Okinawa 沖縄 #2 Day 164 (10/02/22) 旧浦添間切 (1) Takushi Hamlet 沢岻集落

旧浦添間切 沢岻集落 (たくし)

  • 端川 (ハンダガー)
  • 沢岻遺跡、安謝墓 今帰仁代
  • 中之殿 (ナカヌトゥン、めじろ公園)
  • おもろの碑
  • 中之嶽 (呉屋小嶽)
  • 下之殿 (シチャヌトゥン、ハンタ之殿)
  • 上之殿 (ウィーヌトゥン、上澤岻殿)
  • 公芳之御嶽 (クボーウタキ、金城ヨリノハナ小嶽)
  • 杭之御墓 (クイジーヌウハカ、沢岻世主墓)
  • ソウジガー
  • 金満 (カニマン) 御嶽、ノロ墓
  • クビリ山 (ムイ)
  • 沢岻の拝所
  • 東之御嶽 (アガリヌウタキ、呉屋森)
  • 慰霊之碑
  • 新里殿内墓
  • 拝所
  • 火種の神
  • チブガー
  • 沢岻公民館 (東之殿跡、根所跡、ノロ火之神跡)
  • 村屋 (ムラヤー) 跡
  • タチミチ
  • 当間根屋 (トウマニーヤ)
  • 根神屋 (にがみや、ニーガンヤー)
  • 根神井戸 (ニーガンガー)
  • ノロ殿内 (ドゥンチ) 跡
  • 龕屋 (ガンヤ―) 跡
  • 魔除け石 (未訪問)
  • 沢岻川
  • 地頭火之神 (ジト―ヒヌカン)
  • カンジャーガマ跡
  • キジムナー公園
  • 西之井泉 (イリヌカー)
  • 沢岻按司の墓
  • 東樋川 (アガリヒージャー)
  • 浦添御殿 (ウラシーウドゥン) の墓
  • 沢岻公園
  • 前道 (メーミチ)
  • イージャーシチャヌカー
  • 浜川 (ハマガー)
  • 中頭方西海道、北の坂 (ニシヌヒラ)
  • 七番毛 (シチバンモー)

今日から、沖縄中部地域に移る。中部地域は浦添市、宜野湾市、沖縄市、うるま市、北谷町、嘉手納町、西原町、読谷村、北中城村、中城村の10行政区になる。全て自転車で日帰りが出来るかは分からないが、頑張って挑戦してみよう。
この中で、西原町は既に訪問済みなのだが、まだ訪れていない文化財もあるので、幾つかの集落は再訪予定。今日から中部地域南の浦添市の沢岻集落から始める。

旧浦添間切 沢岻集落 (たくし)

沢岻集落は沖縄集落の特徴を備え、背後にあるクビリ山やグーヤーモーをクサティムイ (腰当森) にして、その前に殿 (トゥン) やノロ殿内と根屋、その前や周囲にその子孫の家々を配置し、周囲には拝所やカーがある。クビリ山 (ムイ) は里を守り薪や水源をもたらしてくれる豊かな生命の源であり、祖先の霊が鎮座する聖域となっている。

沢岻 (タクシ) の名の由来には一説としてこの地が岩場の上にあるのでタク (高い) シー (岩) から来ているという。

王府時代には、首里王府や在番奉行所の命で冊封使の滞在中は中国人の徘徊の監視にあたった。 後原の嶺及び兼本 (元) 西側はずれに小屋を設け、徘徊を発見したときは、那覇から城間ムラに引っ越していた在番奉行衆へ連絡させる役目を負わされていたという。首里に近いため、浦添 (ウラシー) の中でも首里文化の影響が強いところだった。首里の御殿、殿内に働きに行っていた住民も多く、言葉も首里に非常に近く、丁寧な言葉使いで、沢岻方言と呼ばれた。

沢岻に人が住み始めたのは1000年以上前に沢岻遺跡あたりであったと考えられている。その後、住居範囲は東、南に広がっていった。以降村が形成されていく。沢岻には元々は二つの村があったとされている。丘陵上の西側には金城 (カナグスク)、又は、上沢岻 (イーダクシ) と呼ばれた村があった。もう一つは呉屋 (グヤ) 村が東側にあった。上沢岻村は風が強く、生活が厳しく現在の集落の地に移住し始め17世紀には移住が完了している。

字沢岻の人口は1880年 (明治13年) には751人、沖縄戦が終了し、住民が集落に帰還して時期には600人程に減少。その後、徐々に増加し、明治13年の時の人口に戻ったのは1965年で、20年程かかっている。人口が激増し始めたのは、沖縄本土復帰の1972年以降で、2021年末では4500人で、明治13年に比べ6倍になっている。沖縄南部に比べれば、かなり高い増加率。しかし、ここ5年は人口増加は止まり、微減傾向がみられる。

民家の分布変遷を見ると丘陵斜面や墓地以外はほとんど民家が立ち並び、昔は純農村だった沢岻から大きな変化となっている。

1949年の集落の様子が掲載されていた。民家もまばらだ。

浦添市の他の行政区と比較すると、明治時代の人口は比較的多いグループだったが、1972年にかけて、他の字にどんどんと抜かれ、下から三番目に少ない字に落ちている。現在は下から5番目に少ない字。

