Okinawa 沖縄 #2 Day 133 (09/09/21) 旧真和志村 (10) Makabi Hamlet 真嘉比集落
旧真和志村 真嘉比集落 (まかび、マカン、マビ)
- 真嘉比遊水池
- 前之原の井戸 (メーンハラーヌカー)
- 前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ)
- 真嘉比公民館
- アシビナー
- 前道 (メーミチ)
- 東井戸 (アガリンカー)
- 中道 (ナカミチ)
- 東池 (アガリンクムイ)
- 前之森 (メーヌムイ)
- 真嘉比殿内 (マカビドゥンチ)
- 中井戸 (ナーカンカー)
- 西井戸 (イリンカー)
- 後道 (クシミチ)
- 真嘉比中央公園
- 真嘉比世 (マカンユー) の大主親雲上 (ウフヌシペーチン) 墓
- 空手家の墓 (松村宗棍、糸洲安恒、花城長茂)
- 真嘉比道 (マカンミチ)
- 古島の集落
- 原神 (ハルガン) の拝所
- 原神御嶽 (ハルガンウタキ)
- 大道森 (ダイドームイ Half Moon Hill)
- シュガーローフ (Sugarloaf 慶良間チージ)
- チャーリーリッジ (Charlie Ridge 真嘉比北高地)
- チャーリーヒル (Charlie Hill)
- 軽便鉄道の切通し
今日はコロナ予防接種一回目で、那覇のおもろまち副都心の接種会場に行く。予防接種だけで外出はもったいないので、会場近くの真嘉比集落を巡ってからの接種にした。真嘉比集落は旧真和志村に属しており、これまで九つの集落を巡ったので、7番目の集落になる。自宅からは5km程で自転車では30分かからない。
旧真和志村 真嘉比集落 (まかび、マカン、マビ)
古島を含むかつての真嘉比村は、首里・那覇に隣接する純農村地帯で、サトウキビや真嘉比川周辺の真嘉比川原 (マカンジャーラ) の田芋は特に有名だった。沖縄戦後の1957年 (昭和32年) に那覇市と真和志市が合併した際、那覇市字真嘉比、那覇市字古島の行政区域が誕生した。2000年頃までは、真嘉比地域でも集落の形態や真嘉比道、周辺の丘陵・墓などもかつての姿を残していたが、土地区画整理事業が進み、見違えるほど整備された街が誕生した。那覇の中でもトップクラスの人気住宅エリアとなった
この地域にある地区の人口推移を正確に見るのは骨が折れる。何度も区画整理が行われ、地区間で地域の入れ替えが行われている。人口統計では同一エリアの人口推移を把握するのが困難だ。松島区は1998年に古島・松川・真嘉比の一部が分離して新設された。2014年には真嘉比と古島の一部が真嘉比と松島の一部に入れ替えがされている。これ以外にも何度も区画変更があり、それがどれぐらい真嘉比に影響があったのかは把握しにくい。
1873年 (明治6年) の真和志間切全体の人口は2,031人 (440世帯) で、廃藩置県後の1883年 (明治16年) では8,481人 (2,057世帯) と10年で4倍に増加している。これは廃藩置県で首里の士族が職を失い、首里から移ってきたことや、那覇が商業として発展し、その近郊の真和志に人が集まってきたことによる。これ以降は統計はなく、昭和8年- 13,956 (3,292)、昭和10年 - 15,966 (NA)、昭和13年 - 15,434 (3,616)、昭和14年 - 16,131 (3782)、昭和15年 - 16,884 (NA)、昭和19年 - 18,021 (4,135) となっている。
松島地区の人口推移は以下の通り、近年でも人口は増え続けている。
真嘉比、古島、松島の民家の広がりの変遷は以下の通り、1919年 (大正8年) では集落は真嘉比集落だけで、それも事情に小さい。古島は字として存在はしていたが、屋取であったので、民家は農地に散らばって集落は形成していなかった。戦後の1975年では既に民家は地域いっぱいに広がっている。沖縄戦戦野の人口は、 1919年とあまり変わっていないことを考えると、戦後の発展が著しかったことが判る。
真嘉比・古島集落訪問ログ
真嘉比遊水池
前之原の井戸 (メーンハラーヌカー)
前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ)
真嘉比公民館
アシビナー
前道 (メーミチ)
東井戸 (アガリンカー)
中道 (ナカミチ)
東池 (アガリンクムイ)
前之森 (メーヌムイ)
真嘉比殿内 (マカビドゥンチ)
中井戸 (ナーカンカー)
西井戸 (イリンカー)
後道 (クシミチ)
真嘉比中央公園
真嘉比世 (マカンユー) の大主親雲上 (ウフヌシペーチン) 墓
空手家の墓 (松村宗棍、糸洲安恒、花城長茂)
