Okinawa 沖縄 #2 Day 108 (27/05/21) 旧真和志村 (6) Maaji Hamlet 真地集落

旧真和志村 真地集落 (まあじ、マァージ)

  • シーマヌ御嶽 (ウタキ)
  • シーマ之殿 (トゥン)
  • シーマ之井 (カー)
  • 真地公民館 (村屋跡)、村井 (ムラガー)
  • 県庁警察部壕
  • 識名園
    • 正門
    • 通用門
    • 遙拝所
    • 番所
    • 育徳泉
    • 心字池
    • 小石橋
    • 大石橋
    • 六角堂
    • 船着場
    • 滝口
    • 勧耕台
    • ガラサームイ
    • 防衛隊が掘った壕の跡
    • 駕籠屋
    • 御殿 (ウドゥン)


旧真和志村 真地集落 (まあじ、マァージ)

真地は識名の西側に位置している。識名台地の上部がまずは集落ができた場所で、その後、国場川に下る丘陵の斜面の部分に集落が形成されている。

識名台地の上部は識名園と識名霊園が多くの面積を占め、その間に民家が建っているような印象を受けた。識名霊園は用地買収がうまくいかず計画途中で頓挫している。真地を歩くとそれがよくわかる。民家と墓地が共存しているといった感じだ。土地買収ができる度に墓地を造っていったのではないだろうか。墓地と民家が複雑に入り汲んでいる。民家を歩くと墓地になり、その墓地の一画にまた民家があるといった感じだ。

真地は1916年 (大正5年) に識名がら分離され、独立行政区となっている。この真地の成り立ちについてわかる資料などは見つからなかったが、同じように識名から1909年 (明治42年) に分離独立した繁多川の成り立ちが参考になると思う。繁多川は琉球処分、廃藩置県で職を失った首里士族の帰農政策で土地を与え、移住させた地域で後に独立行政地区となった。真地も同じ様な成り立ちではないだろうか。

1919年 (大正8年) の地図を見ると、民家は集まって集落を形成してはおらず、所々にお互いに離れたところに民家がある。1975年の地図では、感染道路沿いに民家が集まってきている。真地集落を巡ると、その町並みは古くからある集落のように住居が区画になっておらず、道路から枝のように短い枝道が伸びている。真地には拝所がなく、あるのは識名集落と上間集落が村立てをしたころの古島に拝所があり、この拝所は識名、上間の住民に御願されている。これらの事を見ると、真地は屋取集落であったことは明らかだ。やはり、廃藩置県後首里の士族が移り住み帰農していたと思われる。

真地の人口は1900年 (大正10年) で490人 (86世帯) の小さな地域だった。沖縄戦で人口が減り、ほぼ元の人口に戻ったのは1966年 (昭和41年) で、その後急速に人口が増えていく。対前年増加比は二桁が続き、1971年 (昭和46年) は32%もの増加率だった。増加し始めた当初は丘陵の上部の元々の集落が拡大していったが、識名霊園への土地売却で、住宅地は南の丘陵斜面から麓に広がっていった。1979年と1980年の対前年増加比はそれぞれ37%となり、僅か2年間で人口は約2倍の3,500人にまで急増している。 それ以降は落ち着き、現在では3,900人となっている。


真地集落訪問ログ


シーマヌ御嶽 (ウタキ)

現在の識名と真地の境にシーマヌ御嶽がある。識名霊園の中で、住所は真地になる。神名は上地森カネノ御イべ。元は現在地より北西の小高い所にあったそうで、そこには、上間大殿内安謝家の元屋敷だったとされている。安謝名の初代と二代の遺骨が埋葬されていたと伝わっている。この近辺が識名と上間の村が始まった場所と考えられている。このシーマ御嶽は上間集落と識名集落住民によって御願されている。「シーマ」は「シイマ」ともいわれ、これは識名高台の後方 (シシ) の村 (マキョ) にあるということで古島は「シシマキョ」と呼ばれていたと推測され、「マキョ」が省略され、「シシマ」となり、「シイマ」または「シーマ」となったといわれている。 識名 (シキナ) はこの「シイマ」からの転訛と考えられ、高台に移住した後も自分たちの村を識名 (シキナ) と呼んだのだろう。

上間誌では、この場所から現在の集落の場所に移動したのは、上からの命令で、農耕地に適した場所から高台に移住し、農地の確保のためとしている。これには少し疑問がある。高台に移動したのは安謝名の三代目としている。安謝名三代が田の時代の人物かは、明確には書かれていないのだが、シイマ按司三代と考えるとグスク時代初期の事になる。カネマン按司三代とすると真和志按司 (上間按司) で尚巴志の息子で安謝名の養子になった三山時代後半となる。この時期に、そのような強制移住があったのかは、今まで集落巡りをして、聞いたことがない。その時代に強制移住をさせるほど、農地が不足していたとも考えられない。琉球で王府から移住を強制されたのは第二尚氏尚寧王の時代に薩摩侵攻 (1609年) により国土が荒廃した後、経済政策として行われている。私見としては、飲み水が十分に確保できる場所を目指したことと、安謝名按司が南山からの守りを固めるために高台に移住したのではないかと思える。


