Okinawa 沖縄 #2 Day 212 (16/09/22) 西原町 (16) Kobashigawa Hamlet 小橋川集落

西原町 小橋川集落 (こばしがわ、クヮシチャ)

  • 西ヌ井 (イリヌカー)
  • 西組サーターヤー跡、龕屋跡
  • 中ヌ井 (ナカヌカー)
  • 新井 (ミーガー)
  • 前ヌ井 (メーヌカー)
  • 東組サーターヤー跡
  • 小橋川公民館
  • 故大城助素之碑
  • 下ヌ御殿小 (シチャヌウドゥングヮ)
  • 御殿小橋左ヌ井、御殿小橋右ヌ井
  • アシビナー (遊び庭)
  • キャンプ・ペリー (Camp Perry)
  • 上之御殿小 (ウィーヌウドゥングヮ)
  • 上森之御嶽 (ウィームイヌウタキ)
  • 慰霊碑
  • 馬場跡
  • 小橋川根川 (与那井 ユナガー)


大型台風14号が接近しており、明日から大荒れの天気だそうなので、その前の最後の晴れ間となると今日は外出とした。天気予報は終日晴れなのだが、天気予報はほとんど当てにならないので、今日も雨ならすぐに撤収できる西原町の小橋川集落を訪問する。午前中は西原町図書館で、過去の人口データの入力作業を行う。いつもは那覇市の県立図書館で調べ物をするのだが、郷土史やその地の情報は限られているので、現地の図書館で情報を探す事にしている。
自宅を出発し、目的地まで半分ぐらいで雨が降り出し、強くなってきたので半時間ほど雨宿り、雨が上がり図書館へ。調べ物が終わり、小橋川集落に向かう途中で再度大雨で今日二回目の雨宿り、直ぐに雨はあがり小橋川集落に入る。


西原町 小橋川集落 (こばしがわ、クヮシチャ)

小橋川 (クヮシチャ) は、中城湾に注ぐ内間川上流域の南西側丘陵地の上松尾 (イーヌマーチュー) に位置して、西側は津花波に、北東側は内間にそれぞれ隣接している。小橋川集落は各祭祀場のある上松尾 (イーヌマーチュー) を腰当て (クサティ) にして、丘陵斜面に段々状に民家が立ち並んでいる。戦前はほとんどが農家で、主に換金作物である甘蔗や主食の芋などを栽培し、副業として豚、山羊、鶏などの家畜を飼っていた。
小橋川は方言でクヮシチャという。 その原義は、クバ・シチャで、蒲葵 (クバ) の下の意味で、それがクハシ・チャになり、チャに川の字をあてたという。かつて、小橋川の古島と考えられる与那川付近に、蒲葵の樹木が繁茂していた事からこう呼ばれたと思われる。
小橋川部落の歴史は古く、上ヌ松尾一帯に広がる小橋川散布地からグスク系土器片や牛の遺骨などが確認されている。17世紀半ば頃には「こはしきや村」と記載されているので、それ以前から集落が存在していたと考えられる。まずは上松尾付近にマキョが形成され、その後、次第に下方に集落が拡大移動した。公民館から小橋川之殿付近の屋敷は不然型だが、下方は1737年の地割制以降に拡大されたので整然型になっている。琉球村々世立始古人伝記によると、小橋川村の世立始として、「大里村より来る小橋川主在所 根所」 とあり、また地祖始として「今帰仁湧川村より来る小橋川子在所 座神」 とある。地元で伝わっている話では、小橋川集落の村立てには隣の津花波部落から移って来たという東風平 (コチンダ) 門中、首里から原山番人として移ってきた喜屋武 (チャン) 門中、内間の屋号 田場の人が来て分家した高江洲 (タケーシ) 門中の三宗家が関わったという。現在、三宗家の子孫は残っていないのだが、かつては殿のある上ヌ松尾付近に屋敷を構えていたという。これからわかることは、小橋川は内間や津花波よりは、後にできた集落と思える。その他の有力門中には、恩納間切前田村から津花波を経て小橋川に来たと伝えられる呉屋門中、島尻の糸数城主の若按司の子孫だといわれている大嶺門中、具志川間切宇堅村から浜之御殿の番人として伊保之浜へそして小橋川に引っ越して来た上門門中、嘉手苅大家からの分家の伊田門中、与那城間切伊計村から来たと言われる宮平門中、幸地の仲門からの分家の大仲門中などがある。

