Okinawa 沖縄 #2 Day 161 (28/01/22) 旧知念村 (8) Gushiken Hamlet 具志堅集落

旧知念村 具志堅集落 (ぐしけん、グシチン)

  • メーバル井泉
  • 長堂ヌ殿 (ナガドーヌトゥン)
  • 越地ヌ殿 (クィージヌトゥン) (未訪問)
  • 具志堅の石獅子 (シーサー)
  • ニシャラクガー (未訪問)
  • 具志堅公民館 (具志堅コミュニティセンター)
  • 久高島への遥拝所
  • 具志堅井泉 (グシチンガー)
  • 下の井泉 (シチャヌカー、具志堅樋川)
  • イーチョー井泉 (ガー)
  • 国元 (クニムトゥ)、ウサチ (未訪問)
  • 上の井泉 (イーヌカー)
  • 上ヌ屋之殿 (イーヌヤーヌトゥン)
  • 上ヌ屋ヌ前ヌ井泉 (イーヌヤーヌメーヌガー)
  • 古墓
  • 鬱金発祥の地碑
  • 具志堅農村公園
  • 平等番所 (ヒラバンジョー、平等原之殿)
  • 平等原殿後方井泉 (未訪問)
  • 長堂産井泉 (ナガドーウブガー)
  • 稲堂墓 (ンナドーバカ)
  • 稲堂ヌ殿 (ンナドーヌトゥン、具志堅之殿)
  • ウタムトゥ
  • 稲堂 (ンナドー) グスク
  • アジ井泉 (ガー) (未訪問)
  • クヮッチン殿 (ドゥン)
  • クヮッチン殿のクサイの井泉 (未訪問)
  • クラントー
  • タモシモウシ
  • 名称不明古墓
  • 竜宮 (リューグー)
  • 具志堅漁港
  • 沖縄刑務所 (2022年2月1日 訪問)
  • ジーブーアブ (2022年2月1日 訪問)


東京に1月13日から約1週間ほど、定期健診の為に行っていた。昨日ようやく6日間の東京史跡巡りの訪問記の編集が終わった。1月7日に知念集落を訪問してから、三週間ぶりに集落巡りを再開。今日は知念集落の隣にある具志堅集落を巡る。



旧知念村 具志堅集落 (ぐしけん、グシチン)

具志堅は方音でグシチンで、山麓の端または縁を意味すると考えられている。 具志堅は知念の具志堅は古くは知念集落の一部で、その中に島小 (シマグワー) と呼ばれた地域から、知念村は広がっていった。

1947年 (昭和22年) に分離して字具志堅として独立した。 具志堅には六つの殿があり、幾つかの血縁集団の門中が定住し、かなり古い集落だった。

具志堅の人口については現在では312人だが、この中には沖縄刑務所に収監されている人数130人が含まれており、集落住民のみで見ると181人となり、旧知念村の中では吉富に次いで少ない地域。

戦後、昭和21年に知念から分離独立した当時は170人程と思われ、その後、微増、微減を繰り返し、現在では181人で、人口はほとんど変わっていない。

集落の分布を見ても、民家の広がりはほとんど変化が見られない。

字具志堅の地形を見ると、農業耕作地として適している平地は具志堅漁港付近の狭い地域だけで、土地のほとんどは丘陵斜面となっている。半農半漁の生活ではなかったかと思われる。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽:  地域内に無し
  • 殿: 長堂之殿、越地之殿、平等原之殿 (ヒラバンジョー)、コカルケンヌ殿 (クワッチン殿)
  • 拝所: 稲堂の殿、上之屋之殿

下表のように具志堅集落としての祭祀は二つしか続けられていない。海御願と神シーミ―だけで、御願する拝所も以前に比べて少ない。集落には6つも殿があったので、小部落がそれぞれの血縁集団の門中が6つ独立してあったのだろう。それぞれの門中で、その祖先を祀った拝所を御願しているのだろうが、具志堅集落としての共通祭祀は形成されなかったと思われる。集落内の民家の位置を見ても、一か所に集中しているのではなく、分散しており、一つの集落としてのまとまりは形成されなかったように見える。


