Okinawa 沖縄 #2 Day 215 (25/09/22) 旧真和志村 (25) Ameku Hamlet 天久集落
旧真和志村 天久集落 (あめく、アミク)
- 那覇クルーズターミナル
- 天久宮
- 聖現寺
- 古拝殿 (フルフェーリン)
- 羊順毛 (ウェンジュンモー)
- ジーチ金満墓 (?)
- 久場森御嶽 (クバムイウタキ、天久之小嶽)
- 天久グスク
- 大御嶽 (ウフウタキ、天久之嶽 アミクヌタキ)
- 内御拝 (ウチウグヮン)
- グスク火ヌ神
- 按司添御墓 (アシジーウハカ)、居神・根神 (未訪問)
- 天久守護之神 天久村台の神座
- 天久守護之神の井戸合祀所
- 中臣幸乙女王御神 (なかしんこうおとめおう)、浮島神社跡
- 崎樋川貝塚
- 崎樋川 (サチフィジャー)
- 天久臣乙女王神の御嶽 (ガマ樋川嶽)
- 潮花司 (スーバナチカサ)
- 坂中樋川 (フィラナカヒージャー)
- 先樋川べーべー嶽 (天龍大御神)
- シーシンサー岩
旧真和志村 天久集落 (あめく、アミク)
天久集落は元々は西原間切に属していた。第二尚氏第13代尚敬王の時代 (1713年 - 1751年) には真和志間切に移管されていた。1908年 (明治41年) まで真和志間切に属し、当時は現在の天久、上之屋、おもろまち2丁目と3丁目、泊3丁目を含んでいた。かつて天久は上泊 (イードゥマイ) と呼ばれ、下泊 (シチャドゥマイ) が現在の泊だった。大正5年に上之屋が天久から独立し行政区となっている。天久は現在は那覇市の本庁管轄区となっている。
天久の人口は沖縄戦の犠牲とその後の居住地が度々変わったことで戦後は大きく減少していた。その後人口が増加に転じて、米軍に接収されていた元集落地が返還され、牧港住宅地として開発された後は急速に人口は増加している。現在では戦後に集落を形成した字天久地区よりも、牧港住宅地の天久一丁目と二丁目の人口の方が多くなっており、この地は新都心として人気の高い地区で現在でも人口が増加傾向が続いている。
旧真和志村の他の地位糸比較すると、明治時代は比較的人口は多い地域だったが沖縄戦の影響が大きく戦後は人口の少ない地域になり、それは牧港住宅地の完成まで続いた。この住宅地が完成した後は、人口が激増したことで、人口の多いグループに戻っている。
- 御嶽: 天久之嶽 (推揚森威部 オシアゲムイ)、潮花ツカサ (ヨリアゲ森威部)、天久寺嶽 (宇多志森威部 オダシムイ)、天久之小嶽 (古場森威部コバノムイ)、多和田之嶽 (阿本司雪柄君威部 アムトツカサヨキガラキミノ)、多和田巫火神 (多和田マキウネゴンコダマノ火鉢)、茗苅嶽 (茗苅森金威部 メカルムイカネノ 在 安謝)、巣壷禄嶽 (スグルク 中西嶽司古他竈威部 タケツカサコダガマノ 在 安謝)
- 殿: 潮花司、天久殿 (殿火の神、天久村台の神座に合祀)、天久城殿 (グスク火ヌ神)
- 拝井泉: 平中泉 (坂中樋川)、崎泉 (崎樋川)
琉球王統時代には村祭祀は多和田ノロによって執り行われていた。
天久集落で戦前まで行われていた祭祀、村行事は下記の通り
沖縄戦での天久と戦後
- 5月初旬 米軍は安謝川を突破し、天久、上之屋から泊を攻撃
- 5/11 安謝まで進出、安謝川を渡り天久台地北端に米軍進出
- 5/12 -13 天久台地が米軍に占領されている。
天久集落訪問ログ
那覇クルーズターミナル
天久宮
往古、銘苅村に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は熊野権現なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神弁才天なり。」との神託があった。
泊ユイヤギ御嶽がある一階には三日月御井 (ミカジキウカー) が保存されていた。
天久山聖現寺
古拝殿 (フルフェーリン)
羊順毛 (ウェンジュンモー)
- 西 (イリ) の香炉は琉球に甘藷や甘蔗を伝えた唐へのお通し
- 東 (アガリ) の香炉は沖縄の祖神アマミクの居住地と伝わる玉城ミントングスクと沖縄稲作発祥地である受水走水へのお通し
- 北 (ニシ) の香炉は琉球開闢の御嶽がある今帰仁と芋を沖縄に広めた野国総管へのお通し
ジーチ金満墓 (?)
