Okinawa 沖縄 #2 Day 167 (22/02/22) 旧真和志村 (13) Mekaru Hamlet 銘苅集落
旧真和志村 銘苅集落 (めかる)
- 新都心公園
- 銘苅墓跡群
- 伊是名殿内 (イゼナドゥンチ) 墓
- 旧銘苅集落
- スグルガー
- 殿小 (トゥングヮー)
- 銘苅御殿 (メカルウドゥン)
- 銘苅新都心自治会 (てんとうむし公園)
- 仲本家のガジュマル (安岡ガジュマル公園)
- 多和田巫殿内 (寄宮) [未訪問]
前回は2月19日にここ銘苅と安謝を訪れたのだが、まだまだ見れなかったところがあるので今日も、この二つの集落を訪れる。2月は雨が多く、多分、月の三分の2は雨の様だ。今日も午前中は雨が降っていたが、天気予報では曇りなので、雨が上がるまで待って11時過ぎに出発した。雨が降るかもしれないが、昨日まで雨で、明日からも雨予報なので、思い切って今日訪れることにした。今日のレポートは先日の訪問も含めて銘苅集落訪問記にしている。
旧真和志村 銘苅集落 (めかる)
銘苅集落がいつ頃できたのかは明確でないが、研究者は「内間金満付近にあった多和田 (ターダ) マキョ、シグルクコダ (スグルガー付近) の居住者は農耕生活をおくっており、これが、内間、銘苅、安謝の起源」と推測している。多和田は安謝集落ができる前に住んでいた地域にあたる。昔、琉球王統時代には前安謝と呼ばれ、銘苅のシグルクガーからウサチユガー付近までが旧集落だったと思われる。
琉球王統時代には文献で銘苅が見られる。1689年 (元禄2年) に廃村となり、安謝に吸収され、明治42年に安謝から分離して独立行政部落をつくった。多和田原、銘苅原、名護松尾原の三つの小字で構成され、住民の大半が首里系士族で占めていた。
沖縄戦では激戦地だったシュガーローフが近くにあり、集落は壊滅状態となった。戦後、銘苅のほとんどは米軍の住宅地として接収され、住民は帰還がかなわず、那覇の寄宮に移住する人が多くいた。
米軍から土地返還後は、公団による土地区画整理が行われ、現在は住宅街に変貌している。
銘苅の人口のデータが揃っていないのだが、手持ちのデータでは、1900年 (大正10年) は、680人の人口で、旧真和志間切、旧真和志市の中では真ん中に位置するぐらいの人口だった。決して小さくはなかった。沖縄戦後、字銘苅の大部分が米軍住宅地区として強制接収されたため、ほとんどの住民は那覇の寄宮など各地に移住し、接収を免れた北側の安謝川付近に10世帯、50人程が住んでいた。1987年に、接収された土地が返還完了となり、1992年から跡地に住宅地建設が開始、住宅が出来上がるごとに人口は増え、新都心開発が完了した2000年からは更に人口が増加し、現在では6,700人に膨れ上がり、まだ微増が続いている。明治時代の人口に比べ10倍になっている勘定だ。
銘苅集落訪問ログ
銘苅は地域の殆どが、米軍に接収され、兵士の住宅地に整地されたことで、集落内にあった文化財は殆ど残っておらず、戦火を免れた史跡と、土地返還後に復興された拝所を巡った。
新都心公園
沖縄県立博物美術館の北側に新都心公園がある。敗戦後、1953年 (昭和28年) に安謝と銘苅のこの地域が米軍に強制接収され米軍牧港住宅地区となった。1972年 (昭和47年) の沖縄本土復帰の翌年に、この接収されていた土地返還が日米間で移設条件付きで合意。その後、1975年 (昭和50年) から1980年 (昭和55年) に四回に分けて一部返還され、1987年 (昭和62年) にようやく全面返還が完了した。返還された跡地に新都心地区事業が1992年 (平成4年) に着工し、2000年 (平成12年) に完了した。この新都心地区事業の中で天久公園が造成され、2001年 (平成13年) に開園している。2005年 (平成17年) に新都心公園と名称変更した。
銘苅墓跡群
伊是名殿内 (イゼナドゥンチ)
銘苅墓跡群の中で最も大きいのが、琉球王国末期の19世紀後半に伊是名親方朝宜が伊是名島・伊平屋島の総地頭職に任命されて設立された総地頭家の向氏伊是名殿内の亀甲墓で、これは公開されている。伊是名殿内の墓を含む付近の天久地区は、戦後米軍に接収されて住宅施設が建設されたが、この墓は破壊を免れた。墓室正面の左右に展開する袖石は、宜野湾御殿の墓同様、各3段からなり墓の格式の高さをあらわしている。墓室正面向かって右側の袖石には土地の神・ヒジャイ (后土神) を祀る祠 (写真右下) が設けられており、亀甲墓としては珍しい構造になっている。
墓室前の墓庭を取り囲む袖垣の石積は相方積みである。袖垣の隅には、隅頭 (すみがしら) と呼ばれる一際高い石 (写真左上) が配されている。墓の門は、ヒンプン (屏風) はなく、一般的な墓室に正対して設けられておらず、左側の袖垣 (写真左上) から、クランク状の本門と中門の二つの門から入るようになっている。ヤナカジ (悪い風) が直接墓に当たらないよう風水上の配慮がなされているそうだ。
