Okinawa 沖縄 #2 Day 220 (09/11/22) 那覇四町 (2) Wakasa Area 若狭町
那覇四町 若狭町 (わかさ)
- 波上宮 (ナンミン)
- 一の鳥居
- 折口信夫歌碑
- 二の鳥居
- 参集殿
- 沖縄医生教習所記念碑
- 手水舎
- 明治大帝聖像
- 拝殿
- 本殿、花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽
- 浮島神社、世持神社
- 社務所
- 波の上ビーチ
- 龍宮、神の産室
- イビヌ前 (メー)
- 護国寺
- ベッテルハイム博士居住之趾、牛痘種痘始祖 仲地紀仁顕彰碑
- 臺灣遭害者之墓
- 天尊廟、天妃宮
- 程順則頌徳碑、蔡温頌徳碑
- 旭ヶ丘公園
- 小桜の塔
- 戦没新聞人の碑
- 琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑
- 沖縄芝居顕彰碑
- 謝名親方利山顕彰碑
- 海鳴りの像
- 琉球箏曲先師顕彰碑
- 殉職警察職員慰霊之碑
- 新沖縄観光名所波の上碑
- 和光地蔵尊
- わかさ波の上ビーチ通り
- 漆器のまち 若狭町の碑とチンマーサー
- 対馬丸記念館
- 若狭一丁目自治会事務所
- 海蔵院 (ケージイン、鏡の寺 カガンヌティラ)、花の代
- なぐやけの碑
- 龍柱
- 火ヌ神、シーサー、下ヌ若狭ヌ井戸
- 雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)
- 若狭土帝君
- 不屈館
- 若狭公民館
- 夷堂、若狭町村学校所/役所跡
- 夫婦瀬 (ミートゥージ) 公園
- 明津浦 (アカチラ)
- 若狭市営住宅
- 重民の拝所
- 弁天負久知姫神
- 若狭めおと自治会 (若狭集会所)
今年の11月はとにかく雨が多い。例年であれば11月は雨は少ない月なのだが、今年は異常で、例年に比べ那覇では降雨量と日照時間2.5~3倍・70%、宮古では5.3倍・60%となっている。晴れ予報でも一日の内で何度か雨が降っている。今日は曇り時々雨なのだが、明日以降は雨のようなので、思い切って外出とした。案の定、4回ほど大雨に遭遇した。明菜和ではスコールなどはよくあることなので、集落巡りでは雨宿りの場所を確認して、雨が降ってきたらそこに避難するようにしている。今日も4回の大雨も公園の東屋や公民館や図書館で雨宿りとなった。
那覇四町 若狭町 (わかさ)
昭和19年10月10日の十・十空襲で那覇市は壊滅的な打撃を受けていた。若狭町は7割方焼け残っていたが、米軍上陸後の地上戦で若狭町を含め那覇の旧市街のほとんどは焼け野原となった。戦後、久茂地川以西の旧那覇市内一帯は、米軍に接収され物資集積所となり、住民は元の住所に戻ることが出来なかった。若狭の人々も疎開先から那覇に戻ってはきたが元の若狭には戻れず、真和志や楚辺あたりに居を構えたりしていた。1949年 (昭和24年)、民政府が玉城村親慶原から上山小学校敷地に移転してきたが、軍政府が使うようになったため、民政府は天妃小学校に移転した。 同年末には軍政府は那覇市を商業地として、できる限り旧所有者に返還し、首都建設に着手している。1950年 (昭和25年) 1月、波の上プールが解放され、同年7月には辻町と若狭町の墓地の整理が始まった。9月には対日平和条約 (サンフランシスコ条約) が調印され1952年 (昭和27年) に発効し、奄美地区を含む琉球列島は日本本土から切り離され米国の統治になった。1952年5月に若狭町の一部が解放、8月には松山町の一部も解放され、11月には美栄橋町の区画整理が始まった。 1953(昭和28)年4月、那覇中学から分離し、 城岳中学を併合した上山中学が上山小学校 元那覇尋常小学校)の敷地に開校した。10月には牧志通り (現国際 通り) の工事が始まり、道路拡幅のため立ち退いた人々が若狭1丁目に割り当てられて引っ越してきた。1955年 (昭和30年) になると、米軍の那覇軍港用地となった垣花から住民120名が泊埋立地区 (旧重民町 現若狭3丁目) に割り当てられて移動してきた。その年の6月には戦後復興第1地区区画整理事業が開始された。1972年の本土復帰前には現在の若狭町の町並みが既に完成している。
