Okinawa 沖縄 #2 Day 163 (05/02/22) 旧知念村 (10) Shikiya Hamlet 志喜屋集落

旧知念村 志喜屋集落 (しきや、シチャ)


上志喜屋地区 (カンチャ)

  • 大上志喜屋山 (ウフガンチャヤマ)、上志喜屋 (カンチャ) 公園
  • 大上志喜屋殿 (ウフガンチャトゥン)
  • 大上志喜屋神屋 (ウフガンチャカミヤ)
  • 拝所
  • 上志喜屋大川 (カンチャウッカー)
  • 古間殿 (フルマドゥン)
  • 古間門中の根屋
  • イビの前 (メー)
  • 古間 (フルマ) グスク (カンチャグスク)
  • 共榮泉


志喜屋地区 (シチャ)

  • 志喜屋グスク
  • アジシー墓
  • チチンジャー井泉 (ガー)
  • 親川井泉 (エーガーガー)
  • 殿内山 (トゥンチヤマ)、志喜屋農村公園
  • 志喜屋公民館 (村屋跡)
  • 殿 (トゥン)
  • 靖魂之塔
  • カンジャー堂 (ドー)
  • 大屋門中墓
  • 前城山の墓 (メーグスクヤマヌハカ)
  • 前城山の井泉 (メー グスクヤマヌガー)
  • 大屋 (ウフヤ) の神屋
  • 前城井泉 (メーグスクガー)
  • 産井泉 (ウブガー)
  • 上前田の前の井泉 (ウィーメーダーヌメーヌガー)
  • 親川 (エーガー) の神屋
  • 大前 (ウフメー) の神屋
  • 前 (メー) の神屋
  • チジンモー
  • マジクの墓
  • ナカフンダ後方の岩にある墓
  • 井泉跡
  • 水道井泉 (シードーガー)
  • 志喜屋漁港、志喜屋海浜
  • アドチ島

先日、2月1日に山里集落を訪問した翌日から3日続きで雨だった。今日は晴れ間も広がり、山里の隣村で旧知念村の最南端の志喜屋集落を訪れる。




旧知念村 志喜屋集落 (しきや、シチャ)

志喜屋は、旧知念村の南端に位置する。

志喜屋は地元方言でシチャ (下) と呼ばれる。シチヤのチはキの方音で、シキヤとなり、琉球国高究帳では「志きや村」と書かれ、その後、志喜屋と書かれるようになった。現在の字志喜屋は元々は二つの独立した村が合併した。丘陵の上部にはカンチャ村、その下にはシチャ村があった。カンチャ村は上志喜屋村で、カミ (上) シチャが、カンシチャ、更にカンチャと転訛している。研究者はカンチャの先住家が垣花村の或る門中からの分家で、シチャは本家を意味するシチャ (下) と呼ばれたと推測している。

琉球国由来記に志喜屋村 (現在の上志喜屋 [カンチャ]) と下 (シム) 志喜屋村 (現在の志喜屋 [シチャ]) が別々の村として記載されている。下志喜屋村の親川門中、前門中、大前門中は仲村渠村の長桝家から分家してきた志喜屋子の子孫で、下志喜屋村の根所は親川門中にある。 下志喜屋村には根所火神 (公民館前の殿)があり、志喜屋村にはフルマ根所 (古間殿) がある。下志喜屋村の根所火神の祭祀は志喜屋ノロ (古間ノロ) が行っていた。 二村以上を一管轄下にして公儀ノロが置かれる場合には、その村落間の歴史的関係や地理的距離が考慮されたようである。 この二つの村は別々の歴史があり、下志喜屋が志喜屋から分かれてできた村では無い。仲村渠の長桝家から分家して下志喜屋村が出来たために、志喜屋村を カンチャ (上志喜屋村) と呼んで区別するようにした。 志喜屋は長桝家から分家という意味でシチャ (下) と呼称されていたため、両村を区別するのに地理的な意味のウィー (上) とシチャ (下) が使えず、身分などの上下を表すカミ (上) とシム (下) を使用して区別したと考えられている。1903年 (明治36年) に両村が合併して志喜屋村となった。

