Okinawa 沖縄 #2 Day 192 (18/06/22) 旧真和志村 (23) Makishi Hamlet 牧志集落
旧真和志村 牧志集落 (まきし、マチシ)
- 牧志東之御嶽 (マチシアガリヌウタキ)
- 竜宮神井 (リュウグウシンガー)
- 牧志ヌ東ヌ井泉 (マチシヌアガリヌカー)
- 牧志西之御嶽 (マチシイリヌウタキ)
- 牧志ヌ西ヌ井泉 (マチシヌイリヌカー)
- 拝所
- 牧志ヌ後道ヌ畑ガー(マチシヌクシミチヌハルガー)
- 玉御嶽
- 緑ヶ丘公園
- 張獻功の墓
- 渡嘉敷三良の墓
- 天日井 (ティーラガー)
- 長虹堤
- 宗元寺橋 (安里橋) 跡
- 牧志長虹橋
- 十貫瀬ヌ前 (ジックヮンジヌメー)
- 七つ墓 (ナナチバーカー)
- 美栄橋跡
- 伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) 跡
- 水神ガー
- 希望ヶ丘公園
- 陣地壕跡
- 明天宮
- 国際通り
- 水上店舗
- 市場本通り
- むつみ橋通り
- 第一牧志公設市場
- 仮設牧志公設市場 (第二牧志公設市場跡)
- パラソル通り
- 八軒通り
- えびす通り
- うりずん通り
- 市場中央通り
- 肉市場通り
- 惣菜通り
- かりゆし通り
- 浮島通り
- 新天地市場本通り
- 新天地市場中央通り
- サンライズ那覇商店街
- 太平通り
- 平和通り
- グランドオリオン通り
- 竜宮社交街
- 桜坂劇場
真和志村 牧志集落 (まきし、マチシ)
牧志の人口については1890年以降1959年までのデータが見つからなかった。もっと探せば見つかるのかもしれないが、これに時間はかけたくないので、大まかな傾向が判れば良しとする。那覇市中心部の集落情報は非常に乏しい。これは那覇市の文化財に対する方針と戦前でも早い時期に他の集落とは異なり、寄留民の割合が非常に高く、沖縄集落伝統の門中中心の血縁集団組織が崩れていったことにあると思える。那覇市中心部にあった集落の村誌、字誌は非常に少ない。それを編集作成するには昔からの集落住民の行動が必要だが、その地域内で元住民の割合は天然記念物化している。この字誌の作成にはこのように元住民の意欲と、それに加え、行政の指導、支援が必要だが、那覇市はマクロ的な歴史編集には関心はあるが、集落単位での歴史、文化財に対しては他の行政に比べ力が入っていない。少し残念に思う。時間が経てばたつほど、当時を語れる人は少なくなるので、今後も期待できないだろう。人口データが見つかった中では1961年が18,000人とピークになっている。世帯当たりの人数も4人で少なくなってはいるが、家族単位で移り住んでいるのが判る。それ以降人口は減り続け現在はピーク時の三分の一の5,500人で横ばい状態になっている。世帯当たり人数も1.7人となり、大都市特有の現象がみられる。多くの土地は商業施設となり、地方からやhん度から仕事で転入した単身者の割合が高くなっているのが背景にある。
明治時代はこの牧志は那覇の中心ではなく、郊外に当たり人口も380人程で小さな村だった。戦後、旧那覇市中心は米軍により立ち入り禁止となり、いち早く帰還が認められたのが壺屋と、この牧志だった。現在の国際通り中心に闇市が発生し、那覇市第一の繁華街に発展していく。1972年の本土復帰時は人口が減り始めたころだがそれでも旧真和志村の中では三番目に人口の多い地区になっている。その後も人口は減り続け、現在では5,500人で旧真和志村で人口は真ん中ぐらいに位置している。
旧牧志集落で、どのような祭祀が行われ、現在ではどのように維持されているのかについての文献は見つからないのでわからないが、牧志では相撲行事が続いている。祭祀的要素も残ってはいるのだが、それ以上に地域住民の娯楽性の高い祭りとして続けられているようだ。
琉球王統時代は西之御嶽が集落の守り神として崇められており、牧志村の祭祀は安里ノロによって執り行われていた。
牧志集落訪問ログ
牧志東之御嶽 (マチシアガリヌウタキ)
竜宮神井 (リュウグウシンガー)
牧志ヌ東ヌ井泉 (マチシヌアガリヌカー)
牧志西之御嶽 (マチシイリヌウタキ)
牧志ヌ西ヌ井泉 (マチシヌイリヌカー)
拝所
牧志ヌ後道ヌ畑ガー(マチシヌクシミチヌハルガー)
玉御嶽
緑ヶ丘公園
渡嘉敷三良の墓
張獻功の墓
天日井 (ティーラガー)
長虹堤
安里橋からは、1451年に、琉球王国によって伊辺嘉麻 (威部竈、イベガマ、那覇市松山付近) まで全長約1キロメートルの堤防と7つの橋からなる道路が建設され長虹堤と呼ばれていた。かつての那覇は浅い入り江とその入口をふさぐように横たわる浮島と呼ばれる島から成っており、中国王朝からの使者はこの浮島 (旧那覇) に上陸し、浅い海を渡って首里へと向かった。この時には琉球王府は使者を迎える際に国中の船を集めて舟橋を設置していた。1450年 (景泰元年) に第一尚氏五代王尚金福 (1398年 - 1453年 在位1450年 - 1453年) が当時の宰相懐機に下命して建設させた。