先に見たように人口は明治13年に比べ6倍にもなっているが、他の字の人口増加率は沢岻のそれよりもはるかに大きく、沢岻の増加率は浦添市ではかなり低い。これは沢岻の地形字としての面積と地形の制約によると思われる。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 金城ヨリノハナ森 (神名: テルツカサノ御イベ、金満御獄)、金城小嶽 (神名: テルツカサノ御イベ、公芳之御嶽)、呉屋森 (神名: テルツカサノ御イベ、東之御嶽)、呉屋森小嶽 (神名: テルツカサノ御イベ、中之御嶽)
  • 殿: 澤岻巫火神 (ノロ火の之神)、上澤岻之殿 (上之殿)、金城之殿 (中之殿)、ハンタノ殿 (下之殿)、呉屋殿

集落としての祭祀は沢岻が戦後急速に都市化したことにより、廃れてしまっている。以下はかつて集落内で行行われていた祭祀だが、このうち現在でも行われているかは記載がなかった。


沢岻集落訪問ログ



那覇市中心から国道330号線を北に進み、ゆいレール古島駅を越えると字沢岻の西端に入る。集落の西側から沢岻の文化財を見て行く。

端川 (ハンダガー)

国道330号線から東にある丘陵に向かい坂道を登る。坂道をほぼ上り切る手前、崖下に洞窟形式のハンタガーがある。沢岻は急速に人口が増加し、大部分が住宅地となって、昔からあった拝所や井泉は取り壊され住宅地に変わっている。これは浦添市共通の事で、昔からの形が残っている拝所や井泉は限られている。ここは昔からの姿が比較的残っている文化財のひとつ。

沢岻遺跡、安謝墓 今帰仁代

ハンタガーから坂道を登る。この丘陵には1960年に発見された沢岻遺跡があり、沢岻グスクと知られるようになった。実際にはグスクではなく、古代の住居跡の遺跡だそうだ。現在は丘陵の斜面、上部の平場は住宅街になって、遺跡らしい遺構は残っていない。
この丘陵の西側斜面は墓地となっており、その中に幾つかの古墓がある。その中に安謝墓と今帰仁代之墓 (ナチジンデーヌハカ) がある。今帰仁代之墓は今帰仁から沢岻に移動しムラが作られた大昔の墓と伝わっているそうだ。この地域はクニンドート呼ばれ、戦前から集落の墓地になっていた。沖縄戦当時は日本軍の陣地壕が掘られていた。
他にも古墓がある。最も高い場所には五世代之墓と書かれた古墓もあった。これらの墓の詳細は見つからなかった。村の創建者とされる沢岻世之主は天孫三世とされるので、この「世」と関係があるのだろうか?五世とすると沢岻世之主の孫の墓?
ここからは那覇市が見渡せる。ビルや住宅がびっしりと建っている。那覇は大都市だ。

中之殿 (ナカヌトゥン、めじろ公園)

坂道を登りきり、沢岻遺跡の前の住宅地の中に、めじろ公園がある。
公園内には中之殿の祠が置かれている。かつての殿とは祀られている神が増えているように思える。祠の手前にある石碑には「中之殿之御嶽 御天聖地邪馬台国根火の神 竜宮母大女神国十二支軸 天照神鏡みるく神 昭和五十八年八月吉日建立」とある。祠内には火之神の三つの石の他、「天照 恵比寿 大国」と書かれた石碑とその前に鏡があり、ヒミコ女神と書かれてた石碑も見える。祠の脇には、「天続々女神 国じく」と彫られた石碑も建っている。この天続は沢岻世之主の長女 天続首大神のことだろう。本来はこれがこの殿の主神であるべきと思う。
想像では、元々こんなに多くの、しかも性格の異なる神を中之殿で祀っていたのではなく、ばらばらに置かれていた拝所を合祀したのでは無いだろうか? 弥勒菩薩から沖縄独自に変化したミルク神や火の神は沖縄各地で見られる。天照やヒミコなどは大和 (日本本土) の影響と思われる。琉球神道、祖神、日本神道、仏教がここに合祀されているのは、沖縄らしい。また、拝所などを造る際にはユタに相談するケースが多く、その助言で色々な神が追加されて祀られることもあったり、拝所という場所を利用して、新興宗教団体が勝手に横に独自の拝所を建ててしまう事もある。これに違和感を感じる人は多いとは思うが、沖縄ではよくある事で、沖縄の人はそのまま受け入れているようだ。

おもろの碑

公園内におもろの碑なるものがあった。沖縄各地でこのおもろそうしの歌の碑を見かける。その土地にちなんだ風物や人物を詠んだ歌碑だ。ここの歌碑は尚清王 (中城按司 ?~1526年) の名付け親だった沢岻親方盛理 (中城按司護佐丸の孫) を讃えたおもろ。案内板によると沢岻盛里 (沢岻の太郎) の名付けの名声が、琉球国中にまで鳴り轟き、多くの人々に慕われている事を詠んだとう。沢岻親方盛理は尚真・尚清父子二王に仕え、正徳年間 (1506~21年) に三司官に任ぜられ、嘉靖元年 (1522年) には王舅となって中国へ遣いして、王を乗せる鳳凰轎と首里城崖下龍樋の吐水龍頭をもたらした。

