Okinawa 沖縄 #2 Day 165 (15/02/22) 旧浦添間切 (2) Uchima Hamlet 内間集落
旧浦添間切 内間集落 (うちま、ウチマ)
- 前の橋、城毛 (グシクモー)
- カチラガー (カシラガー)
- 御先之國 龍宮神
- 中組砂糖屋 (サーターヤー)
- 中の橋、遊び毛 (アシビナー)
- 前道 (メーミチ)
- 苗代田跡
- 村屋跡 (内間児童センター)
- 内間の大アカギ
- 東之殿 (アガリヌトゥン)、ウグヮンサー森 (ムイ)、内間グスク
- 七代の墓の拝所
- 茶貫貫丸 (チャヌチヌチマル) 墓
- 西之殿 (イリヌトゥン)
- 根屋 (宮里門中会館)
- 後之井 (クシヌカー)
- 東之井 (アガリヌカー)、下東門 (シチャアガリジョー)
- 金城家跡
- 上知念家
- 天火龍大神 (あまひりゅうおおかみ)
- ウムラガー [未訪問]
- 西組砂糖屋
- 内間公民館 (旧児童公園、ウグヮンサームイ)
- 東組砂糖屋、山小 (ヤマグヮー) (浦添高等学校)
- 上門井泉 (イージョーガー) [未訪問]
- アジシ墓
- カンジャーガマ
- 森墓 (ムイバカ)
- 安謝川
- 内間西公園
- 軽便鉄道 内間駅跡
- クムトガー [未訪問]
前回訪問した沢岻集落の西隣にある内間集落を訪問する。
旧浦添間切 内間集落 (うちま、ウチマ)
18世紀には安謝村 (アジャ) とも呼ばれた。安波茶 (アハチャ) が変化して安謝 (アジャ) となったといわれている。琉球国由来記では、内間村の御嶽は安謝村にあるとなっている。安謝川を挟んで、那覇市の字安謝と相対しており、那覇市の安謝を前安謝 (メーアジャ)、内間を後安謝 (クシアジャ) 又は尻安謝 (シリアジャ) と呼んでいた。昔は那覇の安謝村と同一集落だったとの説もある。どの様な経緯で内間となったのかは不明だそうだ。この内間集落は琉球王統後半は内間殿内が治めていた。先日訪れた沢岻集落では沢岻世之主の長男は内間大主として内間集落の村立てをしたとあったが、内間集落の資料ではその様な記述は無かった。
戦前の内間は浦添市でも小さな部類に属する戸数90戸、400人くらいの字だった。 那覇市に接しているため か、戦後、移り住む人が増え、1960年代では毎年二桁の率で人口が増加し、本土復帰後も1980年代前半までは年で5%ぐらいの増加が続いた。今では人口約9,500人浦添市でも宮城についで二番目に人口の多い字になっている。ただ近年は世帯数はまだまだ増加傾向が続いているが、人口は微減傾向になっている。
下のグラフと地図を見ても、人口増加が著しかったことが判る。
現在では学校、公園など公共施設以外はほとんどが住宅街となっている。
人口の増加率は浦添市の中でも平均よりかなり高い地域になっている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 安謝森 (神名: イツラゴマシラゴノ御イベ 消滅)、ヨリアゲ森 (神名ワカマツスデマツノ御イベ 消滅)
- 殿: 安謝之大ヒヤノ殿 (消滅)
年中祭祀は、1月1日のチータチウガミ (一日拝み)、 四月のウシーミー (御清明)、5月15日のウマチー、6月15日のウマチー、8月15日の獅子舞い等がある。 それに毎月日にはチータチウガミと称するムラウガミ (村拝み) もある。
- 正月と毎月のチータチウガミでは公民館の台所の火の神、公民館内のシーシーガミ (獅子神)、合祀場の西側の火の神、タキサン
- 両ウマチーでは公民館の台所の火の神、公民館内のシーシーガミ (獅子神)、合祀場の西側の火の神、タキサン、お宮東側のムラグサイ、クシヌカー、根屋、アガリガー、カチラガー、 ウムラガー、イージョーガー
- ウシーミーには、茶貫々丸墓とアジパカ
- 獅子舞いには、公民館の二か所、お宮、その他
内間集落にはノロはおらず、沢岻ノロが内間集落の祭祀を司っていた。
内間集落訪問ログ
前の橋、城毛 (グシクモー)