建設された堤は、当初、浮道と呼ばれていたが、1633年に来琉した冊封使の杜三策に付き従って琉球を訪れた胡靖が「遠望すれば長虹の如し」と述べたことから「長虹堤」と呼ばれるようになった。長虹堤の建設によって浮島と首里とを隔てていた浅い海に土砂の堆積が進み干潟が形成された。この長虹堤により、交通の便が良くなり、那覇への人口集中が進み住宅用地が不足するようになったので、第二尚氏13代尚敬王の時代、1733年頃から干潟を埋め立て住宅用地となった。
1756年に14代尚穆王の即位の儀式の為に冊封使として琉球を訪れた周煌による「琉球国志略」に収められた絵図の中山八景の一つの長虹秋霽に長虹堤の様子 (図左)が描かれ、この絵図を元にした葛飾北斎の筆による浮世絵「琉球八景」(図右) も制作された。
長虹堤が伸びていた地図があるので、そのルートに沿って探索することにした。
宗元寺橋 (安里橋) 跡
1451年の長虹堤築造当時に架けられたらしい。何回か損壊し架け替えられ、石橋から木橋に、そして、約72mの三連アーチの石造橋となる。崇元寺で冊封使が諭祭行う際には、国王がこの橋のたもとで冊封使を迎えた。1945年 (昭和20) の沖縄戦の際、米軍の進攻を遅らせるため日本軍により爆破。戦後、元あった場所より50m程上流に崇元寺橋として架け替えられた。崇元寺橋の欄干は、戦前の安里橋の欄干がモチーフになっている。今は工事中で、橋は見えない。下の写真は3年前に写したもの。
牧志長虹橋
かつての長虹橋の遺構は現存していないのだが、安里橋 (崇元寺橋) の所で安里川からその支流となる久茂地川を渡る橋がある。それが牧志長虹橋 (マシチチョウコウバシ) と呼ばれている。この橋は平成15年3月竣工で、長虹堤の一部でもないのだが、長虹橋の名だけは残っている。元々の安里橋はこの牧志長虹橋を横断する方向に架かっていた。
十貫瀬ヌ前 (ジックヮンジヌメー)
かつての崇元寺橋 (安里橋) から美栄橋の間の通りは、かつての長虹堤跡の通り道で、現在は十貫瀬通りと呼ばれている。十貫瀬通りと呼ばれ、戦後は神里原や桜坂に続いて発展した歓楽街として知られた十貫瀬社交街があり、ラーメン付きで1ドル売春宿が立ち並んでいたそうだ。現在は住宅街となっており、数年前まであった社交街の名残は完全に消滅している。下の写真はまだ社交街の名残があった頃のもの。旅館が多かったが、その旅館が実は売春宿だったそうだ。
この通りに、こんもりとした林がある。この道はかつての長虹堤だったので、浅瀬の海にあった小島か岩礁だったのだろう。この林の中にある岩は十貫瀬の前 (ジックヮンジヌメー) といわれた。これはある人が岩の上に十貫の銭を置き忘れたが、五~六年後、戻ってみると元の通り岩の上に残っていたので、この岩を「十貫瀬」と呼ぶようになったという。岩があるのだが、これが十貫瀬の岩なのかは定かでは無い。強引に林の中に入ると墓があった。
この後訪れる七つ墓のある七星山の岩山の一部が十貫瀬といわれているのだが、ここから七星山までは少し距離がある。そうであれば、岩礁というよりは小島の方がイメージとしては妥当だろう。
七つ墓 (ナナチバーカー)
美栄橋跡
伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) 跡
せっかくなので、牧志ではなく松山地区に入るのだが、長虹堤の端まで行ってみる。長虹堤は美栄橋で現在の久茂地川をわたり、国道58号線を渡った所、松山交差点の手前辺りが長虹堤の那覇側起点になり、ここにはイビガマがあったそうだ。チンマーサー跡ともいわれているので、住民が集う広場があったようだ。現在ではその名残はなく、どこに伊辺嘉麻 (イビガマ) があったのかは不明のままで、資料によって、その場所はまちまちだった。国道58号線から北側に少し入り、今では存在しないのだが、琉球王統時代に美栄橋からの道沿いにあった様だ。
水神ガー
希望ヶ丘公園
陣地壕跡
明天宮
国際通り
水上店舗市場本通り
市場本通り
むつみ橋通り
第一牧志公設市場
仮設牧志公設市場 (第二牧志公設市場跡)
パラソル通り
八軒通り
えびす通り
うりずん通り
市場中央通り
肉市場通り
惣菜通り
かりゆし通り
浮島通り
新天地市場本通り
新天地市場中央通り
サンライズ那覇商店街
太平通り
平和通り
グランドオリオン通り
竜宮社交街
桜坂劇場
今日は、今年一番の暑さだそうだ。熱中症対策で買った帽子をかぶっていたせいか、気分尾悪くならず無事終了。梅雨は来週いっぱいであけるそうだ。再来週からは、暑さと、スコールとの戦いになるのだろう。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
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