Okinawa 沖縄 #2 Day 166 (19/02/22) 旧真和志村 (12) Aja Hamlet 安謝集落
旧真和志村 安謝集落 (あじゃ)
- 安謝公民館
- 中ヌ井戸 (ナカヌカー)
- 砂糖屋跡 (サーターヤー)
- 前道 (メーミチ)
- 西ヌ井戸 (イリヌカー、普久原)
- 西ヌ井戸 (イリヌカー、上江洲)
- 獅子屋 (シーシヤー)
- 村屋跡 (内間商店)
- 村屋跡 (伊波商店)
- 東ヌ井戸 (アガリヌカー)
- 東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ)
- 根屋 (ニーヤ)
- 新砂糖屋跡 (サーターヤー)
- 龕屋 (ガンヤ)
- 墓地群
- 御嶽小 (ウタキグヮー)
- 竜宮神
- 安守塔
- 墓地群
- 中ヌ御嶽 (ナカヌウタキ)
- 土帝君 (トゥーティークン)
- 多和田 (タータ) ヌン殿内 (銘苅祝女殿内) [未訪問]
- ビジュル
- ミートゥンダガー
- 御先世ヌ井戸 (ウサチユーヌカー)
- 安謝市営住宅、安謝第一市営住宅
- ナナユヒービラ
- 安謝トンネル
- 安謝劇場跡
- 恵比寿神社 (平敷屋朝敏処刑地)
旧真和志村 安謝集落 (あじゃ)
安謝集落の起源については不詳だが、12世紀~15世紀初頭の間のグスク時代と考えられている。研究者は「内間金満付近にあった多和田 (ターダ) マキョ、シグルクコダの居住者は農耕生活をおくっており、これが、内間、銘苅、安謝の起源」と推測している。
琉球千草之巻には「世立初 真和志大君の御子内間大主也所在根所、地組始 金満按司の御子真和志按司所在」とあり、琉球祖先宝鑑では、「百名大君 居所は玉城村仲村渠免登武と云う家也 此の大君は父を相続す 其人の長男百名世主二男真和志大神居所は同安謝村根屋比嘉と云う 其後は同多和田村嘉手納子が三男之を相続す。」とある。安謝集落を訪問した際の印象では内間集落とは安謝川で分断されているので、内間集落と安謝集落が同一の村とは考えにくい。研究者の説の様に、安謝と内間が創建される前は、同じ地域に住み、そこから、他地域に移り。内間集落から金満按司の息子か、免登武 (ミントン) の息子がここに移り住み安謝村をつくったのだろう。安謝誌では前者と後者のコンビネーションの説が記載されていた。根屋となった多和田 (ターダ) の比嘉家が村を起こし、それを多和田 (ターダ) 村の嘉手納が後を継ぎ村立てを完成させたとしている。多和田は安謝集落ができる前に住んでいた地域にあたる。昔、琉球王統時代には前安謝と呼ばれ、銘苅のシグルクガーからウサチユガー付近までが旧集落だったと思われる。(安謝集落訪問ログに集落の変遷をプロットした)
その後、宗家、根屋とされる比嘉 (多和田) と比嘉 (嘉手納 安謝から天久に移り安謝に戻る。中佐敷屋敷に入る)、知念 (前門、最大門中、大城按司 [真武?] の子孫で浦添内間に居住、浦添内間から600年ほど前に王府の命により、この地に移住、 内間に按司墓がある。一時期は天久も治めていた。) が安謝村を共同で造ったともいわれる。この時期に多くの門中も内間や勝連から移ってきている。安謝に複数の御嶽があるのは、それぞれの門中が其の守護神としての御嶽を設けたと考えられる。東ヌ御嶽 (大御嶽)の前には中佐敷家、中ヌ御嶽の南側には伊波小家、御嶽小の近くには前門家の屋敷があり、それぞれがその当該御嶽と関係があるのだろう。
安謝は元々は西原間切に属していたが、1673年 (延宝元年) に真和志間切に移管され、1689年 (元禄2年) に廃村となった銘苅を吸収。明治以降は真和志村、真和志市管轄下を経て、戦後、1954年 (昭和29年) に真和志市が那覇市と合併し、那覇市真和志支所管内となったが、1979年 (昭和54年) には本庁管轄に移管されて現在に至る。
戦前までは、民家の分布は以前からあった安謝集落地域に限定されていたが、戦後その範囲は拡大している特に安謝港地区は、米軍に土地接収された安謝住民や那覇の住吉と垣花の住民が移住して、人口が激増している。字安謝はその地域の南半分は米軍牧港住宅地区となっていたが、返還され1992年から2002年にかけて住宅地が造成され、多くの住民が転入し、字安謝の全域はほとんどが住宅地域となっている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: スグロクノ嶽 (神名: 中西タケツカサ、コダガマノ御イベ 消滅)、多和田巫火神 (神名: 多和田マキウ、ネゴンコダマノ火 消滅)
安謝集落で行われていた年中祭祀は以下の通り。この内、現在も行われている行事がどれかなのかは調べられなかった。
安謝集落訪問ログ
安謝公民館
中ヌ井戸 (ナカヌカー)
公民館の裏には中ヌ井戸 (ナカヌカー) と呼ばれた井戸跡がある。安謝集落の人口が増え、住民の生活用水確保の為に造られたもので、中ヌ御嶽のグサイ井泉という。井戸があった時の名残りなのだろう、その一部を残して拝所になっている。井戸があった場所には給水パイプが、吸い上げポンプに通っているので、現在でも使われているようだ。
