Okinawa 沖縄 #2 Day 213 (20/09/22) 西原町 (17) Uchima Hamlet 内間集落

内間 (うちま、ウチマ)

  • 前ヌ嶽 (メーヌタキ、大嶽 ウフタキ) [2022年9月2日 訪問]
  • ウナージキヌウカー [2022年9月2日 訪問]
  • 井戸跡名幸毛 (ナコーモー)
  • 後ヌ嶽 (クシヌタキ、腰間嶽 コシマヌタキ)
  • 産井 (ウブガー)
  • 前道 (メーミチ)
  • 内間公民館 (村屋 ムラヤー) 
  • 伊符嶽 (イーフヌタキ)
  • 井戸跡
  • 内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ、長嶺之殿)
  • ノロガー
  • 内間のビジュル
  • 茅葺御殿 (カヤブチウドゥン)
  • イワオウカー
  • 内間御殿小 (ウチマウドゥングア)
  • 地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)


ようやく台風の影響が薄らぎ、今日からは晴れ間が続くようだ。今日から、台風で中断していた中城村の集落巡りを再開する。中城村安里集落から再開するのだが、そこへの道の途中にある西原町の内間集落にも立ち寄る。

内間集落には、2年前の2020年5月24日、先日 2022年9月2日にも訪れている。今日で三回目となり、まだ見ていなかった文化財を訪問する。



内間 (うちま、ウチマ)

内間 (ウチマ) は西原平野の北東部を流れる内間川中流域に位置し、北側は中城村の伊集に接し、東側は掛保久、嘉手苅、小那覇に隣接し、西側は小橋川に接している。
内間集落の発祥は古く、集落北側の丘陵地中腹には幾つもの拝所があり、そこを腰当て (クサティ) としてカヤブチ御殿一帯に村が始まったと言われる。次第に集落は下降し、現在の形となった。1454年 (尚泰久元年)、金丸 (後の尚円王) が内間領主に任命された時代には、所領として掛保久、嘉手苅、小那覇までも含んでいた。琉球千章之巻の琉球村々世立人伝記によると、内間村の世始めとして「勝連内間村より来る内間大主 在所 根屋」とあり、また地組始めとして「中城安谷屋村より来る内間按司 在所は安谷屋」とある。 琉球祖先宝鑑には「小波津の津記武多按司が西原内間村安谷屋糸数の元祖にあたる。中城安谷屋村から来た西の按司加那志が宗家と伝わる。内間部落の創始家は、宇根、御殿小、糸数の三家で、その中で最も古い家柄は宇根で、部落の根屋として崇められている。

昔は稲作が農業生産の中心だったが、戦前は主に甘蔗や芋などを栽培し、副業として豚や山羊などを飼う純農村であった。戦後、兼業農家が多くなり、若者らは本土や海外に出稼ぎに行くようになった。戦後一時期は畜産組合を作り、養豚の振興に努めたが、豚価の下落で下火になった。その後、さとうきび作りに専念するようになり、内間には三カ所 (西ヌサーターヤー、東ヌサーターヤー、ヤスーサーターヤー) のサーターヤーが置かれていた。

明治13年当時の内間村の人口296人 (58戸) で、明治36年になると、人口647人 (116戸) と増加している。そのうち寄留士族は254人 (42戸) もいた。寄留士族の多くは、宇須久美多原 (ウシクンダバル) の崎原屋取や上原の上原屋取にいたと思われる。 内間部落は、南側には町役場や郵便局、農協などの公共施設や金融機関、病院、給油所などがあり、また、国道329号線、県道38号線にも近接し、居住条件に比較的に恵まれている。昭和59年には、県営内間団地 (260戸) が建設され人口も急増した。
1994年に人口は1500人となったが、これをピークにそれ以降は人口減少に転じ、ここ何年も人口減少幅は大きくなっており、元首は今後も続く傾向にある。