具志堅集落走行ログ



メーバル井泉 (ガー)

前回訪れた知念集落から国道331号線を下り具志堅集落に入る。まず具志堅集落の北側にある文化財を巡る、国道331号線脇に自転車を停めて、坂道をのぼる。この坂道沿いに、メーバル井泉 (ガー) があるのだが、現在では井戸が残っているのかどうかわからない、資料では井泉自体の写真はなくこの付近の写真のみが掲載されていた。多分、消滅してしまったのだろう。ここの畑地内にあり、昔は小川があり、その途中で水が溜まるようになっていたという。 現在、この具志堅では集落として拝んでいる井泉は存在していないようなので、消滅した可能性が高いだろう。


長堂ヌ殿 (ナガドーヌトゥン)

更に坂道を北に上ると、数軒民家が集まっている地域に出た。集落北部上方の越地屋取 (クィ ージヤードイ) と呼ばれる地域で、集落内で最も高所にある。ここには、この越地屋取の根屋で元屋である長堂大屋があり、そこの離れが殿で、長堂ヌ殿と呼ばれている。この長堂大屋は知念按司の子孫という大屋門中の宗家にあたるという。どの時代にここに住み始めたのかは記載がなく分からないが、越地屋取と呼ばれているので、第二尚氏王統後半ではないだろうか? ただ、他の多くの屋取集落とは異なり、殿が存在する。琉球国由来記の長堂之殿に相当すると考えられ、かつては、知念ノロにより稲穂祭が行われていた。昔の殿は通常、一つの村に一つの殿があるのだが、具志堅集落の場合は、殿が六つもある。 それは具志堅集落を形成していた血族集団が少なくとも6つあったと考えられ、それぞれの門中の祭祀行事を行っていたのだろう。現在、具志堅集落としてはこの拝所を御願していない。大屋門中が個別に御願しているのだろう。


越地ヌ殿 (クィージヌトゥン) (未訪問)

越地屋取 (クィージヤードイ) の長堂ヌ殿のすぐ南側の民家の東側の林に越地の殿 (クィージヌトゥン) があると資料には写真入りで説明があった。殿は四角い石を左右の壁にし、後ろの壁と屋根は長四角の石で作られ、その真中に小さな 揺拝石が置れていると書かれていた。この辺りは越地屋取で、具志川あたりから移住してきた根屋である屋号 越地が、材木の乱伐を防ぐために越地ヌ殿を造って祖霊神を祀り、山を聖城化したという。 琉球国由来記の越地ヌ殿に相当すると考えられ、「稲穂祭の時、神酒半分、麦神酒半分を知念村の百姓がこれを供える。知念巫 祭祀である」と記載されている。

この写真の祠を探す為、入り口を探すが見当たらない。強引に林の中に入る。林の中に小さな空間があり、古墓らしきものはあったのだか、写真の祠は見当たらなかった。

資料の地図には正確な場所の記載ないので、少し範囲を広くして探す。林への道があり、そこを進むと広場があった。そこに祠がありそうな期待はあったのだが、探しても結局は見つからなかった。残念。


具志堅の石獅子 (シーサー)

長堂ヌ殿 (ナガドーヌトゥン) から更に道を北に上った所、旧部落である長堂のニシャラク山に、石獅子が残っている。ここは具志堅集落の北端になる。この石獅子は旧知念村内に現存するものでは最も大きい石獅子だそうだ。長堂部落入口の魔除けとして作られたという。北のクルク山に向いていて、集落入口の魔除け (サンゲーシ) として造られたという。


ニシャラクガー (未訪問)