中之嶽 (呉屋小嶽)

先程の中之殿では「中之殿之御嶽」と書かれており、中之御嶽もそこに合祀されているようだ。かつては、中之御嶽は中之殿のちかくの上部にあったそうだ。現在は住宅街になっており、その面影は消えてしまった。琉球国由来記にある呉屋森小嶽 (神名: テルツカサノ御イベ) と考えられている。ある資料では沢岻村の西に天雨続御獄があったと書かれているが、琉球国由来記には出てこない。この天雨続御獄では澤岻世之主の長女の天続首大神を祀っていたとある。先程見た中之殿内に天続々女神とあったので、この中之嶽 (呉屋小嶽) が天雨続御獄のことのような気がする。


下之殿 (シチャヌトゥン、ハンタ之殿)

中之殿の近く東南の住宅から先程訪れた安謝墓と今帰仁代の間ぐらいには下之殿があったそうだ。ここは完全に住宅地に変わってしまい、かつての姿は失われてしまい祠も残っていない。現在では、沢岻の拝所に合祀されている。琉球国由来記のハンタ之殿という。

上之殿 (ウィーヌトゥン、上澤岻殿)

中之殿、下之殿とあるので、上之殿 (ウィーヌトゥン) もかつては存在していたが、下之殿と同じく沢岻の拝所に合祀されている。琉球国由来記の上澤岻殿と考えられている。この辺りはクビリ山と呼ばれる丘陵の上になり、昔は北側の澤岻樋川ぐらいから中之殿ぐらいまでの地域に上沢岻村 (金城村) があり、現在の集落はクビリ山丘陵傾斜地南側麓の下沢岻にある。かつての上沢岻村は丘陵の上にあった事で、冬風吹き曝しで生活に支障をきたしていた。それで、いつの時代かに、下沢岻に移動して沢岻村となったと伝えられている。かつての上沢岻村のあたりは墓地が広範囲に広がっている。人が住むには過酷な環境だったのでそうなったのだろう。現在でも民家は多くはない。

公芳之御嶽 (クボーウタキ、金城ヨリノハナ小嶽)

上之殿 (ウィーヌトゥン) の西側墓地の中からその南の住宅街あたりの間には公芳之御嶽 (クボーウタキ) があったそうだ。この御嶽も現在は存在せず、沢岻の拝所に合祀されている。琉球国由来記の金城小嶽 (神名: テルツカサノ御イベ、公芳之御嶽) とされている。公芳神を祀っており、沢岻世主の息子の金満の妹 (沢岻世主の次女) と伝わっている。

1971-3年の公芳之御嶽の写真。ここが墓地や住宅街に整地されてしまい御嶽は消滅してしまった。


杭之御墓 (クイジーヌウハカ、沢岻世主墓)

墓地の西の端の崖に移住に尽力した人の墓がクボー嶽の崖下イールキバンタの杭之御墓 (クイジーヌウハカ) で、村の拝所となっている。沢岻世主墓と書かれている。この近くにあった公芳之御嶽に祀られていた公芳神の父親で、沢岻村の始祖とされ、金城家元祖にあたる。墓は17世紀のものと考えられている。

墓の前にはこの人物の説明文があった。「初代比嘉 この方は沈没した唐の島より遭難して現在の天久崎樋川 (アメクサチヒージャーガー) にたどり着き近くの洞窟で生活していた。後にマヤー地 (現在の沢岻) に移住し世広ぎ国広ぎをしたお方である 今和元年11月」

ここからは浦添西海岸まで臨める。

沢岻樋川 (タクシヒージャー)

上之殿 (ウィーヌトゥン) から、北に向かう緩やかな下りの坂道を進んだ所に沢岻樋川 (タクシヒージャー) が残っていた。1000年以上の歴史があると言われている。当時、泉の前は石畳が敷かれ、近くには首里道と泊那覇道が交差しており、琉球王朝時代には、浦添・中城・読谷方面より那覇・泊港へ唐船を迎える商いの道として利用され、ここを通る人々は泉のほとりで一休みし、のどを潤したそうだ。沢岻部落発祥の頃から地域住民に重宝され、子供が産まれた時の産水として使われていた。
琉球国由来記によると、風水の吉方 (亥の年) の井戸として元日の朝汲んだ水を、国王の長寿・繁栄を祈願し、若水としてを首里王府に献上したという。

ソウジガー

更に道を北に進んだ所、昭和薬科大学附属高等学校中学校の敷地内にはソウジガーがあったとされているが、現在は消滅してしまっている。この他にも沢岻集落住民が使っていた井泉があったのだが、どのような経緯なのかは分からないが、多くは消滅してしまっている。このソージガーはこの後訪れる金満御嶽内に香炉 (ショウジガ-) が置かれ、祀られていた。近くには大きな貯水槽 (写真右) があった。

