東京 (19/01/22) 江戸城 (31) 内曲輪16門 / 内濠 (13) 坂道巡り (7) 新宿区 (4)

  • 薬缶坂 (やかんざか)
  • 鮫ヶ橋せきとめ稲荷
  • 出羽坂
  • 新助坂
  • 千日坂
  • 一行院千日寺
  • 鉄砲坂 (稲荷坂)
  • 戒行寺坂 (油揚坂)
  • 戒行寺
  • 闇坂 (くらやみざか、乞食坂、茶の木坂)
  • 松厳寺
  • 永心寺
  • 観音坂 (西念寺坂、潮踏坂、潮干坂)
  • 西念寺
  • 真成院
  • 須賀神社男坂
  • 須賀神社女坂
  • 須賀神社
  • 東福院坂 (天王坂、須賀坂)
  • 東福院、豆腐地蔵尊
  • 円通寺坂
  • 円通寺
  • 法蔵寺
  • 女夫坂 (めおとざか、夫婦坂)
  • 多武峯内藤神社
  • 田安鎮護稲荷神社
  • 大木戸坂
  • 東長寺
  • 茗荷坂
  • 源慶寺
  • 安保坂 (あぼざか)
今日は東京滞在最終日。朝一番には定期検診と診察があり、まずは虎の門病院に向かう。8時半に血液検査を終え、10時から、先日のエコー検査と血液検査の結果を医師と確認。両検査とも正常との事。ここ4年間は風邪も引かず、健康状態は良いとは思っていたが、検査結果でとりあえず安心。検査後に病院近くから新宿区の坂道を巡り始める。明日、沖縄那覇行に帰るので、自転車を大塚の土肥さん宅に預かってもらうので、池袋方面に向かって巡る予定。



赤坂御用地の北側の鮫河橋坂が港区と新宿区の境界線にあたる。この地域の新宿区にある坂道を訪ねる。

薬缶坂 (薬罐坂、やかんざか)

鮫河橋坂からJR中央線を渡る坂道があり、薬缶坂 (やかんざか) と呼ばれる。昔はかなりの急坂だったそうだが、江戸時代と現在の地図を見比べると、鉄道敷設に伴いこの坂道の位置、方向、勾配のが変わっており、今ではそれ程急坂では無くなっている。坂名の由来は雨後、野草などが流亡して朝日を受けて坂一面の赤土が銅ヤカンの色に似ていたとか、坂下の近くにヤカン職人が住んでいたとか、坂下に岡場所があり(江戸時代の下級私娼は人をだます狐 (野干) から転化しヤカンといったからという。この近辺は江戸時代は谷間で貧民窟地区だったそうだ。

出羽坂

鮫ヶ橋せきとめ稲荷から中央線のガードを潜ると、線路に沿って西側に登る坂があり、出羽坂と呼ばれている。この坂は明治維新後に開かれた坂。この坂ができる以前の江戸時代には、永井信濃守の上屋敷があった。明治維新後、この坂上に出雲の旧松江藩主 (出羽守) であった松平伯爵の屋敷が赤坂見附上屋敷の閑院宮邸 (現在の衆議院議長公邸) が移転してきて、出羽様のお屋敷と呼ばれていた。その後、新しくこの道ができ、切通しと呼ばれていたが、いつしか出羽坂と呼ぶようになったという。松平邸内には、修徳園と呼ばれる名庭があったが,太平洋戦争後取り壊された。


鮫ヶ橋せきとめ稲荷

薬缶坂の南、坂下はみなみもと町公園になっておりその西の端に小さな祠があった。いつの頃からかはっきりしないが、鮫河橋近くに稲荷社が祀られ、俗に「せきとめ稲荷」といわれている所だ。名のせきとめとは、鮫川の流れる下流に紀州藩邸を造るにあたって、川をここで堰き止め、その堰を守る目的でつくられたのが由来だという。別の資料では、川に流れてくるゴミを溜めて取り除いたともある。江戸時代、この一帯は貧民窟だったそうだ。その一画には低級な岡場所があったという。
また、川の堰がいつのまにか咳の意味に変わり、素朴な民間信仰となって「セキノオマジナイ」として称されていた。かつては氏名年齢を書いた紙をせきとめ神の近くの木に結びつけると咳が止んだらしい。元々は、道路を隔てた南側のかつての鮫河橋近くにあったが、道路拡張工事の際にこの場所に移設されている。