資料地図では具志堅の石獅子 (シーサー) の前の畑の中にニシャラクガーという井泉があったそうだ。資料にあった写真 (右下) を頼りに探すが、一面畑になっており、井泉跡らしきものは見当たらない。集落では御願の対象になっていないので、消滅してしまったのかもしれない。ここまでで見つけられない文化財の方が多い。今日は幸先の良い出だしではないようだ。

ここで雨が降り始めた。この周辺には、まだ、文化財があるのだが、沖縄の雨はスコールで、大雨になると思うので見学は断念して道路を下り国道331号沿いに停めた自転車を木陰に移動して雨宿りをする。案の定、すぐに大雨に変わった。一時間ほど雨宿りをして、小雨となったので、公民館に向かう。


具志堅公民館 (具志堅コミュニティセンター)

公民館は国道331号線側にあり集落の真ん中あたりにあたる。ここがかつての村屋だったのかは分からなかった。ともかく自転車を雨に濡れないように公民館の軒下に置かせてもらい、集落巡りを続けることにした。この時には雨は上がっていた。今朝出発して雨が降り始めるまでは、初夏の様な気候だったのだが、雨で一気に冷え込んだ、ここで濡れた半袖シャツを長袖に着替えて見学を再開。


久高島への遥拝所

公民館の前の国道331号を北に少し行くと大岩があり、久高島への遥拝所といわれている。 具志堅と久高島は、田イモと干し魚を交換する等、交流があったという。具志堅の人たちは、久高島の外間へ拝みに行ったという。


具志堅井泉 (グシチンガー)

久高島への遥拝所の道の反対側にに具志堅井泉 (グシチンガー) があり、ウブイ井泉とも呼ばれている。


下の井泉 (シチャヌカー、具志堅樋川)

具志堅井泉 (グシチンガー) の前の道を隔てた所、国道331号沿いにに下の井泉 (シチャヌカー) がある。地図では具志堅樋川 (グシチンヒージャー) と記載されている。かつては、現在の敷地および前方の道の一部を含む池だったという。


イーチョー井泉 (ガー)

下の井泉 (シチャヌカー) から国道331号を知念集落方面すぐの所に別の井泉跡がある。イーチョー井泉 (ガー) とかイーチャー井泉と呼ばれる。井泉を模した石積みの拝所になっている。共同水道ができる1930年以前、山里集落のクヮッチン井泉、グシチン井泉 (または産井泉) と共に字の水源として使用されていた。


国元 (クニムトゥ)、ウサチ (未訪問)

資料には下ヌ井泉の後方 (北側) の山中に国元 (クニムトゥ) の拝所 (写真右下) とノロの墓といわれているウサチ (左下) があるという。 琉球王統時代は具志堅にある殿での祭祀は知念巫 (ノロ) により執り行われたのだが、地方によっては知念のような公儀のノロ以外にも、シマノロと呼ばれる神役が存在していた。琉球国由来記には具志堅には居神13人 がいたことが記されているので、このシマノロ (居神) の墓なのだろう。ただこの林の中への道が見当たらない。この国元 (クニムトゥ) とウサチは4月の神シーミ―で集落御願が行われているのでどこかに道はあるはずだ。探すも見つからず断念。


上の井泉 (イーヌカー)

公民館の北西方面、丘陵斜面の道を登って行くと上の井泉 (イーヌカー) がある。かつては池だったという。現在は埋められ駐車場となり、かつては駐車場の中央部に祠が建てられていたが、現在は更に道路側に移されている。


上ヌ屋之殿 (イーヌヤーヌトゥン)

上の井泉 (イーヌカー) から、更に道を登ると上ヌ屋之殿 (イーヌヤーヌトゥン) がある。具志堅集落の神元 (カミムトゥ) であり、長堂組の組元でもある知念按司を祖先にもつ幸地門中の殿。幸地門中が祭祀行事を行うために作ったと考えられる。明治時代に後継が絶え、東風平から養子を迎えたが、その子孫の元屋も移住して集落には住んでいない。その後、下の写真の様に上ヌ屋之殿は取り壊されてしまい元屋も殿も根屋もなく、ウコールなどの祭式用具はコンテナに保管されて、ウブガーであるグシチンガーの近くにおかれていた。