金満 (カニマン) 御嶽、ノロ墓

下之殿まで戻り、そのすぐ東側の小山にある金満御嶽に向かう。
御嶽へは人が一人通れるぐらい狭い階段がある。その階段脇にノロ墓があった。祝女神墓、御先祝女神墓と書かれた石柱が建っている。代々の沢岻ノロが葬られているのだろう。
細い階段のを登ると道はコンクリートで固めた道になる。昔は石畳だったのだろう。上と広場があり、そこが金満御嶽。
ここには、数え切れないほどの香炉が置かれている。まず道の最初の拝所は、南山拝所と刻まれた標柱が立っている。文字通り、南山への遥拝所と思う。その前にも香炉が四つ置かれている。左から順に下之殿、下之御嶽、ソージ川、ツボ御川と書かれている。先程訪れたが、消滅している拝所を移設して祀っている。この内、ツボ御川について全く情報が無く、初めて聞く井泉だ。
この南山拝所の後方には、二つの香炉が置かれており、中之殿、上沢岻之殿と刻まれている。上沢岻之殿は先程、元あった場所には行ってみたが消滅していた。ここに合祀されている。中之殿は先程の公園内にあったが、公園の拝所は新しく建てられたもので、それまではここに移設され合祀られていたのではないだろうか?
隣には金満按司添と刻まれた標柱と金満玉滑と刻まれた香炉が一基設置された古墓がある。金満按司とは沢岻世之主の三男で、伊平屋に行き大主となり、その後、この地に帰郷し、金銀多く持ってきて人民に施し、農具を作って与え、人々の暮らしを支え、金満 (かにまん) と呼ばれるようになった。この金満按司が父の沢岻世之主の後を継いでいる。
一般的に御嶽は村が出来た際にその祖先の墓を御嶽として村の守り神として崇めている事が多いので、この金満按司は上沢岻村の祖先とされている。
ここの岩場のてっぺんに金満御嶽と刻まれた標柱がある。ここが御嶽の中心になる。岩の前には幾つもの香炉が置かれている。それぞれに名前が刻まれている。摩耗して読めないものもあるのだが、向かって左手前の三つの香炉 (写真左中) には、天続之王骨、祝女番之御香炉、天続とある。沢岻世之主の長女 天続首大神を祀っていると思う。真ん中の香炉 (判読できない) をおいて、右手前の三つの香炉 (右下) の二つには公芳之御骨、公芳と刻まれている。これは沢岻世之主の次女の公芳神を祀っている。手前の天続之王骨と公芳之御骨の後ろには、墓の入り口らしきものがある。天続岩の上には五つも香炉 (左下) が置かれているのだが、そのうち金満御嶽、火の神の二つしか判読出来なかった。
金満御嶽の前には大きな石碑が建立されている。御嶽復元覚書の石碑になる。「公芳御嶽と敷地天続城 沢岻部落の創設者である沢岻世主の御仕立した所と住居跡である此の敷地は部落の共有地となっていたために部落によって売却されたが祖先代々から守られてきた、神土地であるので部落根屋に当る富間家 当間栄幸は大切な拝所場所を潰されては祖先に申しわけないと旧場所に保持するの希望して各門中にその阻止のため署名運動などのあらゆる努力を払ったがかなえられず此の場所に移転せしめた此の敷地に安置した嶽々は次の通りである。公芳嶽、天続嶽、王骨、御先火の神、ツボウカー、ショウジガー 昭和四七年九月廿日」と書かれており、この場所は元々の金満御嶽があった場所ではなく、やむを得ず移設された場所だった。また、その奥には七増田之拝所が置かれている。(詳細は見つからず)
更に金満御嶽奥隣には、香炉が七基置かれており、上の段左から城、天孫氏世伊平屋、玉城世 明東、下の段左から城グサイ、根香炉、御先今帰仁、玉城城番と刻まれている。その隣の岩の前にも大里城番と書かれた香炉が置かれていた。それぞれを祀っている経緯については説明は見当たらないのだが、ある程度想像はつく。
  • 天孫氏は天孫三世とされる沢岻世之主の先祖にあたる。
  • 沢岻世之主の父親は今帰仁按司、祖父は北山大按司、曾祖父は天帝子(免武登能太祖) とされ北山系で今帰仁は故郷とも言える。
  • 伊平屋は金満按司とその妹の公芳が一時期住んでいた場所。
  • 明東 (ミントン) はアマミキヨとシネリキヨが久高島から渡り住み始めた聖地で、沢岻はシネリキヨ系の子孫とも伝わっている。
これで合計29もの香炉が置かれている。集落にあった各拝所をここに昭和49年に合祀したのだ。

クビリ山 (ムイ)

金満御嶽がある山はクビリ山と呼ばれ、東西に延びている。かつては丘陵の上には上沢岻村があったが、現在の集落地に移住合併し、現在はほとんどが墓地になっている。琉球王朝時代には御嶽があった。沖縄線では米軍の首里への侵攻の途中にあたり激戦地となった場所。(戦闘の詳細は慰霊之塔訪問参照)