知念高校
昭和二十 (一九四五)年十一月十六日、知念高等学 校が志喜屋区に創立され、同日に開校式が挙行された。 志喜屋の原野に米軍払い下げのテント三張を教室にし て開校し、創立には初代校長の世禮國男氏が尽力した という(琉球新報 平成二十八年九月十四日)。
その後、学舎は移転を続ける。玉城村百名に移転 (同年十二月七日)、さらに玉城村親慶原区に移す (昭 和二十一年四月一日)。そして昭和二十七(一九五二) 年二月十七日に、与那原町の現敷地へ移転が完了する (『知念高等学校 創立五十周年記念誌』)。同高では、 昭和三十一 (一九五六)年二月二十二日定時制課程が 設置されたが、同四十八(一九七三)年には廃止された。


字志喜屋人口は旧知念村の中では知名、知念に次いで三番目に多い字となっている。


明治時代には人口は下から三番目だったが、それ以降は、順調に増えて三番目に多い地区となったが、1985年の942人をピークに減り始め、2013年につきしろを新しい行政区となったつきしろ地区に移管し、更に減少、近年も人口減少には歯止めがかからず、その現象は続いている。この人口減少は旧知念村の他の字にも共通する課題だ。
字志喜屋内の民家の分布は明治以降殆ど変わっていない。志喜屋漁港が埋立で大きく変化している。

琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: なし
  • 殿: フルマ根所 (古間殿)、根所火神 (下志喜屋)
公民館の前には住民の屋号が記された地図が置かれていた。通常は文化財マップが置かれているのだが、屋号主体の地図が置かれているのは初めて見た。


志喜屋集落走行ログ



上志喜屋地区 (カンチャ)

志喜屋でも、上志喜屋が古い部落で、志喜屋の村の始まりだと言われる。元々はこちらの村が志喜屋と呼ばれていたが、下にシチャ村ができ、合併し、上志喜屋 (カンチャ) となり二つの地区を区別する様になっている。上志喜屋には下の志喜屋に比すれば、拝所がかなり多く、ノロ屋 (古屋根屋) は上志喜屋にあり、集落の祭祀を司っていた。


大上志喜屋山 (ウフガンチャヤマ)、上志喜屋 (カンチャ) 公園

まずは志喜屋村で最も高い所にあるカンチャ公園を訪れる。ここからは志喜屋全体を見渡すことのできる。
ここにはウフガンチャ山と呼ばれる志喜屋集落の聖域がある。琉球国由来記には志喜屋には御嶽は記載されていないが、この山は御嶽のような霊山だった。集落の人々は、祖霊神が高いクバの木やその他の大木を通して降臨し、神が住む山であると信じていた。ウフガンチャ山には志喜屋 (カンチャ) の祖先といわれる屋号 ミージグヮーという方がいてウフガンチャを管理していたといわれる。後方の山には石で囲まれたウフガンチャ墓があるそうだ。 ウフガンチャ山は聖域とされていたので、枯れて地に落ちた小枝などを拾い集めてタキギに炊事に使ったが、立木はたとえ小さな木でも一本も切ることはできなかった。ウフガンチャ山の木を切った人は、原因不明の体調不良になったとか、キジムナーに金縛りにされたという人もいたと伝わる。このウフガンチャでは発掘調査が行われ、瓦類、鉄くぎ、グスク土器、中国や沖縄製の陶磁器、古銭、玉、貝類、骨類など中世や現代の出土物が多く、 一番下の地層からは貝塚時代の土器も出ている。1998年 (平成10年) にカンチャ公園を造るために山の3分の2が崩されて整地し広場になっている。
ここでも桜が咲き始めている。

大上志喜屋殿 (ウフガンチャトゥン)

