Okinawa 沖縄 #2 Day 214 (23/09/22) 旧中城間切 (09) Toma Hamlet 当間集落

旧中城間切 当間集落 (とうま、トーマ)

  • 中城村役場
  • 旧県道、沖縄馬車軌道
  • 西前ン田小 (イリメンターグヮ) サーターヤー跡
  • 当間公民館、当間松 (トーママーチュー)
  • 旧中城村役場跡、仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) サーターヤー跡
  • ノロ殿 (ノロードゥン)
  • ヌール道
  • 組のサーターヤー跡
  • 仲門前ヌ殿 (ナカジョーメーヌトゥン)
  • 西仲門の井戸 (イリナカジョウノカー) (未訪問)
  • 山田ヌ殿 (ヤマダヌトゥン、ヤン殿内之殿)
  • 山田ヌ井戸 (ヤマダヌカー) (未訪問)
  • 樋川 (ヒージャー)、樋川井 (ヒージャーガー)、仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) サーターヤー跡 (未訪問)
  • クボー御嶽
  • 崎浜の井戸 (サチハマヌカー)
  • 第13小飛行場跡 (トンボグヮーの飛行場)
  • 圃場整備事業碑
  • 龍宮
  • 中城村役場仮事務所跡
  • 当間ヌ下 (トーマヌシチャ) 一時収容所跡
  • 沖縄戦日本軍陣地跡

三つの台風が過ぎ去った後は、天気は回復して快晴となった。今日は中城村の9番目の集落になる当間を訪れる。




旧中城間切 当間集落 (とうま、トーマ)

当間は、中城平野の中央部に位置し、西側丘陵斜面部から国道を越え、東側の平野部に大きく開けた区域である。東は中城湾に面し、北は屋宜、南は安里、西は北上原と新垣に接する。当間は、久保原平原 (クボーバル)、犬川原 (イヌガーバル)、佐久川原 (サクガーバル)、前原 (メーバル)、比嘉田原 (ヒジャタバル)、浜原 (ハマバル) の小字から成り立っている。琉球王国時代の当間村は、北上原の一部となっている榕原 (カジバル)、岩南原 (ワカナンバル) が含まれていた。

廃藩置県以後、当間の海岸近くの浜原に、仲松姓 (洪氏) の人たちが屋取を形成し、髙江洲屋取 (タケーシヤードゥイ)、または、当間の下 (トーマヌシチャ) と呼ばれていた。
海岸近くに家屋が並んでいるため、大潮や台風の際には潮水が流れ込むなどの被害を受けた。戦後も被害は続き、潮垣道より西側へ移り住んだ家もあった。戦中から戦後にかけての一時期は第二当間と称し、会計等も別々になっていたが、行政区として独立することはなく、現在では、屋取の人たちもムラの行事である綱引に参加するなど、字当間と一体となっている。
当間の人口は沖縄戦で激減してが、その後はコンスタントに増加しているが、沖縄戦以前の人口に戻ったのは、1990年代と思われる。その後も人口は伸びてはいたが、2010年代に入ると一時期人口は減少したが、近年は、当間が中城村役場が置かれ、行政の中心地と位置付けられたこともあり、微増傾向となっている。

中城村の他の地域と比較すると人口は終始真ん中のグループに属している。

琉球国由来記に記載されている拝所
  • 御嶽: なし
  • 殿: ヤン殿内之殿 (山田ヌ殿)、玉城之殿 (在 屋宜)

当間集落での祭祀については、琉球王統時代は屋宜ノロによって執り行われていたが、現在でも継続している祭祀はかなり少なくなっている。文化財巡りをしても、整備されている文化財は限られており、祭祀が亡くなっていることが反映されているように思えた。


当間集落訪問ログ



中城村役場

先日訪問した安里集落から国道329号線を東側に渡った所に中城村役場がある。ここは安里集落と当間集落の境界線になる。琉球王統時代に間切番所が中城グスク内に置かれて、廃藩置県後、村役場となり1944年 (昭和19姉)の十・十空襲時に書類等は民家や壕に移し、沖縄戦の地上戦で焼失後、村役場は、さまざまな場所に移っていった。2020年末に新庁舎がこの地に建設されている。

