Okinawa 沖縄 #2 Day 190 (10/06/22) 那覇四町 (1) Izumizaki Area 泉崎町
那覇四町 泉崎町 (いずみざき、イジュンジャチ)
- 仲島ヌ大石 (ナカシマヌウフシー)
- 軽便鉄道那覇駅跡
- 旭橋
- 新旭橋 (旧月見橋)
- 松田橋跡
- 船蔵 (フナングヮ) 跡
- 旧那覇役所跡
- 旧泉崎橋跡
- 那覇市立甲辰尋常小学校(国民学校)跡石碑
- 仲島の小堀跡
- 陽石拝所 (ハンキヌウガン)
- 泉崎学校所 (学道館) 跡 (開南小学校)
- 筋荒御願、八重山宿跡
- 涌田地蔵堂跡
- 涌田ガ-、涌田川碑
- 下川の神 (シチャカーヌシン、川神)
- 壺川井 (ツボカワガー)
- 壷川神社 (御嶽)
- Harbor View Hotel ガジュマル
- シーサー御嶽
- 那覇市役所
- 沖縄県議会
- 涌田古窯跡
- 愛のシーサー公園
- 沖縄県庁
- 琉球政府立法院跡地
- 非核・平和沖縄県宣言碑
- 武徳殿跡
今日は沖縄県立図書館で調べ物をする。図書館は近世の旧那覇の中心地だった那覇四町 (ナファヨマチ、西町、東町、泉崎町、若狭町) の一つだ。何度もここには来ており、いくつかの文化財は見ている。泉崎をもう少し掘り下げる事にして、この那覇四町を巡り始める。(この日の後も、確認したいこともあり、更に四回にわたって再訪し、やっと訪問記ができた。)
那覇四町 泉崎町 (いずみざき、イジュンジャチ)
泉崎町訪問ログ
仲島ヌ大石 (ナカシマヌウフシー)
沖縄県立図書館は那覇オーパという商業ビルに入っている。このビル入口に高さ約6mのノッチ状の仲島ヌ大石 (ナカシマヌウフシー) があり、拝所になっている。鳥居とシーサーまで置かれている。参拝者はこの鳥居の所で拝んでいるのだが、その横の隙間を通って岩の裏側にも香炉や霊石が置かれていた。近隣住民には縁起の良い岩として大切にされてきたとある。確かに今でも綺麗に維持されている。どの様な経緯でこの大岩が拝所となったのかが気になる。何か逸話などがあるような気がする。
この岩の上に龍神の拝所がある。少し上にあり、スマートフォンカメラではうまくは撮れなかった。
ここには天水龍大御神の次女で酉の干支の龍神の仁天屋船久久姫神を祀っている。
この付近は仲島前の浜 (ナカシマメーヌハマ)、大石ヌ前 (ウフシーヌメー) などと呼ばれていた。昔は、この辺りが海岸であった。更に時代をさかのぼった時代にはここは海の底だった。
この仲島ヌ大石は1756年に中国から来琉した冊封副使周煌が琉球国志略の球陽八景図に中島蕉園 (左図) として描かれている。この絵を元にして葛飾北斎が浮世絵 (右図) を書いている。絵の真ん中の岩が仲島ヌ大石で、その前は海岸になっている。
この仲島ヌ大石を描いたものがもう一つある。ペリーが琉球を訪れた少し後にはフランス艦隊が1855年10月に通称条約交渉で訪れている。当時のフランス新聞のフランク・レスリー誌に掲載されているもの。葛飾北斎のが浮世絵よりも写実的なので、実際ににこの岩がどのような形で、周りがどの様だったかもよくわかる。ペリー一行は琉球に対して好意的な印象を述べているのに対して、フランス艦隊一行は否定的な記事が載せられていた。おおらかな米国民とシニカルなフランス人との性格の違いか?