旧銘苅集落
戦前の銘苅集落は銘苅墓跡群の東側、現在の古島との間にある銘苅かりゆし公園周辺にあり、小さな集落だった。現在は、住宅開発事業が2000年 (平成12年) に完了し、住宅街になっている。銘苅かりゆし公園の側には新都心銘苅市営住宅、県営天久高層住宅を始め、民間集合住宅が多くたっており、昔の面影は全くない。
スグルガー
- 銘苅原にある井泉で沐浴中の天女を見掛けた銘苅子は、天女の羽衣を隠してしまいます。羽衣を失って天界に戻ることができなくなった天女に、羽衣が見つかるまで自分のところに滞在するよう説き伏せた銘苅子は天女を家に連れ帰ります。やがて夫婦となった銘苅子と天女のあいだには、女の子と男の子が産まれました。ある日、女の子が弟をあやす子守唄から、天女は羽衣の隠し場所を知ります。羽衣を得た天女は、泣く泣く我が子たちと別れを告げて天界へ昇っていきました。
殿小 (トゥングヮー)
スグルクガーがある岩山の上への入り口があり、そこを入ると拝所があった。ウサチアムシラレと書かれている。阿母志良礼 (アムシラレ) は地域のノロを統括するオヤノロのことをいい、琉球王府から任命された。最高女神官聞得大君 (きこえおおきみ) の下に首里 (スイ)・真壁 (マカベ)・儀保 (ジーブ) の3人の大阿母志良礼 (ウフアムシラレ) が置かれていたので、ここに祀られているのはその下のこの地域を管轄していた阿母志良礼 (アムシラレ) では無いだろうか? ウサチは御先で先代の事だろう? 祝女を祀っていることは確かなようだ。村に伝わっている話では、天女とされる女性は、銘苅子と結ばれた銘苅のノロだったのでとも言われている。ここはその天女とされた御先世阿母志良礼を祀っているのかもしれない。(個人的推測) 安謝集落では殿小 (トゥングヮー) と呼んで、御願しているそうだ。沖縄の古代部落マキヨの研究 (1977 稲村賢敷) によると、ここは、琉球国由来記に記載のあるスグロクノ嶽 (神名: 中西タケツカサ、コダガマノ御イベ) があった場所としている。米軍が接収した用地内にあり、随分と土地が削られて当時の姿は残っていない。土地返還後に、ここに拝所を再建したのかもしれない。
銘苅集落では多和田ノロが祭祀を司っていた。
このスグルガー周辺では銘苅原南遺跡が発見されている。グスク時代中期にあたる地層から、土製のふいごの羽口が16個出土。また、鉄鏃、鉄釘、刀子などの鉄製品も出土している。さらに縄文時代晩期に相当する古い地層 (下の写真) からは土器と脊椎動物の遺骸が発見されている。
銘苅御殿 (メカルウドゥン)
スグルガーで天女と結ばれたという銘苅子 (メカルシー) を祀る銘刈御殿が住宅街の中にある。米軍住宅地として接収されていた期間には銘苅住民は寄宮に移り住んでいたので、神屋もそこに移されていたのだが、土地返還後に銘刈の地に移した。神屋の中には入れないのだが、資料に祀られている銘刈子の肖像画と天女昇天画があった。神屋の外には香炉が置かれ、シグルクガー、アマオレガー (天女が降りた所)、御嶽、大和と唐への遥拝している。
銘苅新都心自治会 (てんとうむし公園)
新都心で開発が完了した2000年以降、住民が住みはじめ人口は増加、2003年 (平成15年) に現在のてんとうむし公園の中にプルハブの自治会がある。
仲本家のガジュマル (安岡ガジュマル公園)
多和田巫殿内 (寄宮) [未訪問]
戦前、安謝と銘苅の境の多和田ガーラには多和田巫殿内があったのだが、銘苅の大部分が米軍に接収され立ち入りが禁止となっていた。多和田巫殿内は昭和27年頃に、元銘苅村住民が移住した那覇の寄宮に移されているそうだ。現在の沖縄県知事公舎の北あたりに二坪程のコンクリート造りの神屋が二棟建っているそうだ。機会があれば訪問する予定。
数か月経った6月に寄宮集落を訪れた際に、この多和田巫殿内を探した。ラフな地図があるのだが、その周辺を探すがそれらしきものは見つからなかった。寄宮から銘苅へ戻った時に、いせつされているのかもしれない。下は寄宮にあった時の写真。
訪問終了後、4時過ぎになり、すこし雨がパラパラと降り始めた。本降りになる前に帰ることにした。案の定、帰宅後、本降りとなった。今日の行きかえりに聞いたアルバム。Smooth Jazz でKeyboard Player のScott Allman と Guitar Dan Carlin
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 銘苅新都心自治会15年の歩み (2018 銘苅新都心自治会)
- 沖縄の古代部落マキヨの研究 (1977 稲村賢敷)
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