旧県道、沖縄馬車軌道

先日訪問した安里集落から国道329号線の東側に通っている旧県道を走る。旧県道は部分的には国道329号線に合流している。戦前は国道は無く、この県道が幹線道路だった。
旧県道は1914年 (大正3年) ~ 1916年 (大正5年) には与那原-泡瀬間に敷設された沖縄軌道が通っていた。農家はこのトロッコ軌道を利用して、サトウキビを西原製糖工場に搬入していた。サトウキビの製造時期以外はトロッコの上にカバーを敷いて20名くらいの客を乗せるキドーと呼ばれる乗り物が通っていた。太平洋戦争が激化する1944年 (昭和19年) ごろまで運行していた。

西前ン田小 (イリメンターグヮ) サーターヤー跡

旧県道を北に進んだ所に当間集落のサーターヤーの一つの西前ン田小サーターヤー跡がある。戦前の当間集落の南の外れになる。このサーターヤーの西側は三角形の畑地で、ミジャレーヌサンカクと呼ばれ、収穫したサトウキビの集積所として利用され、ここから旧県道に敷設されたトロッコに積み込み、馬に引かせて西原製糖工場へと運んでいた。

当間公民館、当間松 (トーママーチュー)

旧県道沿いに当間公民館がある。公民館敷地から国道329号を含むその上方一帯は、かつて、松の大木が茂る松林になっており、当間松 (トーママーチュー) と呼ばれ、地元民の憩いの場所だった。 ここには当間駅があり、総延長17.7kmの泡瀬から与那原までの沖縄軌道のほぼ中間地点 (泡瀬から1時間半ぐらい) にあたり、この当間松 (トーママーチュー) は、馬とトロッコムチャー (馭者) が交代する交換所になっており、その際には乗客も休憩し、馬に餌を与えていたそうだ。公民館の前はゲートボール場になっている。かつての倶楽部と呼ばれた村屋 (ムラヤー) は現在の場所より少し上の国道329号線あたりにあった様だ。

旧中城村役場跡、仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) サーターヤー跡

当間松 (トーママーチュー) の北隣、旧県道沿い (現在の公民館の北側) には、1948年 (昭和23年) 5月に奥間から旧中城村役場が移され、その北側には屋号 仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) のサーターヤーがあった。
旧中城村役場跡あたりには中城村観光協会があり、サーターヤー跡は空き地で、整地工事が終わった後で何か建設されるのだろう。

ノロ殿 (ノロードゥン)

当間区公民館の向かい、国道329号を渡った所、かつての当間松 (トーママーチュー) にノロ殿 (ノロートゥン) が置かれている。戦前は現公民館敷地のゲートボール広場の南側にあり、旧県道沿いから石畳道が続いていたそうだ。国道建設に伴い現在地に移設されている。当時、この拝所がある一帯と呼ばれ松林になっていた。祠は二つ置かれ、向かって左の祠には火ヌ神と文字が消えていてわからない神が祀られ、右の祠にも文字が消えてわからない神が祀られている。ウマチーの時には、屋宜ノロによって祭祀が行われていた。

ヌール道

国道329号線の西側がかつての当間集落になり、小さな集落で丘陵の斜面に民家が建っている。ノロ殿から集落への道があり、その一つはヌール道と呼ばれている。(6)ヌール道
5月 (グングヮチ)、6月 (ルクグヮチ) のウマチーの際に当間での祭祀を終えた屋宜ノロが安里へ向かう際に使った道と言われている。この道を通り、組のサーターヤーを通り、現在の国道329号だが昔は小径だった道を通ってクボー御嶽に向かったそうだ。

組のサーターヤー

ヌール道を進み集落南西側端の川沿い付近には、戦前は当間集落の下組 (シチャグミ)、中組 (ナカグミ)、上組 (イーグミ) のサーターヤーが三つ並んであった。

仲門前ヌ殿 (ナカジョーメーヌトゥン)

ヌール道の一本北側の道沿いに広場に祠が置かれている。舜天王統三代で最後の義本王の三代目が祖と伝わる屋号 仲門 (ナカジョー) の屋敷の前にあるので仲門前ヌ殿 (ナカジョーメーヌトゥン) と呼ばれている。旧暦2月1日に行われるニングヮチャーの時に拝まれている。旧2月2日のカンカン祭り (シマクサラシー) では、牛汁を供えて祈願を行う場所だった。地元の人からは、二月ヌ殿 (ニングヮチャーヌトゥン) または、 単に前ヌ殿 (メーヌトゥン) とも称されている。この広場のセメントで固められている場所 (写真左上) は溜池 (クムイ) で 防火用として使われていた。

