Okinawa 沖縄 #2 Day 211 (14/09/22) 西原町 (14) Goya Hamlet 呉屋集落

西原町 呉屋集落 (ごや、グヤ)

  • 旧国民学校跡地 (西原中学校)
  • 呉屋コミュニティーセンター
  • 西ヌ井 (イリヌカー、消滅)
  • 中の通り
  • 中ヌ井 (ナカヌカー)
  • 産井 (ウブガー)
  • 東ヌ井 (アガリヌカー)
  • 農村公園
  • 呉屋之殿 (グヤヌトゥン)
  • 呉屋根川 (グヤニーガー)
  • 石獅子
  • 中之御嶽 (ナカヌウタキ)
  • 上之嶽 (ウィヌダキ、グスクヌチヂ)
  • 津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)
  • 御殿小 (ウドゥングア)

台風12号の影響は沖縄本島では予報程はなく、雨もほとんど降らず、今日は終日快晴との予報。ただ、別の台風14号がこの週末に接近で雨予報。天気予報はあてにならない。雨が降るかもしれないので、今回も中城村ではなく西原町の呉屋集落を訪れる。呉屋には2年前に訪問し、前回、少し時間があったのでこの集落にも足を伸ばした。今日は残りの文化財を見学する。


西原町 呉屋集落 (ごや、グヤ)

呉屋 (グヤ) は、西原平野をとりまく丘陵地の北麓に位置しており、東側は津花波、西側は小波津に隣接している。集落の後方 の北西側には呉屋森があり、そこを腰当て(クサティ) として、その麓に集落が広がっている。

呉屋は歴史の古い集落で南島風土記では「ごりや村」、1667年の評定所の廻文例寄には「呉理屋鎖之側」と記録されているので、古くは「呉理屋村」と呼ばれていた。琉球国高究帳には、「娯屋村」と記されている。1743年の乾隆帳に 「呉屋村」があらわれる。
上呉屋毛 (イーゴヤモー) と呼ばれる丘陵の斜面の上呉屋散布地では染付片や陶質土器片や沖縄製陶器片が確認されている。 呉屋森 (ゴヤムイ) の頂上から斜面部にかけての呉屋散布地のには呉屋之殿、上ヌ嶽などの拝所があり、呉屋集落の聖地となっており、遺物として磨石や石皿が採集されている。かつての呉屋集落はこの呉屋森付近にあって、次第に下降してきたと考えられている。琉球千草之巻には、呉屋集落の世立初めとして「越来胡屋より来る呉屋大主在所根所」とあり、また、 地組始めとして「西原棚原村より来る幸地子 在所座神」とある。村の伝承では、村の宗始家として三家の東小 (アガリグヮー)、 前門 (メージョー)、川ヌ端 (カーヌハタ) があり、その中で最も古い家柄は 玉城間切玉城村の仲村渠家からの分かれの東小家で国元 (クニムトゥ、根屋) といわれている。前門門中は王府時代に勝連間切平安名島から来たと伝わる。川端門中は、王府時代に、与那城間切屋慶名村出身の役人が国元の東小家の娘と結婚し、ここに移り住んだのが始まりだといわれている。
昭和27年の行政区改変で、村全域が6行政区に統合され、呉屋は津波、小橋川、内間などと一緒に第3区に編入された。 その後、1年ほどでこの6区制は廃止になり、元の24字制に改められた。昭和52年には人口急増で再び行政区改編が行われ、呉屋は小波津と統合され、第16区に編入されたが、村の自治は元々の呉屋集落で自治会組織して個別に行なっている。
明治13年の呉屋村の人口は321人 (52戸) で、明治36年には401人 (72 戸) に増加している。呉屋集落は昭和47年の復帰前には、人口231人 (51戸) と明治時代に比べ6割ほどにしか回復していない。復帰後、西原中学校周辺の農地が宅地化され、町外から多くの人たちが転入し人口は増加している。昭和62年には 復帰前の491人 (130戸) に増加している。それ以降はコンスタントに人口は増えて、現在でも増加傾向にある。

他の地域と比較すると、人口増加率は西原町平均よりもかなり低い。域内の半分以上が丘陵地なので、住宅地には適していない地形がその理由だろう。


琉球国由来記に記載されている拝所は

  • 御嶽: 上ヌ嶽 (神名: マネツカサノ御イベ)
  • 殿: 呉屋之殿
  • 拝所: 呉屋火神
  • 拝井泉: 呉屋根川、西ヌカー、中ヌカー東ヌカー
集落内の井戸は八カ所あり、その内現存しているのは四つのみで、西ヌ井 (イリヌカー)、村井 (ムラガー)、中ヌ割井 (ナカヌワリガー)、東ヌウブミガーは現存しない。
祭祀はすべて小波津ノロによって行われた。

