Okinawa 沖縄 #2 Day 162 (01/02/22) 旧知念村 (9) Yamazato Hamlet 山里集落
旧知念村 山里集落 (やまざと、ヤマザトゥ)
山口組地区
- 山口組の殿
- 山口井泉 (ヤナグチガー)
- ヨナグスクの神屋
- 中之井泉 (ナカヌカー)
- 山里公民館 (山里ふれあい交流館)
- ハジシ御嶽 (ウタキ)
- ハジシ井泉 (カー)
- 慰魂之塔
- 新慰魂之塔
- 山口泊 (ヤマグチドゥマイ) 龍宮神
中里 (ナカント) 組地区
- 中里 (ナカント) 組の殿 (根所火神)
- 根屋 (二ーヤ)
- シリーの神屋
- 上元 (ウィームトゥー) の神屋
- 中里の上の井泉 (ナカントゥヌイーヌカー)
- 大馬 (ウフンマ)
- 手水の縁の歌碑
- 富盛門中 (トゥムイムンチュウ) 後ろのアジシー
鉢嶺 (ハチー) 組地区
- 鉢嶺 (ハチー) 組の殿 (トゥン)
- 嘉数門中墓
- 上殿井泉 (イートゥンガー)
- トゥクメー井泉
- 久高島への遥拝所
今日は旧知念村の11の字の9番の集落の山里を訪れる。
旧知念村 山里集落 (やまざと、ヤマザトゥ)
山里集落はおよそ20度の傾斜地に広がるいる。現在では自動車道路が整備されているが、かつては集落内の移動は階段であったと思われ、多くの階段道が残っていた。
山里集落は三つの組が存在し、それぞれが独立して祭祀を行い、拝所も異なっている。これは現在では組と呼んでいるがかつてそれぞれが独立した村で、各村にはノロが存在していた。三つの集落が形成される以前から人が住んでいた遺跡がこの地で見つかっている。BC1000年頃のものと思われる山里集落後方クルク原の山里貝塚では土器が出土し、AD1200年頃の山里部落の西方の山里遺跡ではグスク時代の土器、 青磁などが散布している。このように山里集落後方の崖にある洞窟や山に人が住んでいたと考えられている。
1903年 (明治36年) の土地整理事業の終了に伴い、それまでの山口村、 仲里村、鉢嶺村が合併し、山口の山と仲里の里をとって山里村となった。
山里集落は現在では旧知念村の中では二番目に人口の少ない字となっている。
明治時代は旧知念村の中では一番少なかった。それ以降、一時は370人まで増加したが、それ以降、人口は減少が続き、現在もそれは止まっていない。2020年の人口は200人程で、明治時代の280人から約30%も減少となっている。
民家の分布も1919年に比較しても、ほとんど拡大していない。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: ハキシ嶽 (神名: コバツカサノ御イベ、ハジン御嶽)、
- 殿: 山口巫火神 (山口組ヌ殿)、中里村根所火神 (中里組の殿)、鉢嶺村根所火神 (鉢嶺組の殿)
山里集落訪問ログ
山口組地区
山里集落にある三つの地域集団の一つである山口組から巡る。山口は山への入り口に由来する土地名で、それが集落地名となった。山里に最初に住みついたのが、部落の最上位に位置するこの山口村だった。
山口組ヌ殿 (ヤマグチヌトゥン、山口巫火神)