若狭町の人口データは1960年以降しか見つからず、それ以前の変遷は不明だ。戦前戦後の推移が最も気になる時期なので、見つかり次第データを入力して更新予定。手持ちのデータを見ると、世帯数では1880年 (明治43年) には799戸、1960年には1520戸と2倍になっている。人口も同じ傾向だったのではと思う。戦前の若狭の人口は2丁目に集中している。戦後一丁目と二丁目に居住区が拡大し、泊地区埋め立てで三丁目に垣花地区住民を中心に移住し増加していった。この三丁目には市営住宅が建設されたことで人口は増加し若狭町の半分近くを占めている。人口のピークは1968年でそれ以降は減少に転じ、現在でも減少傾向になっている。現在の人口は1960年に比べて半分まで減少している。この背景には何があるのだろう?人口が半減はかなりのインパクトがある。
若狭町でかつて行われていた祭祀については資料では見当たらず、現在行われている村拝みのみ記載されていた。この村拝みは旧暦4月1日と10月1日に若狭一丁目と二丁目で行われている。村拝みは、① 雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)、② 龍宮/神の産室、③ 苗代五臓御嶽、④ 火ヌ神/シーサー/下ヌ若狭ヌ井戸、⑤ 夷堂、⑥ ユーナヌカー (松山)、⑦ 海蔵院、⑧ 孔子廟 (久米)、⑨ 天尊廟、⑩ 波上宮 の順番で拝まれている。三丁目が含まれていないのには何か理由があるのだろう。三丁目は戦後の埋め立てでできた新興集合団地で那覇軍港として土地を接収された垣花地区の人や他の地域から流入した人たちなので、伝統的は拝みには距離があるのかも知れない。
若狭町訪問ログ
波上宮 (ナンミン)
一の鳥居
折口信夫歌碑
二の鳥居
参集殿
沖縄医生教習所記念碑
明治十八年二月沖縄県医院に医学講習所を新設す。置県後日なお浅く県民の衛生思想いまだ幼稚の域を脱せず、寒村僻地に至っては殆んど医薬の仁澤に浴せざるを以て汎く子弟を教養し、賑恤救護するの必要を認めたればなり。是年六月校舎を下天妃に移し同二十二年医生教習所と改称し同三十四年地を松下町に卜して病院及教習所を新築し大にその規模を拡張せしが同四十五年医術開業試験法改正の結果閉鎖せらるるに至れり。創立より是に至る歳を閲すること二十八年卒業回数を重ぬること二十三次在籍生徒五百名開業免許状を受くる者実に約二百名に上れり。
惟ふに本教習所の開設は恰も県治草創の時に際し人心の傾向官場の吏僚を貴んで民間の業務を喜ばざる風あり、従って世人の本教習所を視ること甚だ重からず、是以て諸生の来り学ぶ者自ら褒貶の外に立ち螢雪三十年孜孜として養生の学術を研鑽し営営として方薬の天職に没頭せり。それ大政維新の皇化遠く南陲に迨んで悉く旧来の陋習を破り開明今日の盛を效すもの本教習所の微力また与らずとせんや。況や本所出身中本職の余力を以て或は政治界に或は経済界に県治の発展県民の向上に貢献せし者多士洵に儕儕たるや。
顧れば滄桑幾変遷同窓の士にして既に鬼籍に入りし者約五十名母黌の遺址また草莽の裡に埋没せんとせり。乃ち同人胥謀りこれを金石に録して以て後毘に胎さんとす。波上の晴嵐永くその芳を伝へ笋崖の潮音長へにその功を頌へよ
昭和三年季秋 登極の大礼挙行の日 文学士東恩納寛惇撰 医師山城正心書
手水舎
明治大帝聖像
拝殿
本殿、花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽
往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な「ものを言う石」を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上山に至った時に神託があった。即ち、「吾は熊野権現也、この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った。
後日、インターネットで他の集落を調べていると偶然、本殿の立ち入り禁止地区を訪れた人が写真をアップしていた。本殿の裏にも鳥居が置かれている。海の向こうのニライカナイへの遙拝所だろうか? (写真左上) 先日、柵の外から見えた鳥居は、花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽への入り口だった。この入り口から崖の上の石垣へ道があり、その石垣の二か所に香炉が置かれ拝所となっている。これが花城 (ハナグスク)、苗代五臓御嶽になる。
浮島神社、世持神社
社務所
波の上ビーチ
龍宮、神の産室
ビーチは波上宮の岸壁を挟んで東と西にある。東側の方が人気がある様だ。崖には数ヶ所洞窟がある。洞窟内では人骨が見つかっており、大昔は墓だったと推測され、それが御嶽として聖域になったという説もある。いくつかの香炉が置かれており、ここでは海の彼方の龍宮と神の産室とされる洞窟を拝んでいる。更に崖上にある苗代五臓御嶽への遥拝も行われる。
イビヌ前 (メー)
護国寺
ベッテルハイム博士居住之趾、牛痘種痘始祖 仲地紀仁顕彰碑
臺灣遭害者之墓
天尊廟、天妃宮
程順則頌徳碑、蔡温頌徳碑
旭ヶ丘公園
小桜の塔
戦没新聞人の碑
琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑
沖縄芝居顕彰碑
謝名親方利山顕彰碑
海鳴りの像
琉球箏曲先師顕彰碑
殉職警察職員慰霊之碑
新沖縄観光名所波の上碑
和光地蔵尊
わかさ波の上ビーチ通り
漆器のまち 若狭町の碑とチンマーサー
対馬丸記念館
館内の展示と館が用意しているワークブックに従って対馬丸事件を見ていく。
1941年 (昭和16年) 12月8日、日本軍がハワイの真珠湾アメリカ軍港やマレー半島のイギリス軍を攻撃したことに始まった太平洋戦争では、日本は当初勝利していたが、アメリカ軍の反撃により、翌年の夏頃から次第に敗戦を重ねるようになった。当時は軍国主義が沖縄にも強制され、学校の教育も軍国主義に従ったものに変わっていった。
1944年 (昭和19年) 年7月、サイパン島日本軍が全滅し、戦場は沖縄になる危険が大きいと判断した政府は、7月19日に、沖縄県や奄美大島、徳之島のお年寄り、子ども、女性を県外へ船で疎開させる沖縄県学童集団疎開準備要項が出された。沖縄からは 8万人を日本本土へ、2万人を台湾へ移す計画だが、すでに沖縄・鹿児島間の海域にはアメリカ軍の潜水艦が出没し、日本の船が攻撃を受け沈没していた。学校では日本軍からの圧力もあり、親たちに子どもの疎開を強く求めたが、親たちは疎開船の撃沈の危険性を感じていたので、疎開はなかなか進まなかった。しかし一方で、沖縄にとどまれば、アメリカ軍の攻撃を受ける危険もあり、親は、子どもの疎開には悩み、苦しい決断となった。子どもたちも、九州へ行けると遠足気分だったが、家族と離れることには不安な気持ちだった。
対馬丸での集団疎開は1944年 (昭和19年) 8月21日に行われたのだが、その後、親たちが心配していた米軍による那覇空襲攻撃が10月10日に行われている。当時の学校の生徒数の推移グラフがあるのだが、学童疎開は学校によりばらつきはあるが進んでいた。
1944年 (昭和19年) 8月21日の疎開へ出発する日には、早朝から那覇港の船乗り場に集められた子どもたちは、大人たちの不安をよそに「ヤマトへ行ける!」と遠足気分ではしゃぎ、真夏の太陽の下で乗船を待ち、夕方になってようやく乗船となった。小船で沖まで行き対馬丸の甲板までつりはしごで上がっていった。子供にとっては不安定な釣りはしごは恐怖だったそうだ。甲板に上がると安心感もあって、またはしゃいでいた。午後6時35分、疎開者1661 名を乗せ、親たちの見送る中、対馬丸、暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛を受けて長崎へ向けて那覇を長崎へ向け出発した。対馬丸は建造から30年もたった古い貨物船で、速度が遅く他の船に追いつくのがやっとだった。元々は軍に対しては軍艦での疎開を依頼していたが、それは認められず対馬丸となった経緯があった。
