Okinawa 沖縄 #2 Day 213 (20/09/22) 旧中城間切 (08) Asato Hamlet 安里集落

旧中城間切 安里集落 (あさと、アサトゥ)

  • サーターヤー跡
  • 安里公民館
  • 根屋 (ニーヤ)
  • アシビナー跡
  • 殿小 (トゥングワー)
  • 前ヌ村井戸 (メーヌムラガー)
  • クボー御嶽
  • 安里川 (アサトゥガーラ)
  • 山小 (ヤマグワー)
  • 村井戸 (ムラガー)
  • 酒井戸 (サキガー)
  • 護佐丸歴史資料図書館
  • 安里のテラ
  • 安里のテラのカー
  • サーターヤー跡
  • 吉の浦公園
  • 吉の浦会館
  • サーターヤー跡 (吉の浦公園 野球場)
  • 吉の浦公園ビーチ


西原町の内間集落の見学を終えて、国道329号線で中城村の安里集落に向かう。


旧中城間切 安里集落 (あさと、アサトゥ)

安里は、中城平野部の中央に位置し、西側が丘陵斜面部となり、国道329号をはさんで、東側が平野部となっている。東は中城湾に面し、北は当間、西は北上原、南は奥間に接している。安里は、桃原 (トウバル)、下原 (シチャバル)、西原 (イリバル)、後原 (クシバル)、 前原 (メーバル) の5つの小字から成り立っている。 

桃原、下原、後原には住宅地が広がり、前原の北側は墓地地帯となっている。かつての安里村は、現在の北上原の東坂田原、砂川原、 西坂田原を含めた広さだった。戦後、北上原が行政区として独立している。安里集落の始まりは後原にある殿小 (トゥングヮー) を中心に集落が広がったと伝えられている。

廃藩置県後、潮垣道と現在の安里中央線の十字路から西側に、前原( 白氏) が最初に定住し、その後、十字路周辺に屋比久 (吉氏)、知名小(向氏)、喜屋武小 (水氏)、宇小根 (朝氏) が、南側の浜辺付近に平安名がそれぞれ移住してきた。前原が最初に移住したことや、 その系統の家が多いこと から前原小 (メーバルグヮ) 屋取、または安里ノ下 (アサトゥヌシチャ) と称されていた。


沖縄戦直前の人口データは見つからなかったのだが、戦後の1946年の人口は163人と大正時代の人口に比べてほぼ半分になっている。これは戦争の影響もあるだろう。戦没者率も分からないのだが、かなりの人が亡くなっているようだ。もう一つの原因は、安里に属していた東坂田原、砂川原、 西坂田原が、戦後に北上原として独立行政区となった事もあるだろう。その後、人口は増えていくが、大きな人口増加はない。現在の人口は409人で、人口がピークだった2001年の474人から14%も減少しており、明治時代の人口にも及ばない。この人口減少は今後も続いていく傾向にある。

中城村の他の地域と比べると明治時代は村の中で最も人口の少ない字だった。その後の人口の伸びは他の地域に比べても低く、常に人口の少ないグループとなっており、現在では南浜地区に次いで人口の少ない地域となっている。


琉球国由来記に記載されている安里集落の拝所は、

  • 御嶽: コバウノ嶽 (神名: コボウ森御イベ)、小嶽 (神名: 中里ノ御イベ)
  • 殿: 里主所之殿 (殿小)
  • 拝所: 里主所火神 (殿小)
この拝所では屋宜ノロによって祭祀が執り行われていた。
安里で行われている祭祀行事は以下の通り
左から山小、根屋、殿小、根屋前の広場での祭祀の様子


安里集落訪問ログ



サーターヤー跡

国道329号線から安里集落に入る。その集落入口には戦前はユージェーとニシジェーの二つのサーターヤーがあった所になる。ニシジェーには80斤 (約48kg) のヒラグヮー (平らな石) と100斤 (約 60kg) のマルグヮー (丸い石)、 そしてもう1つの3つの力石 (チチイシ) が置かれ、青年達が集まり力試しをしたそうだ。 集落は国道の西側にあり、西側はサトウキビ畑だった。サーターヤー跡は現在は空き地になっている。安里には屋取を合わせて6軒のサーターヤーがあり、親戚または友人同士でサーターグミを作り営んでいた。