山里集落にある三つの地域集団の一つである山口組は集落の北端部にあり、ここにはその山口組の殿でコンクリート平屋造りの神屋が建っている。拝屋の正面入り口中央に香炉が置かれ、内部左手奥に火ヌ神、その左側の壁に香炉が3個置かれていた。拝屋の裏には、祠 (写真左下) と井戸跡 (右下) があった。琉球国由来記には知念間切山口村の拝所として、「山口巫火神 稲二祭三日間の拝みの時、 百姓が神酒を半分ずつ供える。また、稲二祭の時は神酒を地頭が一つずつ、百姓が三つずつ供える。麦神酒を百姓が一つずつ供える。山口巫が祭祀である」とあり、ここは山口巫火神と考えられている。かつては山口村で祭祀をつかさどっていた山口ノロがいたことが分かる。言い伝えではヨナグスクの一族が山口村をつくったとされ、その後、 クンジャン門中をはじめとして多くの門中が住むようになり、 祭祀場として、この殿を作ったと思われる。このクンジャン門中が集落を拡大させ集落の中心の門中となり、ヨナグスクと共に、大元 (ウフムート、創始者) とされている。この殿は山口村の祭祀の中心で、根所 (ニードゥクル) にあたり、村代 (ムラデー) とよばれた。山口組の殿は、大正時代はトタンの建物であったが、戦後、コンクリートの建物になり、平成16年に改修されて現在の建物になった。
現在、山口組の殿では正月 (1月1日)、五月ウマチー (5月15日)、六月ウマチー (6月15日)、アミウルシー (旧11月13日)、タキマヤーズネー (旧11月頃) で御願されている。
かつては、この殿の前の広場に舞台を作って村芝居の「伏山敵討 (天願の按司)」が行われていた。
- 棚原の城は無法な天願の按司に攻められ、棚原の按司は家来と共に討死、只富盛大主はをなぢゃら若按司と城を脱出したが、天願の追及がきびしいので富盛と若按司母子は別々に隠れて時機を待ったところへ天願の按司が本部山に猪狩りを催すと聞いて富盛は先廻りして山中に隠れ天願を待ち受ける。若按司もこれを伝え聞いて馳せ参ずる。何事も知らずに猪狩にきて天願の按司は二人に討たれる。
山口井泉 (ヤマグチガー)
山口組ヌ殿の北にある牛舎の奥に給水タンクがあり、そこに山口井泉 (ヤマグチガー) がある。産井泉 (ウブガー) とも呼ばれている。井戸の形ははっきりとはしないが、樋の跡のようなものがあり、パイプが通っている。琉球国旧記には「流泉 山口村にある。俗にこれを樋川とよんでいる」 の記載があり、ここが相当すると考えられている。
ヨナグスクの神屋
山口井泉の西の標高約90mの集落最高所にある民家の離れにヨナグスクの神屋がある。なかなか見つからず、民間の間の道を登ると、細い道が見つかりそこが神屋への道だった。屋敷跡なのだろう、入り口は屏風 (ヒンプン) が残っている。山口村創設の最初の家で宗家とされるヨナグスクの屋敷だったのだろう。このヨナグスクの神屋は、村人からは国代 (クニデー、国元 [クニムトゥ] の事) と呼ばれ、神屋内に国代と書かれた香炉が置かれていた。ここが村の宗家なので、これより高所には民間はない。これは古代琉球集落では一般的な集落の造りで、村造りの際は最高所に聖域の御嶽を腰当 (クサティ - 信頼し寄り添い身をまかすの意味) として造り、その下に宗家の屋敷、その下に分家が広がって行く。ヨナグスクの神屋は山口組が、正月の初拝 (1月1日)、五月ウマチー (稲穂祭 5月15日)、六月ウマチー (収穫祭 6月15日) で拝まれている。
ヨナグスクの神屋の後方にある洞穴の入口に丸い円筒状の自然石のビジュル石がある。ビジュル石信仰は、子授け、子育て、子供の健康、旅立つ者への加護を祈願するとされる。
中之井泉 (ナカヌカー)
ヨナグスクの神屋の南の道沿いに中之井泉 (ナカヌカー) がある。上の道から階段で降りるようになっており、今でも階段の一部は石積みが残っている。山口組の産井泉 (ウブガー) だったという。 貯水槽はコンクリート造りである。 現在も水量豊富で、農業用水等に使用されている。