他の地域との人口推移を比較すると、本土復帰以降、人口が増加したが、1900年半ば以降は減少に転じ、その減少率は他の地域よりも極めて高くなっており、現在では町内では人口の少ない地域になっている。


昭和19年8月ごろから、内間にも日本軍守備隊の機関銃中隊が民家に分宿し、駐屯するようになった。米軍上陸直前に7世帯のみが北部に疎開しただけで、残りの人たちは米軍上陸後島尻方面へ避難したため、多くの犠牲者が出た。今度の沖縄戦では、戦没者は118人 (39.9%)で、家全滅が19戸 (19.7%) もあった。戦後、米軍が集落内に仮設の軍用道路を造ったために、しばらく元集落へは帰還できず、我謝区での生活を余儀なくされた。

琉球国由来記に記載ある内間集落の拝所は、
  • 御嶽: 大嶽 (神名: 眞南風ノアナ眞コチアナ眞シラゴノ御イベ、前ヌ嶽 メーヌタキ)、腰間嶽 (コシマノ嶽 神名: カネノフカ御イベ、後ヌ嶽)、伊符嶽 (イーフノ嶽 神名: 押上ヅカサノ御イベ)
  • 拝所内間巫火神 (ノロ殿内、長嶺之殿)
  • 1月2日の初ウビーは各門中ごとに宗家に集まり、先祖へ今年一年間の安寧を祈願した。
  • 2月1日のクッキー (腰憩い) には各サーターヤー組ごとに組長の家に集まり、慰労会が催された。
  • 2月15日はフーカミウマチー (麦穂神祭) であった。 
  • 田畑の害虫を駆除する行事であるアブシバレーは、4月15日に行われた。
  • 5月4日のユッカヌヒーには、子供達は年一度のおもちゃを買ってもらった。 
  • 6月25日には、御初綱が行われた。その日、米三升、ゆでたまご102個、酒五合をノロ殿内に備え、豊作を祈願する。 ノロ殿内東隣りの中道を境に部落を東西 (東組は雄綱、西組は雌綱) に分け、各戸から薬二束ずつを集め、綱を作り、前道で綱引が行われた。
  • 7月13日から16日にかけて、各家では、盆行事が行なわれた。ウークイの16日の晩、村の青年らによってエイサーが演じられ、各家を回った。 エイサーは現在でも受け継がれている。
  • 8月10日から15日にかけて、村遊びが行なわれた。 組踊として「矢蔵の比屋」と「伏山敵討」が上演された が、「矢蔵の比屋」を上演すると祟りがあるといわれ、 大正期ごろからとり止めになっている。雑踊に「北山小」という踊があり、その踊は、西田場や屋良小のタンメーらが首里あたりから習ってきて、村の青年らに教えた。
  • 9月15日には、イーフヌ嶽前広場の角力場において、 三日間にわたり、角力大会が行われた。その経費は、その年に生まれた新生児の家庭から徴収したという。
  • ムーチーは12月7日に行われた。
  • 3月3日の浜下りには、各家でターンムニーを作り、 ・トーメーに供えた。
  • 5月15日と6月15日には、ウマチーがあった。
  • 12月24日には御願解 (ウグァンプトゥチ) が行われ、この一年無事であったことを神に感謝した。


内間集落訪問ログ




前ヌ嶽 (メーヌタキ、大嶽 ウフタキ) [2022年9月2日 訪問]

集落南側、国道329号線沿いの丘に前ヌ嶽がある。ここは行政区では嘉手苅になるのだが、内間との境界にあり、内間集落の御嶽だった大嶽なので、ここに記載する。この場所には9月2日に訪れた。