シーマ之殿 (トゥン)

シーマヌ御嶽 (ウタキ) の近く100m程東側の民家が密集している場所の中にシーマ之殿 (トゥン) があり、火の神 (ヒヌカン) を祀っている。ここは安謝名家元屋敷 (シイマ) の殿といわれている。殿 (トゥン) は集落に近いところにあることが多いので、識名と上間に移住する前はこの辺りが古島だったのだろう。


シーマ之井 (カー)

シーマ之殿 (トゥン) から真地配水池への細い路地の奥にシーマ之井 (カー) がある。安謝名家元屋敷 (シイマ) の井戸ともいわれ、現在でもこの場所は安謝名の子孫の屋号 安謝名小の土地だそうだ。古島にはもう一つ井戸があったそうだが、それは識名園内にある。


真地公民館 (村屋跡)、村井 (ムラガー)

古島の南側、識名園の入り口近くに真地公民館がある。公民館の前庭に村井 (ムラガー) があるので、ここがかつての村屋があった場所だろう。


県庁警察部壕

識名霊園の墓群の中に沖縄戦で使われた全長約130メートルの地下壕が残っている。四方地の壕 (シッポウジヌガマ) と呼ばれている。戦後50年以上経過して、この壕が沖縄戦当時、県庁と警察が一時使用していたことが判明し、県庁警察部壕と呼ばれるようになった。アメリカ軍の空襲が激しくなり、警察がこの壕を使用していたが、昭和20年4月25日、那覇市繫多川の新壕 (みぃーごう) から島田叡知事が移って来て、それから約1か月間、県庁と警察のほとんどの機能が、那覇市久茂地からこの壕に移され、およそ100人の職員がここで勤務していた。その後、日本軍が首里を放棄したことから、当時の沖縄県知事の島田叡もこの壕を出て南部に向かい、壕を転々とすることになる。ガマの入り口は施錠されて一般の見学は行われていないようなので、壕の中の写真はインターネットに掲載されていたものを借用した。


識名園

識名園 (シチナヌウドゥン) は、琉球王家最大の廻遊式庭園をもつ別邸で、国王一家の保養や外国使臣の接待など迎賓館として利用された。第二尚氏王朝 尚穆王 (1752年 - 1795年) の時代に造園が始まり、尚温王の時代の1799年に完成。1800年に尚温王冊封のため訪れた正史の趙文揩、副使の李鼎元を招いてる。王家の別邸としては1677年、首里の崎山村に御茶屋御殿が造園されたが、首里城の東に位置したので東苑とも呼ばれ、その後につくられた識名園は、首里城の南にあるので南苑とも呼ばれた。識名園では、心字池を中心に、池に浮かぶ島には中国風東屋の六角堂や大小のアーチが配され、池の周囲には琉球石灰岩を積みまわすなど、随所に琉球独特の工夫が見られる。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で園内に集積されていた弾薬が砲火で誘爆を起こし、ほとんどの建造物は破壊した。1975~96年 (昭和50年~平成8年) 総事業費7億8千万円をかけて復元整備された。2000年 (平成12年)に、ユネスコ世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)として登録されている。

この識名園には2019年8月30日に訪れている。



正門

入園する門は元々あった入り口ではなく、道路沿いに正門が復元されている。正門と通用門はほとんど大きさや形式が同じで、正門としては控えめな造りになっている。ヤージョウ (屋門) と呼ばれる赤瓦葺きの四脚門になっている。国王一家や冊封使等が出入りに使われていた。


通用門

正門のすぐ側に園内で働く者の出入りする通用門がある。正門に比べるとやや小振りに造られているそうだが、見た目では正門と同じように見える。


遙拝所

正門の側に遙拝所がある。もともとあったものではない。住民の為、識名園の中にある拝所を遙拝する為、後で造られたものだ。


正門、通用門からは石畳の路が下にある心字池に通じている。識名園の中の路は緩やかに湾曲しているのだが、これは琉球信仰のヤナムンやマジムンと呼ばれる邪悪なものが、屋敷内に侵入することを防ぐためだという。


番所

通用門を入った先に番所跡がある。ここに普段役人が詰めていた。


育徳泉

正門を入り道を進むと廻遊式庭園の心字池に出る。池のほとりに池の水源である育徳泉 (いくとくせん) がある。琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、曲線が何とも趣のある泉だ。その右には井戸口も備えている。上には、泉をたたえた二つの碑があり、向かって右は、1800年に尚温王の冊封に訪れた正使趙文楷が題した「育徳泉碑」で、向かって左の碑は、1838年尚育王の冊封正使林鴻年が題した「甘醴延齢碑」が復元されている。