軽便鉄道那覇駅跡
ビルの前の広場は、戦前にあった沖縄における軽便鉄道各路線の起点となった那覇駅跡だ。転車台が残っており展示されている。1914年 (大正3年) に、那覇と与那原間の与那原線 (全長約9.8km) の操業が開始され、その後、1922年 (大正11年) に那覇~嘉手納線 (約23.6km)、1923年 (大正12年) に那覇~糸満線 (約18.3km) が開業した。那覇港への引き込み線 (約0.7km) も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は、人々から「ケービン」の愛称で呼ばれていた。那覇駅は、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1ヵ月後には、運行が再開され、沖縄守備隊の兵站輸送や、住民の本島北部への疎開に利用されたが、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され、運休となった。終戦後の1947年 (昭和22年) には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路建設が優先され、とうとう鉄道は再開されることは無かった。現在はモノレールにゆいレールが那覇空港から浦西てだこまで走っているが、かつての軽便鉄道のルートに比べてかなり短い。鉄道が再開されていれば、沖縄も那覇一極集中ではなかったかも知れない。
旭橋
新旭橋 (旧月見橋)
松田橋跡
船蔵 (フナングヮ) 跡
旧那覇役所跡
旧泉崎橋跡
琉球王統時代は海岸線だったところは、埋め立てられて、水路として久茂地川が流れている。この泉崎村からは、対岸にある旧那覇中心地の浮島へは泉崎橋が架けられていた。かつては橋を渡った所に鶏市 (トゥイマチ) があり、河口側には船蔵があった。
沖縄戦で破壊され消滅している。橋がかかっていた場所に説明板が残っている。
那覇と泉崎、楚辺、壺川方面を結ぶ交通の要所だった。橋の架橋年は不明だが、1683年来琉の冊封使汪楫 (おうしゅう) が著した使琉球雑録に泉崎橋口 (泉崎橋を渡った内側の地域) としてあらわれている。また、1756年来流の冊封使周煌 (しゅうこう) の琉球国志略には、球陽八景の一つ「泉崎夜月」として描かれている。これを基にして、葛飾北斎が浮世絵に描いている。
那覇港の改修工事 (1717~1718年) の記念碑の新濬那覇江碑文 (しんしゅんなはこうひぶん) には、1717年に那覇港への土砂の堆積を防ぎ、川の流力を高めるために行われた浚渫工事に伴い、泉崎橋の規模を大きくしたと記されている。
泉崎橋は1945年 (昭和20年) の沖縄戦で破壊され、1958年 (昭和33年) に元の位置から120m程北下流、ちょうど船蔵があった付近に、アーチ型コンクリート橋が架けられた。
那覇市立甲辰尋常小学校(国民学校)跡石碑
かつては、旧泉崎橋からは泉崎大路という大通りがあった。現在は道筋は変わり泉崎大通りとなっている。この旧泉崎橋を渡ってすぐの泉崎大路沿い、現在は国際通りの近くパレット久茂地の一画にも甲辰尋常小学校跡の石碑が建っていた。学校は現在の久茂地町にあるのだが、この通りが久茂地と泉崎の境になる。甲辰小学校は、1904年 (明治37年) の甲辰年に設置され、日露戦争開始を記念してこの名が付けられた。1944年 (昭和19年) の10・10空襲で焼失するまで、40年間続いたのだが、戦後、隣接する小学校があったことから再建されなかった。この後、訪問する開南小学校に吸収され、その校庭にも石碑が置かれている。沖縄戦では、昭和19年8月には対馬丸に乗船し、疎開地に向かっていた学童100人余が犠牲となっている。この対馬丸沈没では1,484人 (うち800人が学童) が犠牲になっている。
仲島の小堀跡
旧泉崎橋からの泉崎大路は現在は消滅しているが、この泉崎大路を進むと現在では那覇の最も賑やかな通りの国際通りに交差する。この国際通り沿いに泉崎村にあった人工の溜池 (小堀 クムイ) 跡がある。泉崎小堀と呼ばれた。かつては、泉崎村の地先一帯は、久茂地川が漫湖に合流する河口で、土砂が堆積した中州になっていた。この中洲は仲島 (なかしま) と呼ばれ、後に埋立られて陸続きとなった。河口付近のこの場所に、17世紀中頃、琉球に亡命し泉崎に住んでいた明人曹得魯の薦めにより、仲島大岩付近からこの地一帯を開拓し、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ水を堰き止め、溜め池 (小堀 クムイ) とした。小堀は、王国時代から鯉、鮒、鰻の養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費に充てたという。仲島小堀は昭和初期には埋め立てられている。
仲島遊郭跡
陽石拝所 (ハンキヌウガン)
戦前の民俗地図では仲島小堀から遊郭へは仲島小矼を渡って入る。仲島遊郭に入ったすぐ側に陽石拝所 (ハンキヌウガン) という御願所があったと記されている。ここには陽石 (ハンキ = 男根) が置かれていたそうだ。尚貞王の時代、仲島遊郭が設けられた後に、この拝所もつくられたという。街並みや道路位置は戦前と随分と変わっており、この拝所も無くなっているので、正確な場所はわからないのだが、現在の開南小学校校庭の西側道路付近にあったようだ。仲島遊郭とこの陽石 (ハンキ = 男根) を祀った拝所とは関係があるとする資料もある。性器を祀った拝所は本土でも多くあり、子孫繁栄を願って造られている。沖縄ではあまり見かけないが、ここも同じような願いで作られたのかも知れない。