集落の前にある御嶽という意で前ヌ嶽 (メーヌタキ) と呼ばれ、 琉球国由来記にある大嶽 (神名: 真南風ノアナ真コチアナ真シラゴノ御イベ) に相当するものと思われる。 一説によると、そこはウフンミウタキ (大美御嶽、大嶺御嶽) とも呼ばれ、かつては、神女の就任式が行われた。 この御嶽で神女に神名が授けられたことから、ウナージキー御嶽とも呼ばれた。ウナージキーという名称の拝所は今まで何回か見てきた。どのような漢字を当てているのかは分からないがウナーは「御名」だろう。丘への登り口に拝所がある。ウフンミウタキと書かれた表示柱が立っている。

道を登ると広場となり、そこに石で組んだ祠がある。これがウフンミウタキで前ヌ嶽、琉球国由来記の大嶽にあたり、村を起こした夫婦を祀っていると伝わっているそうだ。

更に奥にも石積みの祠がある。またその近くには天地と刻まれた石柱が立っている。この二つの拝所の詳細はわからなかった。

丘の北西の斜面にも拝所がある。


ウナージキヌウカー [2022年9月2日 訪問]

丘の西方の下にウナージキヌウカーがある。前ヌ嶽は女神の命名をした事からウナージキヌタキと呼ばれたので、この井戸と関係があると思われる。この井戸の側の住民に聞いてみたが、井戸の名前は知らないといい、この丘の拝所との関係も分からないとの事。地元の人でも、あまり知らないことが多い。ただ、この人は丁寧に金丸ゆかりの場所を説明してくれた。ここでは金丸は村の誇りのようだ。

9月2日の訪問の際に、ここでアクシデントがあった。ここで飼っている犬は結構ヤンチャで、しきりに吠えてきた。部外者を警戒しているのか、ちょっと油断していると、絡み付いてきて足を噛まれた。向こう脛だったので結構痛みがはしり出血。犬はお構いなしに戯れて吠え続けているのだが、そのうち仲良くなった。多分、噛むつもりは無かったのだろうが、勢い余って噛んでしまったのだろう。犯人はこいつだ。ちょっと悪そうな顔をしている。


井戸跡

後ヌ嶽 (クシヌタキ) から国道329号を渡り東への路地に入ったところに井戸がある。コンクリートで固められて祠で覆われている。拝所となっているのだろう。この井戸の情報は見当たらなかった。


名幸毛 (ナコーモー)

内間集落の東側の国道329号線沿いには名幸毛 (ナコーモー) と呼ばれる丘に、名幸毛 (ナコーモー) の祠があったという。

名幸毛 (ナコーモー) は、金丸と内間ノロとの出会いの場所であったという言い伝えがある。名幸毛 (ナコーモー) は国道工事で削り取られ、昔の面影は残っておらず、現在は公園になっている。


後ヌ嶽 (クシヌタキ、腰間嶽 コシマヌタキ)

昔、名幸毛 (ナコーモー) の山頂付近には後ヌ嶽の祠があったという。この祠は元々山頂にあったを後ヌ嶽 (クシヌタキ) として再建したものではと考えられている。先に訪れた前ヌ嶽に対する後ヌ嶽で、古くはその間に集落が立地していたと思われる。明確にはなっていないのだが、琉球国由来記に記載のある腰間嶽 (コシマヌタキ 神名: カネノフカ御イベ) がこの後ヌ嶽にあたると推測されている。また、別の説では、コシマノ嶽は掛保久と小那覇の境界にある後間毛 (クシマモー) の御嶽ともある。


産井 (ウブガー)

産井 (ウブガー) は、元々は名幸毛 (ナコーモー) の麓に位置していたのだが、現在は国道329号が通りに移設されている。民俗地図では国道329号線を渡った所に示されている。かつての名幸毛 (ナコーモー) は国道329号線の向こう側までの丘だったのだ。道路建設で丘が削られ井戸も移設されたのだろう。


前道 (メーミチ)

国道329号線沿いの前ヌ嶽の脇の道から集落に入る。集落内を東西に6本の道がある。南の2番目の道が前道 (メーミチ) になる。集落の南端の道だった。

内間公民館 (村屋 ムラヤー) 