明治13年の小橋川村の戸数は67戸、人口363人で、明治36年には人口471人 (96戸) と増加している。その後沖縄戦直前には人口は減少し、1978年までは横ばい状態だった。それ以降は集落後方の山手に西原台団地ができ、北東側に与那川団地が、前方には小橋川団地などができ、人口も急増している。人口はコンスタントに増加し、近年も微増状態が続いている。

西原町の他の地域と人口増加について比較すると、小橋川の人口増加率は西原町平均を下回っている。明治時代から現在に至るまで、西原町では人口は真ん中ぐらいに位置している。


琉球国由来記に記載されている拝所は

  • 御嶽: なし
  • 殿: 小橋川之殿
  • 拝井小橋川根井 (与那井)

古い集落にしてはめずらしく、御嶽の記載がない。前記の二祭祀所以外に、上森 (イームイ) ヌ御嶽、上ヌ御殿小、下ヌ御殿小、イームイヌ西ガー、与那川ガー、前ヌカー、中ヌカー、西ガーの八カ所の聖地が確認されている。琉球王統時代は村祭祀は内間ノロによって執り行われていた。

戦前、小橋川では、1月20日の初御水 (ハチウビー)、2月1日の腰憩い (クスッキー)、3月3日の浜下り、4月の蟲払い (アブシバレー)、5月ウマチー、6月ウマチー、6月25日の綱引、7月の獅子舞、7月16日のエイサー、8月の村芝居、9月9日の寺御願、12月24日の御願解 (ウグヮンプトチ) などの年中行事があった。

綱引は今でも行われている。 神屋を境に部落を東組 (雄綱) と西組 (雌綱) に分け、中通りで綱引が行われる。


小橋川集落訪問ログ



小橋川集落へは西側から入り、文化財を見学する。



西ヌ井 (イリヌカー)

小橋川集落の西の端、集落入り口には西ヌ井 (イリヌカー) がある。立派な祠で井戸が覆われている。西ヌ井は集落の共同の村井 (ムラガー) で、小橋川集落が拡張した際に造られた比較的新しい井戸で、長方形の切石を布積みになっている。井戸の中を覗くと水が現在でも湧いているようだ。


西組サーターヤー跡、龕屋跡

西ヌ井 (イリヌカー) のあたりには戦前まで小橋川集落に二つあったサーターヤの内の西組が使っていたサーターヤー (写真左) と龕屋 (右) が置かれていた。サーターヤーは畑から集落に入るところのある事が多く、龕屋が集落内に置かれることはなく少し離れたところに造られていた。


中ヌ井 (ナカヌカー)

西ヌ井 (イリヌカー) から、拡張された集落の南側の道を少し進んだところに中ヌ井 (ナカヌカー) がある、この井戸も中ヌ井同様に比較的新しい井戸になる。


新井 (ミーガー)

更に道を東に進み集落の中心部に南北に走る道がある。この道の南側、かつての集落の南の外れに新井 (ミーガー) が道路わきにある。現在は住宅街になってはいるが、昔は一面畑で、その中に掘られた井戸で、名前からすると新しい井戸と思われる。村のは拝井ではなく、農作業用に使われていた井戸だろう。


前ヌ井 (メーヌカー)

集落に戻り、道を更に東に進むと、前ヌ井 (メーヌカー) がある。コンクリートで固められ、その上には香炉が置かれている。村の拝井でもある。西ヌ井、前ヌ井と同様に比較的新しい井戸で、今で水がわいている。