新助坂 (すべり坂)

出羽坂を登り切ると信濃町に入る。そこからまた中央線に向かって下る坂道がある。急な坂で、昔このあたりに新助という人が住んでいたことから新助坂といわれる。新選東京名所図会には 「新助坂は、四谷信濃町に上がるなり、一名をスベリ坂ともいう。坂の下には甲武鉄道トンネル門あり」 と記されている。急な坂だったのですべり坂ともいわれていたのだろう。

千日坂 (久能坂、久野坂)

新助坂を下り中央線ガードを潜って道を進み、信濃駅への上り坂となる。この坂は千日坂と呼ばれている。この坂下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれ、坂名も千日寺に因んで名づけられたと考えられる。元々の千日坂はこの坂では無く、別にあったのだが土木開発で消滅し、その際にこの坂道が造られて、昔の千日坂の名を引き継いでいる。江戸時代の地図を見るとルートは随分と変わっている。坂の別名を久能坂 (久野坂) ともいい、坂下辺りに紀州藩久野丹波守の屋敷があったことに由来しているそうだ。

一行院千日寺

千日坂を登る途中に坂の名となった一行院千日寺がある。一行院千日寺は江戸時代の初期慶長年間に開基を永井直勝とし、赤坂浄土寺の第9世であった利覚により開山している。永井家はこの地に下屋敷を拝領した。同家当主は代々信濃守を名乗り、同地一帯の地名信濃町の由来になっている。永井家の家臣で後に同院の僧になった故念が、千日回向の供養を務めたことから同院は千日寺と号するようになり、付近一帯の谷状の街は千日谷と呼ばれるようになった。一行院は、かつては敷地面積約2千坪を誇る大寺院であったが、明治時代にJR信濃町駅が出来たため寺域が狭められ、昭和時代には首都高速4号線が出来たため、更に敷地が狭められ、1962年 (昭和37年) に現在の千日谷会堂が完成した。境内や千日坂の坂下には幾つもの石造りの卒塔婆が置かれていた。


次は四谷方面に移動。


鉄砲坂 (稲荷坂)

江戸時代、このあたりに鉄砲組屋敷があり、鉄砲訓練場や鉄砲鍛冶場などもあったためこう呼ばれるようになった。江戸時代の地図にはこの周辺は与力や同心などの拝領地の大縄地が広がっている。この大縄地の中に鉄砲組屋敷があったと思われる。また、それ以前は、この地に鈴降稲荷という稲荷社があったことから、稲荷坂と呼ばれていたという。

戒行寺坂 (油揚坂)

鉄砲坂を抜けて西側には須賀町戒行寺の南脇を東に下る戒行寺坂がある。坂名はこの戒行寺に因むものだが、別名、油揚坂ともいわれる。昔この坂の途中に豆腐屋があり良質の油揚をつくっていたためこうよばれたという。

