Okinawa 沖縄 #2 Day 189 (07/06/22) 旧真和志村 (20) Yorimiya Hamlet 寄宮集落

旧真和志村 寄宮集落 (よりみや)

  • 与儀公園
  • 憲法9条の碑 (恒久平和碑)
  • 山之口貘詩碑
  • 安冨祖流楽祖之碑
  • 沖縄県立農事試験場跡
  • 沖縄県知事公舎、宮城ヌ御嶽
  • 宮城区公民館
  • 平野区公民館
  • 銘苅区公民館跡
  • 井泉跡
  • 旧日本軍與儀射撃場跡

一週間ぶりに雨があがった。まだまだ、沖縄は梅雨真っ只中で、今日も天気が続くかはわからない。遠出ではなく、近場を訪問して、雨が降ればすぐに帰れる那覇の寄宮を巡る。図書館に行き調べ物を終えた後、寄宮に向かう。


旧真和志村 寄宮集落 (よりみや)

寄宮は識名と与儀にかこまれた地域。この寄宮に関しての情報はほとんど見つからなかった。1933年 (昭和8年) ごろに寄増原 (ヨセマシバル) が与儀から分立したが、住居表示は余儀のままだった。当時は100戸数の一面サトウキビ畑が広がっていた。戦前には、寄増原に150戸があった部落でまだまだ小さな地域だった。戦後、1946年 (昭和21年) に元の寄増原に加え、字国場から洗田原 (アライバル) と字与儀から宮城原 (ミヤギバル) の三つの原で寄宮として独立行政区が生まれた。終戦直後は、旧那覇市の中心から、1マイル (1.6km) は立ち入り禁止だった事で那覇の住民は帰還がかなわず、摩文仁から嘉数バンタでの収容所から、寄宮に移り、そのままここに住みつく人が多かった。
この寄宮には、寄宮中学校があり、行政主席公舎、電々公社、郵政庁、東郵便局、那覇文化会館、那覇市公会堂、沖縄中央図書館、東 恩納文庫、母子福祉センター、傷い軍人会館などが設置されている。
また、各銀行の支店も集まり、映画館2軒、医院5軒、飲み屋軒、商店も多くが寄宮十字路を中心にとり囲んでおり、真和志では安里に次ぐ繁華街で、那覇市になってからは中心地となっていく。
下の集落民家の変遷がわかる地図を見てもわかる様に、明治時代には民家はまばらで集落は見当たらない。戦後は寄宮は新興部落として大原区、平野区、銘苅区、宮城区、二中前ができ、急速に拡大していった。那覇市内に共通なのだが、区間整理がされている地域は少なく、細い行き止まり路地が迷路の様に多くある。大都市中心地とは思えない街並みが多い。これは戦後、米軍統治下で、国として、県としてとして都市計画などはなく、住民が無秩序に家を建てていった事にある。この様に沖縄の街はスプロール現象と否定的な言葉で言われるのだが、これは、国の計画もなく、援助もなく住民が、自ら復興をしていった事にある。よく沖縄には都市計画がお粗末と言われるのだが、現在でも、沖縄には米軍基地が多くあり、いつ返還されるかわからない状況で県として総合都市計画をつくることは難しい。
寄宮の人口は戦後急速に増加している。1960年代からは人口の減少が現在でも続いている。
戦前は人口の最も少ない地域だったが戦後は那覇の立ち入り禁止地区外にあった事で元の集落に戻れない住民がここに住み始めた事や多くの公共施設がこの地に造られた事もあり、旧真和志村の中では2番目に人口の多い地区になっている。それ以降人口は減り、人口ピークの半分以下になっている。現在では人口ランクは真ん中程に位置している。
寄宮は戦後に造られ発展してきた地域で、元々ここに住んでいた人はごく僅かで、昔からの拝所はほとんどないが、旧与儀村の三つの御嶽のうちの一つである宮城之嶽がある。元々は与儀の一部だったので、祭祀は楚辺ノロの管轄地域だった。寄宮全体としての祭祀は行われていない様に思われる。戦後、急拡大した中、いくつかの区分けがされ、それぞれが独自の祭祀を行っていたのではと思われる。