ウフガンチャ山の手前にウフガンチャ殿 (トゥン) が造られている。いつ頃造られたかは不明だが、祭神は火ヌ神といわれる。カンチャ地域の人たちによって司祭される。この地域に、はじめて住み着いた人々が、 守護神としての祖霊神を迎えて拝むためにウフガンチャ殿を造り、五穀豊穣、健康と幸福などを祈願していたと推測される。戦前のウフガンチャ殿は、うっそうと大木が茂るウフガンチャ山を後背にして建てられ、 ウフガンチャ山の南側は、殿や神屋の入り口で野づらづ 面積みの石垣に囲まれていた。 入り口の門は大きな石で作られていたそうだ。ウフガンチャ殿は正月、五月ウマチー、六月ウマチーで拝まれている。

大上志喜屋神屋 (ウフガンチャカミヤ)

ウフガンチャ殿の側にはウフガンチャの神屋がある。ウフガンチャ殿の根屋は 「新地小」 といわれているが、現在は別の地域に引っ越している。 戦前のウフガンチャの神屋は、入り口から入って左、西側に瓦葺きの建物であった。 第二次世界大戦で神屋も殿も破壊され、 昭和21年頃に、茅葺きの神屋を再建した造った。 その後、 神屋は台風で壊されてしまい、昭和30年頃に茅ぶきの神屋を造ったが、その神屋も台風で壊されてしまい、昭和48年に鉄筋コンクリートの神屋を造った。現在の神屋は殿と共に、カンチャ公園の造成のため別の所に移動して、平成11年に、鉄筋コンクリート建てで造られた。

拝所

カンチャ公園の前の道の側に石を並べてブロックを香炉とした拝所があった。この拝所についての情報は見当たらなかった。

上志喜屋大川 (カンチャウッカー)

カンチャ公園のすぐ北側、標高78mの所に上志喜屋大川 (カンチャウッカー) がある。後方には標高100~130m の琉球石灰岩の丘があり、そこを水源とする井泉。この井泉については球陽の尚泰王「十四年辛酉、知念郡人民十八名をして爵位を賞す」の項に「知念村の人民七名、知名村の人民一名、安座真村の人民三名前城村の人民五名、志喜屋村の人民二名有りて、同心協力、自ら資財を捕して堅く該井を築く。」 とあり、1861年に石垣を積み上げての井泉の整備が行われている。現在も水流はあり、灌漑のための取水用ホースが設置されている。現在は、古間門中の人々が正月に祭祀を行っている。

井泉には多くのシリケンイモリが泳いでいた。


上志喜屋ヌ産井泉 (カンチャヌウブガー)

上志喜屋大川 (カンチャウッカー) の向かいの畑地に降りる階段のそばに上志喜屋ヌ産井泉 (カンチャヌウブガー) がある。現在、湧水はない。正月に古間門中が祭祀行事を行う。


古間殿 (フルマドゥン)

ウフカンチャ山の西にコンクリートブロック造りの拝屋があり、古間殿 (フルマドゥン) と呼ばれている。現在の拝屋は志喜屋区民の寄付金によって1990年 (平成2年) に造り替えられたもの。拝屋正面入り口床面中央に、黒褐色の砂岩の楕円形状の平たい石 (写真中) がある。ノロの馬乗り石であったとの伝承もあるが、確かではない。この石を前にして内側から外側に向かって拝む。遙拝所と推測されているが詳細は不明。殿の横には井泉跡らしき水溜りもある。拝屋の奥には石灰岩の三つ石 (火ヌ神) が置かれている。琉球国由来記には「フルマ根所 志喜屋村 稲二祭三日間の神への祈願の時、ミキ半分 (同村の百姓中が準備すある)。五月ウマチー、六月ウマチーの稲二祭の日は、酒六合、ミキー つを地頭が準備し、ミキ二つを百姓が準備して供える。志喜屋村のノ ロ (フルマノロ) の祭祀である。且つ、二祭の時、三日間の神への祈 願の日より、祭の日まで、日に二度ずつ、一汁一菜で、巫、根神、根人に、百姓中から賄いを奉仕する」と記されているフルマ根所に相当すると考えられている。この様に、古間殿は志喜屋村 (カンチャ) の根屋 (村の創始者の家で祭祀を中心に行なう所) とされるが、カンチャ村に最初に住み着いたのはウフガンチャと伝わり、その人たちがウフガンチャの神屋と殿を守護神として造ったとされている。フルマの根屋も古間殿もウフガンチャの神屋や殿より後に作られたと考えられている。ただ、昔のカンチャは古間門中の人々が多くいたので、もともとは古間門中の根所であった古間殿が志喜屋村 (カンチャ) の根所となったと推測されている。古間殿では、正月 (1月1日)、五月ウマチー (5月15日)、六月ウマチー (6月15日) で祭祀行事が行われている。