現在では、コンクリート造りの神屋が造られて、東風平町からも拝みに来ているそうだ。


上ヌ屋ヌ前ヌ井泉 (イーヌヤーヌメーヌガー)

上ヌ屋ヌ殿の道の反対側に上ヌ屋ヌ前ヌ井泉 (イーヌヤーヌメーヌガー) がある。入り口はクバの葉で覆われて、入り口だとは気づかなかったが、よく見ると奥に空間があった。屈んで中に入ると、井戸の穴を囲んでいる石積みがあった。現在では湧水はない。


古墓

上ヌ屋之殿 (イーヌヤーヌトゥン) 後方の階段を上がり、別の道に出て、更に登って行くとと、小山があり、中に入る階段がある。そこを入ると古墓があった。香炉が置かれているので、集落のいずれかの門中の古墓なのだろう。


鬱金発祥の地碑

更に道を登ると三叉路になり、そこに鬱金 (ウッチン) 発祥の地の石碑が建っている。「ウッチン」とは沖縄の言葉で鬱金 (ウコン、ターメリック) のこと。琉球王朝時代の沖縄に南方からもたらされた鬱金は、温暖な地方では栽培しやすく、また経済価値が高いため、砂糖と共に専売制を敷いて栽培から販売までを王朝が独占し、厳しい管理下におかれていた。村々に栽培量を割り当て収穫されたものを王府が全量を買い上げ、薩摩藩を通して日本各地に高値で出荷されたと言われる。石碑にはこの地が「鬱金の発祥の地」となってはいるが、ウコンは平安時代に中国から琉球へ伝わったと言われているので、ウコン発祥地ではなく、知念間切におけるウコン普及のための栽培発祥地であったと思われる。この碑はウッチンアタイグワ (ウコンの畑の意) と呼ばれ、この地に平成12年(2000)に建立された。碑には「知念間切惣耕作当大城耕一氏 (1892年[明治25年]~1894年[明治27年] 地頭代) はこの畑にウッチンを植え、その栽培普及に力を尽くしました」とある。


具志堅農村公園

三叉路の西側に農村公園の広場がある。この辺りは稲堂 (ンナドー) 地区になる。農村公園がかつては何であったのかは書かれていないのだが、琉球王朝時代には知念間切の番所があった。1761年、第二尚氏14代国王尚穆王の時に番所は知念城に移され、その後何になったのかは調べきらなかった。


平等番所 (ヒラバンジョー、平等原之殿)

農村公園の西側の隅に小さな祠 (写真上) がある。そしてその奥の林に拝所がある。石の階段で拝所に向かうようになっているのだが、木々をかき分けて進まなければならないほど荒れていた。ここは昔の裁判所と云われ、罪人を処刑する場所で、平等原 (ヒラバンジョー) 云う。地元では単に (番所) バンジュと呼ばれていた。階段上の祠 (写真下) は、太平洋戦争時に出征兵士の武運長久を祈るために昭和18年に建てられている。この祠を建てる際には人骨がいくつか出てきて、それを前方、広場の隅に小さな祠 (写真上) を作り合祀している。墓は集落の根人である長堂大屋や中元の中大屋が清明祭に拝んでいる。平等番所 (ヒラバンジョー) は、琉球国由来記の平等原之殿に相当すると考えられており、「平等原之殿 稲穂祭之時 五水六合を具志堅大屋子が供える。 知念村の百姓が神酒 二を供える。 知念巫、祭祀である。且、鱠、菜を百姓から巫はご馳走になる。同村 同大祭之時 百姓は稲穂祭りの如く、神酒を供え祭祀である」 と記載されている。どの門中が作ったのかは不明。知念の村の集合体は具志堅平等でその公務を掌る所が平等番所であるとされ、番所は1761年、第二尚氏14代国王尚穆王の時に知念城に移されて知念番所になるまで機能していたと思われる。