松村宗棍 (1809~1899) は沖縄空手首里手の始祖とされ、琉球第二尚氏の17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王の三代に亘り王府の御側守役として仕えた人物。武人、外交官として活躍した。松村宗棍には猛牛を倒したエピソードもあり、沖縄空手の理念を説いた「武の七徳」の遺訓もよく知られている。
真嘉比道 (マカンミチ)
- 美しい女を娶った男がいた。男は幸せに暮らしていたが重い病におかされてしまう。それから男は美しい妻を残して死ぬことに煩悶するようになる。あげくは「俺が死ぬと他の男と一緒になるだろう。お前を残しては死んでも死にきれない」と執拗に妻をなじった。その煩悶の悪循環で病はますます重くなる一方であった。みかねた妻は男の煩悶を断ち切ろうと自らの鼻をそぎ落とす。それに安堵したのかいつしか病も癒えた。恢復してみると今度は鼻をそいだ妻が疎ましくなる。とうとう愛人と結託して妻を殺してしまう。妻は夜な夜な幽霊となってふたりの暮らす家に現れるようになる。男は幽霊となって出てこれないようにマカンミチの墓に眠る、妻の足に釘を打ちつける。家には首里の天界寺の符札 (フーフダ) を門と家の四隅にはりつける。足に釘を打ちつけられ、家にも入れない幽霊はマカンミチの墓のあたりに立つ。怖がって誰も寄り付かないなか、ある日池城親方が通りかかり、その訳を知り足の釘を抜き、フーフダもはがしてしまう。それで幽霊は復讐をとげることができた。
古島集落
古島の人口は1900年 (明治33年) では1944年 (昭和19年)でも336人と戦前はほとんど変化がないのだが、それ以降急増し、ピーク時の1993年には6,467人までなっているその後、2度にわたる区画整理もあり、現在では3,667人となっている。区画整理がなければ、6,000-6,500人に増加した (戦前に比べ約20倍) とも考えられる。
原神 (ハルガン) の拝所
原神御嶽 (ハルガンウタキ)
大道森 (ダイドームイ Half Moon Hill)
大道森 (Half Moon Hill) は区画整備事業によって丘ごと削られてしまい、当時の形は残っていない。現在は公園になって、小山の上に説明板と遺品などが展示されていた。
このシュガーローフの戦いをはじめ沖縄戦の詳細が「沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る] というサイトに掲載されていた。これはかなり詳しくよくできていて、当時の様子がよく理解できる。特に集落が、どのように戦争に巻き込まれていたのかが想像ができて有益なサイトだ。そのサイトから資料を拝借して簡単にまとめてみる。
❶ 5月12日 米軍はシュガーローフの攻撃を開始。二度にわたる攻撃をかけるが、大きな損害を出し撤退し、真嘉比主落北西部からシュガーローフの北西まで、陣を引きなし体制を再構築。
シュガーローフ (Sugarloaf 慶良間チージ)
シュガーローフは真嘉比ではなく安里に属するのだが、ハーフムーンヒルと関連があるのでここに記載する。安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地で、日本軍は “すりばち丘”、米軍は “シュガーローフ” と呼んでいた。日本軍の首里防衛の西の要衝で、この一帯で米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。特にシュガーローフ (慶良間チージ) での攻防は、5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。
区画整理で地形は当時とはずいぶん様変わりをしている。この地域は新都心とも呼ばれ、新しい街並みがひろがり、企業オフィス、大型のショッピングセンター、住宅地などが立ち並び、沖縄では最も人気の高い場所になっている。その中に当時の丘の一部が残っている。ここがシュガーローフで丘の上には排水タンクがあり、安里配水池公園となっている。
❷ 5月13日 早朝から米軍が攻撃を再開。今回はシュガーローフのピンポイント攻撃ではなく真嘉比集落の北西のチャーリーリッジにも攻撃をかける。米軍は今回も大きな損害を出したが、チャーリーリッジの北西部、シュガーローフ北西部の一部まで前線を確保する。
チャーリーリッジ (Charlie Ridge 真嘉比北高地) の形は区画整理で完全に削り取られ残っていないがわずかに北側から緩やかな登り坂になっている。当時はもっと高い丘になっていたのだろう。(このチャーリーリッジ の日本軍陣地は5月17日に陥落することになる)
➌ 5月14日 早朝から米軍はシュガーローフへ攻撃をかけ、激戦が展開された。米軍はシュガーローフの北西に位置するHill 1とHill 3を攻撃、Hill 1北斜面まで確保し、シュガーローフの攻撃に移る。激戦となり、米軍は支援部隊を送り、シュガールーフの北斜面まで確保するも、頂上にいる日本軍の抵抗で占領まで至らなかった。真嘉比集落の北西のチャーリーリッジでも戦闘が行われたが、ここも北斜面まで軍を進めるも攻略までは至らず。米軍はシュガーローフ北のチャーリーヒル北側斜面を確保。この日の戦闘ではハーフムーンヒルの日本軍が側面攻撃をかけたため苦戦し、米軍は多くの損害を出した。