前道を進むと内間公民館に着く。かつての村屋 (ムラヤー) であろう。
公民館の入り口に大城仁王之碑という石碑が立っている。公民館のおばさんに聞いたところ、この内間集落の国元 (クニムトゥ) で村を始めた人ということだった。そして、内間にはそれ程、誇れる文化財がないのだが、隣の小橋川集落には立派な史跡があると、訪問を勧められた。確かに小橋川集落には綺麗に公園として整備された聖域があるのだが、内間にも金丸所縁の場所が何ヶ所もあり、決して他の集落の文化財に劣ることはない。

伊符嶽 (イーフヌタキ)

集落の南側を東流する内間川 (下の写真) の中流沿いに伊符嶽 (イーフヌタキ) が在する。
イーフは、海浜地形を表わす地名であることから、いつの時代までかは不明だが、かつてはこの御嶽あたりまで湾入していたものと思われる。伊符嶽 (イーフヌタキ) は別名種取毛 (タントゥイモー) とも呼ばれ、内間長升 (ナガマシ) という田への遙拝が行なわれたそうだ。この内間長升から収穫された米は、首里王府へ上納するための重要な米であったようで、そのための祈願を伊符嶽 (イーフヌタキ 神名: 押上ヅカサノ御イベ) で執り行なわれていた。伊符嶽内の祠は、周囲をコンクリートで馬蹄形状に縁取りした面にブロックでコ字形に囲み、屋根は珊瑚石によ寄棟屋根造りとなっており、その南側を東流する川に向けて建てられている。祠内には珊瑚石製の香炉がそえられている。御嶽の前は広場になっており、昔はここに角力場があり、毎年9月には内間集落の角力大会が催されていた。戦時中には国旗掲揚台が設けられ、出征兵士の送別式はここでで挙行されたいたそうだ。

井戸跡

イーフヌ嶽の近くに井戸があった。名称は不明なのだが、内間集落の共同井戸だったようで、現在はコンクリート製の筒と香炉が置かれている。

内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ、長嶺之殿)

公民館の前の道 (中道ではないかと思う) を北に上がっていくと広場がある。
この広場には拝殿が置かれている。内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ) と呼ばれており、琉球国由来記にみえる長嶺之殿にあたるとされている。かつてここでは、毎年3月と8月の祭祀や稲二祭の際に内間ノロが祭事を執り行なっていたことからノロ殿内と称されるようになったという。稲穂祭三日崇の時には、地元の内間村をはじめ小橋川、掛保久、小那覇などからも米や酒の供物が出された。拝殿は、コンクリート造りによる破風型式で、向かって右側の部屋には獅子が保管され、左側は火ヌ神を祀った祭壇になっている。
内間は、金丸 (第二尚氏王統初代国王 尚円王) が、一時期を過ごした地だと云われている。現在の嘉手苅 (かでかる) にある屋敷に住んでいた金丸は内間ノロと結婚したと伝えられている。ここはそのノロの住居があった場所になる。伝説によると、金丸と内間ノロとの間にできた子が内間大屋久で、この内間大屋久は、内間村の根屋の安谷屋を相続した。内間ノロは、代々、新川門中から出ていた。この一帯は集落発祥の地とされ、近隣にはカヤブチ御殿、イワオーウカー、御殿などの聖地や拝井泉がある。

ノロガー

ノロ殿内の東側には、ノロ時代に使用されたと伝わるウビー (結婚の意味) またはノロガーと呼ばれる拝井泉がある。

内間のビジュル

内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ) から北へは急な坂道になっており、その坂道の途中にも拝所がある。その由来については不明なのだが、ビジュル (賓頭盧) と呼ばれている。傾斜地形を平場造成し、祠が南東に向け設置され、祠内には珊瑚石灰岩の霊石が祀られ、その前面には香炉が据え置かれている。
ここ高台になっており、下側に内間集落が広がっている。その向こうは西原町、与那原町、奥には中城湾、更に南城市の知念半島が見渡せる。