育徳泉では絶滅危惧種の淡水産の紅藻のシマチスジノリが生息しているそうだ。集落を周って井戸を見学した際に、このシマチスジノリ発生地という所がある。シマチスジノリはチスジノリは淡水産の九州中南部の固有種のチスジノリの亜種で、琉球列島に産するその亜種でその発生地はきわめてまれだそうだ。藻が血管のように見えるので、チスジと名付けられている。


心字池

廻遊式庭園の中心なる池は「心字池」という。草書体の「心」の形に池がつくられていることから来ている。本土の江戸時代の廻遊式庭園の様に凝った造りではないが、しっとりとした落ち着いた庭園になっている。個人的には気に入っている。空間がゆったりとられ、落ち着く庭園だ。



小石橋

心字池には二つのそれぞれ趣の異なった石橋がかけられている。一つは自然石で構成された小石橋と呼ばれる橋。


大石橋

小石橋を渡り進むと小さな島が設けられており、その向こうにもう一つの石橋がかかっている。整然と組まれた石橋で、大石橋と呼ばれている。この大石橋を渡り、向こう岸に向かう堤も何とも素朴な趣のある造りになっている。中国風を取り入れた庭園とあるが、中国の庭園のような派手さはない。和風と中華風が混ざった琉球風なのだろう。


六角堂

池に浮かぶ島につくられた六角形の東屋もある。屋根の形や瓦を黒く色付けていることで中国風の趣があらわれている。明治時代末に撮影された写真では、六角堂ではなく入母屋平屋建ての建物が移っており、大正末期以降の写真では六角堂に代わっている。


船着場

心字池に船を浮かべて舟遊びで冊封使を歓待したという。琉球の人々が好んだ曲線を組み合わせた船着き場が池畔にある。


滝口

池の水は、この石造りの懸樋 (かけひ) から勢いよく落ちていた。かつて、この側には八角堂の東屋があったそうだ。


勧耕台

沖縄那覇から南が見渡せる展望台が作られていた。今はどこまでもビルや住居が続く。那覇の人口密度が高いことがよくわかる。ここから眺めると海がまったく見えない造りになっている。琉球の国土が広いのだと中国の冊封使たちに誇示するためといわれている。この場所には「勧耕台碑」が建てられている。これは1838年 (道光18年) に尚育王の冊封正使の林鴻年が題したもので、手入れの行き届いた田畑を見て、王が心から人々を励ましているとたたえている。この碑は、沖縄戦で破損し、1980年 (昭和55年) に拓本をもとにして復元したもの。

昔はこのようにみえたのだ。


ガラサームイ

勧耕台の側には、もう一つ丘があり、この丘の上には昔は大きな松の木がありそこによくカラスが集まっていたのでガラサームイと呼ばれたそうだ。沖縄方言でカラスはガラサーで、ムイは森の事。烏森という意味になる。


防衛隊が掘った壕の跡

沖縄戦当時、識名園には日本陸軍病院識名分院が置かれ、地元で召集された防衛隊の第三小隊第一分隊が配属されていた。その防衛隊の待機・避難のために掘られたのがこの壕で勧耕台の西側など2~3ヵ所に、空気孔としての横穴が造られ、出入りにも使用されていた。木々であ横穴はよく見えないのだが、案内板があるので、この茂みの奥にあるのだろう。


駕籠屋

育徳泉から御殿への道は自然の岩盤のように積まれた中国風の擁壁に囲まれ、木々の中を進むようになっている。道を出ると、心字池を前にしてゆったりとした広場に出る。まずは小屋に出くわす。これは御殿に隣接して建てられている駕籠屋で、首里城から国王などが載ってきた御輿 (ウクシ) を収める場所だった。御輿 (ウクシ) の担ぎ手たちの休憩所としても使用されていた。


御殿 (ウドゥン)

御殿は南側の前面に池を、東側に小さな築山を配置し、樹木に囲まれた中に位置している。往時の上流階級のみに許された建築様式である木造平屋造りで主屋、前の座がある建屋、台所部の3つから成る分棟式の建物になっており、渡り廊下や中庭などでつながっている。

屋根には白漆喰をほどこした赤瓦が使われている。建物は冊封使を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶室、前の一番座など、15もの部屋が設けられている。


一番座に座った冊封使はこの様に心字池を眺めていたのか....

19世紀末に琉球を訪れたヨーロッパ人ギヤマードの航海記の中にこの識名園があった。

御殿の裏側には幾つかの井戸がある。


大正、昭和の識名園の古写真が展示されていた。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 上間誌 (2009 上間誌編集委員会/上間自治会)
  • 識名誌 (2009 識名自治会)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅳ (2004 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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