呉屋集落で行われていた祭祀行事は以下の通り。


呉屋集落訪問ログ



旧国民学校跡地 (西原中学校)

西から呉屋集落に入るところに、1959年 (昭和34年) に開校した旧国民学校跡地に西原中学校がある。西原中学校と丘陵上にある字翁長の坂田中学校の両校を統合し創立された。 開校後1年間は両中学校の校舎を使用していたが、1960年 (昭和35年) に翁長にあった旧国民学校跡地に新校舎が完成し移転開校している。 中学校敷地の半分は翁長にあるのだが、呉屋との北の境界線にあるので、この移転で呉屋集落も活性化されている。戦後はこの国民学校には米軍が入り、撤退するのは2年後だった。

呉屋コミュニティーセンター

旧国民学校跡地の南に隣接して呉屋コミュニティーセンターがある。集落の呉屋毛 (グヤモー) の麓東側で、この場所には元々はサーターヤーがあり、集落中心の別のサーターヤー跡にあった村屋がこの場所に呉屋コミュニティーセンターとして移設されている。

西ヌ井 (イリヌカー)

現在の公民館 (サーターヤー跡) の駐車場には、西ヌ井 (イリヌカー) があったそうだが、現在は消滅して残っていない。呉屋集落には8つの井戸があったのだが、現在は半分の四つしか残っていない。この西ヌ井 (イリヌカー) は消滅した井戸の一つ。西の井戸とあるように、この場所はかつての集落の西の端だった。集落はここから呉屋毛 (グヤモー) に沿って東に伸びている。

中の通り

集落の中心部を縦断する道を中の通りと呼んでいた。以前は、毎年旧暦6月25日に、この中通りで、そこを境に東組 (雄綱) と西組 (雌綱) に分れ、綱引が行われていたが、現在は行われていない。


中ヌ井 (ナカヌカー)

現存している四つの井戸の一つの共同井戸だった中ヌ井 (ナカヌカー) が集落のほぼ中央の中の通り沿いにある。円形の掘り抜き井戸で、正月の若水を汲んだという。井戸は、石灰岩の切石を使用して、アーチ状の屋根を造っており、特異な形態の井戸である。 御願はウマチーに行なわれる。


産井 (ウブガー)

中ヌ井 (ナカヌカー) の道を降りたところに産井 (ウブガー) がある。円形の掘り込み井戸なにだが、現在はコンクリート製の筒が三段も積まれている。村の産井 (ウブガー) として利用され、赤子の食べ物を作るときは、ここから水を汲んだという。御願はウマチーに行なわれている。

中ヌ井 (ナカヌカー) の道の中の通りを登ったところの畑の中にも井戸があった。


中ヌサーターヤー跡

産井 (ウブガー) の前は駐車場とちょっとした広場がある。ここはかつてのサーターヤーがあった場所で、中ヌ割 (ナカヌワリー) と前ヌ割 (メーヌワリー) の二つの組のサーターヤーが置かれていた。17世紀初頭の琉球国高究帳には、呉屋村の石高は94石余で、田が85石、畠は8石とみられ、当時の農業は稲作が主であったことが窺える。明治21年に甘蔗作付制限が撤廃され、田での稲作から甘蔗畑への転換 (タードーシ) が進んだ。明治36年には呉屋村には稲作をする田は姿を消し、民有地総面積42町のうち畑が35町余を占め、残りは 原野が4町余、宅地が1町余と大きく変化している。収穫した甘蔗は自家製造したり、大型製糖工場に売却したりしたが、工場側と生産者の農民との間に原料甘蔗の価格でいざこざが絶えなかった。西原村内には農家の甘蔗販売組合が結成され、工場側との交渉にあたった。

以前はこの場所で旧暦7月15日のお盆のウークイ (精霊送り) の夜に、青年が中心になってエイサーが行われた。ウークイが終ると、若い男女が中ヌサーターヤー前広場に集まり、歌三味線や太鼓で各家々を廻り、無病息災と家族の繁栄を祝福した歌を唄いながら踊る。このエイサーも戦時体制下の昭和18年に警察署からの命令で取り止めになった。戦後、この場所に村屋 (公民館) が建てられていた。現在は公民館は別の場所に移り、駐車場となっている。


東ヌ井 (アガリヌカー)

集落の東外れ、隣村の津花波集落への入り口の近くに、もう一つ産井 (ウブガー) とも呼ばれている東ヌ井 (アガリヌカー) があったが、現在は形式保存されている。井戸跡の周りはコンクリートで固められているが、井戸の直ぐ側には給水パイプがあるので、この下にはまだ水が沸いているようだ。この井戸は浦添西原線 (県道38号線) 沿いにあり、この県道沿い、東ヌ井 (アガリヌカー) のすぐ西側には、消滅してしまった村井 (ムラガー) と東産新井 (アガリウブミーガー) があったそうだ。