那覇市のおもろまち、銘苅から安謝川に架かる前の橋に向かう。この橋付近で那覇市から浦添市に変わる。この橋のすぐ横に小さな丘陵地の城毛 (グシクモー) がある。今は随分と削られてしまったが、少しだけ残っている。この城毛 (グシクモー) という名から判断して内間グスクとの説もある。この内間グスクの場所については、資料によって異なっている。
カチラガー (カシラガー)
内間集落には五つの拝井泉 (アガリガー、クシスカー [村ガー]、上門ガー、ウムラガー、カチラガー) があった。前の四井泉は集落内の安謝森の南斜面にあったが、このカチラガーだけは少し離れた安謝川対岸の城毛 (グシクモー) の下にある。井戸はコンクリートで蓋がされている。現在は井戸は涸れているが、かつては貴婦人が洗髪をするほど綺麗な水で、それが名前の由来になっている。部落住民が若水 (ワカミジ)、産水 (ウブミジ)、死水 (シニミジ) や飲料水として利用していた。茶後軒丸の長男の井戸と伝わり、内間グスクのクサイガーとなっていたともいわれる。
御先之國 龍宮神
カシラガーの隣には御先之國 龍宮神と銘のある拝所があった。詳細は不明だが、前にある安謝川には船着き場があり、海から船が登って来ていたという。それで、この場所に龍宮神を置き拝んでいたのだろう。
中組砂糖屋 (サーターヤー)
前の橋を渡り内間集落に向かう途中に中組の砂糖屋 (サーターヤー) 跡がある。このあたりは安謝川支流の南側になるのだが、内間集落が拡張した地域にあたる。戦前は、イリグミ(西組)、アガリグ (東組)、ナカグミ (中組)という三つのクミがあり、それぞれが砂糖屋 (サーターヤー) を持っていた。戦前の内間集落は200世帯程の小さな村だったが、戦後、人口が激増し、戦前は三班構成だったのが五班、八班と増えていった。沖縄戦で村は破壊され、サーターヤーも消滅してしまった。戦後はサーターヤーは再建せず、生産したサトウキビは原料として製糖会社に納入していた。
中の橋、遊び毛 (アシビナー)
道を北に進むと安謝川支流があり、中の橋を渡ると小さな広場がある。この広場がアシビナーで内間集落の中心的として、村行事が行なわれていた。川の北側をウチジマ (内島) で旧集落で旧家が多くある。南側がメージマ (前島) で、分家していった者が多かったという。ここを境に西 (イリンダカリ) と東 (アガリンダカリ) に分けて、旧歷6月25日には綱引が行われていた。現在は、水田が無くなり、藁が入手困難で子供綱引きだけになっている。旧歷8月15日には夜祭が行われ、マチボー、獅子舞、伝統の舞踊、狂言、唐手、棒術等種々の芸が披露された。コロナ禍で、ここ二年は祭が中止になっている。公民館に勤める青年は今年こそは再開出来ればと言っていた。
前道 (メーミチ)
川に沿って走る道が前道 (メーミチ) で、ここがかつての内間集落の南端にあたる。
苗代田跡
前道を西側、川が安謝川と合流する所が、戦前の苗代田跡がある。内間は水の豊富な地域で明治から大正時代は稲作が中心の産業だった。戦前には甘薯 (サツマイモ) と甘藷 (サトウキビ) 栽培に移り、現在では畑は殆ど姿を消し、住宅街となってしまった。
村屋跡 (内間児童センター)
内間集落の中心地には以前の公民館、村屋跡がある。前の広場はチニングヮーモーという広場で子供の遊び場や棒術の練習場所だった。現在は内間児童センターとなっている。
内間の大アカギ
内間児童センターの前には大戦の戦災から免れた数少ない大アカギが残っている。浦添市指定文化財 (天然記念物) となっている。アカギは沖縄諸島、八重山諸島、中国南部からインド、マレーシア、オーストラリアに生息している広葉樹。内間の大アカギは高さは約18m、直径1.2mで、枝が7.5mに広がっている。
東之殿 (アガリヌトゥン)、ウグヮンサー森 (ムイ)、内間グスク
児童センター辺りは上の山 (ウイヌヤマ) という小山になっており、その中にウグヮンサー森 (ムイ) があった。グスク時代の痕跡がある内間遺跡でもあり、土器片や青磁片、貝殻・獣・魚等の骨などの生活痕跡が出土している。ここは内間グスクがあったとの説もある。城塞としてのグスクよりは聖域としてのグスクだったのだろう。ここには東ノ殿 (アガリヌトゥン) が置かれていた。この場所は琉球国由来記にある安謝森 (神名: イツラゴマシラゴノ御イベ) の御嶽と推測されている。1968年に住宅地開発の際に北の高台の上ノ山とウガンサー森にあった他の拝所をこの地に集め集合拝所として合祀している。児童センターの裏がその集合拝所で、三つの祠が建てられている。