貯水槽の奥には小さな祠があり、燃え残った平御香が置かれている。今日は旧暦の正月にあたるので、各地で初拝みが朝に行われている。この平御香はその御願で備えられたものだろう。この後も、各拝所で供えられた平御香を見ることになる。
山里公民館 (山里ふれあい交流館)
中之井泉 (ナカヌカー) から一本下の道の東端に山里公民館がある。ここからは村全体とその下に広がる畑が一望できる。
ハジン御嶽 (ハキシ嶽)
ヨナグスクの神屋の西のハジシ山の森の中に腰当 (クサティ) のハジン御嶽 (ハキシ嶽) がある。山口村の御嶽にあたる。ヨナグスクの神屋から丘陵を横切って進み道を探すが直接の道は無く、一度下の道まで下り、山手に入る急な上りの小道を登って行くと御嶽の前に出る。道の脇にはルリジサ (瑠璃苣、ボリジ) が群生していた。ハーブとして使われる植物だそうだ。
拝所は広場になっており、ここに2つの祠が置かれていた。向かって左の祠には今日 (旧暦正月) の初御願 (ハチウガミ) で供えられた平御香の跡が残っていた。右側の祠には供えられていない。この左の祠がハジン御嶽 (ハキシ嶽) にあたるのだろう。今はハジシ嶽と呼称されているが、以前はハキシ御嶽と呼ばれ、ハキ (端) +シ (岩) のことで、ハキがハジ (端)に転訛している。ハジシ嶽は琉球石灰岩台地の端岩 (縁) にある、すなわち断崖にある嶽という意味だそうだ。琉球国由来記の「ハキシ嶽 (神名: コバツカサノ御イベ)」と考えられ、「右、山口巫崇所。 右、毎年三八月、四度御 物有祈願也」と記載がある。毎年3月と8月の「四度御物参り」の王府の祭祀が行われた事が分かる。戦前まではハジシ山の頂上にある平石で志喜屋、知念、山里などの字からノロにつれられた女がきて、神女になる儀式 (御名つけ) を行っていたという。現在は1月1日の旧正月、6月25日の井泉御願 (カーウガン)、9月9日の菊酒 (健康祈願)、12月24日の解き御願 (フトチウガン) が行われている。 また、東御廻いの拝所であるそうだ。
ハジシ井泉 (カー)
ハジシ御嶽の祠の手前に石灰岩を野面積み風にした井泉があり、ハジシ井泉 (カー) と呼ばれている。取水口には石が積まれ、「清水泉」と書かれている。今も湧水がある。この井泉も今日の1月1日の旧正月の御願がされている。ハジシ井泉 (カー) の下方にも元カーと呼ばれる井泉があるそうなのだが、そこは見当たらなかった。
ハジシ御嶽付近や北西側の後方の山のタカバカには、いくつかの洞穴があり、門中墓ができる以前の祖先の人々の墓があり、アジシー墓として崇められている。琉球では、この様な古代からの古墓を拝めて腰当森 (クサティムイ) として祖霊神を祭る御嶽としている事が多く、このハジン御嶽もこの例だろう。その祖霊神がハジシ御嶽に降臨すると伝承されている。ハジシ御嶽の頂上には、久高への遥拝所があり、以前は拝んでいたそうだ。(今は拝んでない) ハジン御嶽へ登る道の途中に脇道があり、古墓に通じていた。この墓は集落形成後のものの様で、先に記したさらに古い墓では無いのだが、この地域が墓地として利用されていたのだろう。元の墓は岩壁を利用して造られていたと思われるが、墓の前にあたらしく拝所と墓碑が置かれていた。墓碑の蔦を取り払うと、「知念按司之ウミナイビ真加戸金前 読谷御先唐旅世之親加那志前之墓」とあった。これの意味ははっきりとはわからないのだが、どうも知念按司の娘の真加戸金 (マカトガ二) の墓の様に思える。どの時代の知念按司の娘かはわからないが、三山時代の知念按司なのか? 琉球第二尚志時代に知念按司となった尚真王 (1477年 - 1527年) の異母兄弟 (尚円王と内間ノロとの子) で西原間切内間村にいた内間大親かその子孫なのか?