平等原殿後方井泉 (未訪問)

平等番所 (ヒラバンジョー) の後方にも、拝所に登る道がある。このどこかに井戸 (写真右下) があると書かれていたので、探すも見つからなかった。


長堂産井泉 (ナガドーウブガー)

農村公園から、雨が降る前に訪れた長堂之殿方面に向かい、雨で引き返して見れなかった文化財を見学する。向かう道沿いに長堂産井泉 (ナガドーウブガー) があり、長堂之前之井泉 (ナガドーメーヌカー) とかサーターヤー井泉とも呼ばれていた。大岩の下にコンクリートで貯水槽が造られている。前方の畑にある祠が井泉の拝所となっている。この畑は、かつてはサーターヤー (製糖場) だったという。


稲堂墓 (ンナドーバカ)

雨が降りはじめ引き返した具志堅の石獅子 (シーサー) の所まで戻ってきた。ここから更に道を北西に登って行くと道が行き止まりになる。畑があり、その奥の岩場にコンクリート製の破風墓がある。破風墓に向かって右側に稲堂墓 (ンナドーバカ) と呼ばれている古墓がある。隣の山里集落の中里組が神清明の時に拝んでいるそうだ。


稲堂ヌ殿 (ンナドーヌトゥン、具志堅之殿)

稲堂墓 (ンナドーバカ) から来た道を通り、農村公園まで戻る。農村公園の北側に稲堂ヌ殿 (ンナドーヌトゥン) がある。道沿いの丘の階段を登った茂みの中にコンクリート造りの祠があり、佐宇次権現 (ビジュル洞航空自衛隊知念分屯基地内 未訪問) にお通しと考えられている。稲堂門中がその門中祭祀行事を行うために稲堂之殿を作ったと思われる。琉球国由来記の「具志堅之殿 同村 稲穂祭の時、根人が五水六合 (酒) を供える。 知念巫、祭祀である。 且つ、同人から、鱠をご馳走なさるのである」と記載のある具志堅之殿と推測されている。 ある資料には「貝堂グスク (稲堂グスク) と称する森に殿内跡があり、貝魚の番人がいたという。この殿が具志堅之殿と考えられ、貝堂之殿と呼んだと推察され、屋号 貝堂小 (末裔は具志堅を名乗っている) が崇めている。稲堂の周辺には捨てられた多くの貝殻があったといわれているのでそこから稲堂を方言の呼び方をして貝堂と言ったのだろう。」ともある。稲堂ヌ殿は、現在、具志堅門中が管理しているが、 祭祀等は行われていない。4月に神清明祭 (神シーミー) が行われる。かつては、12月24日に解き御願が行われ、六月ウマチーの時には区長がウンサク (御神酒) を作る米を上ヌ屋ヌ殿、越地ヌ殿と並んでこの殿にも配っていたそうだ。

ウタムトゥ

稲堂ヌ殿の道向かい東側にウタムトゥと呼ばれる拝所がある。道路工事の時に発見され、現在地に移動されたという。 この上部にある稲堂グスクの火ヌ神だったのではないかと考えられている。 吉富集落のビジュル洞 (航空自衛隊知念分屯基地内 未訪問) への遥拝所ともいわれる。


