Okinawa 沖縄 #2 Day 211 (14/09/22) 西原町 (15) Tsuhanaha Hamlet 津花波集落

津花波 (つはなは、チファナファ)

  • 津花波集落入り口
  • 前ヌ嶽 (メーヌタキ)
  • 津花波古島 (チファナファフルジマ)
  • 喜納井 (チナーガー)
  • タンパルガー
  • 古島サーターヤー跡
  • 津花波散布地、マカー御願所
  • カガンジャガー
  • 御殿小 (ウドゥングア)
  • 津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)
  • 津花波公民館
  • マカーヌカー
  • 津花波新島 (チファナファミージマ)
  • 新島サーターヤー


呉屋集落を見終わり、隣村の津花波集落に移動する。この津花波集落には二年前の2020年5月29日に訪問している。今回は前回見ていない文化財と集落の歴史をたどってみる。



津花波 (つはなは、チファナファ)

字津花波 (チファヌファ) は、中城湾に注ぐ小波津川と内間川との間にある丘陵地の麓に位置しており、西側は呉屋と、東側は小橋川に接している。
集落の西側の呉屋森 (ゴヤムイ) を腰当て (クサティ) に、その東側の麓に南北に帯状に集落が広がっている。御殿小 (ウドゥングヮー) の前の通りを境に、北側の新島 (ミージマ) と南側の古島 (フルジマ) に区分され、字行事の綱引もそのように組分けが行われていた。
津波の歴史は古く、集落発祥は呉屋毛 (グヤモー) の農村公園にある上ヌ嶽 (ウィヌダキ) 付近にマキョが形成されていたとされており、その後、移動を繰り返し現在地に集落が形成された。伝承によるとその後、今から約600年前に佐敷間切津波古村の安次富門中の三男腹のマカースーリーが御殿小あたりに移り住み、津花波の創始者になったという。マカースーリーが津波古村から津花波に来る前、津花波には宮城大主 (ナーグスクウフヌシ) の家一軒だけがあり、マカースーリーは宮城大主とともに津波村の開拓を行った。マカースーリーの子孫が呉屋門中で、かつて身売りに出された幸地の仲門の子供をマカースーリーが買い取って育て、その子は与那嶺門中の創始家になったという。その後、しだいに下の方へ移動し、他部落からの転入 者が加わるなどして、現在の集落が形成されたと思われる。

 琉陽 (尚穆王39年、1790年) には、津花波村の掛福親雲上 (地頭代) が西掟 (イリウィッチ) のとき、津花波村は古島にあり、そこの耕地面積は狭く痩地だったので、集落の民家を瘦地に移転させ、肥沃な宅地跡地を早田にしたという。現在畑となっている古島は18世紀後半まで集落があったことになる。津花波散布地と津花波古島の2箇所の遺跡散布地が確認されている。

明治13年の津花波村は36戸、人口169人。廃藩置県後の明治36年には、47戸、人口248人と増加している。戦前、戸数51戸、人口260人でまだまだ小さな集落だった。沖縄戦で多くの戦没者を出し、人口は激減していたが、統計では1970年には戦前の人口に戻っている。1972年の本土復帰後、人口は増加し、1995年には600人を超えるまでになっている。その後は増加は鈍化し近年は横ばい状態になっている。

明治、大正時代は西原間切 (村) では最も人口が少ない地域だったが、戦前にはランクを上げ中の下に位置し、それ以降はその地位が続いている。

民家の分布図を見ると、沖縄戦後1948年にはまだ帰還がかなわず民家は見られない。その後。元の集落の場所に民家が戻ってきている。津花波地区は東、西、北が丘陵地となり、限られた土地に住宅地と農地を賄っている。地形的には西原町の他の地域に比べて住宅地には適していない。

集落の西側に横たわる丘陵地の呉屋毛には日本軍陣地の45高地があり、米軍はを1945年4月28日には津花波集落内に入り、丘陵上の日本軍陣地を攻めていた。29日には丘陵を占領し、30日には呉屋集落に進んでいる。このことから、集落は大きな損害をうけていたと思われる。

沖縄戦では集落住民の139人が亡くなっている。当時住民の53.5%と高い戦没者率だ。

戦後、部落北側の盆地に米軍が弾薬庫を建設したため、 昭和24年ごろまで津花波住民は我謝での生活を余儀なくされた。戦後しばらく、部落入口には破壊された米軍戦車が放置され子供たちの遊具となっていたそうだ。