東組サーターヤー跡

前ヌ井 (メーヌカー) の東側には東組のサーターヤーがあったという。この辺りが集落の東の端にあたる。17世紀中期には小橋川も他集落と同様、稲作が盛んだった。稲作に関連する年中行事の一つである綱引やウマチーなどが、今でも残っ ている。沖縄の製糖業の始まりは、1623年に儀間真常が家人を福州に派遣し、砂糖の製法を学ばせ、帰国後、砂糖製造を国中に広め 奨励した。その結果、黒糖が琉球の一大産物となった。 王府は甘蔗作付面積の増加によって、主食の甘藷の作付面積が減少したり糖価が下がるのを恐れ、1697年には甘蔗の作付面積や地域を制限した。1879年 (明治12年) の廃藩置県後も、旧制度が そのまま踏襲され、甘蔗作付制限は存続し、西原間切の甘蔗作付面積は10万坪に制限され、砂糖の生産高は36万斤であった。明治初期の沖縄全体の産糖量の約10%のあたる。1888年に甘蔗作付制限が撤廃され、以降、田んぼや甘蔗畑から砂糖きび畑へ移行していった。(田倒し タードーシ)、明治36年には小橋川から稲作の田んぼは姿を消していた。廃藩置県前後まで、甘蔗の搾汁には木製や石製の搾汁車を畜力で回していた。その後、県が鉄製搾汁車の使用奨励したので、しだいに鉄車が普及するようになった。 1908年(明治41年)、農商務省によって、沖縄で初めての近代的な分蜜糖工場 (百トン) が我謝に設置され、ますます糖業が盛んになった。そのころ、西原報徳社の幹事であった大城助素は、小橋川の青年らを動員し、糖務局へ甘蔗を運搬するための農道を修善改築した。大城助素は、明治37年ごろ台湾の糖業を視察して以来、農村の改革を企画し、西原の振興は甘蔗圧搾機の改良にあると確信し、私財を投じて在来の製糖機の改良研究に腐心した。当時、西原村内には100カ所余の在来のサーターヤーがあり、県内には2000カ所余のサーターヤーがあった。大正3年に大城式甘蔗圧搾機を発明し、小橋川のここ東組サーターヤーで来賓者多数を招き、試運転式が行われた。 大城式甘蔗圧搾機は、従来のサーター車より歩留で6%も多く、時間的にも約5割に短縮することができた。戦前、小橋川には、西組サーターヤーと東組サーターヤーの二つのサーターヤーがあった。大正期以降、県の指導もあって、動力機械を使う共同製糖場もできた。



小橋川公民館

元々の小橋川集落は北側丘陵の麓の斜面を何段かに区切ってその各段に民家が並んでいる。公民館より北がその集落で、南側は拡張した地域になる。南と北では区画割が対照的になっている。南側は碁盤状に区切られているが、北側は無秩序な区画で、その各段との連絡路はほとんどが階段となって道路は西と東の二本だけになる。しかも行き止まり道がいくつもあった。

公民館がある場所はちょうど集落の中央になる。


故大城助素之碑

公民館の駐車場の上には大城式甘蔗圧搾機玉車を発明した大城助素の石碑がある。大城助素は、ここ小橋川に慶応3年 (1867年) に生まれた。子供のころから、農機具や機械などに興味をもってい た。豪農だったので、農家で使用する機械はほとんど購入して試していた。明治15年、西原間切番所の文子 (書記) を経て、勧業委員、村会議員、学務委員等を歴任し、村政の発展に大きく貢献した。明治32年頃より、農村の改革を企図し糖業および農村の振興は甘蔗圧搾機にあると着目し、私財を投じて研究に没頭し、最初は木や竹で模型を造って工夫を凝らし、周囲の人々から変人あつかいされるくらい、研究に没頭した。大正3年に、ついに大城式甘蔗圧搾機玉車を発明。大城が改良発明したのは、従来の甘蔗圧搾機より外側の車を小さく、中軸にベアリングを入れてよく回転するようにしたことだった。それにより、牛馬の動力を軽減し、 圧搾能力を向上させた。これによって、沖縄県の基幹産業である糖業に一大光明をもたらし、県下産業界にも大きく貢献している。しかし、その玉車発明の特許権は、他府県人に横領されてしまった。その後、大城助素は煩悶苦悩し、病を得て、発明の3年後の大正6年、享年50歳にして他界した。大正10年、大城助素の功績を替える碑が墓地の前に建立されている。大城助素の発明により、小橋川の砂糖生産高は、県内でも常に上位を占めていた。