砂糖屋跡 (サーターヤー)
前道 (メーミチ)
西ヌ井戸 (イリヌカー、普久原)
公民館から前道 (メーミチ) を西に進み、集落内の西の普久原に西ヌ井戸 (イリヌカー) があった。拝所となっているが、戦後、集落のある人 (知念) が拝む事を主張し、それ以降に拝み出したそうだ。戦前までは、この辺りは「シマグヮー」と呼ばれて、東ヌ御嶽付近の元々の集落からこの地に集落が広がったという。当時は、ここには、まだ住民は少なかったのでこのように呼ばれていた。
西ヌ井戸 (イリヌカー、上江洲)
普久原の西ヌ井戸 (イリヌカー) から、前道を更に西に進むと集落の西端の上江洲にも、同じ名前の西ヌ井戸 (イリヌカー) がある。先程の西ヌ井戸 (イリヌカー) よりも、昔から拝まれていた井戸で、御嶽小 (ウタキグヮー) のグサイ井戸になる。井戸の横に井戸の神が祀られている。
獅子屋 (シーシヤー)
村屋跡 (内間商店)
村屋跡 (伊波商店)
東ヌ井戸 (アガリヌカー)
東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ)
根屋 (ニーヤ)
新砂糖屋跡 (サーターヤー)
龕屋 (ガンヤ)
安謝集落の民家が集まっていた地域の北側は高台になっており、そこは聖域だったのだろう、御嶽や墓があった地域になる。集落の西の端、丁度、西ヌ井戸の北側に龕屋 (ガンヤ) が残っている。隙間から中を除くと、龕 (ガン) の骨組みのようなものが置かれている。集落では8月11日にここを拝んでいる。龕屋の側には墓があった。
墓地群
御嶽小 (ウタキグヮー)
竜宮神
御嶽小 (ウタキグヮー) の前には広場があり、そこには竜宮神が祀られていた。大漁祈願、海で遭難し亡くなった人を祀っている。元々は、国道58号線の西にあったものを、1982年に、ここに移設している。
安守塔
墓地群
中ヌ御嶽 (ナカヌウタキ)
土帝君 (トゥーティークン)
多和田 (タータ) ヌン殿内 (銘苅祝女殿内) [未訪問]
ビジュル
ミートゥンダガー
次は、集落から東に外れ、安謝集落が造られる以前に住んでいた多和田 (ターダ) があった付近に移動する。安謝川の辺りに造られた県営安岡市街地住宅 (130戸) の前、道路沿いに金網で囲まれた場所がある。
御先世ヌ井戸 (ウサチユーヌカー)
東之井戸に移設された御先世ヌ井戸 (ウサチユーヌカー) はこの銘苅市営団地内 (1982年、160戸 155 世帯、335人) にあった。団地建設時に埋められてしまった。ここには井戸の形式保存と祠が置かれている。祠には「前安謝」と書かれた石柱が置かれている。安謝はかつては前安謝と呼ばれていた。
安謝市営住宅、安謝第一市営住宅
ナナユヒービラ
- かつて、広い田畑を有する者が天久村に居り、身売りした7人の主人として、彼らにその田畑を耕作させていた。ある時、主人は、安謝村にある私有の田んぼを7人に与えた。彼らは、これまでにも増して主人の仕事に精を出し、また、時間を作っては自らの田んぼを耕し、収益を上げ、ついには、借金を返済したという。近隣の人々は、大いに感心し、7人に与えられた田んぼを、「七与平利田」と称したという。
安謝トンネル
安謝劇場跡
この住吉区も、岡野地区と同じく、1946年の復興計画で、大規模に工作隊の移住が行われた。那覇中心部は未開放、那覇と泊の両港が民間使用できなかった事でに対策でもあった。この開発で、安謝は戦後、大いに繁栄した。この安謝港の住吉区の市場や繁華街に安謝劇場が建てられ、住民の娯楽の中心となっていた。
恵比寿神社 (平敷屋朝敏処刑地)
洞窟入り口にはいくつもの拝所がある。それぞれが何の拝所なのかは分からない。
洞窟の中にもいくつも拝所があった。洞窟は奥に続いているが、ここで多くの人が無くなったと思うと、好奇心だけで中に入っちくのはためらわれた。
これで2日間の安謝集落訪問は終了。琉球王統時代から沖縄戦、戦後の集落の変遷の歴史をたどることができた。何日か図書館にも通い、調べ物もしたので、自分の中では消化できたように思える。
一日目は久しぶりの晴日で、少し汗ばむくらいだった。集落へ行きには、若いころ聞いてた Eric Claton が昨年リリースしたアルバムをかけながらバイクをこぐ。アコースティックギター中心で、しぶい曲が多い。Cream 時代を思わせるような曲もあり、気に入った。帰りは Yes のボーカリストだった Jon Anderson が昨年に発表した作品。Yes 時代のProgressive Rock ではなく、メロディカルな曲が多じかった。二人とも75歳を過ぎているが、いまだに健在で活動しているのには脱帽だ。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 安謝誌 (2010 安謝誌編集委員会)
- 沖縄の古代部落マキヨの研究 (1977 稲村賢敷)
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