戒行寺

戒行寺坂の両脇には寺が連立している。その一つが、坂の名となった戒行寺がある。日蓮宗の戒行寺は1595年 (文禄4年) に麹町に建立し、1634年 (寛永11年) に江戸城外堀工事のため、この地の四谷に移転している。境内に池波正太郎の鬼平犯科帳のモデルとなった火付盗賊改役を勤めた長谷川宣以 (長谷川平蔵) の供養碑がある。
長谷川宣以は、1745年 (延享2年)、400石の旗本で火付盗賊改役の長谷川宣雄の長男として、江戸赤坂築地中の町の拝領屋敷で生誕。1774年 (安永3年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士 (将軍世子の警護役) に任ぜられ、1787年 (天明7年)、42歳で火付盗賊改役に就任。
寛政の改革で人足寄場 (犯罪者の更生施設) の建設を立案するなど、功績を挙げ、さらに1789年 (寛政元年)、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道徳次郎一味を捕縛。1791年 (寛政3年) には、江戸を荒らした盗賊集団の首領の葵小僧を捕縛。1795年 (寛政7年)、8年間勤めた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、裁可され、その3ヶ月後に死去している。戒行寺が長谷川家の菩提寺で、長谷川平蔵のほか、52代安部式部 (安部信旨)、103代桑嶋政恒、107代山岡景之、139代長谷川宣雄、146代菅沼定亨と合計6人の火附盗賊改が葬られている。
長谷川平蔵の鬼平犯科帳は漫画やテレビ番組で人気を博していた。また安部式部 (安部信旨) もこれも池波正太郎原作のNHKのテレビドラマ「雲霧仁左衛門」に登場している。

闇坂 (くらやみざか、乞食坂、茶の木坂)

更に戒行寺坂を進むと南側に松厳寺と永心寺に挟まれた下り坂がある。両寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。また、松厳寺の俗称が茶の木寺であるため、茶の木坂とも呼ばれた。

松厳寺

暗闇坂の西側には1635年 (寛永12年) 創建の臨済宗妙心寺派寺院の松巖寺がある。一見、民家のように見えるが歴史ある寺なのだ。

永心寺

暗闇坂の東側は曹洞宗の永心寺が建っている。永心寺は、1604年 (慶長9年) に麹町清水谷に創建されたが、江戸城外堀建造に伴い1634年 (寛永11年) に、この当地へ移転してきた。松平越後守の奥女中おいちゃが中興開基したという。

観音坂 (西念寺坂、潮踏坂、潮干坂)

戒行寺から円通寺通りを北に進むと西念寺と真成院の間を北に登る坂がある。観音寺坂といい、真成院に潮踏観音 (潮干観音) が鎮座していたことによる。別名は西念寺坂、潮踏坂、潮干坂と色々ある。

西念寺 (さいねんじ)

観音坂の西側には浄土宗の専称山安養院西念寺がある。徳川家康の譜代家臣で徳川十六神将に数えられる服部正成 (二代目服部半蔵) が開基した寺として知られ、服部氏の菩提寺にもなっている。
墓地入口すぐのところに服部正成をはじめ服部一族の墳墓があり、大きな宝篋印塔が建っている。服部家では代々半蔵の名を世襲しており、一般に服部半蔵として知られているのは二代目の正成。服部半蔵は映画や小説、漫画などでは忍者の頭領の様に描かれている事が多いのだが、忍者であったのは初代 服部半蔵 (正種) で、伊賀から三河に出て松平清康に仕えた。二代目 服部半蔵 (正成) は忍者ではなく、徳川家康に武士として仕え、家康の午廻、御先手、鉄砲奉行などを務め、のちに家康より伊賀同心の指揮権を預けられていた。晩年は出家して江戸麹町の清水谷に庵を建て、家康の長男松平信康の菩提を弔っっていた。
本堂の裏側には、服部正成が守役を務めた徳川家康の長男 信康の供養のために彼が建てたとされる供養塔がある。逸話では、正成は信康切腹の際に介錯を命じらたが、涙が溢れ、代々仕えた主君に刃を向けられないと介錯の役目を果たせなかった。信康切腹後、供養の為、家康が正成にこの寺の建設を命じたという。正成は寺の完成前に死去し、この寺に葬られた。

真成院 (しんじょういん)

