東京 (05/10/21) 江戸城 (22) 内曲輪16門 / 内濠 (5) 半蔵門から桜田門
半蔵門から桜田門まで
- 桜田濠
- 三宅坂
- 渡辺崋山誕生地
- 鍋割坂
- ドイツ公使館跡 (国立劇場)
- 柳の井
- 彦根藩井伊家桜田上屋敷 (憲政記念館)
- 日本水準点
- 櫻の井
- 梨木坂
- 三平坂 (三辺坂)
- 華族女学校跡 (議院議長公邸)
- 新坂
- 茱萸坂 (ぐみざか)
- 山王坂
- 日枝神社
- 山王男坂
- 山王女坂
- 広島藩浅野家外桜田上屋敷
- 国会議事堂
- 霞ヶ関坂
- 福岡藩黒田家外桜田上屋敷
- 潮見坂
- 三年坂
- ロシア大使館跡
- [桜田門]
前回は反時計回りに内濠を半蔵門まで回った。今日から江戸城巡りを再開し、まずは前回終了時点の半蔵門まで戻り、桜田門まで内濠と外濠の間にある史跡、文化財を巡る。
桜田濠 (弁慶濠)
前回からの続きを半蔵門から巡る。半蔵門の北側が半蔵濠で南側が桜田濠。この内堀の桜田濠は、江戸時代には弁慶堀と呼ばれていた。江戸城の築城に携わった京の大工の弁慶小左衛門がこの堀の縄張りをしたことに由来するそうだ。
三宅坂
内堀通りを半蔵門外から桜田濠に沿って坂を下る。この坂は近くに三河田原藩主三宅家の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれていた。別名として「皀莢坂」とか「橿木坂」とも呼ばれ、堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたからだそうだ。
渡辺崋山誕生地
鍋割坂
国立劇場の北側を内堀通りから西に上り、それから西に下る坂があり鍋割坂という。千鳥ヶ淵近くにも同じ名前の坂があった。延宝元年の地図にはない。但馬豊岡藩京極家の上屋敷之敷地内に当たる。その後の天保6年 (1835) ~ 文久元年 (1861) の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じているのが載っているそうだが、この地図は見当たらなかった。その後、町筋が変わり現在のようになった。鍋を伏せたような台地の切り通しなので、この名になったといわれてる。
ドイツ公使館跡 (国立劇場)
柳の井
桜田濠の土手下に井戸があり、傍らにあった柳の木にちなんで、柳の井と呼ばれていた。江戸時代に名水として知られいたそうだ。土手は柵で囲まれており、内立ち入り禁止で非公開になっているそうだが、井戸へ降りる石の階段がある。柵を乗り越えて見れるのかも知れないが断念。井戸枠の門が少しだけ見える。
彦根藩井伊家桜田上屋敷 (憲政記念館)
ここにあった屋敷は、江戸時代の初めに、加藤清正が建てたのが始まり。加藤家は次の二代忠広の時に改易され、屋敷は没収された。改易の理由は諸説ある。嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状の偽物を作って遊んだとか、忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反、駿河大納言事件に連座などだが、豊臣氏と血縁関係にあったために幕府に警戒され、手頃な理由をつけられて取り潰されたというのが最も信憑性が高い。加藤家改易後、その屋敷が彦根藩の上屋敷となった。
明治維新後、屋敷跡には1878年 (明治11年) に参謀本部・陸軍省の新庁舎が建設された。(この陸軍省は、元々は1869年 (明治2年) に鳥取藩池田家上屋敷跡地に置き、その後、和田倉門内の会津藩松平家上屋敷跡地に移転していた、当時は兵部省と呼ばれていた。1872年 (明治5年) に官舎から出火し、銀座一帯を焼失する銀座大火が起こり、兵部省を廃止して、陸軍省と海軍省を設置した。)
陸軍省は、1941年 (昭和16年) の太平洋戦争開戦と同時期に市ヶ谷へ移転し、戦後の1960年 (昭和35年)、この跡地に市民の浄財によって政治家 尾崎行雄を記念する「尾崎記念会館」が建てられた。この尾崎記念会館は1972年に衆議院に寄贈され、施設の増築拡張を行い、議会開設80年を記念し、議会制民主主義の認識を深めることを目的として「憲政記念館」となった。
江戸時代初期に加藤清正が掘らせたと伝わる名水井戸の櫻の井が彦根藩井伊家上屋敷の表門外西側にあった。江戸の名所と言われ、幕末当時には、江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供していた。ニ度移設され、現在は憲政記念館の公園内にある。
梨木坂
井伊家の屋敷の裏門に面し、その後の陸軍省通用門と独逸公使館横手の間の道が梨木坂で、昔は梨の木があったので、こう呼ばれていた。
三平坂 (三辺坂)
華族女学校跡 (議院議長公邸)
三べ坂沿いに華族女学校跡の石碑が立っている。1885年 (明治18年) に設けられた皇族、華族子女のための官立の教育機関で、華族女学校として四谷にあった。その後、1889年 (明治22年) に、この地に移転し、平民子女も受け入れを開始した。
1906年 (明治39年) に学習院女学部、1918年 (大正7年) に女子学習院となり、1946年 (昭和21年) には戸山の近衛騎兵連隊跡に移転し、翌年1947年 (昭和22年) に官立から私立学校ととなり現在に至る。現在は衆議院議長公邸となっている。
新坂
都立日比谷高校とメキシコ大使館の間を外堀通りへ下る坂を新坂という。この坂は激坂で赤坂方面から登校の生徒たちも大変だ。生徒達には遅刻坂と呼ばれているそうだ。体育系部活のトレーニングには最適だろう。遠回りでも永田町から登校している生徒もいるのではと思う。この坂は江戸時代にあったのかは分からない。古地図で見る限り、岸和田藩上屋敷の敷地内にあたる。