疎開者が船蔵にすし詰め状態で、換気も悪く、蒸し風呂状態だった。
対馬丸は出航した次の日、1944年 (昭和19年) 8月22日、夜10時ごろ、鹿児島県トカラ列島の悪石島、北西約 10km地点で、アメリカ軍の潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、10分足らずで沈没した。ボーフィン号は、対馬丸が中国の上海から日本兵を乗せて出航し、那覇港に到着する直前から攻撃しようとねらっており、この日も早朝から攻撃の機会をまっていた。速度の遅い対馬丸は、他の4隻の船についていくのがやっとで、一番の攻撃目標にされた。攻撃は、子どもたちなど乗船者の多くが寝静まった夜中の出来事であり、わずか10分足らずで沈んだため、ほとんどの人が船中から逃げ出せず取り残され、海の底へと沈んでいった。また、船から脱出できた人も、接近中だった台風の高波にのまれて、その多くが犠牲となっている。他の4船は米軍からの攻撃を避けるため、救助活動はを行わず去っていった。
若狭一丁目自治会事務所
海蔵院 (ケージイン、鏡の寺 カガンヌティラ)、花の代
なぐやけの碑
龍柱
火ヌ神、シーサー、下ヌ若狭ヌ井戸
雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)
龍柱がある大通りを渡った東側に若狭海浜公園が続き、公園の一画に雪ヌ崎 (ユーチヌサチ)という拝所がある。名のごとく、かつては岬だった。上ヌ毛 (ウィーヌモー) という高さ20m程の岩礁台地の突端にあった。若狭海浜公園は戦後埋め立てでできた公園で戦前は海のだった。中国からの冊封使節の記録には雪崎山 (せっきざん) と記されている。岩礁下部が波の浸食により削られ斧を意味するユーチ (ウーン) の形に似ていることから、ユーチヌサチと呼ばれ、「雪」の字が充てられた。上の毛は古くから拝所になっており、崖下には大きな洞穴があった。沖縄戦後、1951年 (昭和26年) に米軍による区画整理事業や泊港南岸地域埋立 (現在の前島3丁目、若狭3丁目一帯) でこの上ヌ毛の岩礁は埋立工事に使用する為岩が削り取られてしまった。1959年 (昭和34年) には残っていた雪の崎の岩礁も、ダイナマイト爆破 (写真左下は爆破直前のもの) により取り除かれた。上の毛跡地は若狭小学校 (1957年開校) になり、周辺は住宅地や公園が整備された。この後、訪れた若狭公民館にこの雪の崎を描いた絵画 (右下) が展示されていた。
現在の雪の崎は、爆破により残った岩の一部に拝所が置かれ、地域住民に拝まれている。
若狭土帝君
雪ヌ崎の岩の前には若狭土帝君が置かれている。祠や香炉 (数年前の写真には香炉があったが撤去されていた) は置かれておらず、美女留 (ビジュル)、弥勒神 (ミルクシン) 、土帝君 (トゥーティークン) と書かれた石板が置かれていた。ここに移設されたものだろう。
不屈館
雪ヌ崎 (ユーチヌサチ) の南側住宅街の中に、壁に大きく「不屈」と彫り込まれた建物があった。不屈館という。瀬長亀次郎の活動を集めた展示を行っている。沖縄の人ならだれでも知っている人物。瀬長は1907年、豊見城村我那覇に生まれ、二中 (現那覇高等学校)、東京順天中学 (現 順天中学校・高等学校) を経て旧制第七高等学校 (現 鹿児島大学) に進んでいる。在学中に社会主義運動に加わったことで放校処分とり、2年間の兵役を務めた後、労働運動の組織化を進めるが、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征している。戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報 (現 琉球新報) 社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営しながら、組織活動を指導し、沖縄人民党書記長となる。1950年、沖縄群島知事選挙に出馬し落選するが、次の1952年第1回立法院議員総選挙では最高得票数で当選を果し、同選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否し、米国民政府は公に好ましからざる人物として対応する。(写真左中で全員が起立宣誓の中最後列で座ったまま宣誓拒否している)
1954年10月、米国民政府は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕、懲役2年の刑の判決により再び投獄された。1956年4月の出獄後 (写真中下 瀬長の出所を祝う支援者)、同年12月に行われた那覇市長選に出馬し当選。瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する。これに対し米国民政府と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。、1954年の投獄を理由に、1957年に瀬長を追放し被選挙権を剥奪した。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米国民政府との攻防は、当時沖縄県民の強い支持を受け、現在でも同県内では祖国復帰運動に身を捧げた市民活動家であるとの評価が高い。
1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙では、沖縄人民党公認で当選、1972年の第33回衆議院議員総選挙でも人民党公認で2期目の当選を果たす。1973年に人民党は日本共産党と合流、以後は日本共産党公認として1986年の第38回衆議院議員総選挙まで通算7期連続して衆議院議員に当選した。その間、日本共産党副委員長であった。1990年、政治活動を引退。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。
この瀬長亀次郎を描いた「米軍が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」が2019年に公開されている。今でもインターネットで有料だが見ることができる。当時の佐藤栄作首相との痛烈な論戦は見ごたえがある。佐藤栄作の功績といわれる沖縄復帰に対しても、「基地存続のための返還」と鋭い指摘をしている。近年明らかになった佐藤栄作と米国政府との密約から見ると瀬長の指摘は当たっているだろう。「米軍のいない、基地のない台地となって初めて平和と言えるのだ」と力強く言い放った瀬長の言葉は沖縄の多くの人の気持ちを表している。人は瀬長を「不屈の人」という。瀬長は沖縄の人こそ「不屈の人々」と言っていた。この様な関係が現在の社会では見られないのは残念だ、
政府は世界地図を上から眺め、中国からの脅威に対しては地政学上沖縄が重要であるという。確かにそうだろう。沖縄の人の地図の見方は自分たちのすんでいる場所から見る。だから、政府と人民は意見が合わない。第二次世界大戦では軍部はやはり沖縄を地政学的にみて、本土決戦の防波堤、米軍は本土進攻への橋頭堡と見ていた。それが悲惨な沖縄戦となり当時の59万の県民のうち12万人が犠牲になっている。現在の日本政府と米軍にとっての沖縄は、第二次世界大戦の時と何ら変わっていない。中国が台湾に侵攻し、米軍が沖縄から参加すれば沖縄の基地は攻撃目標になり、同じことが繰り返される。多くの人は日本の為というが、面と向かって沖縄で苦しんだ人にそんなことが言えるだろうか?