古間門中の根屋

古間殿の西側には、古間門中の根所・根屋である古間がある。 古間には、 志喜屋部落でただ一人の古間ノロがいる。


イビの前 (メー)

古間殿の東、道を隔てて向かいにイビヌ前がある。このイビの前 (メー) には、高いクバの木が二本生えた所に香炉が置かれ、そこに古間ノロの神が鎮座しており、航海安全の神を祀る場所とされ、ウフガンチャ山の方に向かい拝まれている。


古間 (フルマ) グスク (カンチャグスク)

古間殿の西に、標高90~95mの山があり、古間 (フルマ) グスクと呼ばれている。その上部に拝所があるそうだが見つけられなかった。古間 (フルマ) グスクで、地元では上志喜屋 (カンチャ) グスクとも呼ばれている。この祠は戦前は古間ノロがウマチー (稲大祭) に拝んでいたというが、 現在では拝まれていない。
カンチャグスクは岩塊うまく利用して築かれているの。グスクは岩塊の上に築かれていたそうだ。昔は志喜屋集落から伸びて知念台地に上って行く古い道がこのカンチャグスクの真下を通りぬけていた。このグスクは、こうした道筋や地形的な特徴などを巧く捉えた上で、この地に築城されている。このグスクの南側の足下を通る道は、知念台地に展開する玉城間切に通じる道の一部であることから、関所的機能をもつと思われ、間切間で争いが起きた場合、村間を通る道は封鎖する関所の役割を果たしていたと考えられる。グスクの真下を通り知念台地に抜けるこの道筋は、玉城間切以外にも佐敷間切や他の間切にもつながっていく道であり古くから重要な道筋の一つであった。グスクの岩塊には石垣はみられないが、岩と岩の間がうまく利用され足場となっている小平場がいくつかある。平場は道筋を見通すために築かれている。この様にこのグスクは古集落と古集落を結ぶ古い道筋をおさえる関所機能だったと思われる。
カンチャグスクの北側の知念台地があり、そこは玉城間切にあたり、この古間 グスクで、そこからの通行者の監視をしていたと思われる。

共榮泉

古間グスクの南側から坂道を下り上志喜屋集落へ入ると、共榮泉と記されたコンクリートブロックで造られた拝井泉がある。井泉の左側には祠が設けられている。コンクリートで固められた井泉は水道管らしきホースが設置され、現在でも使用されているようだ。

共榮泉から急な階段を下ると、平場に出る。そこは一面畑が広がっている。ここが上志喜屋 (カンチャ) の耕作地だった場所。この地域の真ん中に小川があり、勢いよく水が流れている。昔からこの地域は水が豊富だった。かつては、この一帯に水田が広がっていた。この辺りが、上志喜屋 (カンチャ) と志喜屋 (シチャ) の境と思われる。


志喜屋地区 (シチャ)

上志喜屋 (カンチャ) から坂道を降った所には別の集落がある。この二つの集落の間には志喜屋グスクの山があり、このグスクより上が上志喜屋 (カンチャ) になりお互いの集落は少し離れている。現在でも地理的には二つの別々の村のようだ。昔はこの地域は下志喜屋 (シチャ) と呼ばれており、当時、志喜屋村だった上志喜屋 (カンチャ) から分かれてできた村では無く、玉城間切の仲村渠集落の長桝家から分家して出来た村だった。村の規模は上志喜屋 (カンチャ) に比べて格段に大きい。