安里公民館

集落に入ると安里公民館がある。ここは集落の南の端になる。この場所は戦前はサーターヤーだった。1944年 (昭和19年) 頃に、このサーターヤー跡地に倶楽部と呼ばれた茅葺きの村屋が建てられていた。倶楽部ができる以前は、村の根屋の名嘉屋敷で会合を行なっていた。安里集落は小さな村で、村の拝所は集落後方の丘陵斜面にある。この公民館に自転車を停めて、集落の拝所をめぐる。


この公民館の裏手側は沖縄戦当時、集落住民の避難壕が10ヶ所程あったそうだ。

沖縄戦では安里住民の186人が犠牲になっている。沖縄戦直前の人口データが見つからず村のどれほどの割合が犠牲になったのかは不明だが、1919年 (大正8年) には306人だった。ここからそれ程増減がないとすると、少なくとも50%以上が犠牲になったのではと思える。1945年 (昭和20年) 4月1日に読谷、北谷海岸に上陸した米軍は日本軍の抵抗も少なく、4月2日には日本軍が守る丘陵地まで侵攻し、3日には部隊は丘陵を進む部隊と中城湾海岸を進む部隊に分かれていた。4日には安里集落のすぐ北側の中城グスク、新垣まで侵攻していた。安里集落の背後の丘陵地は Pinacle 161.8高地と呼ばれ日本軍が陣地を設けていた。この場所も4月5日から6日にかけて激戦地となった場所だ。安里集落もその頃に戦禍に巻き込まれたと思える。この頃にどれだけの住民が疎開していたのかは不明だが、日本軍の陣地構築に住民は駆り出されて、疎開指示は随分と遅れ、日本軍が島尻への撤退時に行動を共にした多くの住民が南部で犠牲になっている。安里集落も似た様な状況だったのではと思う。

根屋 (ニーヤ)

安里公民館から北西側、集落の上方に神屋 (カミヤ) がある。 安里集落の創始者である根屋 (屋号:名嘉 ナーカ) の屋敷跡と言われている。名嘉は戦後絶えてしまっており、空き地になっている。神屋の中は、戸が閉まっており、中は見れないが、資料には写真 (右下) が掲載されていた。6つの香炉と火ヌ神が祀られている。この神屋には祭りで使用する旗頭や太鼓やボラなども保管され、神屋 (カミヤ) の前の広場では、旧暦7月に行われる豊年祭で旗頭を披露されたという。現在は自治会が管理し、年中行事で拝まれている。


アシビナー (遊び庭) 跡

根屋の屋敷跡の上部は村のアシビナーだった。地図にあるアシビナーの場所は広場になっていた。ここではムラアシビ  (村遊び]) が行われ、斜面地を利用して上部に舞台を設け、低地に客席を作 り、観覧しやすいようになっていたそうだ。この場所は安里集落の高台にあり、これより上には民家は無く、村の聖域だった。


殿小 (トゥングワー)

集落北西側は村毛 (ムラモー) と呼ばれた丘陵地になる。茅毛 (カヤモー) で1年に1度、屋根 の葺き替えが必要な家は無償で茅葺を刈り取ることができた。かつてこの麓を中心に集落があったと伝えられている。集落から山道がある。村の拝所がある方角に伸びている。山道を登っていく。

山道を進むと、前に広い空間が見えてきて、そこは広場になっている。この広場は殿内山 (トゥンチヤマ) と呼ばれ、ここに殿小 (トゥングワー) が置かれている。戦前は瓦葺きの祠だったそうだが、その後、は海石でできた祠になっていたのだが、現在はコンクリート造りの洒落た祠に建て替えられていた。中に自然石が置かれている。琉球国由来記には安里の拝所として里主所之殿と里主所火神が記載されているが、この殿小がそれに該当すると考えられている。「里主所之殿 稲二祭之時、花米九号完、五水四合完、神酒壹完、シロマシ一器 (安里地頭) 神酒二完 (同村百姓中) 供之。屋宜巫ニテ祭祀也。且此時、地頭ヨリ三組盆、居神九員馳走也。」