稲堂 (ンナドー) グスク

ウタムトゥから更にの登り、集落北西にある丘にある岩塊 (標高95m) が、稲堂 (ンナドー) グスクといわれている。ミンタマヤーグスクともいわれている。石垣などの遺構や遺物などは確認されていないが、いくつかの平場があるそうだ。このグスクは近年にグスクと確認され、整備などはされておらず、熱帯樹が生い茂る藪に覆われている。情報も少なく、インターネットでは全くヒットしなかった。 「南城市のグスク」によれば、この地は知念間切と玉城間切の境になり、間切間、ムラ間の交通路となる。有事の際には相手方の進入路にもなれば出撃拠点にもなるため、その重要な戦略上の課題となる要所には道をおさえるための軍事施設などがつくられることがある。稲堂グス クのすぐ脇を通る道も、この付近で丘陵上につながる重要な道として利用されていた可能性があると推測されている。グスクの周りを歩き、中に入る道がないか探すが、整備もされていないので道は無いようだ。

資料には稲堂グスクは神シーミ― (清明祭) では御願されているとあるので、何かがあるのでは思う。稲堂グスクのすぐ東には林の中への道があり、行き止まりには古墓があった。ここが神シーミ― (清明祭) で御願されているところなのだろうか?


アジ井泉 (ガー) (未訪問)

稲堂 (ンナドー) グスクから来た道を農村公園まで戻り、そこから南西の梅に向かう道を進み具志堅集落の西側まで行く。資料には道の側にアジ井泉 (ガー) があるそうなので、資料の写真 (右下) を手掛かりに探す。在では湧水はないが、大岩の下が井泉と考えられているとある。資料写真では正確には確認できないのだが、写真上の場所がその場所ではないかと思われる。この井泉は具志堅門中により拝まれている。


クヮッチン殿 (ドゥン)

アジ井泉があったとされる所から林の中への道がある。その道を進んだ林の中にクヮッチン殿 (ドゥン) がある。殿の前は広場になっている。集落のどの門中が作ったかは不明。現在、具志堅集落では拝んでおらず、この殿の管理者の子孫という新垣家 (旧東風平町在) が拝みに来るという。このようにこの殿は具志堅に住んでいる人々とは関係がないと思われ、他の所から具志堅に来た人々が、その血縁者が一つの集落を形成し、そのクサチ (腰当) として殿を作り、守護神として祖霊神を 崇めて暮らしていたと推測されている。琉球国由来記の「コカルケンノ殿 同村 稲穂祭の時、家主が五水六合これを供える。 知念巫、祭祀である。且つ、次良越地と言う家で、稲穂祭の時、知念巫居神13人、朝食をご馳走する。往古より仕付来由である。」と記載されているコカルケンノ殿に相当するとみられる。コカルケンノ殿では知念ノロにより稲穂祭が行われた。

クヮッチン殿のクサイの井泉 (未訪問)

クヮッチン殿の後方に殿のクサイ (鎖、対) 関係とされる井泉 (資料写真 右下) があり、香炉も置かれているそうだが見つからず。

クラントー

クヮッチン殿の東の山がクラントーと呼ばれ拝所となっている。近くの道沿いから遙拝されている。番所時代の倉庫跡 (クラントー) といわれ、神清明の時に祭祀を行っている。

タモシモウシ

クラントーの前の道はタモシモウシと呼ばれ、昔は広場になっていて、ここで綱引きが行われていた。現在はちょっとした休憩所が設けられそこには祠も置かれていた。

名称不明古墓

タモシモウシの道を下ると国道331号に出る。国道を山里集落方面に少し下った所の山の中に古墓があるという。昭和初期頃までは村落祭祀が行われていたそうだ。この森の中の道を差がすが、金網で囲まれており道は無い。フェンスの切れ目の所に階段があり、その上には川之上大屋門中の当世墓がある。ここから森に入る道があるようだが、木々が生い茂り、中に入ることは断念した。


竜宮 (リューグー)

次は国道331号線の南側の海岸に向かう。何本か海への道があるのだがどれも急坂になっている。ここを降りると一面畑が広がる。畑はほとんどが隣村の字山里で、字具志堅の畑はかなり限られている。

