Okinawa 沖縄 #2 Day 168 (25/02/22) 旧浦添間切 (3) Kyozuka Hamlet 経塚集落
旧浦添間切 経塚集落 (きょうづか、チョーヂカ)
[更新: 2022/3/4 夫婦井訪問]
- 中頭方西海道、南の坂 (フェーヌヒラ)
- 首里橋 (スイバシ)
- 平良大名底 (テーラフナーズク)
- 経塚橋 (チョーヂカバシ)
- 宮古井 (ナークガー)
- 樋川井 (ヒージャーガー)
- 中頭方西海道、北の坂 (ニシヌヒラ)
- 七番毛 (シチバンモー)
- 松並木 (ナンマチ)
- サーターヤー跡
- サーターヤー跡
- 洗江良井 (アレーラガー)
- 御殿井 (ウドゥンガー)
- 古井 (フルガー)
- 経塚公民館
- サーターヤー跡
- 経毛 (チョウモウ)
- いちゃりば兄弟 (チョーデー) 石碑
- 西の井 (イリヌカー)
- 中頭方西海道
- 安波茶川 (アバチガーラ)
- 安波茶橋
- 赤皿井 (アカジャラガー)
- 鍋小堀 (ナービグムイ)、青小堀 (オーグムヤー)
- 浦添橋跡
- 経塚橋 (ちょうちかばし)
- 仲間崖 (ナカジョーバンタ)
- 夫婦井 (ミートゥガー)
- 龍巻井 (ルーマシガー)
- サーターヤー跡
- 馬浴びせ小堀 (ンマアミックムイ)
- 夫婦井 (ミートゥガー) [2022年3月4日訪問]
- 呉屋の井 (ゴヤヌカー)
- 普天間小 (フティマグァー)
今日から、旧浦添間切の集落巡りに戻る。先日訪れた沢岻集落の隣にある経塚集落を訪れる。
旧浦添間切 経塚集落 (きょうづか、チョーヂカ)
経塚の人口については、明治時代は250~300にん、分離独立し行政区になった1916年 (大正5年) は250~350程で、1934年 (昭和9年) には450人程だった。当時は世帯の93%が農家だった。(この率は旧浦添村の他の集落でもほぼ同じ) 人口が著しく増加し始めるには1970年代で、それ以降も順調に増加している。2002年に人口が450人程減少している。この年には人口統計の行政区区分が変わり、グリーンハイツが別に人口集計がされている。グリーンハイツは経塚と前田にまたがっている。
浦添市の中の他の字と比べると戦後1970年代以前は、人口の伸びが他地域に比べ鈍く1972では三番目に人口が少ない字になってしまっていた。これ以降に地域が開発され人口が増加して現在では真ん中ぐらいに位置している。経塚を巡った印象ではまだまだ住宅地開発か期待できる土地は多くある様に思えた。経塚駅開業で商業施設も増えていくだろう。何より那覇に時間的に近くなった事で今後が期待できる。
人口の変化については、前述の通り、増加率は他地域に比べ低く浦添市平均を下回っている。とはいえ、戦後に比べて10倍にもなっている。島尻南部の行政区から見れば羨ましい数字だ。
経塚は屋取集落が分離独立したので、他の昔からある村の様に、御嶽や殿は存在しない。集落で行われていた祭祀は以下の通りだが、村で行っていたものはあまり無く、門中単位で、その宗家に赴き行っていた。このうち今でも拝まれている行事がどれかについてに記載は見当たらなかった。10月1日の御松の御願は現在でも拝まれているそうだが、これは首里で行われていた祭祀を移植したものという。
経塚集落訪問ログ
中頭方西海道、南の坂 (フェーヌヒラ)
首里橋 (スイバシ)
平良大名底 (テーラフナーズク)
経塚橋 (チョーヂカバシ)
宮古井 (ナークガー)
樋川井 (ヒージャーガー)
中頭方西海道、北の坂 (ニシヌヒラ)
七番毛 (シチバンモー)
松並木 (ナンマチ)
サーターヤー跡
サーターヤー跡
洗江良井 (アレーラガー)
御殿井 (ウドゥンガー)
古井 (フルガー)
経塚公民館
サーターヤー跡
経毛 (チョウモウ)
いちゃりば兄弟 (チョーデー) 石碑
西の井 (イリヌカー)
中頭方西海道
安波茶川 (アバチガーラ)
この戦争で経塚住民の56%が失われた。旧浦添村に中でも前田、安波茶に次いで戦死率が高い。4分の1の世帯は家族全員が亡くなっている。
安波茶橋
赤皿井 (アカジャラガー)
鍋小堀 (ナービグムイ)、青小堀 (オーグムヤー)
浦添橋跡
経塚橋 (ちょうちかばし)
仲間崖 (ナカジョーバンタ)
龍巻井 (ルーマシガー)
サーターヤー跡
ゆいレール経塚駅
馬浴びせ小堀 (ンマアミックムイ)
夫婦井 (ミートゥガー) [2022年3月4日 訪問]
呉屋の井 (ゴヤヌカー)
普天間小 (フティマグァー)
- 昔、首里桃原に2人の娘のいる家があった。妹は普通の人と変わりはないが、姉の方は家族以外の人前に出ることはなく、いつも家の中で機を織って暮らしていた。やがて妹は嫁いで行った。ほどなく家に残った姉が絶世の美女だという噂が国中に広まり、妹の夫が一度でいいから姉を見たいと妹に頼んだ。いつものように姉が機を織っていると妹がわざと池に落ち、「助けて!」と姉を呼び、驚いた姉が家から出てくると妹の夫に顔を見られてしまった。 姉は家から末吉の山の方へ逃げ出し、それを家族が追いかけたが、やがて娘の姿は見えなくなった。逃げていく娘の姿が普天間小までは見えていた。娘が持っていた糸が続いており、糸をたどって行くと、やがて普天間宮の洞窟の中に入って行く。洞窟の奥に入っていくと石の中に神の姿になった娘が見つかったという。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- 字経塚史 (2006 浦添市経塚自治会)
0コメント