観音坂の西側には坂道の名となった潮踏観音 (潮干観音) が鎮座している真成院がある。伝統的な寺の建物ではなく、ビルが寺院となっている。1598年 (慶長3年) に信州の清心法印により開山されている。その後、江戸城の外濠開削工事のため、現在地に移転している。四谷の四名所の一つに数えられていたという。この寺に鎮座している潮干観音 (潮踏観音) は村上氏代々の守仏、戦国武将の村上義清の守護仏と伝わる。伝承では村上成清が北条氏康に攻められ自刃落城の際、遺児を清心が助け、その際にこの観音も持ち出されたそうだ。その後、清心が信州から四谷に出てきた際にこの観音も携えていた。寺の庭には延命地蔵 (写真 中下)、屋上に潮干観音 (右下) が鎮座している。江戸時代以前には四谷周辺は潮踏の里と呼ばれ、潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので汐干観音とも呼ばれたという。

須賀神社男坂

円通寺通りを更に進むと、須賀神社への道がある。須賀神社には参道は二つあり、どちらも階段になっている。通常、傾斜のきつい主参道の坂を男坂、傾斜のゆるい坂が女坂と呼ばれるのだが、両方とも坂の長さがほとんど同じで、傾斜もほぼ同じだ。幅が広く、直線になって、神社正面の鳥居に通じている方が男坂。
この参道の階段の写真を撮ろうすると若い女性グループがポーズを取りながら写真を撮りあっっていた。何度も何度も写真を確認しながら撮り直していた。撮り終わるまで待っていたが、なかなか終わらない。諦めて、神社を見てからやっと写真が撮れた。後で、須賀神社を調べていると、この参道階段が「君の名は」という映画のシーンに使われたとあった。それでポーズをして写真を撮っていたとわかった。ただ、何故、古い映画が今になって話題になっているのだろうと思った。この映画の題名で湧いて来たイメージは岸恵子主演の「真知子巻き」の「君の名は」だった。これは大きな間違いで、同名のアニメ映画が2016年に大ヒットしたそうだ。そのシーンを撮っていたのだった。世代ギャップを感じた。

須賀神社女坂

もう一つの参道の女坂は幅が狭く曲がり、境内の横に通じていた。

須賀神社

四谷十八ヵ町の鎮守の須賀神社はもと稲荷神社として、赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷にあったが、寛永11年に江戸城外堀普請のため、替地を拝領しこの地に移って来ている。1637年 (寛永14年)、日本橋大伝馬町の鎮守の神田明神摂社に祀られていた牛頭天王 (ごずてんのう) を合祀したことから江戸時代には稲荷天王、四谷牛頭天王社と呼ばれていた。江戸時代の地図には稲荷山宝蔵院天王社と記され、天王社とその別当だった稲荷山福田寺宝蔵院があった。明治時代になり神仏分離、廃仏毀釈で宝蔵院は廃寺となり、天王社は須賀神社となっている。
大鳥居 (写真左上) をくぐると正面に社殿とその隣には末社の大国社 (写真下)
大鳥居の横には神楽殿 (左上) と神輿庫 (右上)、社殿の裏側には祖霊社 (左中) と天白稲荷社 (右中)、その他には日清日露戦争から大東亜戦争における戦没者、戦災者の慰霊碑 (左下) と戦後神社に貢献した飯塚正兵衛像 (右下)
この須賀神社には江戸時代末期の1836年 (天保7年) に、四谷南蘋 (なんびん) と称された大岡雲峰の絵と千種有功が書を記した平安時代の和歌の名人36人の「三十六歌仙絵」が残っている。境内にレプリカが新宿ミニ博物館として展示されていた。子供の時には友達と競って百人一首を幾つも覚えられるか競っていた。当時はどの家庭でも正月はカルタ取りで遊んでいたものだが、何歳の時かは覚えていないがかるた撮りが百人一首取りに変った時は、なんだか格上げされた様な気がした。今では覚えている歌は少なくなったが、この三十六歌仙には懐かしさを感じた。

東福院坂 (天王坂、須賀坂)

