帯でヰ田 (ゐーだ) と呼ばれる畑で畳の材料の藺草栽培が盛んだった。琉球のヰは普通のイグサが丸い断片なのに比べて三角で丈夫だので好評だった。小禄はこのヰの代消費地の那覇が近いこともあり藺草栽培は盛況であった。小禄馬場跡の近くには泉原から小川が流れてきており、橋口と呼ばれる石橋がかかっていた。大正の頃までは、ここまでくり舟が入って来て農耕にも使用されたそうだ。
前道 (メーミチ)
小禄馬場跡から西に向かって前道 (メーミチ) が走っている。この場所がかつての小禄集落の玄関口だった。先ほどの小禄の「橋口」は小禄の「端口」ともよばれていたのは、ここが集落の東と南の端だったということだろう。前道 (メーミチ) の真ん中付近は道幅が広くなっている。ここは村の広場として使われていた。先に訪れた崎山の拝所の近くだ。広場には自治会館がもう一つあった。
この広場では小禄の大綱引きが行われる。
袋中寺
前道 (メーミチ) を西に進むと袋中寺という仏教寺院がある。「袋中」というのが気になった。それは豊見城の平良集落 (金武之御井/金武御墓) を訪れた際に沖縄のエイサーの起源と考えられている浄土念仏に旋律をつけた念仏歌を考案し布教に務めた袋中上人ゆかりの地を思い出したからだ。この寺も 袋中上人と関係があるのではと思った次第。調べると、やはり浄土宗のお寺で、琉球に1603年から3年間滞在し (尚寧王の時代) 浄土宗を広めた袋中上人を寺の名前にしている。袋中上人がここに寺を建てていたわけではないが、袋中上人が再興した京都の檀王法林寺の住職が、昭和12年に袋中上人顕彰のために那覇市に檀王別院袋中寺を創建したが、太平洋戦争で焼失。その後、昭和47年に沖縄返還を機に沖縄での浄土宗の再建を計画し、昭和50年に昔から小禄浄土と呼ぱれる程に浄土宗への信仰が強かった小禄の地を選び現在の袋中寺が建てられた。
ターガー
袋中寺から坂を登った所で前道が途切れる。そこに井戸跡がある。ターガーと呼ばれている。この井戸跡の詳細は見つからなかった。
小禄間切番所跡
ターガーの向かいには小禄間切番所跡の案内板が立てられている。この場所に番所があったのだ。この番所は琉球王国時代の1673年に小禄 (おろく)、金城 (かなぐすく)、儀間 (ぎま)、大嶺 (おおみね)、当間 (とうま)、安次嶺 (あしみね)、赤嶺 (あかみね)、宇栄原(うえばる)、高良 (たから)、具志宮城 (ぐしみやぐすく)、具志 (ぐし) の11の村を合わせ小禄間切が誕生してから、1908年 (明治41) にかけて、間切の行政を管轄していた。間切番所では地頭代 (ジトゥーデー) 以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。1879年 (明治12年) の沖縄県設置後、1899年 (明治32年) の沖縄県間切島吏員規定により、番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称され、さらに1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制の施行により、間切は町村、村は字となり、小禄間切は小禄村となった。小禄間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用されたが、1912年 (大正元年) に安次嶺へ移転、沖縄戦後は高良に新築され、1953年 (昭和28年) に那覇市との合併で、那覇市小禄支所庁舎となった。番所跡の片隅に小さな祠の拝所があった。番所と関係があるのかは不明。
マヘ原の印部石 (シルビイシ、ハル石)
小禄間切番所跡の裏の民家の庭に印部石 (シルビイシ、ハル石) が置かれている。1737-50年に造られた。もともとはこの場所にあったのではなく移設されている。「ヨ まへ原」と書かれている。
上之井泉 (ウィーヌカー、一班之井泉)
小禄間切番所跡から北に向う。住宅の外れに井戸跡がある。上之井泉 (ウィーヌカー) と呼ばれ、小禄の一班が使用していた井戸。
アシビナー跡
更に北に向かい森口公園方面への道路に広場がある。昔はこのような広い道路ではなく、狭い路地だったのだがそこに広い広場が置かれていた。ここは小禄集落に幾つかあったアシビナー跡の一つ。
小禄里主所火之神
アシビナー跡の北側は昔ながらの路地が残っている。石畳の道が保存されている。石畳路の途中には井戸跡もあった。
石畳に囲まれた所に小禄里主所火之神のアシャゲが建っている。入り口はアシビナーから綺麗に刈りこまれた芝生道だ。奥にあるアシャゲは腰をかがめて入れるくらいの背の低いもの。中には霊石が祀られ、かつて人々が小禄の安全と繁栄を祈っていた。
黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー)
アシビナーの西側の住宅地の中に井戸跡がある。黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) と案内書ではなっている。名から判断すると、黄金森 (クガニムイ) という拝所に付属する井泉となるのだが、肝心の黄金森 (クガニムイ) の拝所は案内書には出ていない。この辺りにあったのだろうか? (アtで調べるとこの近くに黄金森 (クガニムイ) の御嶽が田原集落内にあることが判った)
黄金森 (クガニムイ) クサイ井泉 (カー) の近くにもう一つ井戸跡がある。案内書には掲載されていないのだが、御願の際の注意書きが置かれているので、村としての拝所になっているのだろう。
小禄集落は文化財保護に力を入れているせいか、多くの文化財を公開している。全部は一日では回り終わらず。2日間にわたって見学した。
参考文献
- 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
- 歴史散歩マップ 小禄まーい (1991 那覇市教育委員会文化課)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
沖縄県那覇市の住民組織について-自治会 研究ノート その 1 (1994 総合都市研究第53号)
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