「里主所火神 毎年六月、爲米初、神酒二 (同村百姓中) 供之。屋宜巫ニテ祭祀也。」とあり、琉球王国時代は屋宜ノロにより稲二祭 (5月/6月ウマチー) の際に祭祀が執り行われていた。戦前までは、旧暦7月17日に、この場所で旗頭や舞踊などを奉納したという。現在も年中行事で拝まれている。

殿小のある広場の片隅にいくつか石が置かれており、そのひとつは拝所になっている。この拝所についての詳細は見当たらないが、この拝所も里主所之殿か里主所火神のどちらかなのか?


前ヌ村井戸 (メーヌムラガー)

殿小の広場は西側方向に降っており窪地になっている。その林の中には前ヌ村井戸 (メーヌムラガー) と呼ばれる井戸跡がある。戦前は円状に石積だったが、現在では水は涸れており、コンクリートの筒で形式保存されている。前面には香炉が置かれており、現在でも年中行事で拝まれているそうだ。この場所には民家は無いので、殿小と関係がある井戸だったのでは無いだろうか? 多分、祭祀の際に身を清めた井戸かも知れない。


クボー御嶽

安里集落から外れた北東の丘陵地斜面には安里集落の御嶽がある。御嶽への道が国道329号線から北にあるのだが、途中で道は途切れてしまっており、それ以上は深い森になっており進めない。この場所には琉球国由来記にあるコバウノ嶽 (神名: コボウ森御イベ) と小嶽 (神名: 中里ノ御イベ) にあたり、「右七か所、毎年三八月、四度御物参之時、有祈願也。右十一ヶ所、屋宜巫崇所。」と書かれている。地元では下クボー、安里クボーとも呼ばれ、以前は木の下に香炉が置かれていたそうだが、現在では、周辺は木々が生い茂っているため、安里集落の人たちは年中行事の際にはその近くから拝んでいる。

9月23日に隣の当間集落を訪れた際に、当間集落でもこのクボー御嶽を拝んでおり、御嶽への道があるというので探す。地図によれば、この丘の中にあるようだ。
森への入口らしき道がある。中に木の枝をかき分けて入り進むと広場に出る。向こう側に石が積まれた所が見える。これがクボー御嶽だ。安里集落からここへは直接の道はなく国道329号で当間集落方面に向かい、山道を登る必要がある。それで、安里集落では集落の端から遥拝しているのだ。


次は国道329号線の東側にある拝所やスポットをめぐる。


安里川 (アサトゥガーラ)

安里集落の南の境界には安里川 (アサトゥガーラ) が流れている。戦前は約3mの川幅があり、当時は海まで一直線に流れる川だったが、戦後、米軍により改修され川筋が変わっている。川には戦前から橋が架けられていたが、 戦時中、米軍の進軍を阻むため、日本軍により破壊された。現在の安里川は国道329号線北側に細い水路として残っているが、南側は海岸までは暗渠になり道路となっている。この道を海岸に進むと前原小屋取集落になる。


山小 (ヤマグワー)

国道329号線から東側への小道を進んだ所に山小 (ヤマグワー) と呼ばれる拝所がある。戦前は、ここから西側の小山の上にあったが、1983年からの土地改良事業により、この場所に移設されてコンクリート製の祠が置かれている。この山小の由来伝承は不明だそうだが、現在も年中行事で拝まれている。

山小への入口にはコンクリート製の井戸跡がある。 戦前からすでに水は枯れていたと資料にはあるので移設されたものでは無く元々ここにあったようだ。山小はここに移設されているので、元々は山小との関係があったのかは分からない。


村井戸 (ムラガー)

山小の南側、国道329号から小径に入り、畑の中の水路沿いに進むと、立派なカブイ (アーチ状) の石積の井戸が残っている。資料では村井戸 (ムラガー) と紹介されているが、地元では下ヌ井戸 (シチャヌカー) とも呼ばれている。今でも水が湧き出ており、先程の水路に流れ込んでいる。給水ポンプも設置されており、農業用に使われている。言い伝えによると、この井戸は千魃が7ヶ月続いても涸れることはなかったという。 