西仲門の井戸 (イリナカジョウノカー) (未訪問)

屋号 仲門 (ナカジョー) の道向かいはその分家の屋号 西仲門 (イリナカジョー) で、その敷地内には村の共同井戸の村井 (ムラガー) だった西仲門の井戸 (イリナカジョウノカー 写真右) があるそうだが、人が住んでいるので塀の外から覗いたが、見つからなかった。

山田ヌ殿 (ヤマダヌトゥン、ヤン殿内之殿)

集落北西側端の丘陵斜面に山田ヌ殿 (ヤマダヌトゥン 写真右下) がある。琉球国由来記にあるヤン殿内之殿とも推測されている。この付近は当間の発祥地と言われている。ここには集落の村立てを行った屋号 山田の屋敷跡になる。戦前まで、この辺りまで民家がぎっしりと建っていたのだが、現在では、ほとんど民家は無く、集落は下方の半分ぐらいの規模になっている。山田家では綱引の綱や灯籠などを保管し、祭りの中心的存在だった。綱引きの際には、ミチジュネーをして、山田ヌ殿に向かい、ここでガーエーをしてカリー (嘉例) をつけ、祈願を行っていた。
山田ヌ殿の向かって左側にも祠 (左下) があるが、もともと、同敷地西側の道向かいの畑の中にあったものを現在地に移動させたといわれている。

山田ヌ井戸 (ヤマダヌカー) (未訪問)

山田ヌ殿の敷地内に山田ヌ井戸 (ヤマダヌカー) があると資料にはあった。カブイ (石積みの屋根) があり、今も水を湛えている。水源は、 さらに上方にあるヒージャーガーからきている。現在、山田家の敷地だった場所では地滑り防止の工事が行われており、地形が随分と変わっている様だ。工事場所にあるのか、工事で移設されようとしているのか、探すも見つからなかった。下の写真は資料に掲載されていたもの。

樋川 (ヒージャー)、樋川井 (ヒージャーガー)、仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) サーターヤー跡 (未訪問)

資料には山田ヌ殿の北側近くに樋川 (ヒージャー) があり、更にその奥に源泉となる樋川井 (ヒージャーガー) もあるとなっているが、両方とも見つけることが出来なかった。地図ではこの辺りになる様だ。この二つの井戸の間には仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) のサーターヤー跡がある。公民館のところにも仲前ン田小 (ナカメンターグヮ) サーターヤー跡があったので、この家では二つもサーターヤーを所有していたことになる。

資料に写真が載っていた。樋川 (ヒージャー 写真左) は、かつては、正月の若水に利用されており、水量も豊富で2mほどの深さがあり、子供たちが水浴びをして遊んだという。戦後この樋川 (ヒージャー) の水を利用するため、山田ヌ殿の敷地にタンクを設置して、集落の三ヵ所にパイプを通し、簡易水道として利用していた。樋川 (ヒージャー) の西側の奥には源泉である樋川井 (ヒージャーガー 写真右) があり、戦前は、正月の若水として も利用されていたた。

クボー御嶽

当間集落と安里集落の境の丘陵斜面にある丘に安里集落が拝んでいるクボー御嶽がある。
安里集落ではこの御嶽までは来ずに、安里集落側の丘の麓から遥拝している。安里集落からの直接の道は草木で覆われて無くなってしまい、当間経由だと随分と遠回りになる。それで遥拝している。クボー御嶽は琉球国由来記にあるコバウノ嶽 (神名: コボウ森御イベ) と小嶽 (神名: 中里ノ御イベ) にあたり、「右七か所、毎年三八月、四度御物参之時、有祈願也。右十一ヶ所、屋宜巫崇所。」と書かれている。


国道329号線西側の集落内のスポット巡りは終わり、次は国道の東の海岸側のスポット巡りに移る。



崎浜の井戸 (サチハマヌカー)

村道潮垣線からの農道沿いの農地内に崎浜の井戸 (サチハマヌカー) があるそうだ。拝井なので道があると思えるのだが、それらしきものは見当たらない。近くで農作業をしていた人に聞くと、拝所らしきものはあるそうだが、草が生え放題で見えなくなっているそうだ。今では拝みに来る人もいないという。戦前にはこの辺りは石山になっており木々が生 えており、その中にあった井戸は生活用水としても利用されていたそうだ。資料に掲載されていた写真 (下) ではまだ拝所として保存されていた様だ。