志喜屋グスク

志喜屋グスクは、上志喜屋 (カンチャ) と志喜屋 (シチャ) の間に走る国道331号線沿いの標高約60mの石灰岩残丘上に設けられている。発掘調査では、13~16世紀と思われる青磁の皿・盤・酒会壷瓶白磁皿、青花皿 天目茶碗褐釉などの中国産陶磁器の他、タイ産鉄絵画、日本産の留金具、鉄釘などが検出されている。魚骨、ニワトリや牛の骨、貝殻がみつかっている。 出土した陶磁器の中には一般的なグスクから出土する製品ではなく、首里城などの大型グスクから出土することが多い物が含まれ、この志喜屋グスクが重要であった事が分かる。
志喜屋グスクへの入り口に案内板が設置されていた。そこを入るとはっきりと石垣が見上げることができる。この場所はグスクの外縁にあたる。ここからグスク内へ上がる道は見当たらない。
志喜屋グスクへの道がもう一つある。ちょうど親川井泉 (エーガーガー) の側にある。ここから入るとグスク内への道がある。内側にも石垣が岩場の上に向かい築かれている。岩場を利用した造りになっている。
岩場を登りグスク上部に行くと平場になっており、そこにも石垣跡が残っている。この場所はそれほど広くは無く、どうも物見台の様に思えた。

アジシー墓 

最初の入り口 (案内板がある方) の内側に典型的な石を積み上げた古墓がある。志喜屋集落の創始者と伝えられる親川 (エーガー) 家のアジシー墓だそうだ。
岩場斜面にはそれ以外にも、幾つもの古墓があった。それぞれ、 葬られている人の詳細は不明だが、考古学専門家によると、グスク時代より新しいものとされている。グスクが使用されなくなってから、その斜面に墓が作られたのだろう。

チチンジャー井泉 (ガー)

志喜屋グスクの奥 (北側) へ道があり、石畳の坂道を下ると平場に出て更に降った所に井泉があり、チチンジャー井泉 (ガー) と呼ばれれいる。 この地の湧水は豊かで、今でも水が湧き出して、先程上志喜屋 (カンチャ) から降って来た畑地帯に流れ出している。この井泉は井戸や水田の水源として利用されていた。

親川井泉 (エーガーガー)

志喜屋グスクへの入り口があった集落を横断する国道331号沿いは親川井泉 (エーガーガー) という井泉がある。かつては、この井泉を生活用水として使っていた。

殿内山 (トゥンチヤマ)、志喜屋農村公園

志喜屋グスクから、国道331号線の南側にある志喜屋集落の中心部の上與那原に向かう。集落中心には志喜屋農村公園があり、そこに自転車を停めて、集落内の文化財を徒歩にて巡る。かつては、ここには殿内山 (トゥンチヤマ) があった。戦前はトゥンチ山は聖域とされていた。「トゥンチ」 は殿の前の山だから 「トゥンチ」と呼ばれるようになったとの説がある。戦後、1946年 (昭和21年)、トゥンチ山を崩して整地して広場を造り、区民の憩いの場、こどもの遊び場、祭りなどで活用されていた。1998年 (平成10年) には綱引き場の整備と東側の公園整備がなされた。 公園の片隅には酸素ボンベが吊るされていた。

志喜屋公民館 (村屋跡)

殿内山 (トゥンチヤマ) には、戦前、村屋が置かれていた。戦後、1946年 (昭和21年) に瓦葺の公民館に建て替えられ、1965年 (昭和40年) は鉄筋コンクリートに建て替えられている。2004年 (平成16年) には旧公民館を取り壊して志喜屋コミュニティー施設が建設されている。

殿 (トゥン)

