東京 (17/01/22) 江戸城 (29) 内曲輪16門 / 内濠 (12) 坂道巡り (5) 千代田区 (1)、新宿区 (2)

千代田区内の坂道

  • 新坂 (五番町)
  • 一口坂 (いもあらいざか) 
  • 幽霊坂
  • 東京大神宮
  • 吉郎坂 (きちろうざか)
  • 紀伊国坂 (きのくにざか)
  • 山王切通坂
  • いちょう坂
  • 善国寺坂
  • 鍋割坂 (九段)

新宿区内の坂道

  • 歌坂鰻坂
  • 芥坂 (ごみざか、暗闇坂、闇坂) 
  • 鼠坂
  • 中根坂、安藤坂
  • 浄瑠璃坂
  • 長延寺坂
  • 左内坂
  • 念仏坂 (念仏段々坂)
  • 安養寺坂
今日は、今回の東京訪問の目的だった定期検査の一日目でエコー検査。昼過ぎに検査の為、虎ノ門に行かねばならないので、午前中は病院の近くの千代田区の坂道を巡る。公開されている資料によれば、千代田区内で名前が付いている坂道は70程ある。この内、多くは江戸城外濠、内濠を巡った際に訪れている。まだ、見落として訪れていない坂が幾つかあるので、それを巡る。夕方には友人の大森さんと会う予定で、いったん新宿のホテルに戻る必要があるので、検査終了後はホテルに向かう道筋にある新宿区の坂道を訪れる。


千代田区内の坂道

過去に訪問した坂三年坂 (五番町)帯坂 (切通坂)東郷坂行人坂



新坂 (五番町)

今日最初の坂道は市ヶ谷駅の五番町の日本テレビ通り。この通りは緩やかな坂道で、新坂ト呼ばれている。名のごとく、新しくできた坂で、明治39年の地図ではまだ見当たらず、明治44年の地図で初めて記載があるので、この間の明治末期に開かれたと思われる。

一口坂 (いもあらいざか) 

新坂から外濠の内側を反時計回りに進んだ所、靖国神社の手前に、一口坂 (いもあらいざか) がある といいます。麹町区史には「一口坂の一口は、大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車 一口坂停留所から北へ九段電話局前を新見附へ降る坂である」と書かれている。ただ、道に設置されている表示柱は「ひとくちざか」となっている。説明では江戸時代には疱瘡を「いもがさ」とか「へも (イモ)」とよんで、疱瘡を洗う (治す) という意味で、この近くにそのご利益がある神社があったのだろうが、その疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明だそうだ。六本木にも同じ説明をした坂があった。そちらの坂は芋洗坂 (いもあらいざか) とそのまま読める漢字で書かれており、近くには法典寺の弁財天が疱瘡祈願を行う場所となっていた。こちらの坂は一口坂と書いて無理やり「いもあらいざか」と読ませたのだろう?これについては諸説あるそうだが、この坂だけでなく、各地に一口と書いて「イモアライ」と読む地名があるそうなので、まんざら無理やりでもないようだ。ある説では疱瘡の膿を洗う池への入り口が一つしかなく、そこを「一口」と呼んでいた。別の説は、唱え言ごとをたった「一口」奉るだけで効験が現れたという。どちらの説も「ひとくち」が疱瘡祈願に係わった事で、一口を疱瘡を表す「イモアライ」と読むようになったようだ。


九段方面に移動

過去に訪問した坂富士見坂二号半坂冬青木坂中坂九段坂



幽霊坂

更に外濠を飯田橋方面に進んだ所に幽霊坂がある。三つの坂が集まっており、それぞれが幽霊坂と呼ばれている。このあたりは、広い武家屋敷があり、淋しい鬱蒼とした道であることからこの坂名になったと推測されている。写真上 (東側)、中 (南側)、下 (北側)がそれぞれの坂道。南側の坂道は江戸時代の地図には見当たらない。

東京大神宮

次は御茶ノ水方面に向かう。道の途中で東京大神宮があり、寄ってみる。多くの参拝客が訪れていた。平日だが昼休みを利用してきているのだろうか? 東京という名前なので、明治以降の神社だ。1880年 (明治13年) に、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が起源で、当初は日比谷大神宮とか日比谷皇大神宮と称されていた。明治政府の宗教政策により神宮司庁と神宮教院が分離し、本神社は、大神宮祠、更に神宮奉斎会本院と改名した。1900年 (明治33年)、明治天皇皇太子 (のちの大正天皇) の結婚式がこの神社の宮中三殿で行われ、これが契機となり神前式結婚式が創始され、現在では神前結婚式が一般的となった。1923年 (大正12年) の関東大震災で被災し、1928年 (昭和3年) に現在地に移転して飯田橋大神宮と改称。太平洋戦争終結後の1946年 (昭和21年) に東京大神宮に改称し、現在に至っている。