泉崎学校所 (学道館) 跡 (開南小学校)
かつての泉崎遊郭から田仲小路を北東に抜けるとかつての泉崎大路に交差する。この泉崎大路沿いには、屋門 (ヤジョー) 構えの豪邸が建ち並んでいた。金持ちが住んでいた地域だ。現在は開南小学校になっている。この小学校の小さな一画には那覇の教育の発祥の地といわれる泉崎村学校所跡にあたる。泉崎村学校所は文政七年 (1824年) にこの場所に屋敷を構えていた大湾親雲上 (おおわんぺーちん) 等の寄付によって創設され、学道館と命名し、久米村の儒者の魏学源楚南親雲上を招いて教育が行われていた。校庭に片隅に泉崎村学校所跡碑が建っている。その近くにももう一つ石碑が置かれている。甲辰校記念碑とある。先に訪れた泉崎場所近くにあった甲辰尋常小学校が沖縄戦で破壊され廃校になり、生徒たちはこの開南小学校に通い始めている。そのようないきさつで、この記念碑が建てられたのだろう。
筋荒御願、八重山宿跡
涌田地蔵堂跡
開南小学校の外側道路に涌田地蔵堂跡の案内板が置かれていた。ここは旧涌田村の中心地で、菩薩を安置したお堂があったそうだ。この湧田地蔵堂は、真言宗の僧侶日秀上人 (1503 ~ 1577年) が、尚清王の時代、1538年にここに建立した堂で、赤瓦屋根の中央に擬宝珠を載せた八畳程度の平屋で、中央に石柱が立ち、石柱上部は六角の厨子の形だった。厨子の中に上人手彫りの木像が安置され、厨子には 「欽奉 六道能化地蔵菩薩 現世安穏 後生善所 大明嘉靖 十七年戊戌三春晦日 敬白」 と刻まれていた。泉崎・湧田村ではこの地蔵菩薩を村の守護仏として、旧暦の1日・15日、9月9日、10月の竈まわり (カママーイ) 等で拝んだそうだ。残念ながら、1944年 (昭和19年) の10・10空襲やその後の沖縄戦により破壊されてしまった。
涌田ガ-、涌田川碑
下川の神 (シチャカーヌシン、川神)
仲島遊郭を南に抜けた所に川神という拝所がある。Google Map では下川の神 (シチャカーヌシン) と表示されていた。この隣が井戸だったので、その川の神を祀っていたのだろう。この拝所は泉崎地区にあるが、泉崎だけでなく壼川集落の拝所でもあり、更に、与儀の人たちも、5月ウマチー、ウガンブトゥチ、6月ウマチー、初ウガミで拝んでいる。拝所の周りには、かつて拝みの対象となっていたのだろう、石柱が6柱置かれている。そのうちの一つには、「中の祝女御世 真呉勢阿母司 申のみふし女世」と刻まれているが、詳細はわからなかった。
壺川井 (ツボカワガー)
川神の隣には井戸跡があり、覆いが掛けられており、その前には香炉が置かれている。この井戸の水の神を祀っているのが、隣に下川の神だろう。泉崎にあるのだが、壷川井となっているので、隣村の壷川住民の井泉だったのだろう。
壷川神社 (御嶽)
壷川に近いので、この拝所も壷川と泉崎の拝所 (ウタキ) と書かれている。祠の中の霊石には「恵比須大明神 金比羅大明神 大国大明神」とあるので、沖縄の神を祀った御嶽というよりは、本土の神社の神が祀られているので、本土から国家神道の影響が強い時期に造られたのだろうか。ある民俗地図では、この拝所を仲里松尾の拝所となっていた。吉屋チルーと恋仲だったという仲里按司の屋敷あたりを仲里松尾と呼んでいたので、この近くに屋敷があったのだろう。
Harbor View Hotel ガジュマル
シーサー御嶽
那覇市役所
沖縄県議会
涌田古窯跡
愛のシーサー公園
沖縄県庁
琉球政府立法院跡地
県庁裏側には琉球政府立法院跡地の碑が置かれて、ちょっとして休憩所になっている。
非核・平和沖縄県宣言碑
とある。このような平和宣言の碑は沖縄各地で多く見られる。沖縄戦では殆どの沖縄の住民が辛酸を経験している。それだけに、二度と戦争を起こしてはならないという意識が非常に強く、それを忘れない為に多くの場所に碑が建てられている。これに目をやり、立ち止まることで、その思いを新たにしてほしいとに願いが込められている。
武徳殿跡
この泉崎町の史跡巡りを始めて、何度も再訪してやっと6月も終わりになって訪問記が形になった。旧那覇、現在本庁管轄地域の各町の町誌などは発行されていない。この地域の住民はほとんどが他の地域から移ってきた寄留人で昔からの集落住民組織が無くなっていることで、地域誌作成は困難なことがあるのと、那覇市の対応も一つあると思える。いくつもの文献の断片的な情報をその都度確認していったので随分と時間がかかったのだが、何度も足を運ぶと、今はすっかり町並みが変わってしまったが、当時の様子が見えてくるようになる。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 泉崎界隈 (1983 川平朝申)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川 宏)
- 沖縄タイムス 新聞記事 (1976-4-22)
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