呉屋毛 (グヤモー、呉屋森 グヤムイ)

呉屋集落の後方は呉屋毛の丘陵が横たわっている。
呉屋毛の尾根の東には沖縄戦当時は日本軍陣地があり45高地と呼ばれていた。この地域にあった丘陵にはいくつもの日本軍陣地が置かれて、米軍との激戦区となった場所だった。当然の如く、呉屋集落は大きな戦禍を被っている。

戦時中、多くの日本兵が集落内の各民家に投宿していた。部落内には陣地構築用資材の製材所や精米所などが置かれ、また、部落の前にあった西原郵便局 (写真下) は駐屯隊の経理室に使われた。製材所や精米所には、集落住民が動員されていた。

宇地泊∼嘉数∼我如古∼南上原∼和宇慶の複廓陣地第一線は4/8から4/24まで米軍の攻撃で激戦が行われた。第一線は4/21には米軍に占領され、日本軍はもはや第一戦の死守を断念し、4/22には戦線を我謝∼小波津∼翁長∼幸地の線まで下げている。

日本軍の第二線の主力部隊は前田高地に歩兵第32連隊、幸地地区に第22連隊、運玉森地区に89連隊を配備し、その一角となる小波津地区には、歩兵第32連隊第1大隊を配備して、日本軍第2線陣地帯を構成していた。

米軍の侵攻ルートを見ると、4月29日から30日には日本軍陣地があった45高地は米軍に占領され、30日には、米軍は呉屋集落内まで前進して、ここを前線として、Chimney Crag と Roulette Wheel を攻撃している。呉屋集落は戦争の真った中に巻き込まれている。

  • 4/25 - 日本軍 (赤色で示している) は小波津の丘陵地に三段構成で陣地を設置。この陣地には砲台を築いていた。この陣地から斬込隊を派遣して米軍を擾乱していた。
  • 4/26 - 米軍 (青色で示している) は幸地と小波津地区を攻撃、日本軍は善戦し米軍を撃退。小橋川北に陣取っていた慶かい部隊は丘陵上からの米軍攻撃で多くの戦死者を出し撤退。
  • 4/27 - 米軍は小波津丘陵地に置かれた日本軍陣地に対し猛烈な砲撃を行い、陣地は集中砲火の砲煙におおわれ、Roulette Wheel の大山隊は逆襲、善戦して陣地を確保。
  • 4/28 - 米軍は早朝から砲撃を開始。小橋川方向から前進中の米軍戦車4両に対し連隊砲で射撃、2両を転覆、2両を後退させた。日本軍は後方のWilliam、Easy の陣地から27日は約300発、28日は約700発の擲弾筒により射撃し、小橋川からの米軍歩兵、翁長からの戦車の進出を阻止した。大山隊は陣前及び陣内で戦車2両を撃破しRoulette Wheel 陣地を保持。米軍、日本軍双方に多大の損害があった。
  • 4/29 - 小橋川、津花波から米軍戦車群が小那覇部落に侵入。日本軍は砲兵の集中射撃を浴びせ、米軍の前進を阻む。翁長方から米軍戦車が大山隊陣地に迫ってきたが、擲弾筒の集中火によって後退させた。
  • 4/30 - 未明から米軍は攻撃を開始し、Chimny Crag とRoulette Wheel に侵攻し、小波津西側高地の日本軍第一線陣地はついに米軍に占領された。
  • 5/1 - 丸地大隊は日米軍の占領地拡大の阻止に努めた。
  • 5/2 - 小波津に侵入した米軍は、兵力を増強して地歩の拡大を図ろうとしており激戦が展開されたが、概ね現陣地を保持。
  • 5/4 - 日本軍は小波津川の線を攻撃開始線として呉家北側の45高地の米軍を奇襲攻撃し陣地を占領するが、その後の米軍の反撃により、全滅的損害を受けて、運玉森地区に後退。


この沖縄戦で字民の半数以上にあたる162人 (54%) が犠牲になっている。西原町ではこの呉屋集落では戦争孤児の比率が最も高く、戦没者の22%に当たる30人が家族が亡くなり戦争孤児になっている。

終戦後、各地区の収容所にいた字民らは我謝に帰還したが、元部落への居住は許されず、1年余も我謝での生活を余儀なくされた。その後、県道三八号線南側 (現在の西原教会付近)に、掘建小屋を建てて住むようになった。二年後、米軍が旧西原国民学校付近から引き揚げたので、ようやく元部落へ移転することができた。