慰魂之塔
ハジシ御嶽には、字山里で第二次世界大戦での犠牲者を慰霊する慰魂之塔もある。 昭和29年に犠牲となった住民33柱が慰霊されている。この慰魂之塔の後ろの岩場には避難壕があったそうだ。沖縄戦初期に山里住民が避難壕として使用していたが、適当な避難所でなく、後にイリジョーガマに移動したそうだ。
新慰魂之塔
ハジン御嶽から降りて道路に戻ると、そのすぐ下にもう一つの慰霊碑があった。これは先程訪れた慰魂之塔が経年劣化で倒壊した際に平成31年に新しく建てられたもの。現在ではこの新慰魂之塔で毎年6月23日に慰霊祭が行われている。
山口泊 (ヤマグチドゥマイ) 龍宮神
集落から南方の海岸に下り、先日訪れた具志堅漁港の西側へ向かう防波堤遊歩道の林の中にある拝所がある。山口村の海岸になる山口泊 (ヤマグチドゥマイ) の龍宮神を祀っている。山口泊では、かつて、この拝所周辺の浜で3月3日にサングワチサンニチー (浜うりの御願) の浜下りが行われたという。 字山里では、各組がそれぞれの浜 (山口泊、中里泊、鉢嶺泊) で浜下りを行ったそうだが、中里泊と鉢嶺泊には同じ様な拝所は紹介されていなかった。探せばあるのかもしれないが、多分消滅してしまったのだろう。
中里 (ナカント) 組地区
次に山口組の下の斜面に広がっている中里 (ナカント) 組地区の拝所を訪れる。この地域は地理上は山里集落の中心にあたる。中里村は方言でナカントゥと言われ、山口村と鉢嶺村との間にある「中の里」という意味。山口村の人口が時が経つにつれて増えていき、住民は下方に下りて家を造って、田畑にも近く、海にも近い場所で生活するようになり、その後、他の村からも移住してきた人々も加わり中里 (ナカント) 村を造ったと考えられている。現在は四つの門中が存在している。
中里 (ナカント) 組の殿 (根所火神)
旧中里村の中央部に殿がある。この場所には四つの拝所が集中している。かつての中里村の中心だった。琉球国由来記には「根所火神 中里村 稲二祭三日崇の時、麦神酒半分ずつナカント村の百姓が供える。稲二祭の時、神酒半分ずつ中里大屋子が供える。同じく神酒一半ずつ、麦神酒一半ずつを百姓が供える。ナカント巫が祭祀である」と記されている。神アシャギは新しくコンクリートで造られて、シンプルな作りになっている。神アシャギ内部の奥の香炉は火ヌ神を祀り、手前の香炉はニライカナイへの遥拝所で、中から外側ニライカナイに向かい拝んでいる。ナカント殿では、正月 (1月1日)、五月ウマチー (稲穂祭 5月15日)、六月ウマチー (収穫祭 6月15日)、アブシバレー (旧4月)、アミウルシー (旧11月13日)、浜下り (旧3月3日) の祭祀行事が行われている。かつて、この殿の前の広場では中里村で村芝居の組踊「手水の縁 (ハンジャヤマトゥー)」が大正14年頃までは毎年ヌーバレーで上演されていた。
根屋 (二ーヤ)
中里組ヌ殿の前の民家の離れが、山口村のトムイ門中の分家の屋号「メー」 の根屋 (二ーヤ) がある。山口村から下って家を作り、根屋になり、そして、殿をつくったと考えられる。ここには村芝居の時の衣装等が置かれていたそうだ。 先の殿 (トゥン) とあわせて、琉球国由来記の根所火神に相当すると考えられている。 中里村の根所火神では 稲二祭三日崇、稲二祭が行われた。
シリーの神屋
中里組又殿の南東、根屋 (二ーヤ) の隣の空き地となっている場所にに中里ノロの家であったというシリーの神屋がある。
上元 (ウィームトゥー) の神屋