須賀神社男坂からは円通寺通りを挟んで向こう側に登り坂が見える。東福院への道で東福院坂。
坂の名は坂の途中にある東福院に因んでこう呼ばれた。また、この辺りが天王横町と呼ばれていたことにより、天王坂ともいわれている。

東福院、豆腐地蔵尊

坂の名となった東福院は新義真言宗のお寺で本尊は大日如来。1611年 (慶長16年) に麹町9丁目横町に創建され、寛永11年にこの地に移転して来ている。境内に豆腐地蔵尊 (写真左下) がある。この地蔵には逸話が残っている。
「昔この付近に、よこしまな心をもった豆腐屋がいました。毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいたが、豆腐屋が代金を竹筒に入れておくと、翌朝これがシキミの葉になっています。さては、狐か狸が坊さんに化けていたずらをしているのであろうと考え、こらしめに手を切ってしまいました。豆腐屋が血痕を追ってみると、東福院の門内に入って、この地蔵のところまで続いています。豆腐屋は坊さんの正体が地蔵であると知って後悔し、それからは心を入れ替えて正直な商売をしたということです。よく見ればお地蔵さんの左手が欠けています。」

円通寺坂

円通寺通りを新宿通りに向かう。四谷二丁目と三丁目の境界を北に登り坂になっている。坂名は、このこの坂沿いにある円通寺に因んでいる。

円通寺

坂道の名となった日蓮宗寺院の円通寺に立ち寄る。一見普通のデザイン住宅の様な寺で、寺とは気が付かず素通りしてしまった。元々は、安房小湊誕生寺の寶勝院日深が当地に閑居を営み寶勝院と称して寛永17年(1640)創建し、小湊誕生寺から大黒天を移して安置し円通寺と号したという。

法蔵寺

円通寺の真前には五却山辨財院法蔵寺がある。こちらは伝統的な寺の建物だ。浄土宗の寺で天正19年に拝領地に創建されている。

女夫坂 (めおとざか、夫婦坂)

円通寺坂の1ブロック西側に下り坂と上り坂が連続している坂がある。二つ坂が連続しているので、た女夫坂または夫婦坂と書き、めおとざかと呼ばれている。昔はもっと勾配がある両方からの落ち込み坂だった。この辺りで火事の後、改修されて勾配は緩やかになったそうだ。


次に向かうのは富久町周辺の坂道。そこに向かう途中に、興味ある史跡があるのでそこに立ち寄りながら進む。


多武峯内藤神社 (とうのみねないとうじんじゃ)

この多武峯内藤神社については、高遠藩内藤家下屋敷跡の新宿御苑を訪れた際に高遠藩について調べたときに出て来た内藤清成の白馬伝説に係わる神社だ。白馬伝説にあるように「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」といった徳川家康から拝領し、1602年 (慶長7年) に高遠藩内藤家の下屋敷に内藤家の先祖の藤原鎌足を祀る多武峯妙楽寺 (現談山神社) から分霊を勧請して屋敷神として祀られていた。明治16年、明治政府によって内藤家下屋敷が接収され、現在地に移転している。昭和42年に多武峯内藤神社と改名している。境内には白馬伝説に係わる石碑 (写真左中) があり、内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷により、1816年 (文化13年) に下屋敷内に塚を造り、駿馬塚の碑を建てたとされ、1872年 (明治5年) に現在地に移されている。その隣には白馬の像を安置した駿馬舎 (右中) まで造られていた。境内には、社殿 (右上) 以外に、主祭神として倉稲魂命、相殿神として八幡大菩薩、大国主神 (大黒天)、市杵嶋姫命 (弁財天) も合わせ祀られている稲荷神社 (左下)、神楽殿 (右下) がある 。