酒井戸 (サキガー)

山小の東の畑の中には酒井戸 (サキガー) があると資料にはある。戦前は溜池のようになっていたのだが、土地改良事業により道がなくなったため、年中行事では近くから拝んでいるそうだ。遺老説伝 (1743~45年) には、この酒井戸の由来について記されている。

昔、中城間切安里村に一人の男がいた。 夜漁をして生計をたてていた。 漁を終え帰る度に、佐久川に 行って足を洗っていたが、必ず一人の美女が川辺に現れた。女は酒を壷に酌み、これを漁師にあげながら 「絶対に他言してはいけません」と言った。 漁師の妻は夫が毎夜酔って帰ってくるのを見て非常に不審に思い問いただすと、夫は返事の仕様がなかったが、とうとう白状してしまった。 妻が夫について行って見ると、思ったとおり一つの酒壷があったが、それが水に変わってしまった。それ以後、美女は 現れなくなったという。今、稲祭の度に祝女はこの川の水でウビィナディを行っている。
この井戸の正確な場所は分からないのだが、多分この辺りにあるのだろう。資料には形式保存されて井戸の写真 (右) が載っていた。


護佐丸歴史資料図書館

吉の浦公園に向かう途中に護佐丸歴史資料図書館が建てられている。図書館の入り口は中城 グスクをイメージしたデザインになっている。中城グスクの城主だった護佐丸の名が付けられている。中城村のヒーローだ。沖縄では歴史上の人物人気度では、ダントツで尚巴志がトップだが、この護佐丸は2番人気の人物だ。後、何回かの訪問で中城グスクになるのだが、これからは護佐丸所縁のスポットが出てくる。図書館には展示室もあるので、それを見たかったのだが、生憎今日は休館日だった。次回立ち寄ることにした。(9月23日に再訪したのだが、入口には9月28日までは書庫点検で休館の張り紙があり、この日も中には入れなかった。)

又吉 (マレーシ) のヒンプン

図書館の前の駐車場の通路に伊集集落の又吉家のヒンブンが展示されている。ヒンブンには幾つもの銃痕跡が残っている。戦争遺構として保存されている。


安里のテラ

佐丸歴史資料図書館から南東側に約130 m進んだ右側に安里のテラがある。地元ではティラと呼ばれている。 中には、笑キヨ、押明ガナシ、イベヅカサ、寄キヨラの4体の霊石 (ビジュル石) と火ぬ神がある。 戦前からカーラヤー (瓦屋根) だった。中に祀られているビジュル石について伝承がある。

昔、屋宜村の百姓が屋宜の浜から漁に出たところ、急に東の風が強く吹き出したので、安里港に舟を寄せて浜に下り、仮眠をとった。 そのとき、土の中から霊石がひとつ現れ、 「私は権現である。 土の中から掘り起して崇めなさい。そうすればおまえの病を治し、そ のような願いも叶えよう」という夢をみた。目が覚めて辺りを見てみると、夢に出てきたのと同じような石があったので、不思議に思い占ってみると、「まさにこれは権現のお告げであるから、急いで掘り出し崇めよ」 のことであった。そこで掘り出してみる と三個の霊石があり、ひとつを笑キヨ、ひとつを 押明ガナシ、 ひとつをイベヅカサといって祀った。その後、また一個の霊石が海を浮かんで来たので、これを寄キヨラといい、祠を建てて掘り出した霊石とともに祀って朝な夕な信仰したので、持病も治り、家は豊かになり、子孫も繁栄して、息子は屋宜玉城の大屋子となり立身出世を果たした。このようなことがあってからは、村中で安里権現といって崇め、多くの人々が参詣に訪れるようになった。

霊石を勧請した人の末裔である当間村のニヨク宮城と妹鍋が、このテラの祭祀を司っている。このテラを建てたのは、屋号金万座の祖先だと伝えられており、戦前、安里の人たちは、旧暦の1月1日の元日、9月9日の菊酒、12 月24日のウグヮンブトゥチに拝んでいた。現在もその家が管理を行っている。子孫繁栄、健康祈願、五穀豊穣のご利益があるといわれている。安里のテラにある霊石の一つ (写真左上と中下の向かって右端の石) は、持ち上げて軽ければ子を授かることができるという言い伝えがある。