下ヌ御殿小 (シチャヌウドゥングヮ)

公民館の北側丘陵の斜面は小橋川集落の聖域になる。階段を上りそこに向かう。この丘陵は上ヌ松尾 (イーヌマチュー) と呼ばれ、聖域が三段に分かれている。下の段には下ヌ御殿小 (シチャヌウドゥングヮ) の祠がある。この祠には中央に火之神 (ヒヌカン) が祀られている。向かって右側には神壇がある。扉があり中を覗くことはできないのだが、ここには部落の創始家である喜屋武門中、高江洲門中、東風平門中の先祖、村グサイノロが祀られている。左側には獅子舞が保管されている。この下ヌ御殿小にお いては、毎年7月13日から15日にかけて獅子舞が行われ、16日は獅子を虫干し (キーブシ) にする日になる。戦前からあった初代の獅子は沖縄戦で焼失し、1957年 (昭和32年) に、二代目の獅子を那覇の漆器店より購入したが、それも腐蝕したので、1981年 (昭和56年) に三代目 獅子を仕立てたものが現在の獅子になる。 


御殿小橋左ヌ井、御殿小橋右ヌ井

下ヌ御殿小の東側の上之御殿小 (ウィーヌウドゥングヮ) への階段の両脇に二つの井戸跡がある。

井戸は形骸化されており、御殿小橋左ヌ井 (写真上) は、コンクリート製の祠が造られている。御殿小橋右ヌ井 (写真下) もコンクリートで覆われている。両方ともに集落の拝井となっている。


アシビナー (遊び庭)

下ヌ御殿 (シチャヌウドゥン) から階段を上ると広い広場がある。ここは上ヌ松尾 (イーヌマチュー) の中腹で、集落のアシビナー (遊び庭) だった場所になる。このアシビナーでは8月13日から15日までの三日間は村芝居が行われていた。13年に一度、大規模な村芝居が挙行され、芝居人衆は、一ヵ月前から、各家持廻りで練習に励んだという。その村芝居には、他部落からも多くの見物人が詰めかけたが、村芝居は、1933年 (昭和6年) を最後に打ち切られている。


キャンプ・ペリー (Camp Perry)

このアシビナーはキャンプ・ペリーとも呼ばれている。1853年の幕末に黒船で、日本に開国を迫ったアメリカ軍人のペリー提督は、日本の浦賀を来航する前に琉球へ訪れている。その際には沖縄本島の各地を視察している。 首里から西原に出て東海岸を北上し、石川あたりで折り返し、西海岸を南下し、視察を行ない、沖縄本島の地形、石炭の有無、食料の状況など、東アジアの拠点として琉球を評価しようとした。 

  • 5月26日、ペリー提督の率いる四艘の米国艦隊が那覇港付近に現れた。
  • 5月30日、12人 (将校4人、乗組員4人、支那人苦力4人) の探検隊が沖縄本島探査を開始。午前10時ごろ那覇に上陸し、首里の弁ヶ岳を経て、夕方、西原の小橋川に到着。その丘の頂上は、松木で囲まれた広場があって、一行は地元から鶏4羽、卵40個、薪2束を調達し、そこで野営した。彼らはこの野営地をキャンプ・ペリーと名付けた。


その様子は随行したハイネによる描いたスケッチが残っており、ここでの野営を描いている。

このアシビナーからは知念半島 (写真上) や沖縄戦の激戦場となった運玉森が見渡せる。 


上之御殿小 (ウィーヌウドゥングヮ)

アシビナーの一画に上之御殿小 (ウィーヌウドゥングヮ) がある。公民館からこの上之御殿小に至る斜面では広範囲に遺物の散布が確認されている。グスク時代から近世にかけての遺跡と思われ、この斜面に集落があったのではと考えられている。