お茶の水近辺の坂は以前 (2021年4月6日) に巡り終わったと思っていたが、一つだけ見落としていた。

過去に訪問した坂皀角坂小栗坂女坂男坂錦華坂富士見坂文坂甲賀坂雁木坂紅梅坂淡路坂幽霊坂 (神田)新坂 (神田)、観音坂



吉郎坂 (きちろうざか)

お茶の水駅から明大通りを下る途中、山の上ホテルに向かう登り坂があり、吉郎坂 (きちろうざか) と呼ばれている。坂名は、明治大学総長を務めた佐々木吉郎氏にちなむそうだが、元々は胸突坂と呼ばれた坂で、「胸突坂 袋町の間を東より西に向ひて上る坂あり胸突坂といふ、胸突坂は急峻なりしより起これるなるべし。新編江戸志にも胸突坂とありて、小川町より駿河台の方へと上る坂なり」と書かれている。


紀伊国坂 (きのくにざか)

竹橋御門を入ると北の丸になる。北の丸は、まだ訪問していないが、千代田区の坂道案内にあったので、今日はこの坂道だけを訪れ、北の丸は後日とする。現在の代官町通りが竹橋から緩やかな登坂になっており、この坂は紀伊国坂と呼ばれている。赤坂にも同名の紀伊国坂があった。

説明文では、昔、尾張徳川家と紀伊徳川家の屋敷がこの辺りにあったことからこの名が付いたとある。江戸時代の地図でその屋敷を探すが、その付近には見つからなかった。インターネットで尾張徳川家と紀伊徳川家の江戸屋敷の変遷を調べると、江戸時代初期、1632年 (寛永9年) に作成されたとされる武州豊島郡江戸庄図 (寛永江戸図) に屋敷が書かれている。この紀伊藩竹橋邸は1618年 (元和元年) に拝領し、翌年に徳川頼宜が初代紀州藩主となっている。場所は現在の吹上御苑の中と思われる。1657年 (明暦3年) の大火・振袖火事で焼失し、その後、麹町邸に替地を拝領している。


この時点でエコー検査の時間が近づいてきたので、虎の門病院に向かう。検査が終わってから、千代田区の残りの坂道を巡ることにする。


検査が終わり、坂道巡りを再開。赤坂の日枝神社へ

過去に訪問した坂 (2021年10月5日)三年坂潮見坂霞が関坂茱萸坂梨木坂三べ坂新坂山王坂山王男坂山女男坂



山王切通坂

検査が終わり、坂道巡りを再開。日枝神社は以前 (2021年10月5日) に訪問したのだが、ここに明治以降に開かれた坂道があるというので、再訪した。江戸時代は日枝神社への参道は男坂と女坂が使われていた。新しい道は山王坂下から日比谷高校の崖下を迂回するようにして、裏参道の大鳥居にでる。山王切通坂と呼ばれている。この切通しができたのは 明治5年から明治10年の間と考えられている。


麹町町に移動。この地域ではまだ訪問していなかった二つの坂道を見る。

過去に訪問した坂:紀尾井坂清水谷坂諏訪坂貝坂中坂鍋割坂三宅坂正和坂正和新坂永井坂



いちょう坂

麹町に移動。麹町駅がある新宿通りから紀尾井坂に下る坂で、坂の両側に銀杏が植えてあるのでいちょう坂と名付けられている。江戸時代の地図にもこの道は存在しているが、命名は後の事と思われる。

善国寺坂

いちょう坂を登り新宿通りを渡り麹町駅入り口の前に走る道を善国寺坂という。東京名所図会には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺坂にありしに因り名づく」とかかれている。この善国寺坂の坂下のあたりは善国寺谷、また鈴降 (振) 谷と呼ばれていた。


麹町から千鳥ヶ淵に移動する。この辺りの坂道は2021年4月7日にほとんど見て回ったのだが一つだけ見落としていた。

過去に訪問した坂南法眼坂永井坂袖振坂五味坂御厩谷坂



鍋割坂 (九段)

麹町から千鳥ヶ淵に向かう。この地域にも多くの坂道を通ったのだが、一つ見落としていた。千鳥ヶ淵から内堀通りに緩やかに登る鍋割坂なのだが、この近くの国立劇場にも同じ名の鍋割坂があり、二つあるとは気が付かずスキップしていた。今日の鍋割坂については新撰東京名所図会には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり」とかかれている。ふせた鍋 (台地) を割ったような坂であることからその名がつけられたという。
これで今日の千代田区坂道コースは終了。エコー検査で朝食抜きだったので千鳥ヶ淵公園でホテルでつくった昼食を食べながら休憩とする。サンドイッチを食べていると、雀の大群が押し寄せてきた。おこぼれを待っている。パンを細かくちぎりやると、雀は更に増え、大胆にも腰掛けているベンチまで近寄って督促をする。


