東京 (18/01/22) 江戸城 (30) 内曲輪16門 / 内濠 (12) 坂道巡り (6) 新宿区 (3)

  • 椎木坂 (砂利坂、向坂)
  • 漱石山房記念館 (夏目漱石終焉地)
  • 滝の坂
  • 牛込地蔵坂 (三年坂)
  • 渡邊坂
  • 比丘尼坂 (矢来町) (朧坂)
  • 朧の坂
  • 赤城坂
  • 赤城神社
  • 相生坂 (鼓坂、白銀坂)
  • 瓢箪坂
  • 朝日坂
  • 圓福寺
  • 弁天坂 (芥坂)、南蔵院
  • 袖摺坂
  • 地蔵坂 (藁坂)
  • 牛込城跡 (光照寺)
  • 新坂 (若宮町)
  • 寺内公園 (行元寺跡)
今日は早めに夕食を友人と約束しているので、いつもより2時間程早めに切り上げる必要があるので、近場を巡ることにする。

新宿地区で残っている一つの坂を訪問することから始める。この地域にある梯子坂、久左衛門坂、団子坂は今回東京訪問の1月16日に訪れている。

過去に訪問した坂 (2022年1月16日):梯子坂久左衛門坂団子坂



椎木坂 (砂利坂、向坂)

江戸時代、尾張藩徳川家下屋敷だった戸山公園の北側に椎木坂がある。明治維新後、尾張藩徳川家下屋敷は明治政府に明け渡され、陸軍戸山学校が開かれ、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用されていた。現在は戸山ハイツの住宅街になっている。この場所の構内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、こうよばれるようになったという。また、古くはこのあたりが 砂利取場であったところから砂利坂とも呼ばれた。


次は神楽坂方面に向かう。


漱石山房記念館 (夏目漱石終焉地)

神楽坂に向かう途中に漱石山房記念館があった。先日、夏目坂を訪れた際に、この辺りは夏目漱石所縁の地とあった。この場所は夏目坂の東側に走る漱石山房通り沿いにある。漱石山房記念館は、夏目漱石の生誕150周年を記念して2017年 (平成29年) に開館。

漱石は新宿区で生まれ育ち、朝日新聞に専属小説記者として入社して半年、その第一作となる「虞美人草」を書き上げた頃に早稲田南町に引っ越し、1907年 (明治40年) から1916年 (大正5年) の「明暗」の執筆中に亡くなるまでの9年間をここにあった漱石山房で過ごした。庭には猫塚なる石積九重の塔の墓 (上の写真左下) がある。吾輩は猫であるのモデルとなった「福猫」がこの地に引っ越しして一年目に亡くなり、簡単な墓を造っていたが、13回忌に長女夫妻が飼っていた動物も含めて供養のために造られたもの。

滝の坂

漱石山房から東に向かい早稲田通りに出ると、早稲田通りから南への登坂がある。弁天町と南榎町の間にある。滝の坂と呼ばれている。この坂の上には大願寺 (写真下) があり、この近くに若狭小浜藩主酒井若狭守の上屋敷があった。屋敷内の池からの流水が西方の大きな瓢箪池に小滝となって流れおちていたことからこの名が付いたそうだ。

牛込地蔵坂 (三年坂)

早稲田通りを東に進み牛込天神町交差点に出る。ここから南にあった酒井修理大夫下屋敷へ上る坂があり、地蔵坂と呼ばれる。坂名の由来については不明だが、おそらく近辺にあった地蔵尊 にかかわりがあるものと思われる。また、別の資料ではこの坂に続く渡邊坂の一部ともなっている。

渡邊坂

牛込天神町交差点から北へ下る道が渡邊坂で天神町と中里町の間にある。江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでめこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、1667年 (寛文七年) に、市谷鷹匠町の屋敷と引換えに、この地を拝領し幕末までこの地にあった。江戸時代の地図を見ると旗本屋敷としては比較的広い屋敷で千石に加増されている。

比丘尼坂 (矢来町) (朧坂)

渡邊坂の東側1ブロック先に並行して坂道がある。このあたりに比丘尼姿の私娼が住んでいた事から比丘尼坂と呼ばれていたといわれているが、真偽は定かでは無いようだ。また、朧坂とも呼ばれている。

朧の坂

比丘尼坂は朧坂とも呼ばれていたのだが、その東にある狭く急な坂道も朧の坂と呼ばれている。かつては、坂上から神田川が見え、神田川から坂を見上げると霞がかかっていたように見えたからこの名が付いたと云われている。

赤城坂

更に早稲田通りを進むと地下鉄神楽坂駅に至る。駅の北側、赤城神社の側に赤城坂がある。かなり急な坂で明治時代に発行された新撰東京名所図絵では「俊悪にして車通ずべからず・・・」とある。

赤城神社

赤城坂から赤城神社への参道がある。赤城神社は、鎌倉時代の1300年 (正安2年) に上野国赤城山の麓からここ牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。1460年 (寛正元年)、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移され、その後、1555年 (弘治元年) に大胡宮内少輔により現在地に移されている。江戸時代には江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めた。明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれた。1945年 (昭和20年) の太平洋戦争の戦災により、社殿全焼したが、昭和30年代に本殿と拝殿 (写真中)、幣殿、出世稲荷神社社殿を再建。2005年 (平成17年) には戦災で焼失していた境内社の北野神社を、蛍雪天神 (写真右下) として再興している。現在の社殿は2010年 (平成22年) に、赤城神社 再生プロジェクトで建て替えられたもの。(写真右上: 大鳥居、左上: 北参道門) 祭神は伊邪那岐命が火の神の迦具土神を御刀で倒したときに生まれた磐筒雄命 (いわつつおのみこと) と大胡氏の息女と伝わる赤城姫命」(あかぎひめのみこと)。
八耳神社、出世稲荷神社、東照宮が合祀されている出世稲荷神社社殿。
赤城山と大百足のモニュメント、観音像、俳人巻阿の碑