中里組ヌ殿のすぐ北には志喜屋の親川門中の支流の上元 (ウィームトゥー) の神屋がある。民家の離れが神屋になっていた。
中里の上の井泉 (ナカントゥヌイーヌカー)
中里 (ナカント) 組の殿から坂道を登った道沿いに中里の上の井泉 (ナカントゥヌイーヌカー) がある。琉球国旧記には「流泉 仲里村にある。俗にこれを樋川とよんでいる」 と記載されている。
大馬 (ウフンマ)
中里 (ナカント) 組の殿から国道331号線におり、国道を下ると、道の脇にかつての龕屋 (ガンヤー) がコンクリートブロック造りの平屋 (山里龕家改築 工事/竣工 1995年3月とある) で残っており、大馬 (ウフンマ) と呼ばれている。大馬 (ウフンマ) は葬儀で棺を運ぶ龕の忌み名という。山里では龕を表すウフンマの名でその建物も表している。龕屋の中には木製朱漆塗り、僧の絵などが描かれいる龕が保管されていたそうだ。山里の龕は中里組の人が中心となり、組合方式で制作されていたので、中里組が管理し、祭祀も行っている。志喜屋、山里、具志堅、知念の四つの集落の人々が利用したという。 龕を仕立てた先人の供養が行われ、祭祀は中里組の組頭がしきり、5月5日の大馬の御願、9月9日の大馬の御願の2回行われ、この龕屋とその後方の上川原の山中にある龕を仕立てた先人の墓を拝んでいる。
ガンヤーの東の石灰岩の崖下に井泉 がある。 井口が石灰岩で長方形に区切られ、その右奥に切り石の香炉が置かれている。龕屋との関係などは不明。
手水の縁の歌碑
国道331号線沿いに中里村で村芝居で演じられていた平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」の歌碑が建っていた。手水の縁で登場する娘 玉津は山口村のヨナグスク家の盛小屋大主の一人娘だった事から、その縁の地という事で建てられている。この「手水の縁」は、琉球王府により上演禁止となり、大正7年にようやく上演が許されたという曰く付きの演目。国家反逆の罪で処刑された朝敏の作であったことと、結婚は親が決める封建秩序を乗り越え、自由な恋愛を描いた組踊のため、権力者から問題視されたと伝えられている。
- 瀬長山を散歩中の山戸は波平玉川で水を飲もうとして、川で髪を洗おうとしていた知念山口の盛小屋大主の一人娘玉津に出会い、互いに惹かれ合う。しかし事態が発覚し、盛小屋の大主は玉津を知念の浜で打ち首にすることを命じる。執行される直前に山戸が刑場に駆け込んできて自分が玉津の身代わりになることを願い出る。山戸の申し出に心が動かされた刑の執行役は二人を逃がし、大守には執行したと虚偽の報告をすることにする。二人は礼を述べて夜の闇に消えていく。
富盛門中 (トゥムイムンチュウ) 後ろのアジシー
旧中里村の地域から外れ、山里集落北東部の林の中に中里村に関わる富盛門中の当世墓がある。大岩の下にある。
大岩の後には大岩を利用した同門中の古墓 (アジシー) があった。中里組では新暦4月5日頃の清明祭 (シーミー) でこの墓を拝んでいるが、中里村創始者である先人の供養はこの他にも多くある古墓を巡り拝むそうだ。(上川原の所のアジシー、上川原貯水タンクの上のアジシー、西り門南側のアジシー、伊元東側の森のアジシー、ハジシの下の仲伊元所有畑の所から、ウナドー墓の向かって右側のアジシーだが場所は掲載されていない。地元の人しかわからないだろう。)
鉢嶺 (ハチー) 組地区
次は三つ目のちく、旧鉢嶺村に移る。旧中里村から国道331号線を越え南側に位置している地区。山口村、そして中里村が形成される頃に、両村から西側に離れた鉢嶺 (ハチー) の地 域にも人々が住むようになったと推測されている。