沢岻の拝所

クビリ山の東端には沢岻拝所と呼ばれている共同拝所がある。集落に点在していた多くの拝所は、沖縄戦での破壊、拝所土地の売却、住宅地への転換などで、元の場所に維持が難しくなり、移設されて拝まれている。先程訪れた金満御嶽と同じように、此の地に多くの拝所が移されている。沢岻拝所へは石の鳥居をくぐり階段を登った所にある。戦後の宅地開発で1968年 (昭和43年) にこのクビリ山の東端にまとめて祀ったものだそうだ。その祠内部には、五つの御嶽と二つの拝所が合祀されている。左から、火水の守 (神)、西之御嶽 (イリノウタキ)、中之御嶽 (ナカヌウタキ)、公芳之御嶽 (クボーウタキ)、金満御嶽 (カニマンウタキ)、東之御嶽 (アガリヌウタキ)、根所を祀る香炉が置かれている。琉球国由来記には澤岻村には四つの御嶽、安謝村に二つの御嶽が記載されている。澤岻村の御嶽については数は一致するが、名称が全く異なっている。それぞれがどの御嶽に該当するのかは明らかにはなっていないが、下方に呉屋村を控えていたと思われる東之御嶽が呉屋森、鼻状的地形の上に位置している金満御獄が金城ヨリノハナ森、公芳之御嶽が金城ヨリノハナ小嶽、中之御嶽が呉屋小嶽ではないかと推測されている。
沢岻拝所の背後、裏には、別の香炉など並んでいた。こちらでは集落のあった四つの井泉 (ハンタガー、ヒージャガー、チブガー、東ヒージャー) と四つの殿 (トゥン: 西之殿、中之殿、上之殿、東之殿) が祀られている。

東之御嶽 (アガリヌウタキ、呉屋森)

澤岻拝所に奥がかつての東之御嶽 (呉屋森) だった場所。現在は沢岻共同拝所に合祀されている。この御嶽では誰が祀られていたのかは見つからず。

慰霊之碑

沢岻拝所の側にある沢岻戦没者の慰霊之碑が建っている。沖縄戦で犠牲になった320名を含め345柱の慰霊に為、昭和42年に建立されたもの。毎年6月23日に慰霊祭が行われている。
沖縄本島に上陸した米軍は、日本陸軍本部のある首里に向かい侵攻していた。
  • 4月9-26日 嘉数高地での戦闘
  • 4月4-19日 米軍の総攻撃開始
  • 4月20-22日 嘉数高地で激戦
  • 4月20日 牧港・伊祖付近日本軍陣地を突破
  • 4月25日 米軍第二次総攻撃開始。 仲間、前田、幸地、小波津、我謝に攻撃集中
  • 4月26日 城間占領、米軍は前田高地に侵入
  • 4月28日 沢岻の全家屋、焼夷弾により焼失
  • 5月4~5日 日本軍の総攻撃、米軍は西部方面から沢岻高地を砲撃開始
  • 5月8日 米軍は安謝、沢岻、我謝を結ぶ線まで進行開始
  • 5月8-9日 安波茶で戦闘継続
  • 5月10日 米軍安謝川を渡る
  • 5月11日 米軍第三次の総攻撃を開始
  • 5月12日 米軍は天久台地の大部分占領し、安里の五二高地に進出。
  • 5月12日 沢岻高地も北側の盆地から米軍戦車隊の大攻勢で馬乗り攻撃を受ける。
  • 5月13日 沢岻高地も、激しい争奪戦を繰り返したが夕方には占領される 
  • 5月14日 日本軍は沢岻高地の陣地から守備隊は首里へ後退
  • 5月15日 米軍が大名高地の攻撃を開始
  • 5月11-21日 安里の五二高地で激戦、21日に陥落。
  • 5月29日 首里城の占領。その後、戦線は南部へ移る。

インターネットでこの沢岻高地 (クビリ山) の戦いを詳しく解説した記事が掲載されているので、抜粋したものを載せておく。沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」

浦添市の各字の犠牲者は以下の表の通りで、首里に近く激戦地だった事や、その後も島尻に逃げた住民も多くの犠牲者が出ている。当時の浦添の全人口の45%が戦死しており、家族が全滅した世帯は全世帯の23%にも達する悲惨な結果だった。沢岻集落でも、住民に42%を亡くし、世帯の8割が家族に犠牲者が出て全滅世帯は23%だった。これは、島尻地区の犠牲者よりかなり多い数字だ。また、沢岻高地の戦いで、部落は焼け野原となり、壊滅状態であった。


新里殿内墓

澤岻の拝所の北側、東之御嶽があった場所の東側に新里殿内墓があり、「向氏 勝連王子朝宗門中 前里家 新里家 佐久田家」とある。勝連王子朝宗は琉球王国第二尚氏王統の第4代国王尚清 (1497年 - 1555年) の三男で尚楊叢 (号 金渓) のことで。向氏新里殿内一世にあたる。この墓は勝連王子朝宗自身の墓では無く、子孫にあたる三つの門中の墓のようだ。先程訪れためじろ公園内にあったおもろの碑にあった尚真・尚清父子二王に仕えた沢岻親方盛理と関係があるように思える。この関係から、朝宗の子孫が、この地に住み始めたのかも知れない。

拝所

沢岻の拝所近く、クビリ山の中に洞窟の様な所の前に拝所があった。入り口が石で塞がれているので古墓と思われる。

火種の神

グビリ山の皆に斜面にまだまだ古墓や拝所がある。そのうちに一つに火種の神と呼ばれる拝所があった。かなり古そうな石積みの祠が建てられている。根神火神 (ニーガンヒヌカン) と書かれている。この拝所について記載されている資料は見つからなかったが、火種の神という名前から見ると、村の火種を保管されていた場所ではないだろうか、そこを拝所として拝んでいると想像する。