次は彦根藩井伊家上屋敷から桜田門までの間にある大名屋敷中心にまわる。
茱萸坂 (ぐみざか)
山王坂
現在の衆議院第一議員会館と第二議員会館の間を日枝神社 (山王社) に向かう下り坂で、この坂の辺りは、明治維新までは山王社の社地であった事より山王坂と呼ばれていた。坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の屋敷があり、鹿島坂とも呼ばれていた。
日枝神社
山王男坂
山王坂を下ると日枝神社の鳥居が見えてきた。屋根付きの少し変わった鳥居から旧な階段がある。これが日枝神社の表参道で、正面の鳥居から53段の石段を上る坂を山王男坂という。
山王女坂
もう一つ山道がある。山王男坂の左手を迂回するように上る坂で、男坂より勾配が緩くなっているので山王女坂と呼ばれているが、一般庶民は通れず、将軍の参詣の時だけ用いられた。それで御成坂とも呼ばれていた。
日吉神社の創建の年代は、はっきりはしないのだが、1478年 (文明10年) に太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺 (現在の喜多院中院) 鎮守の川越日枝神社を勧請したのに始まるとされている。徳川家康が江戸に入封した際に、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。1604年 (慶長9年) 徳川秀忠の時代に江戸城改築で社地を半蔵門外の麹町隼町に遷座し、庶民も参拝できるようになった。1657年 (明暦3年) の明暦の大火により社殿を焼失し、1659年 (万治2年) に、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。
神門、宝物殿
男坂を登ると神門がある。手前に宝物殿と手水所があり、傍にさざれ石が置かれている。
本殿
1945年 (昭和20年) の東京大空襲で本殿も含め社殿が焼失し、1958年 (昭和33年) に再建された。本殿の前には狛犬ではなく狛猿が置かれている。正式には神猿 (まさる) というそうだ。魔除けの象徴とされ、「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じるという。この神社は日吉大社からの分霊で、日吉神社では猿が守り神なので、ここにも猿がいると言う訳だ。
山王稲荷神社本殿
本殿の裏側には山王祭で使う山車の保管庫がある。いくつもある。更に奥には稲荷神社の参道があった。
稲荷神社は、日枝神社が麹町隼町からここに移される以前から、この場所に鎮座していた。1657年 (明暦3年) の大火で焼失したが、 1659 (万治2年) に日枝神社の造営に合わせて、この稲荷神社も造営された。 この稲荷神社本殿は今でも当時の建物が残っている千代田区内で唯一の江戸時代初期の木造建築だそうだ。こちらには狛犬があるのだが、元々は神田神社境内にの南伝馬町天王社にあったが、1885年 (明治18年) の火災で天王社本殿が焼失し、日枝神社境内に鎮守として祇園社を造営し、狛犬は1901年 (明治34年) にここに移転されたもの。
日枝神社は山王祭が有名。山王祭は神輿行列と山車行列の神幸行列が特徴で江戸期から続いている。(山車行列は現在では行われない)
広島藩浅野家外桜田上屋敷
国会議事堂
霞ヶ関坂
現在ではほとんど傾斜が見られないが、昭和初期には日比谷公園に突き当たる直線道路で長い傾斜のさかだった
福岡藩黒田家外桜田上屋敷
三年坂
霞が関の大蔵省と文部省との間に三年坂があった。今は当時とは異なり直線に伸びているのだが、昭和39年頃までは、坂の上部が栄螺尻 (さざえじり) と呼ばれた二段三段と曲折した坂が続いていた。この坂にて転ぶと三年のうちに死んでしまうという俗説からこの名がきている。別の三年坂でも同じ様な話があったのを思い出した。よくある話なのだろう。
ロシア大使館跡
桜田門 (外桜田門)
1636年 (寛永13年) にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門と呼ぶようになった。1620年に東国大名の助役により石垣と枡形が完成。
1663年 (寛文3年) 頃に建てられた外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造で桝形を構成している。1923年 (大正12年) の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修されている。
安政7年(1860年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。13代将軍徳川家定の時代、黒船来航で米国より開国を求められていた。当時日本は鎖国政策をとっており、外国船打ち払いを主張する攘夷運動が主流で、開国派は少数だった。大老 井伊直弼は攘夷派の孝明天皇の勅許無く日米修好通商条約を締結。孝明天皇は幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を水戸藩へ下す。これに対して、井伊直弼は、強権を発揮し、攘夷派の粛清を実施する。これが安政の大獄と呼ばれている時代だ。尊王攘夷急進派の水戸藩士は脱藩して、大老 井伊直弼の暗殺計画を練っていた。
今日は初日なので、少し張り切りすぎて、多くの史跡をまわった。ちょっと多すぎた。これをレポートにまとめるのは時間がかかるだろう。夜は、娘二人と半年ぶりに会い、焼き肉で夕食を共にした。二人とも元気にやっているので一安心。
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