久場森御嶽 (クバムイウタキ、天久之小嶽)
天久グスク
大御嶽 (ウフウタキ、天久之嶽 アミクヌタキ)
内御拝 (ウチウグヮン)
グスク火ヌ神
按司添御墓 (アジシーウハカ)、居神・根神 (未訪問)
天久公民館
この国道58号線は戦後は軍道1号線として米軍基地間の輸送や移動に使われていた幹線道路だった。戦前の天久集落はこの道路の東側にあり、公民館がある道路西側には民家は無かった。ここの天久集落住民が住み始めたのは比較的新しく、戦後、元の集落は米軍に接収され、その南に住み始めたが、1950年の土地収容令により米軍住宅として再度強制接収され、この公民館がある潮満原 (ウスミチバル) に住みはじめた。元の天久集落はすっぽりと米軍住宅内になり、整地され昔の集落は完全に消滅してしまった。1987年に米軍住宅地は返還され、その後那覇新都心として開発が行われて、1997年から部分的に一般開放が始まっている。
天久守護之神 天久村台の神座
- 天久ノロ神の香炉には九代、十代、十八代前のノロが祀られている。十八代前のノロは、尚真王の時代に任命され、首里「真殿内」に所属していた。神として祀られて神名は大主乙樽、諱は中玉依姫と呼ばれている。
- 七ツの火ヌ神と神火ヌ神は村の農耕の祭りや、そのほかの祭祀のとき、現地の祀られている神々へのお通し (遥拝) をするための火ヌ神。
- 伊美御嶽は4~5世紀頃、天久海岸一帯に居住していた貝塚人である祖霊神祀った御嶽で、18世紀中葉、第三回目の天久地縁集団の村をつくったときに創設された御嶽。(琉球国由来記には記されていない)
- 原川毛御嶽は地縁集団 (三ツの門中) の集落中央の遊び庭 (アシビナー) にあった。 村の祖霊神を祀ったものではなく、村人の融和目的のためににつくられた。雨乞いの神行事も行われ、村の八月の十五夜の遊びはこの場所で昭和初期頃まで行われていた。
- 花城御嶽は大正15年頃まではナーザトウタキとも呼ばれていた。 昭和初期になって、このあたりに住んでいた縁地集団の村に村屋がつくられ、この後方敷地にあったナーザトウタキを、村の前方の蔵佐山に移して花城御嶽と呼ぶようになった。この御嶽は学問の神様ということで、琉球王統時代、首里王府に職を得た人が花城姓を賜っていた事から花城御嶽と呼ぶようになったという。
- 地頭火の神は天久の殿にあった。天久を管理していた官僚 (地頭代か?) が作らせて祀っていた。多くの集落で地頭火の神を見かけるが、首里より派遣された地頭代がその権威付けのために作っていたそうだ。
- 殿火の神は天久ヌ殿とも呼ばれている。ウマチーの際に、この場所に神アサギをつくって、多和田ノロアムシラレにより祭祀が行われていた。
天久守護之神の井戸合祀所
中臣幸乙女王御神 (なかしんこうおとめおう)、浮島神社跡
崎樋川貝塚
崎樋川 (サチフィジャー)
天久臣乙女王神の御嶽(ガマ樋川嶽)
潮花司 (スーバナチカサ)
尚徳王時代の1466年に、王、自みずから奄美の喜界島を征伐して、凱旋しました。住民の多数の出迎の中から、一人の婦人が、
王に、手を洗う清水を差上あげました。
すると王が言うことには、
「そなたは、何という者か。」と。
「私は、呉氏宗重 (ごうじそうじゅう) の妻でございます。
御主加那志前 (うしゅがなしーめー) の凱旋をお聞きして、海路遙々の御不自由を思うにつけ、取り敢あえず、新しい水で手を清きよめて頂いただこうと差上げた次第しだいでございす。」と。
尚徳王は、その言葉を聞いてお喜びになり、日を改めて、呉氏夫妻を城中に招きました。そして、宗重を泊地頭の職に、妻を泊大阿母潮花司に任にんじたのでした。
なお、この職名は、その時から始まったとも言われています。
第二尚氏尚清王の時代、1537年 (尚清11年) の大島征伐で、大島の酋長のひとりの与湾大親が討伐され、その子供達は、軍船で沖縄に連行され泊港で解放された。子供たちは歩いて川海岸に辿りつき原川家の始祖の原川大主により助けられたと伝わり、ここに拝所がつくられたという。
坂中樋川 (フィラナカヒージャー)
先樋川べーべー嶽 (天龍大御神)
シーシンサー岩
ハイネのスケッチにはこの辺りから泊方向が描かれている。塩田風景が見られる。
天久の文化財についてはじっくりと見たので帰りは、いつもよりも遅くなり自宅に着いたのは6時半ごろだった。随分と日が短くなっている。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 天久誌 (2010 天久資産保存会)
- 旧天久村農民の生活 (2013 金城勇徳)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 青い目が見た「大琉球」(1987 ラブ オーシュリ)
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