七代の墓の拝所
向かって右側にはコンクリート造りの拝屋があり、中には六つの香炉が置かれて、そのうち左の三つには御先 (ウサチ) 内間先祖、中世内間先祖 (9-14代)、根屋ノロ火之神が祀られている。ここは内間集落の先祖を祀る拝所となっている。七代に渡る祖先を祀っているので、現在の公民館があるウグヮンサー森にあった七代の墓の拝所が移設されているのではと思う。
その隣にはコンクリート造りの祠がある。向かって左から水火之御神、瑞穂之御神、茶後軒丸、嶽々之御神、殿之御神の香炉が置かれている。ここは集落にあった御嶽と殿を集めている。上ノ山にあった東之殿、西之殿、その他幾つかの拝所を合祀している。
更に奥にも祠が置かれ、そこには美女留神、竜宮神/嶽竜宮神、金満火の神、御村カー、東カー、天之御川/天地御川神、地頭火の神が祀られている。この拝所では井泉、火之神などが合祀されている。
茶貫貫丸 (チャヌチヌチマル) 墓
拝所の後方には、四百年程前に疫病を退治の為、内間集落に獅子舞と棒術を伝えた人物とされている茶貫貫丸 (チャヌチヌチマル) の墓がある。茶貫貫丸は茶貫貫丸金満 (チャヌチカニマンカニマン) という名称でも呼ばれており、農漁具を製作して農民に与え人望のあった人物とも考えられ、内間グスク (この場所かグシク毛が内間グスクの二つの説がある) の城主で村立てをした人物とも考えられ、ここを拠点にして勢力を誇っていたと思われる。元々の墓はこの後方に5mぐらいの岩山があり、大瀬 (ウフシ) と呼ばれ、その上にウフシヌウカミと拝まれていた岩上墓があった。太平洋戦争時ではこの墓に出征する兵士の武運長久を願ったという。墓の隣にはコンクリート造りの小さな祠が置かれている。西之殿にあった地頭火神だそうだ。茶後軒丸には伝承が残っている。
- 茶後軒丸は易者で、王の前で箱の中に入っているネズミの数を当てる事になりました。家臣は箱の中に1匹のネズミを入れて、その数を茶後軒丸に尋ねます。すると彼は「5匹です」と答えました。家臣は王の前で間違いを答える彼の事を偽者であるとして処刑にする事にしました。処刑場へ連れて行かれた頃、王が箱の中を覗いたところ、ネズミが4匹の子供を産んでいました。王は慌てて処刑を中止させるも、茶後軒丸は処刑された後でした。処刑の前に茶後軒丸は「死後は首里城が見える岩の上に葬って下さい」と遺言していた為に、現在の墓がある場所に葬られたという。
この伝承は南城市の旧大里村西原集落にあった大屋 (ウフヤ) 神屋や旧玉城村前川集落にあった木田大時 (ムクタウフトゥチ) 屋敷跡、首里の玉陵を訪れた際に知った木田大時 (ムクタウフトゥチ) の伝承と遺言を除けば全く同じ内容だ。木田大時は近くの安謝で処刑されている。木田大時の話が茶後軒丸のエピソードとしてここに伝わったのかも知れない。
西之殿 (イリヌトゥン)
東之殿の西にはかつては西之殿 (イリヌトゥン) があった。はっきりとした場所は地図では曖昧なのだが、多分この辺りと思う。琉球国由来記に内間にあったと記されている安謝之大ヒヤノ殿と考えられている。この殿の傍らに地頭火神があったとが、殿も地頭火神も消滅してしまい、集合拝所に合祀され、現在はマンションとなっている。
根屋 (宮里門中会館)
大アカギの前のシーサー通りを渡った所には内間集落の根屋がある。内間集落の三つの旧家のひとつの宮里門中の根屋であり宮里門中会館となっている。(他の旧家は上知念と金城) 昔は、この三家血統からコデ (神女) を代々排出していた。この辺りが古い内間集落が始まった場所とされている。
後之井 (クシヌカー)