殿内山 (トゥンチヤマ) の真中には瓦葺きの祠を、南側には瓦葺きの公民館が造られ、志喜屋集落に点在していた拝所を霊石をこの新しい祠に集めて拝むようにしたのだが、神人の方々から反対が起こり、元の拝所に霊石を戻している。この合祀については集落によって考え方や対応が異なっている。霊石自体を神体とする考え方や、祖霊神が降臨する目印で場所は重要で無いとの考えもある。殿内山 (トゥンチヤマ) にある志喜屋コミュニティーセンター(公民館) 前の志喜屋農村公園には殿 (トゥン) がある。現在の殿は、以前は公民館前にあったものを、公民館改修時、2002年 (平成16年) にトゥンチ山の東側に移されコンクリート瓦葺きに建て替えられたもの。拝所の入口左手のクバの根本におむすび型の岩 (写真右上) があり、中央部を調状にくり抜き、その中に切石の香炉が2基置れている。拝屋内奥所の左の柱の後に石灰岩の三つ石 (火ヌ神) がある。村の守護神としての祖霊神がトゥンチ山に降臨した後、この殿 (トゥン) に招請する。琉球国由来記の根所火神と考えられており、「根所火神 下志喜屋村 稲二祭三日間の神への祈願の時、 麦神酒半分ずつ百姓が準備する。 稲二祭の日に、神酒一つ半ずつ百姓が準備して供える。志喜屋ノロが祭祀を行なう。 且つ、三日間の神への祈願の日より祭の日まで、日に二度ずつ、敷屋大屋子より、ノロ、根神に、賄いを奉仕する」と記載されている。殿 (トゥン) では朝ニントウ (1月1日) 、浜エーグトゥ (旧2月10日~15日) 、五月ウマチー (旧5月15日 稲穂祭)、六月ウマチー (旧6月15 稲の収穫祭)、アミシヌ御願 (旧6月25日)、フトチ御願 (新12月24日) で祭祀が行われている。下志喜屋村はこの殿 (トゥン) と村の創始者の根屋のある親川 (エーガー) を中心に形成されたと考えられている。

靖魂之塔

殿 (トゥン) の側には、沖縄戦で犠牲者となった住民51柱を祀る、昭和26年に建立された靖魂之塔がある。1945年5月30日に知念半島の新里、佐敷を通過した米軍は、6月3日には玉城村百名に達して、日本軍がいる南部一帯から知念半島を分断し完全に占領している。6月17日には南部一帯で米軍により多くの住民が保護され、その一部は知念半島の収容所に移された。当時知念地区には21,000人が収容されており、この志喜屋にはそのうち8,200人が収容され最も多い収容人数だった。

親川栄蔵氏頌徳碑

米軍に占領された後、知念地区からの住民移動は中止となり、地方行政緊急措置要綱が発令され、9月20日に市会議員選挙、25日に市長選挙があり正式に知念市が発足した。行政区は知念村久手堅、知念、具志堅、山里、志喜屋、玉城村百名の六区となっていた。市長には親川栄蔵が選出され、この地、知念村志喜屋に市役所がおかれた。この市長に選出された親川栄蔵の戦前から戦後にかけて知念市、志喜屋区のために尽力した功績を讃え、頌徳碑が靖魂之塔の隣に建てられている。

カンジャー堂 (ドー)

志喜屋農村公園の北西、志喜屋グスクから国道331号線の南側にカンジャー堂 (ドー) と呼ばれる古墓がある。カンジャーは鍛冶屋のことで、石碑には、鉄匠始祖 兎之大屋碑と記されている。免之大親 (ミンヌウフヤ) は中国から鉄匠の技術を伝えたという。ここにはかつては鍛冶屋があり、ここで兎之大屋が鍛治に従事していた。石碑左側の岩の根元にはこの兎之大屋の墓がある。

大屋門中墓

カンジャー堂の側に大屋門中の当世墓がある。立派な3連墓なので、この大屋門中が大きな勢力を有していた事が分かる。当世墓の側には岩壁の窪みに石積みで塞がれた崖葬墓の古墓 (写真右下) もある。門中墓とカンジャー堂の間は広場になっており桜の木が何本も植っており桜の花が咲いている。(写真右上) この桜は、今帰仁村との交流で、今帰仁から贈られたもの。
大屋門中の墓の近くにも古墓があった。