津波は古い百姓平民村なので、多くの拝所や拝井泉が残っていたが、現在は合祀されているものも多い。琉球国由良記にある津花波集落の拝所は
  • 御嶽: 上ノ嶽 (神名: コガネツカサノ御イベ)、前ノ嶽 (神名: コバツカサノ御イベ)
  • 殿: 津花波之殿
  • 拝所: 津花火神 (所在地不明)
  • 拝井泉: マカーヌカータンパルガー、喜納ガー(マカーヌカーに合祀)
上記の村の拝所での祭祀は小波津ノロによって行われていた。
戦前の主な年中行事は綱引きやクスッキー、原山勝負 (はるやましょうぶ) 、エイサーなどが盛んに行われていた。現在はどれだけの祭祀がのこっているのかは分からなかった。
  • 原山勝負 (はるやましょうぶ) は、19世紀に始まり、各間切で耕地の手入れ、農作物、山林の植栽手入れ保護等の成績を品評した農事奨励法で、勝村には褒賞を与え、負村には制裁を加えた。同時に競馬などの余興も行われた。津花波部落は村内でも常に上位を占め、戦前、 13年連続で優勝した模範部落だった。
  • 腰憩い (クスッキー) は、製糖終了後の旧2月2日に行われ、製糖が無事終了したことへの感謝を表わし、慰労の宴を催していた。
  • 綱引は、旧暦6月25日に行われる大きな年中行事であった。綱は、御殿の前道を境にして、北側の新島 ブルジマ (雌綱) と南側の古島 (雄綱) とに分れて、マカーヌカーからタンパルガーまでの、南北に伸びる部落の中通りで綱引きを行っていた。
  • 戦前まで、エイサーも行われていた。旧盆のウークイ の夜 (旧7月15日)、字の青年らがエイサーを踊りながら遅くまで各戸を廻ったそうだ。

津花波集落訪問ログ



津花波集落入り口

呉屋集落の東端は呉屋モーの終端になる。ここは同時に呉屋毛東側麓に沿って北方向に広がる津花波集落への入り口でもある。戦前までは、この入り口とマカー御願所の二カ所には大きなクヮーディーサーの木があったという。多分戦争で消滅したと思うが、今はそれ程大きくはないクヮーディーサーがあった。


前ヌ嶽 (メーヌタキ)

津花波集落入口付近、呉屋毛の麓には前ヌ嶽 (メーヌタキ) があるというのだが、地図に示された所は資材置き場になっている。ここで働いているおじいに御嶽を訪ねたが、知らないという。この前ノ嶽は琉球国由来記にも記載されているので昔から集落の重要な拝所だったのだが、資料には解説もなく、写真も無い。この拝所も合祀されているのだろうか?


津花波古島 (チファナファフルジマ)

現在の津花波集落の西の呉屋毛東側斜面には津花波古島遺跡がある。位置している。地元では、津花波の古島と呼んでいる。グスク系土器や中国製青磁などが採集されている。


喜納井 (チナーガー)

集落入口付近、古島の南端にある喜納ガーも古い拝井泉で、呉屋門中ゆかりの井泉という。地面を深さ約三メートル位まで掘り下げた井戸でだったのだが、その 場所は現在畑になっており現存しないが、香炉はマカーヌカー に合祀されている。


タンパルガー

集落入り口からの道は中通りになり、そこを進むと畑に進む別道がある。そこには与儀門中の産井 (ウブガー) だったタンパルガーが残っている。現況ではブロックが積み上げられ、本来の形は確認できないが、掘り抜きの井戸と思われる。かつて、誕生した赤子は、必ずそこから汲んだ水で産湯を使わせたという。


古島サーターヤー跡

琉球国高究帳によると、17世紀中期の津花波村の石高は102石余で、田方が93石、畠方が石で、稲作が農業の中心だった。年中行事でも稲作に関する祭祀が多かった。明治21年に甘蔗作付制限が解除され、サトウキビを自由に栽培することができるようになり、水田を畑に変える田倒し (タードーシ) が 盛んになり、明治36年の津花波村の民有地総反別は30町余で、田は僅か2町となり、畠が20町に増えている。(宅地 1町、荒地5町) 更に、明治41年には農商務省糖業改良事務局附属沖縄製糖工場が我謝に設置され、ますます糖業が盛んになっていった。明治42年からは試験的に分蜜糖製造が開始され、その後、付近農家の甘蔗を委託製造することになった。この時代には農家は自家黒糖製造から、製糖工場への甘蔗売却に変わり、甘蔗栽培に集中した事で甘蔗の作付面積が飛躍的に増加している。戦前には、津花波には部落北端に新島サーターヤーと、部落東外れには古島サーターヤーの二カ所のサーターヤーがあった。古島サーターヤーはマカー御願所があったサトウキビ畑の南端、集落の直ぐ外にあった。


津花波散布地、マカー御願所

マカースーリーに因んだ御願所として、津花波集落の北方の山の麓のはサトウキビ畑の中には、以前はマカー御願所と呼ばれた拝所があるはずなのだが、資料には写真も掲載されていたので、それを頼りに探すが見つからない。公民館で聞くと、農地改造事業の際に、ウンチケー (移設) され、公民館の前のマカーヌカーに合祀されたそうだ。元のマカー御願所ではマカースリーを祀っていた。マカースーリーは、伝承によると佐敷間切津波古村の安次富門中三男腹の出で、この地に来る以前の津花波には宮城大主という人が住んでおり、二人は協力して津波村の開拓に努め、こんにちの津花波村が創設されたという。マカースーリーの霊を慰めるために旧暦月15日、6月15日のウマチーには、村の行事として御殿小で祭祀を行なっているという。マカースーリーは池田の墓地に葬られている。この場所は津花波散布地でグスク系土器や輸入陶磁器が採集されており、また、マカー御願所がこの場所にあることから、集落跡とも推測されている。津花波集落の有力門中の一つの呉屋門中は津花波部落の創始者であるマカースーリーの子孫と伝わり、その宗家である屋号 前呉屋が根屋とされる。マカースーリーの協力者で翁長から来たといわれる宮城大主の子孫が宮城門中で、以前は宮城家はウマチーに使う神酒 (ウンサク) を司る家であった。また、マカースーリーと関係がある門中として与那嶺門中がある。昔、幸地の仲門家の少年が身売りに出されたので、マカースーリーがその子を引き取って育てた。その子が津波で独立し、与那嶺門中の創始家となったといわれる。 