根屋 (宮里門中会館) の隣の駐車場の中に井戸跡がある。後之井 (クシヌカー) かもしれない。資料には大アカギの斜下にあって雨つゆの井戸ともいわれ、宮里家のクサイ井泉だったと書かれている。大アカギの斜下にはそれらしきものはなく、大まかな地図で示された付近にはこの井戸しか見当たらなかった。宮里家の隣にあるので、ここがそうかもしれない。内間集落の拝井泉で、かつての村井 (ムラガー) として使用されていた。村井は先程訪れた集合拝所に合祀されていたので、消滅してしまったのかもしれない。
東之井 (アガリヌカー)、下東門 (シチャアガリジョー)
シーサー通りの交差点に小さな休憩場がある。その中に井戸跡があった。多分、東之井 (アガリヌカー) だろう。集落内の共同井戸の中では最も新しい井戸で明治37~38年頃の大旱魃の時の水不足の際に掘ったのだが、期待した程水は豊富ではなかったそうだ。ここも集落の拝井泉になっている。先程の集合拝所に合祀されている。ここの南側に宮里アパートが建っているが、そこは屋号 下東門の屋敷跡だそうだ。根屋の宮里門中と関係があるのだろう。
金城家跡
屋号 下東門の南隣が内間集落の三つの有力旧家の一つの金城家の屋敷があった場所。現在は駐車場になっている。
上知念家
大アカギの隣に立派な邸宅がある。ここは三つ目の旧家の上知念家だ。このように御嶽があった聖域の高台の安謝森とヨリアゲ森をクサティー (腰当) としてその下近くに村の有力者の屋敷がある典型的な沖縄集落の形が見える。
天火龍大神 (あまひりゅうおおかみ)
シーサー通りの歩道の脇に琉球神道の竜宮神の一つの天火龍大神の拝所があった。沖縄にある12の竜宮神の拝所は今まで四つ見たので、これで五つ目だ。
天火龍大神は一世の天龍大御神と天久神乙女王御神の間に生まれた二世になる次男にあたる。天火龍大神は中臣幸乙女王 (なかしんこうおとめおお) と結ばれて子供3神を授かったとされている。
ウムラガー [未訪問]
集落の五つの拝井泉の一つがウムラガーで、安謝森の斜面下にあったという。資料では現存しているのかどうかも書かれていない。大まかな地図ではこの辺りだが、それらしきものは見当たらない。水に関わるものはこれしかなかった。多分違うだろう。
西組砂糖屋
現在の公民館があるウグヮンサームイの東には西組のサーターヤーが戦前まであった場所。
内間公民館 (旧児童公園、ウグヮンサームイ)
七代の御願所として七代の墓 (アジウ墓) があったウグヮンサー森 (ムイ) と呼ばれる聖域だった。琉球国由来記にあるもう一つの御嶽のヨリアゲ森 (神名ワカマツスデマツノ御イベ) に相当すると考えられ、沢岻祝女が崇む所なっていた。1968年 (昭和43年) に住宅地開発で、この地にあった拝所は東之殿に合祀されている。その後、1978年 (昭和53年) に、この場所に児童公園が造られている。公民館の南の壁には内間の芸能文化の獅子舞と棒術のレリーフが掘られている。
東組砂糖屋、山小 (ヤマグヮー) (浦添高等学校)
公民館の北は上ノ山 (ウィーヌヤマ) と呼ばれ浦添高等学校がある。その西側にある裏門を入った左側には東組のサーターヤーが戦前まで置かれ、右側は広場となって住民の集会場所や子供の遊び場となっていた。上ノ山は鷹取山 (タカトイヤマ) とも呼ばれていた。ここには鷹が多く飛来したので、鷹狩りが行なわれたので、そう呼ばれたそうだ。
上門井泉 (イージョーガー) [未訪問]
高校裏門北側の端に集落の拝井泉の上門井泉 (イージョーガー) があると書かれていたが、見当たらなかった。上門ウヤフジのクサイ井泉、仲前田の所有だった。この井戸もクシヌカー同様に位の高い井戸だとされていた。
アジシ墓
集落の西側にはアジシ墓がある。この辺り一帯を支配したと思われる人物の墓という。宮里根屋とも書き添えられているので、宮里家の先祖の墓の様だ。
カンジャーガマ
アジシ墓の隣には鍛冶屋が鍛冶を行ったカンジャーガマ (写真上) という洞窟がある。この辺りに鍛冶屋があったという。沖縄戦では疎開せず村に残留した住民の避難壕として使われていた。このカンジャーガマ以外にも墓なのか二つの洞窟跡 (写真下) があった。
アジシ墓の上の道は綺麗に整備されている。この道を少し進んだ所にも古墓があった。
内間集落には戦争犠牲者の慰霊碑はなかった。沖縄戦では犠牲者は集落全人口の32%で浦添市の中では、少ない方だが、それでも3分の一の住民が命を失っている。