寄宮集落訪問ログ



与儀公園

与儀交差点の場所には県立図書館 (現在は泉崎に移転)、市立図書館や那覇市民会館に隣接した与儀公園がある。戦前はかつて農業試験場であり、近くには軽便鉄道の与儀駅が置かれていた。広い敷地内には遊具やグラウンドのほかに機関車D51が置かれていた。春は桜の名所でもある。
春先には、公園の中を流れるガーブ川沿いに桜が咲き乱れる。
1973年3月に、沖縄にも機関車が欲しいという子ども達の希望を叶えるため、蒸気機関車D51 222号が当時の国鉄九州総局から送られ、鹿児島からきた技師6人が3日がかりで据え付けた。現在は金網で囲われ、近くには行けないのだが、当時は金網もなく、子供たちがよじ登り遊んでいたそうだ。

憲法9条の碑 (恒久平和碑)

日本で初めて行政によって建立された日本国憲法9条の碑がある。憲法9条の石碑は全国で18ヶ所あるそうだが、ここ沖縄には七つも建てられている。この碑は1985年に建てられy沖縄としては最初の憲法9条の碑 となった。その後、1995年に読谷座喜味に建てられ、2000年以降に五つの憲法9条の碑が作られている。この背景には安倍内閣の改憲の意向に対して沖縄県民の戦争がまた起こるのではという危機感からたて続きに建てられた。米軍基地が集中している沖縄は戦争ともなれば真っ先に攻撃の標的となり、民間人も沖縄戦同様に巻き込まれる恐れが高い。この意識は本土よりも遥かに高い。

山之口貘詩碑

与儀公園内には、1975年 (昭和50年)、山之口貘の13回忌に合わせ、山之口貘詩碑が建立された。碑文には、1935年 (昭和10年) に発表された「座蒲団」が刻まれている。
山之口貘は、1903年 (明治36年)、那覇区東町に生まれ、沖縄県立第一中学校 (現在の首里高等学校) 在学中から新聞などに詩を投稿していた。その後、琉球歌人連盟の結成に参加し、この頃から「山之口貘」のペンネームを使用した。1925年 (大正14年) に、2度目の上京を果たし、職を転々としながらも佐藤春夫や金子光晴等の支援を受け、詩を発表した。
代表作には、処女詩集思辨の苑 (1938年)、山之口貘詩集 (1940年) があり、太平洋戦争後に発表した定本山之口貘詩集 (1958年) は第2回高村光太郎賞を受賞している。1963年 (昭和38年)、胃ガンのため死去、享年59。

安冨祖流楽祖之碑

昨年末に知念の吉富集落を訪れた際に、吉富集落出身の三線演奏家の宮里春行の像がこの与儀公園内にある事を知ったので、この地を訪れた。沖縄には何人もの三線演奏家の像や碑を見かける。宮里春行は安冨祖流隆盛の礎を築いた人物で、太平洋戦争でシベリア抑留となり、手作りのカンカラ三線で沖縄の歌を歌い、捕虜たちを慰めていた。ソ連兵もやってきて、ソ連兵と捕虜が歌に合わせ踊ったという。宮里は「音楽に国境はない。平和の集いだ」と感じたという。2002年 (平成14年) に、この地に宮里春行道翁之像が建立され、台座には「歌の道学で人の道悟て世間御 万人にかなささりり」と記されている。

