Okinawa 沖縄 #2 Day 191 (14/06/22) 旧真和志村 (22) Daido & Mihara Hamlets 大道/三原集落
旧真和志村 大道 (だいどう、ウフドー)、三原 (みはら) 集落
- 軽便鉄道安里駅跡
- 沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校跡
- 拝所
- 旧日本軍大道陸軍墓地跡、陸軍墓地慰霊塔、栄町無縁佛供養塔
- 大道公民館、拝所
- 大道松原 (ウフドーマツバラ)
- 沖縄女子師範学校附属大道小学校、彫刻公園
- 真和志中学校
- 安里村佐久間射的場跡
- 大道練兵橋
- 三原聖ペテロ聖パウロ教会
- 三原公民館
- 三原の井戸の拝所
旧真和志村 大道 (だいどう、ウフドー)、三原 (みはら) 集落
大道は人口が激増して旧真和志村で最も多い地域となり、1949年に三原が大道から分離した。そのときの三原の人口は300世帯だった。戦前の三原には農家が30軒しかなかった。1956年以降、畑だった所も、住宅が次々と建 てられ、上方の繁多川までふくれ上っていった。この地域には戦後国頭村から移って来た人が多く、次に大味村から、旧那覇からの寄留民が多い地域。三原が行政上に独立行政区となったのは1980年 (昭和55年)
明治大正期は、まだ大道には民家はまばらだった。人口統計で大道の人口が判るのは沖縄戦直前で既に700人近くまで増えている。沖縄戦で人口は減るが、その後大道通り沿いに民家が増え、多くの寄留民が転入し、三原地区にも寄留民が増加し、1965年には約2万人まで増加し、旧真和志村では最も人口の多い地域となっている。それは今日訪れる真和志中学校が当時は日本一のマンモス中学校だったことからも分かる。これをピークとして人口は減少が始まり、1980年には大道から三原を分離している。その後も、大道、三原とも人口は減少が続き、現在でも減少傾向となっている。
大道の人口推移を見ると、特殊な地域だったことが判る。戦後の復興期を引っ張ってきた地域で、その役割を終えた後は、三原地域の方が主流となり、大道は人口の少ない地域に戻っている。
三原集落訪問ログ
軽便鉄道安里駅跡
栄町市場に面した330号線にゆいレール安里駅がある。この場所には戦前、軽便鉄道安里駅があった場所。当時の軽便鉄道駅の中で、全路線で那覇駅、与那原駅に次いで、3番目に乗降客が多かった駅。駅前には沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校があり、毎日女学生が通学に利用していた。
沖縄第一高等女学校、沖縄県女子師範学校跡
拝所
旧日本軍大道陸軍墓地跡、陸軍墓地慰霊塔、栄町無縁佛供養塔
大道公民館、拝所
大道松原 (ウフドーマツバラ)
安里駅に戻り、大道、三原への道の栄町通りに出て道を進む。安里駅近くには多くの飲食店が立ち並んでいる。
沖縄女子師範学校附属大道小学校、彫刻公園
真和志中学校
安里村佐久間射的場跡
大道練兵橋
三原聖ペテロ聖パウロ教会
三原公民館
三原の井戸の拝所
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
0コメント