森墓 (ムイバカ)
公民館の北西に東門森という場所に小山がある。この山の頂上にも古墓があり、森墓 (ムイバカ) と呼ばれている。
安謝川
字内間と那覇市の字安謝と字銘苅の境界には安謝川が流れている。安謝川は那覇市首里石嶺町の丘陵台地から、石嶺川と合流し末吉公園を貫流した後、沢岻川、銘苅川と合流し東シナ海へ注いでいる。内間では川の辺りに内間西公園があり川縁には遊歩道がある。
内間西公園
内間西公園はサチバルマーチューと呼ばれる山林原野だったところで、内間では最後まで昔のままだった場所。公園入り口には立派なシーサーが置かれている。(それでこの公園の北を走る道がシーサー通りと呼ばれているのだろうか?) 公園はグスクをイメージしているような石垣が多くあり、変化に富んでおり、散歩していて気持ちの良い公園だ。家庭やサーターヤーで使う薪はここで調達していたそうだ。またここには多くに墓があったという。墓は沖縄戦では住民の避難壕として使われていた。米軍が内間に接近してくると、住民は銘苅の避難壕に移って行った。
公園内に残されている立派な古墓がある。ここには多くの墓があったが、残されたのはこれひとつだけの様だ。
軽便鉄道 内間駅跡
那覇市・浦添市・宜野湾市をつなぐ県道251号線 (パイプライン通り、かつてはパイプラインが敷設されていた) の年金事務所のところは軽便鉄道嘉手納線の内間駅 (無人駅) があった場所で、大正11年に開通した。
明治時代に地方のインフラ整備推進の為に、国有鉄道よりも規定が緩く、鉄道の規模も小さく、小資本で建設運営が可能な「軽便鉄道法」が制定され、沖縄県でもこの軽便鉄道が敷設された。1914年 (大正3年)、那覇駅と与那原駅を結ぶ与那原線 (約9.4km) 開通、1922年 (大正11年)、那覇から北上する嘉手納線 (約23.6km)、1923年 (大正12年) に那覇から南下する糸満線 (約18.3km) が開通している。沖縄では軽便 (ケイベン) がなまってケイビン(ケービン)という愛称で呼ばれていた。沖縄戦によって壊滅的な被害を受け戦後復興することなく、1945年に、軽便鉄道 (沖縄県営鉄道) は廃止となった。操業30年という短い期間だった。この鉄道が残っていれば糸満、中頭部はもっと発展していたと思う。
パイプライン通りは軽便鉄道の路線だった。この旧路線の内間駅跡の南側の橋の欄干が軽便鉄道をモチーフにしたデザインになっていた。
クムトガー [未訪問]
集落からかなり外れた北のクムト原は、後原屋取 (クシバルヤードイ) があった場所。後原では、明治末期に4世帯が米作栽培に従事していた。その後、生産高が徐々 に高まって来て、ここに移住する人が増え、屋取集落が出来た。水田の中にはクムトガーがあり、飲料水として利用されていた。現在は水田も畑もなく一面住宅街になっている。その住宅街を歩き回ったが、井戸は見つからなかった。内間集落の拝井泉ではないのでなくなってしまっているのかもしれない。
内間集落内を散策中に出会った花。左はコリウスで、熱帯地帯の花。赤い葉が鮮やか、後ろに見える藤色が花なのだろうか? 写真中は姫仏桑華 (ヒメブッソウゲ) でこれっも熱帯地域の花、本土には江戸時代末期に琉球から入っている。右はこれまた熱帯地域原産のユーフォルビア・レウコケファラという花で、白い花がいっぱい咲いていた。本土で街中で見られる花なのかわからないが、ここ沖縄では多くの熱帯地域の花が街中で見られる。
これで、内間集落散策は終了。今日は真夏のように暑い一日だった。このところ雨の日が多く気温も低く少し肌寒い日が続いていたのだが、今日は風もなく快適な気候だった。いつも通り音楽を聴きながら帰途に着く。サイクリング中は Rock よりやはり Smooth Jazz の方があっているようだ。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- 内間字誌 (1981 内間自治会)
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