田安鎮護稲荷神社、田安徳川家下屋敷跡

次に訪れたのは徳川八代将軍吉宗の時代 (1729年 享保14年) に始まった御三卿 (田安、一橋、清水) の一つで、吉宗公の次男 宗武を祖とする田安徳川家の屋敷神を祀った田安稲荷神社。田安徳川家は上屋敷を江戸城北の丸に、1756年 (宝暦6年)、この地の四谷大木戸御門内に田安徳川家下屋敷を構えていた (中屋敷とする資料もあり)。この時にこの稲荷神社が田安徳川家の屋敷神として造られている。明治維新後下屋敷を明治政府に上納、1871年 (明治4年) に広大な家屋を撤去したが、この稲荷社だけはそのまま残された。翌年跡地に町屋が出来、四谷永住町と名付けられ、この地にあった徳川将軍家剣の指南役、柳生家中屋敷の稲荷神社とこの稲荷社を合祀し田安鎮護稲荷神社として代々この地に住む人達の守り神となっている。現在の稲荷神社は、ビル建設のためにこの地に移されている。
[田安徳川家江戸屋敷: 北の丸内上屋敷、新宿中屋敷、霊岸島日本橋川下屋敷]




富久町周辺の坂道を巡る。


大木戸坂

田安徳川家下屋敷跡の南端は四谷四丁目の交差点になるのだが、そこはかつて甲州街道方面から江戸に入る検問所「四谷大木戸」があった。四谷四丁目の交差点から外苑西通りを北にに進むと大木戸坂下交差点に出る。この交差点から北に上る坂が大木戸坂と呼ばれている。四谷大木戸から少し離れてはいるのだが、これに由来し坂名となっている。大木戸坂含め外苑西通りは江戸時代の地図には無く、田安徳川家下屋敷内と東長寺を突っ切っている。明治以降に開かれた坂だろう。

東長寺

大木戸坂沿い東側には曹洞宗の東長寺がある。東長寺は、百人組武士の土肥孫兵衛が開基となり1602年 (慶長7年) に創建され、江戸時代には学問寺として発展した。明治元年火災に遭い全焼、復興後にも、第二次大戦の東京大空襲で再び焼失してしまった。2001年 (平成13年) に寺は伝統的な造りを維持しつつも近代的な建物としてなっている。山門 (右上) を入りと、しゃれたデザインの池があり、その向こうに本堂 (左中) がある。境内には 鐘楼 (右中) と仏像を納めた多宝塔 (下) があった。


茗荷坂

東長寺と源慶寺の間に走る坂道が茗荷坂。江戸時代後期まで、坂下辺りには茗荷畑であったためこう呼ばれた。

源慶寺

東長寺の茗荷坂を挟んで浄土真宗の源慶寺がある。本多八郎正時の末孫浄善坊が1595年 (文禄3年) に創建されている。この寺も第二次大戦の東京大空襲で焼失したのだろう、本堂は現代的な建物になっている。


安保坂 (あぼざか)

源慶寺の北を走る靖国通りのこの区間は坂道になっており、安保坂と呼ばれている。この坂道は江戸時代には存在しておらず、明治以降に開かれたと思われる。靖国通りは戦前までは大正通りと呼ばれており、戦後、靖国通りと改名されている。この安保坂も坂名がついたのも近年で、この地に男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来するそうだ。


日も暮れかかっているので、今日の坂道巡りは、ここで終了。これで今回6日間の東京滞在が終わる。この後、自転車を土肥さん宅に預けるため、大塚に向かい、ともに夕食を取る。


翌日 (1月20日) に成田からピーチエアーで沖縄那覇に帰る。東京もコロナ感染が拡大し、まん延防止等重点措置適応が決定した。そのせいなのだろうか、乗客は30名ほどで、機内はガラガラ。航空業界も大変だが、この状態では観光が主要な産業の沖縄は更に深刻だ。沖縄への観光客はコロナ以前から七割も減少しているそうだ。

1コメント

  • 1000 / 1000

  • sumito dohi

    2022.01.27 07:02

    1週間の東京滞在お疲れ様でした。 しかし、「君の名は」のジェネレーションギャップは相当大きいですね(笑) 岸恵子さんの時代までは私もさすがに遡れません。(笑) 3月帰沖目指して、がんばります。