沖縄県立農事試験場跡

与儀公園は戦前は農事試験場だった。農事試験場は明治13年に真和志間切古波蔵楚辺 (現在の泉崎の武徳殿附近) に設置され、甘藤、麥、稲、藍煙草椰子 金等を試作し、傍ら、砂糖製造の試験を行って来たが、明治36年に那覇の久地に移し、種豚、山羊の飼育及び蚕業の試験を追加、更に安里の陸軍用地の保管轉換を受けて、安里農場を設け、甘製糖及び普通農作物の試験などの業務を拡張していた。県は糖業の重要性から、明治29年、糖業改良事務局を中頭郡西原村に設置、明治44年に、この事務局を廃止して、県立糖業試験場を新しく設置した。これより先、明治42年に勧農試験場を県立農事試験場と改称し、那覇の試験場を支場として、大正2年には西原に全部移管した。大正4年に、糖業試験場は更に名護試験場を東江部落の後方に設置し、翌5年には現在の名護保健所附近に移設し 名護支場と改称し、糖業の外、普通農事に関する試験も行っっていた。大正8年に、この名護支場を糖業試験場より分離して農事試験場と改め、更に大正13年には、名護の農事試験場を中頭郡宜野村字普天間の中頭郡模範農場跡に移す。大正15年、島尻郡小祿村字安次嶺に陶藝部と蚕業部を設置し、昭和2年、農林省の委託甘藷改良増殖試験地部内に設け、翌3年には、蚕業部が独立して県立蚕業試験場が設置された。昭和3年には真和志村字与儀に耕地三十五町歩を購入し、那覇苗圃を設けると共に、農事試験場の本場をこの地に設け、事業経営の中心としたが、沖縄戦で試験場は潰滅し、事業は中止終了となった。戦後、1946年、与儀の試験場の旧用地と周辺民有地で事業を復活し、1951年 には中央農業研究所と改称、その後政府の機構改革により幾度か名称の改変はあったが、1953年に各農業研究指導所を統合して与儀を中央農業研究指導所とし、他を地方農業研究指導所とした。その後、周辺地域の急激な都市化と研究施設の充実を図るため、1961年 (昭和36年) に移転となり、その跡地には、病院・学校・公園など公共施設が建てられた。

与儀公園に来るといつも、おじいのが集まっている。ほとんどおじいだけで、おばあは見かけない。ここにビニールハウス造って囲碁クラブをやっている。ここでおじいのユンタク (おしゃべり集まり) が毎日、一日中行われている。この光景は昔から続いているのだろう。全土で孤独老人問題が深刻化するなか、沖縄も例外では無いのだが、まだまだ、この様な昔からの風習のユンタクが続いている。

沖縄県知事公舎、宮城ヌ御嶽

与儀公園から坂道を登った所の沖縄県知事公舎の敷地内にある宮城ヌ御嶽を訪れる。宮城は沖縄方言ではナーグスクと読むのだが、ここはどうも「みやぎ」と呼んでいる様だ。前からそうだったのか、元々はナーグスクでいつからかみやぎという様になったのだろうか?この坂道の行き止まりが沖縄県知事公舎でで、そこにいく人しかこの坂道を通らないので、坂道半ばまで来ると、門番が外に出て待ち構えていた。御嶽への訪問を告げると、名前と住所をメモ帳に記入してすんなりと門を開けてくれた。
御嶽への道は柵で隔離されて、公舎には入れないようになり、監視カメラが道沿いにあり、多分門の守衛室で監視されているのだろう。ここは字寄宮なのだが、かつては与儀村に含まれていた。宮城之御嶽は琉球国由来きqにで、神名はアフライノ御イベ、真壁大阿母志良礼 (オオアムシラレ) 配下の楚辺大阿母 (オオアム) と呼ばれた楚辺ノロによって祭祀が執り行われていたとある。旧与儀村には、宮城ノ岳、ヨリノ岳神里ノ岳 (在 樋川神里原) の3つの岳があると琉球国由来記にはあり、その一つになる。

宮城区公民館

宮城之嶽の丘の麓には宮城区がある。この区は戦後造られた区で一時期は独立行政区だった様だが、現在では行政区としての宮城区は無くなって、寄宮の一部になっている。ただ宮城区自治会はそのまま残っている。宮城区の名称は今でも健在だ。明治時代の地図ではこの辺りは集落は見当たらない。公民館の敷地内に拝所が置かれている。この拝所の由縁はわからないが、戦後この地域に住み着いたグループが地域の守り神として設置したのだろうか?