上之御殿小 (ウィーヌウドゥングヮ) はコンクリート造りの破風型式の拝殿になっており、拝殿の中には集落の守護神と伝わる国元ノロ、地頭火ノ神、竜宮の神石 (ニービヌフニ) が祀られ、香炉が置かれている。琉球国由来記に記載されている小橋川之殿と推測されており、稲二祭 (ウマチー) の際、米九合、酒五合、神酒、肴、 煙草などが小橋川地頭より出され、内間ノロによって祭祀が執り行われたとある。また、8月10日から15日にかけては、この上ヌ御殿小において獅子舞が披露され、翌16日はキーブシ (虫干し) を行っている。

上之御殿小の脇の林の中にも大きな石を祀った拝所があった。この拝所についての詳細は見つからなかった。


上森之御嶽 (ウィームイヌウタキ)

上之御殿小 (ウィーヌウドゥングヮ) から急な階段を上り、上ヌ松尾頂上へ。そこには御嶽 (ウタキ) がある。この丘自体が聖地としてのグスクだったのだろう。1713年の琉球国由来記には小橋川には御嶽は記載されていない。資料では今帰仁への御通しの御嶽となっていたが、御通しが御嶽とは考えにくい。それ以降に創設されたものか、昔からのは拝所だったが厳密には御嶽ではないのだが地元では御嶽と呼ぶようになったのかだろう。


慰霊碑

上之御殿小から上森之御嶽への階段の途中に、慰霊碑が置かれている。

沖縄戦当時、上ヌ松尾一帯には、日本軍の守備隊の交通壕が掘られていた。 そのために、そこは、戦後幾度となく地すべりが起きた。 沖縄戦では4月28日に米軍はこの小橋川まで深奥していた。

当時、小橋川集落には64世帯300人が住んでいたが、その半数以上にあたる153人 (51%) が戦死し、一家全滅世帯が13戸 (20.3%) もあった。戦後は、米軍が部落西側の津花波呉屋田原一帯に弾薬庫を建設したため、小橋川住民は、しばらく我謝区での生活を余儀なくされた。


馬場跡

集落の北は丘陵地になっており、東組サーターヤー跡の前の道路を登ると丘陵の上に馬場 (ウマィー) があったそうだ。現在は駐車場になっている。

小橋川根川 (与那井 ユナガー)

集落後方の馬場付近の畑の中に堀り抜き井戸の与那井 (ユナガー) がある。琉球国由来記には、西原間切の四泉井の一つとして小橋川根川 (クヮシチャネーガー) として記載され、稲穂祭の三日崇之時、花米九合と五水 (酒) 二合が小橋川地頭より供出され、内間ノ ロが祭祀を執り行なったとある。明確では無いが、この与那井 (ユナガー) が小橋川根川 (クヮシチャネーガー) と推測されている。現在は筒状のコンクリート井戸に改修されているが、香炉も置かれ集落で拝んでいる。戦前までこの辺り一帯は、ユウナ (オオハマボウ) が繁茂していたことから、ユウナ=ユナと称され、与那の漢字をあてるようになったそうだ。この井戸は集落で最も古い井戸で、集落の産井 (ウブガー) でもあり、ウマチーの際に御願が行なわれ、そのとき使われる御神酒 (ウンサク) をつ くる水はこの与那ガーから汲んでいた。また、この辺りは小橋川集落の古島にもあたる。


今日は昼過ぎまで図書館で調べ物をしていたので、午後の数時間のみ集落巡りとなった。時間が限られていたので小橋川集落だけの訪問となった。台風が近づいてきているせいだろう、風があり、自転車で走るには比較的楽な一日だった。今日は、学生時代に聞いていたScorpions と Ozzy Osbourne が今年アルバムをリリースしている。行き帰りはその二つのアルバムを聴きながらだった。二つともHard Rock なのですれ違う人は少し怪訝な感じだった。二つとも昔のメロディーラインのままで、ファンにとっては懐かしさとやはりと思えるものだった。個人的には気に入ったアルバムだ。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想

0コメント

  • 1000 / 1000