相生坂 (鼓坂、白銀坂)

白金公園の北に坂道が二本並行して走っている。二本まとめて相生坂と呼ばれている。続江戸砂子によると「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とあり、二本並行していた事が相生坂の由来だそうだ。西側の坂 (写真左) はの別名 白銀坂 (しろがねざか) 又は鼓坂 (つづみざか) と呼ばれてもいる。また新撰江戸誌では「二つありてつづみのごとし」とあり、二本まとめて鼓坂とも呼ばれていた。手持ちの江戸時代の地図を見ると東側の坂は水戸徳川家の付家老の常陸松岡藩中山家屋敷内にあるので、東側の坂道は明治以降にできたのではないだろうか?ちなみに中山家の中山信吉は徳川光圀 (水戸黄門) を水戸家第二代の藩主に将軍徳川家光に推挙した人物。

瓢箪坂

白銀公園から大久保通り方向に下る坂が瓢箪坂で、坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったといわれている。その他に近辺に瓢箪がなっていたとする話や、急坂のため通行人が瓢箪をお守り代わりにしたとする説もあるそうだ。




続いて神楽坂地区の東側の坂道を巡る



朝日坂

昔、この坂の近くに泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天神があったため、このあたりは旭町と呼ばれていた。坂名はそれらに因むものである

圓福寺

1596年 (文禄5年) に、加藤清正により創建された日蓮宗の寺。江戸時代末期には徳川家の祈願所となった。江戸時代後期、当寺は徳川将軍家の祈願所に指定され、葵紋の使用が許されている。境内には梅の木が植えてあり、すでに開花して鮮やかな紅色が映えている。
幕末の江戸開城時に江戸城紅葉山より大奥の怨念や魔物を鎮めていた夜光鬼子母神 (写真右端) が圓福寺に移されている。夜光鬼子母神は、真夜中に両眼が光り、暗いところでも何もかも見透かし、汚れた世の中であっても、正しく生きる力を与えてくれるといわれている。この夜光鬼子母神の他にも、子育鬼子母神 (左から2番目) と鬼形鬼子母神 (右から2番目) が移され、安置されている。



弁天坂 (芥坂)、南蔵院

圓福寺から大久保通りの牛込神楽坂駅に移動すると、大久保通り沿いに弁天坂 (芥坂) が通りに並行してあった。坂名はこの坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。
弁天堂は戦争で焼失し、再建されなかった。南蔵院は現存し、坂の前の大久保通りを渡った所にある。南蔵院は、この後訪れる牛込城の城主の牛込勝重が正胤法印に請い、吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天二体を上宮・下宮として祀っていた。御用地となったため、1681年 (延宝9年) に上宮と共にこの地へ移転、天谷山竜福寺南蔵院と改号して現在に至っている。

袖摺坂

弁天坂の東端の場所に大久保通りから北側に向けて狭い階段の坂道がある。人々が通ると、お互いに袖を摺り合わされるほどだったということから、袖摺坂といわれていた。

地蔵坂 (藁坂)

今日二つ目の地蔵坂が光照寺北側にあり、そこから東に下る坂になっている。光照寺に近江国三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があったことより地蔵坂と呼ばれた。またこのあたりには藁を売る店があったため「藁坂」とも呼ばれていた。

牛込城跡 (光照寺)

弁天坂の名の由来の弁天堂があった光照寺に立ち寄った。光照寺は1603年 (慶長8年)、神田元誓願寺町に開かれた。開基は松平次郎左衛門信貞 (松平昌安)、開山は清誉上人光照と伝わる。1645年 (正保2年) に現在地へ移転した。光照寺が開山以前には戦国時代の武将の牛込勝行が築城したと伝わる牛込城だったと考えられている。牛込氏は、上野国の武将、大胡氏を祖とし、天文年間 (1532〜1555年) に当主であった大胡重行が北条氏康の家臣となり、この地に所領を与えられ移り住み築城したという。神楽坂坂上一帯を大胡氏が治めていた。その重行の子である勝行の代に、牛込と改姓した。先程訪れた南蔵院は牛込勝行が創建している。また赤城神社も牛込氏の前身の大胡氏所縁の地だ。牛込氏は勝行の子の勝重の代に小田原征伐に遭い、のち徳川氏に仕えて旗本となった。
庄内藩領より分与され新田を領有した出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺となったため、境内には同藩主家の酒井家歴代の墓が残る。

新坂 (若宮町)

光照寺の南側に新坂がある。新坂となっているが、江戸時代に開かれた坂で御府内沿革図書によると、1731年 (享保16年) に諏訪安芸守 (戸田左門) の屋敷地の中に新しく道が造られたのがこの新坂。
今日の予定していた訪問地は全て見終わった。まだ午後3時だが、今夕は以前働いていた会社の同僚と夕食を共にすることになっており、少々早いのだが5時からなので、一度ホテルに戻り地下鉄で東京駅まで行く予定。少しまだ時間があるので、近くの公園で休憩してからホテルに向かうことにした。

寺内公園 (行元寺跡)

休憩を取ったのが寺内公園という超高層マンションの脇にある小さな公園。寺内公園は、行元寺跡の一画に造られている。境内に造られたので寺内と名付けられている。行元寺は鎌倉時代からこの地にあった。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられている。1907年 (明治40年) の土地区画整理で品川区西五反田へ移転し、その後はこの地域は寺内 (じない) と呼ばるようになった。


休憩を終えてホテルに戻る。シャワーを浴びて、待ち合わせの東京駅八重洲で夕食をとる。

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