この拝所の周りには幾つかの古墓があり、根神 (ニーガン) 之墓もあった。隣には座神之墓と書かれた古墓もあった。


チブガー

クビリ山の北側、現在の昭和薬科大学附属高等学校中学校の敷地内にあったようだが、今では影も形もなく、先ほど訪れた沢岻の拝所に移設、合祀されている。上沢岻村の時代にはこの井泉も産井泉として使われていた。



次は民家があった沢岻集落内にある文化財を巡る。



沢岻公民館 (東之殿跡、根所跡、ノロ火之神跡)

集落のほぼ中心に当たる場所に公民館が建っている。もともとの村屋はここにあったのではないのだが、この敷地内には、東之殿、根所、ノロ火之神があり「殿・カミサギ」といわれ、住民が常に集まる場所だったので、ここに平成8年に同会館を建設した。琉球国由来記にある澤岻巫火神がノロ火之神、呉屋殿が東之殿でないかと考えられている。現在は沢岻の拝所に移設され合祀されている。


村屋 (ムラヤー) 跡

元々の村屋は現在の公民館のすぐ南にあった。村屋がここにできる前は、村元の当間家があった、この当間家は以前は屋号を宇久 (ウク) と称していた。火災で西側現在の当間家に移り、その後、村屋が建てられた。現在は広場になっている。村屋の前にはイーヌモート呼ばれる広場があり、村芝居、綱引き等の村の行事が行われていた。


タチミチ

公民館と村屋跡の横に南北に走る道はタチミチと呼ばれて集落を西と東で分ける境界線にあたる。かなり急な坂道だ。

当間根屋 (トウマニーヤ)

タチミチの西側の集落内にある文化財を見ていく。村屋跡の1ブロック西側には当間根屋があり、そこの敷地内に神屋が置かれている。ここが沢岻世之主、金満按司、沢岻按司と続いた村元にあたる当間家。


根神屋 (にがみや、ニーガンヤー)

当間根屋のすぐ西に根神屋 (にがみや、ニーガンヤー) の拝所があり、敷地内には小さな祠が立てられ火之神が祀られていた。根神屋(ねがみや)とも呼ばれる。通常、村の運営を担う根屋の姉妹が根神 (ニーガン) として村の祭祀を司っており、根神屋はその祈りの場であった。


根神井戸 (ニーガンガー)

根神屋の道を隔てたところに根神井泉 (ニーガンガー) があり、沢岻ノロ、根神、神人が使った井戸と考えられている。


ノロ殿内 (ドゥンチ) 跡

当間根屋の北にはノロ殿内 (ドゥンチ) があったそうだ。現在は写真のようにマンションが建てられて、かつての集落の面影は失われている。集落内にはこのように、アパートやマンションが建てられている。この光景は今まで巡った南部とは随分と異なっている。


龕屋 (ガンヤ―) 跡

村の西南の村を外れた所には龕屋 (ガンヤ―) があった場所がある。風葬が行われていた時代には、ここに死者を墓まで運ぶ龕 (ガン) が保管されていた。現在では風葬は行われておらずすべて火葬になり、その役目を終え、消滅し、駐車場になっている。多くの集落の龕屋跡は駐車場になっている。ここに家を建てるのは憚られるからだろうか?


魔除け石 (未訪問)

龕屋 (ガンヤ―) 跡 から集落への入り口付近に魔除け石が置かれていたそうだ。それがあったとされる辺りを探してみたが、残念だが見当たらなかった。この石は 「石敢當」 とも呼ばれていた「風」の字にも似ているとか、當間の「當」の字にも似ているなどと言われている。類例が見当たらないので詳細は不明だそうだ。龕屋からの悪風が集落内に入るのを防ぐケーシ (返し石) とも考え られている。


沢岻川

沢岻集落がある沢岻原 (タクシバル) の南側は東が前原 (メーバル)、西側が端川原 (ハンダガーバル) という地域になる。この前原と端川原には沢岻川が流れている。前原側は比較的なだらかな地形 (写真 左下) だが、端川原に入ると沢岻川が崖下に流れ落ちる。 端川原の北側の傾斜地には苗代田の棚田があったそうだ。


地頭火之神 (ジト―ヒヌカン)

次はタチミチの東側に移る。沢岻公民館の前に人が一人通れるくらい細い路地がある。この路地の中付近に地頭火之神 (ジト―ヒヌカン) があったそうだ。今もあるのか洞かは分からない。そのようなものは見当たらなかった。集落にはこのような細い路地が多くある。昔の集落の道が残っている。


カンジャーガマ跡

細い路地をぬけると、少しだけ広くなった道に出る。道沿いに立つ民家の塀が少し変なことに気が付く。塀はコンクリートトブロックで固められているのだが、ある部分が元々の岩がむき出しになっている。何かいわくがありそうだ。できれば地元の人に聞いてみたかったのだが、誰も歩いておらず、後で調べることにした。ただ、後で調べてもこれが何なのかは、わからなかったのだが、沖縄戦当時の避難壕が記された集落地図にこの場所はカンジャーガマとなっていた。多分ここには避難壕があったのではないだろうか? 当時を忘れないためにこの様に一部を残しているのだろうか?


