Okinawa 沖縄 #2 Day 188 (01/06/22) 旧真和志村 (19) Hikawa Hamlet 樋川集落

旧真和志村 樋川集落 (ひかわ、ヒージャー)

  • 汪樋川
  • せせらぎ通り
  • 水神/水タンク跡
  • 神里之御嶽 (カンジャトヌタキ)
  • 慰霊碑
  • 井戸跡 (名称不明)

楚辺集落に続いて、樋川集落内にある文化財を巡る。この樋川で紹介されている文化財はごく僅かしか無い。


旧真和志村 樋川集落 (ひかわ、ヒージャー)

1928年 (昭和3年) に、真和志間切与儀村から、与儀村の一部である神里原(かんざとばる、カンジャトバル) と樋川原 (ヒージャーバル) を分離し、字樋川が誕生した。

明治時代は樋川地域内にはまとまった集落もなく民家も少ない。樋川の名前も見られない。この時代は与儀の中の畑地域だった。戦後、規則正しく区画割がされた民家が見られる。1975年の地図には沖縄刑務所が見られる。現在は地域内のほとんどが民家となっている。
戦後の樋川の人口は1950年代半ばまでは200人代で、真和志支所管内で人口は一番少なかった。1955年から1960年までの人口データが見つからなかったのだが、1961年のデータでは7,800人となって、この5年間で急増している。この背景についてはわからなかった。ただ、その後人口は激減している。何があったのだろうか? 1981年には行政区変更が行われ、与儀  (本庁管轄)、楚辺の一部が樋川に編入されている。その後も、人口は減り続けており、その傾向は現在も続いているようだ。

他の地域と比較すると、沖縄戦直後は、那覇で居住が許されていた地域は牧志町、壷屋町、、桶川、与儀のみだったので、帰還できない他の地域の住民が、この4つの地域に住んでいたこともあり、1945年では、人口が比較的多い地区になっている。1960年以降は人口減少し、現在は人口の少ないグループになっている。


琉球国由来記には与儀村の拝所として、この樋川内にあった神里之御嶽 (カンザトゥヌタキ、神名 トモヨセノ御イベ) が記載されている。楚辺ノロによって祭祀が執り行われていた。


樋川集落訪問ログ



汪樋川

城岳の北側の麓に汪樋川がある。琉球王の尚貞の冊封に中国から来琉した冊封使が当時、首里城の龍樋の次に美味しい水と称えた湧水がこの汪樋川だった。冊封使が来琉の際にはその歓待のための用水として使用されたそうだ。また、この辺りにあった楚辺集落住民は、この井泉は産水や死水、祭祀の禊の水などに使われていた。2000年頃から水脈が途切れてしまっている。
井泉の上には祠が設けられており、この井泉を拝む様にばっている。
楚辺集落のレポートでも記載したのだが、この汪樋川は、1756年に中国から来琉した冊封副使周煌が琉球国志略の球陽八景図に城嶽霊泉 (左図) として城岳と共に旺泉として描かれている。絵を見ると、城岳から湧水が流れ出している。現在の井戸の姿よりも趣のある井戸だった。江戸時代には葛飾北斎 (1760 - 1849年) がこの挿絵を元にして浮世絵 (右) を描いている。当時江戸では琉球ブーム真っ只中だった。

刑務所通り、沖縄刑務所跡

汪樋川から南に向かっての登坂は、裁判所通りと呼ばれ、以前は刑務所通りと呼ばれていた。

ここには沖縄刑務所が1950年 (昭和25年) に佐敷から移り、1979年 (昭和54年) に南城市知念に移るまで存在していた。この期間中1954年 (昭和29年) には暴力刑務官罷免などを求め暴動、800余名が集団脱走の事件が起こっている。

現在は中央公園と裁判所、那覇第一合同庁舎、沖縄拘置所となっている。


せせらぎ通り

汪樋川の前の大通りを渡った歩道 (松尾地区内) に、汪樋川の水を利用して、1987年に県、那覇市、通り会の三者によりせせらぎ通りがつくられた。それほど大きなものではないが、歩道に沿って、水路を通していた。1989年には建設省の「手作り郷土ふるさと賞」を受賞しているのだが、残念な事に、2000年頃から汪樋川の水脈が途切れ、その水を利用してつくられたこのせせらぎ通りにも水が流れることが無くなってしまった。今は水路には草が生え放題で、かつての趣からは遠のいてしまっている。

水神/水タンク跡

神里之御嶽の南側に拝所がある。この拝所の情報はいくら探しても見当たらない。個人の拝所なのかもしれない。水の神を祀っている。この付近には水タンクがあったそうなので、昔は溜池か井戸があったのだろうか?

神里之御嶽 (カンザトゥヌタキ)

神里之御嶽 (カンザトゥヌタキ、神名 トモヨセノ御イベ) は、元々、樋川の東側の神里原にあったが、戦前にこの場所に移された。琉球国由来記では、与儀村の御嶽として記されている。旧与儀村の人たちが、今でも、5月ウマチー、6月ウマチー、ウガンブトゥチ、初ウガミに御願しているそうだ。

慰霊塔

神里之御嶽の隣には、沖縄戦で犠牲になった樋川部落の住民の慰霊碑が置かれている。当時の人口が1057人 (217戸) の内、154人が犠牲になった。これまでに旧真和志村にあった集落の17地域を巡って来たが、部落民の沖縄戦戦没者の慰霊碑があったのは安謝集落だけだった。この樋川集落の慰霊塔が二つ目。南城市や糸満市では、各集落に慰霊碑があるのだが、那覇市では集落として慰霊碑を建立しているところはほとんどない。那覇市の各地域は戦後、元々の集落住民よりも寄留民 (他地域からの転入者) が遥かに多くなり、他の地域とは慰霊碑設置には少し温度差があったのかも知れない。

井戸跡 (名称不明)

樋川地区内の与儀公園側の斜面には人が一人通れるくらいの路地が迷路の様に張り巡らされ、古い家屋が密集している。トタン板の家も多い。多分、戦後、無秩序に次々と建てられた民家と思われる。ここは那覇中心地まで1kmもないが、戦後のまま残っている。先に訪れた裁判所や自治会館がある地域と全く様相が異なっている。

この地域の中に井戸跡を見つけた。コンクリートブロックが香炉として置かれている様だ。井戸の周りは広場になっている。水場があったのだろう。戦後、この地域に住み始めた住民の共同井戸だろう。

集落をまわって、目についたのがこの自販機。琉球ゴールデンキングスのデザイン。プロバスケットボールリーグでは強豪チームで、沖縄では野球、サッカーと共にバスケットボールは人気スポーツ。もう一つは、GEの古いエアコンがあった。本土ではこんなGEのエアコンは見た事はなかった。アメリカの影響の強い沖縄ならではだ。


これで、楚辺と樋川の集落巡りは終了した。まだ時間はあるのだが、ここ二週間ほどはほとんど毎日雨が降っている。今日も、この後、雨が降る確率が高いので、これで切り上げて帰ることにする。



参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)

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