前城山の墓 (メーグスクヤマヌハカ)

大屋門中の墓の正面に前城山 (メーグスクヤマ) と呼ばれる小山があり、そこにも古墓がある。葬られている人物の詳細は不明。この辺りは前城 (メーグスク) と呼ばれ、大屋門中の土地となっていたという。

前城山の井泉 (メー グスクヤマヌガー)

前城山 (メー グスクヤマ) の頂部にコンクリート製の給水タンクある。前城山の井泉 (メー グスクヤマヌガー) と呼ばれている。給水タンク下には祠が置かれているので、拝所になっている。この井泉が昔からあったのか、戦後給水のために造られたのかは書かれておらず、詳細についてはわからなかった。

大屋 (ウフヤ) の神屋

志喜屋公民館周辺はかつての村の中心地だった所で民家が密集している。Google地図には出てこない人が一人通れるぐらいの細い路地が何本も通じている。この地域には旧志喜屋村の元屋 (ムートゥヤー) の大屋門中の腹の四元の屋敷があった。四元は、根人の親川 (エーガー、トゥンチ山を管理)、大前 (ウフメー、チヂンモーを管理) 、前 (メー、カンジャー堂を管理) 、大屋 (ウフヤ、前城山を管理) の事。ここはこの四元の一つの大屋 (ウフヤ) の神屋がある。大屋門中の神屋とされている。大屋 (ウフヤ) は大屋門中の四男筋にあたる。祭壇は、左から前城御神、男神人 今帰仁御様御神、 女神人 大月御様御神、男神人 大月御様御神、女神人 右同様御神、男神人 加治細工御神、 知念按司 若按司御神が祀られ、床面の祭壇に火ヌ神が祀られている。

前城井泉 (メーグスクガー)

大屋 (ウフヤ) の神屋の東側には前城井泉 (メーグスクガー) という井泉があり、この井泉も字の祭祀で拝まれている。

産井泉 (ウブガー)

大屋 (ウフヤ) の神屋から坂道を降り所、道沿いにある産井泉 (ウブガー) 跡がある。かつての井泉は車道に埋められてしまい、祠が造られている。

上前田の前の井泉 (ウィーメーダーヌメーヌガー)

産井泉 (ウブガー) の近く、少し坂を降った所、民家の間の奥まった所にも井泉跡がある。昔は小川であったと伝わり、そこでは女性が水浴びをしていたという。 現在、湧水はなく、 井泉を模した拝所となっている。

親川 (エーガー) の神屋

公民館の近くに志喜屋の根屋 (草分けの家) で、大屋門中の四元の一つの親川 (エーガー) の屋敷跡がある。親川家はトゥンチ山を管理している。屋敷内にはコンクリート平屋造りの神屋が置かれている。 資料によれば神屋奥所には神棚があり、右の神棚には、香炉5個が置かれ根神を祀っている。左側の神棚の香炉2個が置かれ、神役を勤めた先祖の霊を祭り、更に、神棚の左手の床には三つ石 (石灰岩) が置かれ、火ヌ神が祀られているとある。 現在、親川 (エーガー) では、1月1日 (新) の朝ニントゥ、2月の浜ヱーグトゥ、6月15日の六月ウマチー等が行われている。

大前 (ウフメー) の神屋

親川の屋敷跡の南側に隣接する民家は、大屋門中の四元の一つの元屋で、大屋門中の次男筋の大前 (ウフメー) 屋敷という。大前 (ウフメー) 家はチジンモーの管理をしていた。