砂浜に降りると竜宮 (リューグー) の拝所が、海に向けて建てられている。竜宮のあるこの一帯はニーグルと呼ばれ、この竜宮をニーグルとも呼んでいる。


具志堅漁港

砂浜に沿って防波堤がありそこは遊歩道になっている。遊歩道を西に進むと具志堅漁港がある。

小さな漁港で、停泊している漁船の数も少ない。漁港の脇には小さな祠が置かれている。漁師が大漁と航海安全を御願している拝所だ。


これで今日の具志堅集落訪問は終了。今日途中で見つけた珍しい植物を写真に撮った。写真左は以前にも見たことがあり、今回に二回目。沖縄雀瓜という植物で、名前のごとく沖縄など熱帯地域に生息している。ツルにチェリートマトぐらいの大きさ之身がなっている。スイカの様な模様があり、印象に残っていたので懐かしい。この緑色の実が、次第に赤くなっていくそうなのだが、赤い実はまで見れていない。写真右は初めて見る植物。後で調べると唐綿 (トウワタ) という植物だった。熱帯アメリカ原産で日本には江戸末期に持ち込まれたそうだ。本土でも見つけられるようなのだが、初めて見た。説明では毒性が強いので、触るときは手袋でとあった。(触らなくてよかった)

集落を見終わった時点で5時を過ぎている。東京では既に日が暮れ暗くなっていた時間。沖縄ではまだまだ明るい。沖縄と東京では1時間程、日没が違う。ここから自宅までは丘陵越えコースとなる現時点は標高30mで160mまで登り後は下りとなる。
自転車につけたスピーカーで音楽を聴きながら帰路に着く。目的地までの行き帰りは、いつも音楽をかけている。大体アルバム3-4枚程聴ける。今日は米国のジャズギタリストのBrian Tarquin Fusion系、Smooth Jazz で比較的軽い。それと Jazz Sax のChazzy Green でこれもmooth jazz系。帰り道の途中、今夜の食料を買い、7時に帰宅。


沖縄刑務所 (2022年2月1日 訪問)

先日は丘陵斜面に広がる集落から海岸を巡ったが、丘陵の上までは、時間切れで見なかった。2月1日に隣村の山里集落を訪問する際には、丘陵の上から下へと移動したので、その途中にここに立ち寄った。沖縄刑務所は見学コースもあるそうだが、それは別の機会として外から、建物を見ただけだった。囚人収容場所は高い塀でかこまれ、その周りに職員の事務所と官舎が建っている。かなり多くの職員が務めているようで、駐車場には多くの車が停まっていた。沖縄刑務所は1879年 (明治12年) に那覇市楚辺に沖縄県監獄署として設置され、1922年 (大正11年) に 沖縄刑務所に改称されている。沖縄戦により機能停止したが、戦後、1946年 (昭和21年) に、佐敷村に沖縄中央刑務所が設置され、1950年 (昭和25年) に沖縄刑務所と改称し、戦前の旧沖縄刑務所跡 (那覇市楚辺) に移転している。ここには1979年 (昭和54年) に移転している。マスコミを騒がせた羽賀研二はここに収容された。(現在も服役中なのだろうか?)


ジーブーアブ (2022年2月1日 訪問)

沖縄刑務所の南の道路脇にジーブーアブと呼ばれる自然洞窟がある。沖縄戦の初め頃は独立第二大隊 (海上艇進基地第二大隊改編) の救護班が入っていて、山里集落住民と同居していたが、後で兵隊が入ってきて住民は追い出された。入口に爆弾が落ちて壕は崩潰し、兵隊は下敷になったという。洞窟はかなり長く、中にも入れるそうだが、洞窟内は落石が目立ち、危険かもしれないので、中までは入らなかった。洞窟入り口には香炉が置かれている。これは生き埋めになった兵隊を弔うためなのか、避難していた住民が感謝を表しているのだろうか?


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)

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