若狭公民館
若狭の住宅街の中心地に若狭公民館がある。図書館も兼ねており、二階は集会場になっており、若狭の1丁目から三丁目で使っている。
先に紹介したが、ここに雪の崎の絵がある。画家の野津唯市さんが寄贈したもの。「懐かしい未来 沖縄」画集を発表している。図書館で借りて眺めてみた。昔の沖縄はこのようなものだったのだ。形は変わっていくのだろうが、こんな未来があれば人は幸せになるのにという想いがあるのだろう。
夷堂、若狭町村学校所/役所跡
若狭の南側、松山公園の北の住宅街の中に、琉球王府時代の役場、学校跡がある。この場所では琉球と諸外国との交渉や条約締結が行われたという。創建年は不明だが、1830~40年頃にせっちされてと考えられている。村学校所は、士族子弟の初~中級の教育機関で、首里、那覇等の各村毎に建てられ、首里に14ヶ所、那覇に6ヶ所、泊に1ヶ所 (泊村学校所) の計21校となっていた。士族の子弟は7~8才で入学し、14~15才までの間、この学校所で勉強した。教科は三字経の読み書きから、二十四孝、小学、四書へと進んだ。廃藩時の同校には教師1人、生徒82名がいた。各村学校は役所も兼ねており、中取1人、筆者2人がいた。王府末期、異国船渡来に際しては、異国人に対し、泊村や若狭町村の学校所が、泊公館、那覇公館として応対窓口となった。特に那覇公館 (若狭町村学校所) はペリー等と王府高官との諸交渉が行われた現場で、琉米条約、琉仏条約、琉蘭条約が締結されている。この場所には夷堂の拝所が置かれている、戦後の区画整理で近くから移したものだそうだ。
夫婦瀬 (ミートゥージ) 公園
昔、仲の悪い夫婦がいた。毎晩喧嘩ばかりして、夫は妻を顧みず、妻は夫に嫌気がさしていた。そのため、この夫婦を元に戻らせたいと願う人々が、ある夜二人を呼び出して、船に乗せてこの岩の上まで連れて行った。二人はいきなり何もない岩の上に連れて行かれた上に、波が激しく打ち寄せ、危険なことこの上ない状況に置かれてしまった。そこで岩の上でいがみあっていても埒があかないと感じた二人は、お互いに優しさを発揮して、朝になって迎えが来る頃には、すっかり仲よくなっていた。
明津浦 (アカチラ)
夫婦瀬 (ミートゥージ) 公園はかつては旧若狭町村の北東部の海岸砂汀地で、明津浦 (あかつうら)、アカツラと呼ばれ、更にアカチラとなった。この辺りの海岸付近はアカチラバルとよばれていた。東の那覇潟原 (塩田: 現潮渡橋一帯) から北の 雪の崎 (ユーチヌサチ) までは砂汀地が続き、歩いて渡れたという。この道をアカチラ道と称していた。 琉球王国時代 には、首里の士族が人目をはばかり、ここを歩いて辻の遊郭に通ったという。戦後の都市計画により、 1950年代に潟原を含む海岸一帯の埋立工事が行われ、 住宅地 に変わっている。
若狭市営住宅
夫婦瀬公園の海岸側は集合住宅になっている。住宅地ガ建設された当時の写真がある。左の写真の左に夫婦岩が写っている。
現在の集合住宅は建て替えられて、敷地の一部は若狭公園となって、以前より住環境は改善されているようだ。
重民 (じゅうみん) の拝所
夫婦瀬公園の奥に、重民町 (じゅうみんちょう) 住民が、戦後間もなく建立し崇拝してきた三拝所が経年により老朽化した事から、地域住民、垣花親和会及び近隣企業等から寄付金により、ここに合祀し拝所を改築している。戦前、この地域は重民町だった。重民町は現在の若狭3丁目、前島3丁目にまたがっていた。1951〜53年頃米軍援助で泊港を浚渫した際に埋め立てられた地域で、町名は当時の市長当間重民にちなみ付けられた。住民は戦後軍用地に接収された垣花町の出身者が多く住んでいた。拝所の側面に垣花親和会の寄付と書かれていたので、なぜ、かなり離れた地域の垣花?と疑問を持ったのだが、このような経緯があったのだ。
以前に建てられていた拝所の写真が残っていた。
弁天負久知姫神
若狭めおと自治会 (若狭集会所)
若狭には多くの拝所や石碑、名勝があり、二日間に渡って見学をした。一つ一つを調べながら巡ったので、一日では無理だった。また、レポート編集にもかなり時間を使い、アップロードがおくれてしまった。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- 若狭1丁目自治会50周年記念誌 50年のあゆみ (2014 若狭1丁目自治会)
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