茅葺御殿 (カヤブチウドゥン)

内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ) の背後の丘陵裾部に茅葺御殿 (カヤブチウドゥン) がある。この一帯は集落発祥の地。この御殿の本来の名称はウェーサギ (上アシャギ) と呼ばれた。名の通り、かつて拝殿は芽葺きであったことから、カヤブチ御殿と呼ぶようになった。現在の拝殿はコンクリート造りで、中に珊瑚石製一個と砂岩製五個の香炉 (火神) が安置されている。また、参道のほぼ中途右側 (東側) には「白龍黒龍」と記された碑が建立されていたが破壊され亡失している。
伝承では金丸 (尚円王 1415~1476) が首里へ上る途中一時ここに逗留し、内間ノロと一緒に過ごしたという話が伝わっている。
内間集落に住みついた金丸が、ある日一人で 食事の仕度をしていたところ、カマドからでる煙が樹々の間から立ちのぼっていた。 それを見た内間ノロが食事を作ってあげたところ、その後二人は親しくなっていった。 その時、内間ノロが金丸に琉歌を詠んだ。「心いさみゆる糸縁のたばこ  ちゅ吹ち吹ちみそり 御縁結ば」又、金丸が首里へ上る際、内間ノロが金丸との別を惜しんで詠んだ琉歌もある。「あかん生爪 (なまじみ) や痛でるあかりゆる やまんど別りゆみ里と我身 (わみ) と」

イワオウカー

カヤブチ御殿の横には掘り込み井戸のイワオウカーがある。金丸 (後の尚円王) が魚をとって来てここで煮炊きをしたという井戸で、この水は縁結びの水とも言われ、ウビー式 (結婚式) はこの水で行なっていたという。今日、この井戸を訪れると、井戸は草に埋没して井戸の形が見えない。いつも通り、持参している鎌で、井戸の周りの草を刈り、ようやく井戸が見えるようになったところで写真撮影。

内間御殿小 (ウチマウドゥングア)

茅葺御殿 (カヤブチウドゥン) の隣の屋敷跡には金丸の住居だった内間御殿小 (ウチマウドゥングア) がある。金丸の屋敷であった内間御殿は嘉手苅にあるのだが、ここにも内間御殿と呼ばれている屋敷跡がある。「小 (グア)」となっているので、規模が小さい屋敷だったのか、別宅とかの意味なのだろう。言い伝えでは金丸と内間ノロの間に生まれた子供はその後、内間ノロの妹の夫で知念村の古根の養子となり、知名地頭となり内間大親と称されたという。金丸の隠し子の話は多く沖縄に残っているそうだ。真偽は不明だが、金丸は結構モテたのだろう。御殿小の拝殿内にはいくつもの香炉が置かれているが、祀られている宗家の門中名は不明だそうだ。
内間御殿小の拝殿の裏側にも拝所があった。詳細については不明。

地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)

内間御殿小の西側、茅葺御殿との間の敷地の一角には地頭火ヌ神を祀った神屋が置かれている。御殿小の西隣には内間集落の根屋 (ニーヤ) と伝わる宇根 (大西田場) 門中の屋敷があったとそうだ。宇根門中の先祖が進貢使の一人として中国に渡り、大船の姓を賜わり、それに因んでウーニと呼ぶようになった。現在は大西田場門中と呼び、内間部落の多くはその門中に所属し、首里や他村にもその子孫は多い。この神屋にもいくつもの香炉が置かれている。
茅葺御殿、内間御殿小、地頭火ヌ神が並んである通りには一軒だけ民家がある。古い石積みの塀が残っていた。


これで内間集落見学は終了し、ここから中城村の安里集落に向かう。三つの台風で、中城村の集落巡りが中断していたが、今日から再開する。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想

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