第13小飛行場跡 (トンボグヮーの飛行場)

崎浜の井戸があるあたりのサトウキビ畑には、戦後、米軍が建造した約400mほどの滑走路の小型飛行場があったそうだ。沖縄戦中、米軍は当間の比嘉田原に、小型の観測機 (トンボと称していた) の滑走路などの基地を建設した。周辺にはこの小型飛行場へ燃料を補給するためのガソリンタンクがいくつも設置されていた。
米軍偵察機のL-5センチネルが離着陸しており、この偵察機は住民から「トンボ」と呼ばれ、この飛行場はトンボグヮーの飛行場と呼ばれていた。この飛行場は沖縄戦の始まった1945年(昭和20年) 4月から5月の間に建設されたようで、まだ南部で戦闘が続いていた時期で、ここから南部方面を偵察していたと考えられる。
当間の集落は戦災による被害ではなく、米軍が軍用地とするために家屋などはほとんど焼き払われてしまった。一方、髙江洲屋取は、被害を受けることなく、終戦後もほとんどの家屋が残っていた。高江洲屋取一帯は、1946年 (昭和24) 年1月、各地の避難先から帰村した村民を受け入れる収容所となり、4月には中城村仮役場事務所や中城村農業組合事務所が置かれた。滑走路跡地の一部を利用して中城中学校も開校した。中城村の戦後復興は当間から始まった。

沖縄戦では当間集落住民の334人が犠牲になっている。沖縄戦直前の当間の人口のデータが見つからなかったのだが、700人程ではなかったろうか? 約半数の住民が犠牲にいなったのではないかと思える。



圃場整備事業碑

飛行機跡の近く農地の中に圃場整備事業碑が置かれていた。
昭和58年から平成11年にかけて、奥間地区から泊地区までの農地改良が行われている。当間は国道329号線から海岸までは殆どが農地になっているが、中城村では村役場や図書館、公園などを建設して村の行政の中心地として位置付けをしている。

龍宮

崎浜の井戸の近く、村道吉野浦線沿いには戦前から龍宮神として当間の人たちが拝んでいた龍宮を祀った祠が置かれている。Google Map では当間神社となっている。

中城村役場仮事務所跡

沖縄戦で、中城グスクにあった村役場は焼失し、戦後、1946年 (昭和21年) 4月4日に、村役場の機能が再開した。当時、村民が多く収容されていた当間ヌ下 (トーマヌシチャ) の一時収容所近くの戦火を免れた屋号 川又下の民家 (現在は沖縄すば屋になっている) に中城村役場仮事務所を設置し4月20日に事務が開始されている。ここでの業務は約2ヶ月で、村役場は6月13日に奥間へ移転している。 

当間ヌ下 (トーマヌシチャ) 一時収容所跡

戦後、1946年 (昭和21年) には沖縄各地に収容されていた村民の帰還が始まる。1月20日に 帰還準備を行う建設隊がこの当間又下に到着し、一時収容所の建設され、焼け残った民家やテントに収容された。後にツーバイフォー の標準ヤーと呼ばれた住宅が建設されている。一時収容所のテントや標準ヤーは台風でたびたび倒壊や浸水が起こり、1948年 (昭和23年) 10月のビリー台風では沖縄全土で全半壊の建物は25,000棟以上にのぼっている。この地域には、当間集落住民の一時収容所 (第13飛行場近く) とそれ以外の中城村住民の一時収容所 (海岸近く) が置かれていた。この辺りには屋取集落が形成されいた。髙江洲屋取 (タケーシヤードゥイ)、または、当間の下 (トーマヌシチャ) と呼ばれていた。当間には一時収容所は2ヶ所あり、一つは海岸近くに置かれ、当間以外の中城村住民が住んでいた所。
もう一つは当間集落住民が住んでいた場所になる。

沖縄戦日本軍陣地跡

当間の海岸沿いには、沖縄戦当時には二つの日本軍陣地が置かれていた。一つは吉の浦公園近くにあった。
北側の屋宜地区近くにあった日本軍陣地跡

これで当間集落散策は終了。誰もいない海岸でしばし休憩をして帰路に着く。

参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 8 当間 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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