キジムナー公園

カンジャーガマ跡から少し東に行くと、公園があった子供のキャラクターが置かれている。キジムナーで沖縄の妖怪で樹木の精霊で悪さはせず人間とも交流するそうで、このように親しみやすいキャラクターとして描かれている。キジムナ―公園という。このあたりは、公園の前には保育園があるんので、幼児の遊び場として造られているようだ。かりゆしタウン (沢岻 Hills) として宅地開発されて、子供も多い。公園はその団地の入り口にある。

公園の中の木にパラミツの実がぶら下げられていた。初めて聞く名なので調べると、世界で一番大きいフルーツだそうだ。三年に一回、実を成すようだ。ドリアンの様にも見えるのだが、臭くなく良い香りで味も甘いそうだ。沖縄では家で栽培しているところもあるそうなので、多分この近所で栽培しているものだろう。かなり高価なフルーツで、一個数千円もしている、大きいものになると数万円だそうだ。多分この先、一生食べないで終わるフルーツだろう。


西之井泉 (イリヌカー)

キジムナー公園は集落の高台にあるので、ここからは下り坂になる。西に進むと民家の間に井戸跡があった。西之井泉 (イリヌカー) と呼ばれた。沢岻集落では首里王府から命令があれば、すぐにタナゲー (川海老) やターユー (鮒) を調達して届けなければならないという労役が課されていたので、その王府の要求に応えるためタナゲー (川海老) やターユー (鮒) をこの井泉で養って、緊急時 (冊封使滞在中など) に備えていたという。


沢岻按司の墓

西之井泉 (イリヌカー) から、坂道を下ると、グヤガーモー (呉屋毛?) と呼ばれる山に登る入り口がある。そこを登ると沢岻按司の墓がある。沢岻按司はこの沢岻集落を治めていた人で、村立てといわれる、沢岻世之主、その三男 金満按司の子孫にあたる。金満按司以降続く沢岻按司については、伝承なども見当たらなかった。集落の村元 (ムートウ) である當間家が代々管理してきている墓で、沢岻の嘉数門中ではこの墓を 呉屋御墓 (グヤウハカ) と呼び、他の門中からも崇拝されている聖域。グヤガーモーの南斜面には、浦添御殿の墓と呉屋御墓以外に墓がないことから (北斜面には多くの墓がある) ここは、村の有力だけの特別な聖域だったと思われる。現在の墓はコンクリートで固められているが、近年までは石積みの墓だった。

酔雲氏の小説「尚巴志」ではこの沢岻按司が登場する箇所がある、どれだけが史実でどれだけが作者の創作かは分からないが、なるほどと思う所もある。その内容は、

  • 琉球の各地に住み着いて暮らしていたシネリキヨ族の男が、南からやってきたアマミキヨ族の女首長と結ばれて子孫を増やしていった。シネリキヨ族はアマミキヨ族に吸収されてしまうが、沢岻は代々続いていたシネリキヨの子孫で、ヌルの座もアマミキヨに奪われる事なく、沢岻村を守ってきた。
  • 各地に按司が出現してグスクができると沢岻にもグスクでき、沢岻村のリーダーが沢岻按司となる。沢岻按司は当時勢力を誇っていた舜天の傘下に入り、浦添按司の重臣となった。[グスクとは沢岻遺跡からヒントを得ての創作だろう。ただグスクの規模ではなく館などはあっただろう]
  • 三代目の沢岻按司は浦添按司三代目の義本に仕えた。義本の重臣で舜天の曽孫の伊祖按司 (英祖) がいた。伊祖按司はクーデターを起こし、浦添グスクを乗取り、義本を追放した。義本は沢岻按司を頼り、沢岻村に逃れた。伊祖按司は沢岻按司に義本の引き渡しをせまるが、沢岻按司は断り、この沢岻で大戦が起こり、村は焼かれ、グスクも焼け落ちた。沢岻按司は戦死、義本は逃亡し、その後、義本は行方不明。
  • 沢岻ノロは殺される事なく、浦添に行って浦添ノロに仕えた。沢岻ノロの後継ぎの沢岻若ヌルは伊祖按司の次男と仲良くなって、一緒にヤンバル (琉球北部) に行った。次男は湧川按司を名乗り、今帰仁按司を倒して、今帰仁按司になった。若ヌルは湧川按司との間に二人の娘を産んで、長女を今帰仁ノロに育てると次女を連れて沢岻に帰り、ひっそりと暮らしていた。[これは金満と公芳が伊平屋に住んでいたことからの創作だろう]
  • 沢岻ノロは村の再建を始め、次女が一族の若者と結ばれて四人の子供が生まれた。長女はノロを継いで、長男は根人となり、次男は浦添按司 (西威) のサムレー大将になり、次女は一族の若者と結ばれて子孫を増やした。浦添按司 (西威) が察度によっては滅ぼされ、沢岻のサムレーになった若者たちは皆、戦死した。

とある。


東樋川 (アガリヒージャー)

沢岻按司の墓から、上に上る道があり、そこには東樋川 (アガリヒージャー) がある。沢岻村の産井 (ウブガー) としていたそうだ。現在は井戸跡もなく香炉が置かれているだけだが、昔はここに水場があり、樋川の名のごとく樋から水が流れ落ちていたのだろう。