鉢嶺組の殿 (ハチーヌトゥン)
国道331号沿いの民家敷地内に旧鉢嶺村の殿 (ハチーヌトゥン) がある殿。 鉢嶺村は幸地門中、嘉数門中、仲宗根門中の三つの門中を中心に構成される。嘉数門中が旧鉢嶺村の大多数を占め、那覇から移り住み鉢嶺村を形成し、殿を造ったと言われている。琉球国由来記の根所火神に相当するとみられ、「根所火神 稲二祭三日崇の日、麦神酒を鉢嶺村の百姓が半分ずつ供える。また、稲二祭の時は、神酒一つずつを地頭がそなえる。稲二祭の時、 百姓が 神酒二ずつと麦神酒一つずつを供える。鉢嶺巫 (ノロ) が祭祀である。」 と記載されている。鉢嶺村の殿は根屋で上殿 (イートン) と呼ばれ、殿の中でも上位に格付けされたという。昔は木立の中に茅葺きの建物があったが、後に瓦葺きになり、1980年に現在のコンクリートの建物になった。鉢嶺組の上殿では旧正月 (1月1日)、五月ウマチー (稲穂祭 5月15日)、六月ウマチー (稲収穫祭 6月15日)、祭祀名不明 (旧9月13日)、アミウルシー (旧11月13日)、フトチ御願 (旧12月24日) で御願されている。
嘉数門中墓
鉢嶺組の殿 (ハチーヌトゥン) の北の山の斜面に鉢嶺村を形成した嘉数門中の当世墓があった。ここからは山里集落の畑が志喜屋漁港まで広がっているのが一望できる。
上殿井泉 (イートゥンガー)
鉢嶺組の殿の前の国道331号線を北に渡った畑地の奥にある岩の下が窪みが上殿井泉 (イートゥンガー) という。鉢嶺組の人たちが飲料水として使用していたという。
カマシチャガー
鉢嶺組の殿 (ハチーヌトゥン) の南側は崖になっており、その崖下にも井泉がある。カマシチャガーと呼ばれているが、詳細は載っていなかった。勢い良く水が流れ出している。
カマシチャガーのある崖には古墓もあった。
トゥクメー井泉 (ガー)
上殿井泉 (イートゥンガー) から国道331号線を少し西に行った畑のそばに石積みの井泉がありトゥクメー井泉 (ガー) と呼ばれている。上殿井泉まで行くのが不便ということで、新たに造られた。 この井泉も鉢嶺村の飲料水として使用されていた。
久高島への遥拝所
鉢嶺村は鉢嶺組ヌ殿を中心に崖の上に広がっており、その村の中、崖の縁に小さなコンクリート製の祠が置かれている。久高島への遥拝所といわれており、今朝、旧正月の初拝みが行われていたのだろう平御香が供えられていた。
山里集落巡りが終わった後、まだ時間があったので、この後、海岸線を走る。志喜屋漁港から、アドチ島付近まで行き、旧玉城村のアーヂ島まで行き、ここで海岸線の道路が途切れる。
ここからは丘陵越えで帰路に着いた。途中、以前訪れた井泉跡で綺麗に桜が咲いていた。沖縄では一月後半から桜が咲き始めている。
いつも通り、音楽をかけて家まで走行。今日も帰宅は6時過ぎとなったが、ライトをつけるほど暗くはなっていない。少しづつ日が長くなってきている様だ。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
- 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
- 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)
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