安里のテラのカー

安里のテラから北側の空き地にあ る。安里のテラを拝んだ後に、ここも拝んでいたという。前原小屋取の人たちは豆腐を作る際や、正月の若水はここから汲んだという。この辺りには帰農士族が始めた前原小屋取があった。


サーターヤー跡

安里のテラの近くには前原小 (メーバルグヮ) 屋取集落のサーターヤーがあった場所になる。周辺に住む屋取の9世帯が利用していた。ここにも約100kgの力石があり、青年達が集まり、力試しをしていた。現在は畑になっている。
サーターヤー跡はこの近くにもう一つある。現在は石油会社の資材置場になっている。周辺に住む屋号宇小根や新字小根など、屋取の5世帯で利用していた。
沖縄戦では、米軍に捕らえられた中城村民は 県内各地の収容所に送られた。 帰村の際には、まず当間又下 (トーマヌシチャ 現在は吉の浦公園大人広場付近) へ収容され、さらに津覇、新垣、伊舎堂、添石、奥間の一時収容所へ移された。安里の住民は、集落近くに米軍施設があり、もとの集落へは戻れず、この場所の前原小屋取での収容を余儀なくされた。 焼け残った民家や仮設住宅などに住み、数年後にもとの集落へ戻っていった。米軍作成の1948年の地図 (前述) では元の集落には民家は無く、まだ前原小屋取の一時収容所で生活していた事がわかる。


吉の浦公園

字安里の海岸側は字当間にまたがって吉の浦公園となっている。中城村の名勝だった吉の浦の名前がつけられた公園だ。公園内にはごさまる陸上競技場、吉の浦野球場、大人広場 (多目的広場 写真右上)、中城村民体育館、テニスコートなどの運動施設がある。
吉の浦は中城村を代表するものの一つで、自転車で中城村を走ると、デザインに中城城の門、吉の浦とそこに昇る月、村の花ハイビスカスが描かれて、中央には、国頭親方朝斉作の吉の浦の琉歌が書かれているマンホールが至る所にある。大小二つある。あまりにも多くあるので、琉歌は空でも言えるようになってしまった。
   とよむ中城 (有名な中城の)
   よしの浦のお月 (よしの浦の月は)
   みかげ照り渡て (光美しく照り渡って)
   さびやないさめ (さえぎるものもない)
とあるが、そこのこめられた願いも含めると「世に名高い中城城から吉の浦を眺めると月が美しくわたり、何と平和なことか、とても災いなどあろうはずがない」という意味だそうだ。

吉の浦会館

吉の浦公園の入口には吉の浦会館がある。中城村のイベントやコンサートなどの会場になっている。


御殿地 (ウドゥンジ)、サーターヤー跡 (吉の浦公園 野球場)

吉の浦公園 野球場がある場所は琉球王国時代には御殿地 (ウドゥンジ) と呼ばれた首里の御殿内という家が所有していたという伝承もある。その後は、現在の野球場の東側は屋号 屋比久が個人で営んでいたサーターヤーになった。、そして公園へと変わっていった。あった。 戦前は海岸のすぐ側だったそうだ。


吉の浦公園ビーチ

公園から海岸へ遊歩道があり、そこを進むと海岸は吉の浦公園ビーチになっている。綺麗なビーチなのだが、人は誰もいなかった。台風のせいなのか、平日だからなのか、夏が終わったからだろうか? まだまだ真夏が続いているように思えるのだが。

今日予定していた見学は終了。台風の後は少し涼しくなるかと思っていたのだが、真夏日に戻り、汗びっしょりだった。吉の浦公園ビーチで、海を見ながら休憩。少し回復した頃に帰路に着く。帰りは暑さで少しきつくなった。自宅に戻り、いつのまにか寝てしまっていた。少しハードな1日だった。




参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 12 安里 (2016 中城村教育委員会)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
  • 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)

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