Okinawa 沖縄 #2 Day 191 (14/06/22) 旧真和志村 (21) Asato Hamlet 安里集落

旧真和志村 安里集落 (あさと、アサトゥ)

  • 安里八幡宮
  • 神徳寺
  • はちまんむい (八幡森) 公園
  • ミークガー / 御穀泉 (オコクガー) 
  • 玉城家のアカギ
  • オランダ屋敷跡 (ウランダーヤシキアト)
  • 神良御川 (カンラガー)
  • 浮縄御嶽 (ウキナワーヌタキ)
  • 碁打御嶽
  • 里主所 (サトヌシドコロ) / 地頭代火ヌ神
  • 金満宮 (カニマングウ)
  • 土帝君 (トゥーティークン)、東之殿 (アガリヌトゥン)
  • マーチューウタキ
  • 沖縄電気軌道跡 (宗元寺通り)
  • 安里川親水庭園
  • 栄町市場
  • 栄町社交街

まだまだ梅雨が続き、連日強い雨が降っている。今日は梅雨の切れ目の様で、快晴となった。ただ、不安定な天気だそうで、まだ遠出には躊躇している。近場の旧真和志間切の安里を徒歩にて巡る事にした。先日、伊佐を訪問した際に、軽い熱中症になったので、帽子を購入した。つばの広いアドベンチャーハットを見つけた。メッシュの通気性もあるものにした。



旧真和志村 安里集落 (あさと、アサトゥ)

安里は沖縄に来た時に土肥さん宅に居候していた三原のすぐ近くで、土地勘はあるが、文化財までは見ていなかった。調べると那覇中心部としては比較的多くの文化財が残っている。

安里は泊に隣接し、安里川で牧志村に面し、おもろまちに向う傾斜地にある。「脇泊」とも呼ばれ、泊の崇元寺の脇にある地域だった事からだそうだ。安里の成り立ちは古く、多くの拝所が残っている。今回は、ウチナーヌウガン、神良川、碁打ちの嶽、里主所、安里八幡宮、ミークガー、金満宮、東殿などの昔からの場所を訪れた。安里と泊の境界あたりには崇元寺もある。(字泊の訪問記に記載予定) その他、唐人の陶工が住いにした「唐ていこう」、楚南の地、御吟味の意味で政談を述べ合った所とされるウジミヌ嶽がある様なのだが、この三つについては情報が無く、訪れていない。

県道29号線と国際通りが交わる安里三叉路の付近から、安里川に架かる蔡温橋までは、かつては桑畑が広がっていた。明治時代の地図ではこの辺りは民家がない。この界わいにはひめゆり学徒隊を結成した沖縄県立第一高等女学校、沖縄県女子師範学校 (現在の安里駅付近、この二校は同一敷地にあった) があり、女学生の町でもあった。現在の330号線はひめゆり通り友呼ばれている。

戦後、焼け野原と化した安里は米軍用地となり、その後整地され解放され、安里を一区と二区に分離した。

1948年の地図では現在の栄町市場辺りに民家がちらほら見える。この辺りは栄町市場の始まりの闇市があった場所。戦後はこの辺りから復興が始まったようだ。その後安里三叉路に安里琉映館がいち早く建てられ、安里は民家が密集しはじめ那覇市の中心地のひとつとなった。

琉球王統時代から明治時代には安里は現在よりも広い地域で、現在の大道と三原の一部を含んでいた。大道は1920年 (大正9年)、三原は1980年 (昭和55年) に分離独立している。 

安里の人口は戦後急増し、1960年に13,800人にまで増えピークとなった。その後は減少が続いており、現在もわずかながらも減少傾向で、6,000人とピーク時の半分にまで落ち込んでいる。人口が減少傾向だが、世帯数は増加の一途で、世帯当たり人数は1.7人にまで落ち込んでいる。那覇ビジネス街に近いこともあり、事務所などが多く単身者の割合が高くなっていることが背景にある。
旧真和志村の中で安里は比較的人口の多い地域だったが、沖縄戦後は、多くの人がこの地に帰還したり転入で、人口は2番目に多い。1970年代までは安里を含めこの近くの地域は人口が急増するが、その後は減少に一とをたどっている。現在の安里は人口では旧真和志村の中で、真ん中程に位置している。