東樋川 (アガリヒージャー) の更に上には、拝所の祠があり、そこには多くの香炉が並べられている。ここも集合拝所となっている。沢岻にはいくつもの集合拝所がある。重複している香炉もいくつもあるのだが、それはそれでよいのだろう。真ん中の香炉には、沢岻世之主の事や拝所の事が書かれているようだが、摩耗して全文は読めない。他の香炉には読めたものでは玉城世本地本祝女、祝女神、火の神、根香炉、イビ神などがあった。

ここはかなりの高台で、遠くには首里那覇の町が見える。


浦添御殿 (ウラシーウドゥン) の墓

沢岻按司の墓の隣には浦添における亀甲墓としては最大級の浦添御殿 (ウラソエウドゥン) の墓がある。墓の近くには墓番小屋も設けられていた。第二尚氏王統第14代尚穆王の次男・尚図、浦添王子朝央 (1762年 - 1797年) を元祖とする御殿 (うどぅん、王家分家) である。一世・朝央は、第二尚氏 第14代 尚穆王、第15代 尚温王の摂政を務めた。識名園や国学を作った人物。特に尚温王は11歳で即位、19歳で無くなっているので、この期間の政治は実質上朝央が行なっていたと言えるだろう。この朝央を葬るために造られたのが、浦添御殿の墓。正確な造墓年は不明であるが、朝央が「沢岻之墓」に葬られたと「王代記」に記されているので、18世紀末には完成していたと推定されている。以後、この墓は浦添御殿の歴代墓となった。


沢岻公園

浦添御殿の墓の辺りは、グヤガーモーの上まで沢岻公園になっている。小さな公園だが、綺麗に整備され遊歩道もある。


前道 (メーミチ)

集落内を南北に走るタチミチの坂を南に下ると、かつての沢岻集落の南端に出る。ここで集落の前道 (メーミチ) にぶつかり、前道は東西に伸びていく。 


イージャーシチャヌカー

前道を東に進み少し数楽内に入った所にイージャーシチャヌカーと呼ばれる井戸跡がある。昔の形は残っておらず、コンクリートで固められている。コンクリート板で塞がれて、何とも味気ない井戸になってしまった。香炉も置かれていないので、現在では御願の対象ではないのだろう。


浜川 (ハマガー)

前道を東に進む。民家の間に浜川 (ハマガー) がある。ここもここもコンクリートで固められているが、井戸の前の水場跡は残っている。井戸の中を覗くとまだ水があった。この井戸にも香炉は置かれていない。多分、集落ではこれまでに訪れた集合拝所で御願を済ませ、ここの小さな拝所にはいかないのかもしれない。


中頭方西海道、北の坂 (ニシヌヒラ)

前道を更に東に進み、かつての集落を抜けた先に、琉球王統時代の街道だった中頭方西海道に交わる。首里方面から大名の南の坂 (フェーヌヒラ) と呼ばれる坂道 (写真左上) を下り、ここから北の坂 (ニシヌヒラ) と呼ばれる急な坂道になる。坂道を登ると階段に変わる、これを登ると平坦な道になる。石畳は残っていないのだが、海道があった道には、琉球石灰岩で石畳の雰囲気を出している。この新しい石畳をたどっていけば、この海道を歩ける。


この道は琉球王国時代の宿道 (じゅくみち) の一部で、三山統一後、尚巴志により首里王府と各地の間切を結ぶ道路が造られ、首里と各地の連絡は、この道を通してその間に設けられた宿場を経由したなされていた。この制度は宿次 (しゅくつぎ) とよばれ、南北ともに西 (イリ) 回りと東 (アガリ) 回りのルートがあった。宿場には馬が置かれ、文書などを送る「駅」の制度が始まった。この道は中頭方西宿 (西海道) にあたる。


七番毛 (シチバンモー)

中頭方西海道を新しい石畳二沿って進むと、七番毛 (シチバンモー) と呼ばれる広場に出る。かつて国王が首里城から普天満参詣などに向かう際の休憩場所だ。確かに、南の坂 (フェーヌヒラ) と北の坂 (ニシヌヒラ) の二つの急坂を降りて登るのは重労働だ。王は輿に載っているから、疲れないだろうが、輿を担いでいる人にはかなりの負担だろう、また、徒歩で伴をしている家臣たちも疲れただろう。ここで休憩とるのは王の為というよりはその他の人たちの為だったかもしれない。ここはかなり高台なので休憩には気持ちの良いところだっただろう。解説では慶良間諸島を眺めつつ、伴の者の楽曲演舞を楽しんだとある。そのような人も伴をしていたのだ。何とも、ゆったりとした良い時代だ。今では、民家やビルが立ち並び当時の風情はなくなってしまった。


ここで、集落の西から東まで、予定していたところはすべて見終わった。七番毛で休憩して当時を想像してから帰途に着きたいと思ったのだが、七番毛は道路と民家二変わってしまい広場らしきものもなくなってしまった。下に降り、コンビニで休憩をして、首里、識名経由で家に向かう。ここからは10kmもなく、首里までは登坂だがその後は下り坂になるので、比較的楽なコース。


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらおそい散策マップ 沢岻地区 (2007 うらおそい歴史ガイド友の会)
  • 字誌たくし (1996 沢岻字誌編集委員会)
  • 尚巴志伝 (酔雲)

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