カガンジャガー

かつてのマカー御願所の近くにはカガンジャガーという井戸があってと資料にはある。地図もあったのでその付近にはこの井戸があった。これがカガンジャガーなのかはわからないのだが、農地改造事業で拝所は移設 (ウンチケー) されても井戸は農地には必須なので残されていると思うので、場所から見るとこれだろうと思う。

御殿小 (ウドゥングア)

集落西側の呉屋毛 (ゴヤモー) の中腹に御殿小 (ウドゥングア) があり、集落からコンクリート敷きの参道が通じている。広場があり、その右手(北側) にコンクリート造りの拝殿がある。地元では御嶽殿とも呼ばれている。戦前までは赤瓦屋根で粟石製の四本柱で構築され、周囲は竹による網代編みで囲われていた拝殿はコンクリート造りに変わっている。拝殿内には、中央部に神棚が、左側奥壁寄りにはコンクリートブロックでH字状に組んだ中に御殿小火神が祀られている。御殿小は、元来は集落の始祖と伝承されるマカースーリーの屋敷で、かつては、この下側の現在は畑になっている場所に集落があったと考えられ、古島と呼ばれている。御殿小広場でグスク土器・中国製青磁器がわずかに採集されている。その後、地滑りによって二度も埋まったために、集落は移設したという。


津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)

御殿小 (ウドゥングア) から階段を上がって行くと、呉屋毛の頂上 (標高44m) に所在地は、右記した御殿の上方にあたり、御殿小広場からさらに行くと、散策道の脇に石製の祠の津花波之殿 (ツハナハヌトゥン) が置かれている。祠内には、ニービヌフニの石が置かれている。霊石 (ビジュル) と伝わっている。殿広場よりグスク時代の土器や近世陶磁器、鉄製品が数点採集されていることから、ここに集落があったとも考えられている。


津花波公民館

中通りは北に向かって緩やかな登坂になっている。そのほぼ終点付近に津花波公民館がある。

公民館の前には丘がある。丘の下の方は小さな広場になっており、コンクリート造りの滑り台と鉄棒がある。これは昭和の時代、沖縄戦が終わり、収容生活から村に戻ることが許されてまもなく各村で作られていたものだ。多分昭和20年代後半から30年前半に作られたものだろう。やはりこの公民館はかつての村屋 (ムラヤー) だろう。

丘の中腹と頂上に拝所があった。名前はわからない。


マカーヌカー

公民館の前には井戸がある。現在はコンクリートに変わっているが、当時の井戸と水場の形がよくわかる。マカーヌカー (マカンガー) と呼ばれる円形の掘り抜き井戸で、村の拝井泉だった。水道が敷設される以前までは、この井戸から水を汲んでいた。また村の産井 (ウブガー) として正月の若水もそこから汲んでいたという。以前の井戸は四角形だったそうだがが、大正時代に現在の形に改修されている。現在でも水量の豊富な井戸で給水パイプが通っているので現在でもつかわれているようだ。井戸の名称は、津花波集落の創始者といわれているマカースーリーに由来している。ウマチーにムラ拝みが行なわれている。

井戸の後方に祠が置かれているが、この祠にはマカーの御願所と喜納ヌ井が合祀されている。


津花波新島 (チファナファミージマ)

現集落の北側、急慮の中腹斜面には、津波の新島 (ミージマ) と呼ばれる場所だった。ここでも陶陶質土器などの近世の遺物が採集されており、伝承では古島に住んでいた人々がこの新島に移り、その後、現集落に移り住むようになったという。

新島サーターヤー

津花波新島 (チファナファミージマ) のすぐ下には新島サーターヤーがあった。現在は住宅街になっている。西原町の集落を巡っていると青年夜学高 (ユガッコウ) の跡地が幾つかあった。この津花波でもこの青年夜学高があり、サーターヤーで行われていた。糖期間中は閉校され、非製糖期の夜だけ授業が行われていた。西原間切青年夜学会は明治40年に西原尋常高等小学校で村内の無教育者や尋常小学校卒業者でも引き続き勉学はしたいが経済的余裕のない人たちのために開校され、小那覇、我謝、嘉手苅、与那城などにもひろがっていった。青年夜学会(方言でユガッコウという) が設立された。


今日は台風の後で、夏が戻ってきている。酷暑ではないが、真夏が続いているようで、汗びっしょりだった。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想

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