平野区公民館

宮城之嶽の丘の麓にはもう一つの区が宮城区に隣接してある。平野区で、宮城之嶽の柵の外すぐ側に平野区公民館が建てられている。この地区では拝所などは見当たらなかった。

銘苅区公民館跡

与儀公園の北側は銘苅区になっている。銘苅は現在の新都心地区にあったのだが、集落が沖縄戦後、米軍用地に接収により米軍兵士用住宅地となり、1987年まで返還されなかった。銘苅集落住民は一部地域を除き、この寄宮の一画に住むこととなった。元の銘苅にあった拝所もこの寄宮に移設していた。1987年に元の銘苅集落地域が返還となり、銘苅集落住民は、元の土地に戻っている。拝所も元の集落に戻している。今でもこの寄宮の銘苅区に住んでいた人たちは銘苅区として自治会はあるようだが、ここにあった銘苅公民館は無くなっていた。

多和田巫殿内跡 (タータヌンドゥンチ、銘苅祝女殿内)

銘苅から戦後に移された拝所のひとつに多和田巫殿内 (タータヌンドゥンチ) がある。銘苅御殿 (メカルウドゥン) は元の字銘苅に戻っており、そこは訪問した。この多和田巫殿内は銘苅では見当たらなかったので、まだ寄宮にあるのではと銘苅区を探したのだが、見当たらなかった。安謝誌にこの寄宮にあった多和田巫殿内の写真が掲載されていた。それによれば、二坪ほどのコンクリート造りの神屋が南に向かって二棟建ち、千手観音、東世 (アガリユー、ウサチミントゥン) へのお通し、中山城へのお通し、今帰仁城へのお通し、多和田のウグヮンス、クニグサイ、タキグサイ、巫火ヌ神が祀られ、神屋の東側の小さな祠には土帝君 (トゥーティークー) が祀られているとあった。

井泉跡

この寄宮は与儀公園や県知事校舎を外れると、写真の様な細い路地 (スージー) が何本もあり、その路地沿いにぎっしりと家が建っている。戦後の混乱期に建てられたものも多く、不法建築も多いそうだ。この様な路地に建てられた家は、通常、法律上は再建不可なのだが、実情はどうなのだろうか? この様に再建不可と思われる家屋が至る所にあるので、法律に則ると、住民は困るだろう。細い路地を歩いていると井戸を見つけた。今は水道が通っているので使われてはいないが、そのまま残している。

旧日本軍與儀射撃場跡

ガーブ川沿いを南に進み与儀と長田の字境界あたり、洗田原に射場矢 (イバヤ) 跡がある。現在は長い直線道路になっている。射場矢 (イバヤ) は射撃場の事で、古波蔵に1879年に設置された熊本鎮台沖縄分遣隊が射撃場として使用していた。また、この通りは寄宮国映通りとも呼ばれ、1961年に寄宮国映という映画館が開館した場所でもある。(写真左のベージュ色の建物が国映跡になる。) ちなみに、この寄宮国映のすぐ近くにももう一つ寄宮琉映館 (1960年開館) という映画館があった。

今日は寄宮との往復時に、先日聞いてみたBob James が気に入ったので、無作為に三つのアルバムを聞いてみた。それぞれ毛色が異なったもので、面白い。オーソドックスなジャズプレイヤー、Fourplayの雰囲気の All Around the Town (1981)、Keith Jarrett 風のピアノソロの Alone Kakeidoscope (2013)、中国フレーバーの Angels of Shanghai (2005) で、どれも気に入った。

参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)

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