農村公園、アシビナー

呉屋集落の中央部から呉屋毛 (グヤモー) 丘陵への登り口がある。呉屋毛の尾根には呉屋と津花波にまたがる650mの散策道があり、その道に沿って、呉屋集落の拝所の上之嶽 (ウィヌダキ、グスクヌチヂ)、津花波主落の拝所の御殿小 (ウドゥングア)、津花波之殿 (ツハナハヌトゥン) がある。散策道への入り口には農村公園があり、かつては呉屋集落のアシビナーだった場所で、中ノ御嶽 (ナカヌウタキ)、呉屋之殿 (グヤヌトゥン)、石獅子、呉屋根川 (グヤニーガー) の史跡がある。このアシビナーでは、旧暦7月17日から20日の三、四日連続で毎晩ムラアシビが行われ、村芝居が盛大に行われ、多くの見物人が集まった。村芝居は戦前の農村では、唯一の大きな農村娯楽でもあったが、多額の費用がかかったので、呉屋では、費用を各戸に割り当てて徴収し、二~三年に一度しか催されなかった。村芝居の中心的役者である多くの若者らが海外へ移民するようになり、昭和九年の村芝居を最後に中止された。

農村公園の後、この散策道を徒歩で往復したが、誰とも会わなかった。散策道はきれいに整備されているので、往復1.3kmと散歩には手頃なのだが、平日だったからだろうか? 最も、呉屋集落でも殆ど人は出歩いていない。


呉屋之殿 (グヤヌトゥン)

農村公園には呉屋集落の拝所である呉屋之殿 (グヤヌトゥン) がある。一番重要な拝所なのだろう、祠が作られて、手入れがされている。呉屋之殿は上嶽の下方のかつて祭祀に使われた広場のアシビナーの一角にある。五月、六月ウマチーのとき、小波津ノ口が呉屋之殿に来て祭祀が行われた。


印部土手石

呉屋之殿の裏手に印部土手石が残っている。石の表面は擦り切れたのか刻まれていた文字は見当たらない。正面には原名の「ごや原」、カタカナで「ク」と彫りこまれていたそうだ。印部土手石周囲には根張石と思われる石灰岩が残っている。以前は小波津のニシジョウ (屋号) の人達がウマチーの際に拝んでいたという。


呉屋根川 (グヤニーガー、ユーガー)

アシビナー (農村公園) の東側に呉屋では最も古いといわれる呉屋根川 (ユーガー) がある。現況からは地面を簡素に堀りくぼめて井戸口を石灰岩の石で方形状に囲った井戸と思われる。現在は涸渇している。五月ウマチーの時に小波津ノロが来て祭祀を行なったという。呉屋集落はこの近くの中ノ御嶽の周辺にあったそうなので、村人はこの井戸の水を使っていたのだろう。


石獅子

アシビナーを降りた所に石獅子があった。呉屋部落後方(北側)になり、集落の守護神として、ヤマヌカミ (山の神) のケーシ (返し) であるといわれ、運玉森に向けて設置されている。大切にされているのか、ブロックで祠が造られて、その中に鎮座している。前には香炉も置かれている。石獅子に香炉が置かれているのは珍しい。製作年代および製作者などについては不明。

中之御嶽 (ナカヌウタキ)

アシビナーから呉屋毛丘陵への階段の下に中之御嶽 (ナカヌウタキ) がある。この中之御嶽は琉球国由来記には出ていない。いつの時代からか中之御嶽と地元の人たちが呼ぶようになったのだろう。琉球国由来記には、このアシビナーの一画に部落の守護神を祀っている呉屋ヌ火神があったとされている。地図では石獅子がある場所の近くなのだが見つからなかった。もしかして、中之御嶽が呉屋ヌ火神だろうか? かつての呉屋集落はこの中ノ御嶽の周辺にあったそうだ。
ここから階段で丘陵の尾根まで登り、遊歩道を丘陵の端まで歩く。遊歩道は整備されて歩きやすい。遊歩道はの両側は林になっており、景色が見えないのは残念だ。

上之嶽 (ウィヌダキ、グスクヌチヂ)

呉屋毛の山頂、遊歩道の脇に上之嶽 (神名 マネツカサノ御イベ) が残っている。、呉屋集落発祥の地だといわれている。この拝所は琉球国由来記にもあり、古くから地元ではグスクヌチヂと呼んでいる。

津花波之殿 (ツハナハヌトゥン)

上之嶽から散策道を少し北に進んだところには津花波之殿 (ツハナハヌトゥン) の祠が置かれている。この拝所は呉屋集落ではなく呉屋毛の反対側、東側にある隣村の津花波集落の御願の対象となっている。この辺りには津花波の昔の集落があった場所といわれ、現在は麓の方に移動している。

御殿小 (ウドゥングア)

上之嶽と津花波之殿の間に丘陵の東の麓にある津花波集落へ降りる道があり、その中間あたりの斜面に御殿小 (ウドゥングア) がある。この拝所も津花波集落住民が拝んでいる。津花波之殿からこの一帯にかけてかつて津花波集落が広がっていた。



次に、隣の村の津花波集落に移動する。(訪問記は別途)



参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想

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