前 (メー) の神屋

大前の西側に隣接する民家は、これも大屋門中の四元の一つの元屋である前 (メー) 家で、大屋門中の三男筋という。 前家は、カンジャー堂を管理していた。

チジンモー

四元の屋敷跡の南側にはチジンモーという広場があり、そこに拝所がある。チヂンは鼓という意味。行事の余興の練習はこのチヂンモーで隠れてやったという。

マジクの墓

集落南部にはマジクと呼ばれる岩山があり、その下に洞穴がある。洞窟の中には風葬された人骨があったという。これらの人骨は、戦時中陣地構築の際にまとめて甕の中に入れられ、洞穴内の一角に置かれたという。 志喜屋集落では清明祭で拝まれている。

ナカフンダ後方の岩にある墓

マジクの墓の北側の岩場にも墓があり、拝所となっている。1934年に東風平の霊能者によって岩の神として造られたそうだ。 岩場の下には祠が設けられて、清明祭で志喜屋集落で拝まれている。

井泉跡

ナカフンダ後方の岩にある墓の近くにも岩場がありそこのは井泉があった。資料には出ていないのだが、コンクリートで貯水槽があり、その側面には樋が二本出ている。側には祠が設けられているので、拝まれているのだろう。

水道井泉 (シードーガー)

更に坂道を下ると集落に西の端に来た。ここより海岸までは畑が広がっている。この場所には水道井泉 (シードーガー) と呼ばれる井泉跡がある。この周辺はガタファと呼ばれているので、ガタファ井泉とも呼ばれている。水の流れ出す一帯は戦前、天皇へ献上する米の苗植えをする献穀田が設けられたところ。献穀田行事は沖縄県内でも水稲栽培が盛んだったころ、南部二カ所と北部でも執り行われていた。旧知念村志喜屋集落では1943年に行われた記録がある。志喜屋集落がこの付近まで拡大し、この地域の人々が坂の上の親川井泉まで通う不便を解消するため新たに設けたと言われる。浜御願所ともなっている。現在は1月1日 (新)の朝ニントゥ 2月の浜ヱーグトゥ、6月15日の六月ウ マチーが行われている。


志喜屋漁港、志喜屋海浜

志喜屋集落から海岸線に向かうと海岸には志喜屋漁港がある。時代別の地図を見ると、戦前にはこの港は見当たらず、戦後海岸を埋め立てて港が造られている。1975年地図では現在の港の半分ぐらいしか完成していない。
志喜屋漁港の隣には志喜屋ビーチがあり砂浜が広がっている。

アドチ島

志喜屋漁港の沖に無人島のアドチ島がある。干潮時には陸続きになるそうだ。1853年、ペリー提督が水測隊のボートを2隻上陸させた島。 

今日志喜屋集落内で見つけた植物。写真左はモモイロノウゼン (桃色凌霄花) という南国の花で、日本にはいつの時代かに渡来し沖縄に生息している。写真右は本土でも広く栽培されている紫色の花を咲かすデュランタなのだが、開花の後には黄色の実がなる。小さな黄色の実がなっている姿は初めて見た。これで旧知念村の集落は久高島を除きすべて訪問が終わった。残っている久高島へは、もう少し日が長くなってからにしようと思う。久高島の往復フェリーは本数が限られているので、最終便に乗船しても、明るいうちに帰ってこれるようにしたい。

今日の志喜屋集落訪問の行き帰りには、7年ぶりに昨年10月にリリースされたYesのスタジオアルバム The Quest を聞く。メンバーは昔からの Steve Howe (g), Alan White (dr) に加え 何度かYes に参加していたGeoff Downes (Key), Billy Sherwood (bass) に VocalはJon Davison となっていた。お気に入りのBilly Sherwoodが参加しているというので期待していたが、もう一つだった。やはりYesは他界した Chris Squire がいないとYesの魅力が半減しているように思える。このYesのギタリストのSteve Howe も昨年にHomebrew 7 を発売している。これは1980年代から現在までの未発表曲を集めたものでジャズ、カントリー、クラシックなどの様々な曲が詰め込まれている。もう一つが、これもYesメンバーだったTony Kayeの初のソロアルバム End Of Innocence で、これも昨年に発表されている。9.11アメリカ同時多発テロ事件をテーマとしている。かなり前衛的な曲もあり、少し重たいかも知れない。

参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)

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