チャーリーヒル (Charlie Hill) は1990年代の区画整理により丘があったとは思えない場所になっている。戦後は米軍住宅地となっていた。跡地には現在はDFSが建ち、多くの中国人観光客でにぎわっている (もっともコロナ禍の前までだが)
➍ 5月15日 5月14日深夜から,翌15日未明にかけてシュガーローフ攻防は続き、米運は頂上まで到達。しかし頂上に到達した米軍兵の生存者は僅かで、援軍が送られるも米軍戦死者は増え、15日の朝には撤退を余儀なくされた。日本軍はシュガーローフを取り戻す為猛攻撃をかけ、この日の終わりにはシュガーローフ北側まで制圧回復を果たす。この日の戦いで、米軍は指揮官はじめ幹部も戦死している。米軍はチャーリーリッジ北壁のみを確保できた。
❺ 5月16日 米軍はシュガーローフ攻略が思惑通りにいかず、その原因をハーフムーンヒルからの日本軍の側面攻撃にあると判断し、軽便鉄道の切通しを渡り、ハーフムーンヒルの攻略を試みる。日本軍の攻撃も少なくハーフムーンヒルの北側まで進んだが、ここで日本軍の猛攻撃を受け、米軍の全員が負傷し撤退となる。同時にシュガーローフでも戦闘が繰り返される。ハーフムーン攻撃で日本軍の側面攻撃を阻止している間に、シュガーローフを攻略する作戦で、まず西のホースシューからシュガーローフに日本軍を攻撃し、同時に東から軍を進め、シュガーローフ頂上まで到達するが、ホースシューの軍は日本兵に攻められ苦戦、ハーフムーンヒルの軍も苦戦で、援軍は望めず、日が変わった17日未明に撤退。
軽便鉄道の切通し この時期には鉄道は運航はされちなかっただろう。
❻ 5月17日 米軍は前日と同様にシュガーローフを東から攻める作戦で、ハーフムーンヒルの攻略を試みる。チャーリーリッジ北側の米軍はチャーリーリッジを占領し、真嘉比集落の西側と東側を通りハーフムーンヒルの北側の麓まで進軍するが、日本軍の猛攻撃を受け、大損害を出し撤退。米軍はシュガーローフにも攻撃をかけるが、ここでも大損害を受け撤退となる。
❼ 5月18日 米軍は2回にわたって東側からシュガーローフを攻撃するも、ハーフムーンヒルの日本軍を包囲できず、失敗に終わったていた。この日のハーフムーンヒルの攻撃を継続するが、包囲すらできない状況。米軍は作戦を変更し、東側からではなく、西側からシュガーローフを攻撃することにする。この日の午前中には、米軍はシュガーローフを西から攻め丘の中腹まで進軍、別の部隊は正面から攻め上り、シュガーローフの東半分を制圧。更に米軍は西側からも進軍し、西半分を制圧し、シュガーローフは陥落する。午後には、日本軍の反撃がホースシューから始まり、米軍はシュガーローフからホースシューに進軍するが、日本軍の抵抗すさまじく、シュガーローフに撤退。シュガーローフは7日目にやっと占領できたが、ハーフムーンヒルはいまだ日本軍の手にあった。この後、米軍は首里城の日本軍本部に向かい戦闘を継続する。ハーフムーンヒルに立てこもる日本軍は、首里城の沖縄第32軍司令部が南部に撤退する5月31日まで、頑強に抵抗を続けた。
このシュガーローフの戦いで米国海兵隊側は、2,662名の戦死傷者と、1,289名の戦闘 (精神的) 疲労患者を出したとされる。日本側の損害については、こ統計がないため明らかではないが、両軍合わせて4000人以上が戦死したとされている。米軍にとって沖縄戦ではこのシュガーローフの戦いが最悪の戦闘といわれている。
これで今日予定していた真嘉比集落巡りはおわった。この後、新型コロナの一回目の予防接種を予約している。この近くにその会場がある。今日も真夏日で、汗びっしょり。まだ時間があったので、近くのショッピングモールで涼んでから会場に向かう。到着すると、待ち時間なしですんなりと接種終了。聞くところによると、最近は予約が少なくなってきているそうだ。那覇市はそれを懸念している。この日の夜には、接種した左腕が少しこわばり痛む。これが副反応だ。ただ翌朝には痛みも引き、平常に戻った。2回目は9月30日、同じ会場を指定された。本当は、今住んでいる場所から歩いて5分の所にも接種会場があるのだが、予約の際に間違ってここにしてしまった。ただ、集落巡りができるので、結果的にはここでよかった。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 真嘉比字誌 (2014 真嘉比自治会)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅳ (2004 沖縄県立埋蔵文化財センター)
0コメント