新宿区の坂道

次は新宿区の坂道巡りに移る。今晩は夕食で友人と会う。ホテルから地下鉄で行く予定なので、ここからはホテルまでの経路周辺にある坂道を通りながらとした。
市ヶ谷から外濠を渡り牛込に移動。この周辺には多くの坂道が集まっている。
未訪問の坂:比丘尼坂、高力坂、市ヶ谷八幡男坂、市ヶ谷八幡女坂



歌坂

法政大学市ヶ谷田町校舎の北側の道が坂道になっており、歌坂、又は雅楽坂と呼ばれている。一説には海鳥の一種の善知鳥  (うとう) の口ばしに似た地形であるので、「うとうさか」と呼ばれ、「うとう」が「うた」になり歌坂に転じたとされている。

鰻坂

歌坂の北西1ブロックの所にも坂道がある。鰻坂という。坂が曲がりくねっており鰻のような坂という意味からこう呼ばれたという。 道を通ると、細い道が曲がりくねっており、しかも一度登り、又下る坂になっている。鰻坂と呼ばれたのも納得がいく。

芥坂 (ごみざか、暗闇坂、闇坂) 

鰻坂を抜けると、道の先に下り階段がある。この道は芥坂 (ごみざか) と呼ばれている。かつては、もっと長い坂で長延寺谷まで続いていた。現在はこの辺り一帯はDNP (大日本印刷) の構内になっており、かなり地形が変わり、道も途中から失われている。坂道の名については、かつてはゴミ捨て場へ通じる坂であったからとの説がある。坂上は浄瑠璃坂の坂上に接続する。

鼠坂

芥坂の坂上からDNPの敷地外側に沿って北側に行くと鼠坂と呼ばれる坂道がある。この道もDNPの工事で工事フェンスで囲まれたて、どの様な坂道なのかが分からない。元々の道は細く狭い坂で、鼠がとおるほど狭かった程だったという事から、そう名付けられた。鼠坂の坂下は中根坂東公園となっている。

中根坂、安藤坂

中根坂東公園の西にも坂道が通っている。公園の名から分かる通り、この坂道は安藤坂という。この道は北から南に向かって下り、途中からまた上るという摺鉢状の道になっており、この坂の南半分を安藤坂、北半分を中根坂と呼ばれている。別の資料では坂全体を中根坂とし、南半分を安藤坂とするとのものもある。坂道の由来は、昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったことによるとされている。


浄瑠璃坂

芥坂の坂上は浄瑠璃坂と合流している。坂名の由来については、この地であやつり浄瑠璃が行われたためとの説や、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるためなどの諸説がある。
この坂は1672年 (寛文12年) に「浄瑠璃坂の仇討」が行われた事で有名な場所で、江戸時代の三大仇討 (赤穂浪士、鍵の辻屋) の一つ。1672年 (寛文12年) に宇都宮藩元藩士の奥平源八が火事装束で40数名と共に、父の仇である同藩元藩士奥平隼人を討ちとり、幕府に出頭し、死罪は免れ、流罪となり、6年後に恩赦で彦根藩井伊家に召抱えられた。この浄瑠璃坂の仇討から30年後に赤穂浪士の吉良邸討ち入りが起こっている。この浄瑠璃坂付近には堀部安兵衛が住んでいたそうで、赤穂浪士はこの浄瑠璃坂の仇討を参考にしたといわれている。

長延寺坂

浄瑠璃坂の南西にこの坂と並行してもう一つ坂がある。昔、この坂上に長延寺という寺があり、そこに参詣する人々が,この坂を通ったことから自然にそう呼ばれるようになったという。

左内坂

更に平行して坂がある。この坂は、江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、開発名主の島田左内の名に因み、左内坂 と呼ばれるようになった。


曙橋に移動。この地区にも多くの坂道があるが、今日は時間がなく二つの坂のみ訪問。残りは次回に予定。


念仏坂 (念仏段々坂)

曙橋の北側に階段の念仏坂がある。昔、この坂あたりに老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことでそう呼ばれた。また、この坂は左右を谷に臨み、屈曲しており危険だったので,仏名を念じて往来する人がいたことにちなむともいわれている。

安養寺坂

念仏坂の近くに安養寺坂がある。かつて、江戸時代には、この念仏坂の北に、市谷左内町 富士見坂から安養寺が移ってきている。


ここでタイムアップ。ここからホテルまでは1kmで、ホテルに帰り準備をして、友人との会食に向かう。

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