安里の拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽浮縄御嶽 (ウキナワーヌタキ、オキナワノ嶽 神名ヨリアゲ森 カネノ御イベ)、金満宮 (金満御嶽、上ヌ御嶽)
  • 殿東之殿
  • その他里主所 (地頭代火ヌ神)、碁打ちの嶽、安里八幡宮、土帝君、ウジミヌ嶽
  • 井戸御穀泉 (オコクガー 三-クガ-)、神良川

安里には首里王府から任命された安里ノロがおり、安里、大道、三原で行われた祭祀を司沿っていた。


安里集落訪問ログ



安里八幡宮

安里の羽佐間原(ウサマバル) には、おもろまちへの斜面に安里八幡宮が建っている。第一尚氏最後の第七代尚徳王により、1466 (明成化2年、文正元年) に真言宗8公寺の一つでいある神徳寺に併置の神社として創建。王府から神職の役俸並びに営繕費が支給する官社の制により琉球八社 (波上宮、沖宮、識名宮、普天満宮、末吉宮、安里八幡宮、天久宮、金武宮) の一つとされた。ここへは神職として祝部、内侍、宮童が置かれた。八社の中では、唯一の八幡宮で応神天皇、神功皇后、玉依姫命を祀る。
安里八幡宮の縁起としては、八幡王子と称した尚徳王が鬼界が島遠征のため、二千余の軍勢を率いて安里を通りかかったとき、鳥が鳴き飛び立つのをみて、弓を取り、「一矢で飛ぶ鳥を射落としたら鬼界が島の平定をかなえさせ給え」と祈願したところ、見事に一矢でこれを射落とした。那覇港を出港した際に、海中の波間に浮き沈みしながら漂い、軍船の側を離れなかった梵鐘を見つけ、尚徳王は八幡大菩薩よりの霊鐘とし、戦勝の証として船に載せ戦いに臨み、鬼界が島を平定し凱旋する。帰国後に矢を立てた地に安里八幡宮を建立し、さらに近くに高明山神徳寺を併設して梵鐘を掛けさせたと伝わっている。明治時代に入り、 琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、無格社となった。沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来なかった。これは沖縄の神社共通の課題で、本土とは異なり氏子が存在せず、経済的に維持することが困難な状況だった。この様な状況で、神社は次第に荒廃していき、戦前には、拝殿は倒壊消滅して礎石が残っているのみだった。沖縄戦ではシュガーローフの戦いの戦場となり、被災全焼。、現在の社殿は戦後に再建されたもの。戦後米軍統治下においては、教会敷地となったが、1963年 (昭和38年) に仮殿が復興され、その後、1972年 (昭和47年) の沖縄施政権返還で敷地を回復、1993年 (平成5年) に八幡宮神殿の復元された。八幡宮例祭として「南風の踊り」が毎年9月9日に催されている。
安里八幡宮の裏には廃墟となった家屋があった。初めは八幡宮の施設の一部かと思っていたが、近所のおばあと話すと、神社が再建される前から人が住んでいたのだが、家の前に突如、神社が再建され、お参りの人も多くなり慌ただしくなったので、貸家となったが、借りた人も、参拝者で落ち着かないので、出ていきそれ以来誰も住んでおらず、そのまま廃墟となったそうだ。

神徳寺

安里八幡宮への参道の途中に神徳寺がある。山号は高明山、本尊は不動明王の東寺真言宗の寺院で、元々は安里八幡宮を管理する別当寺だった。

建立の時期について、定かではないのだが、八幡宮の前に八幡坊主地と呼ばれた御穀田があり、首里王府から寺院に与えられたと考えられている。八幡宮の前には「御穀泉」と名づけられた井戸もある。尚徳王が八幡宮を建立後、祭祀に使用するために造られたとあり、八幡坊主地も尚徳王によって寄進、施入された可能性があり、神徳寺の建立は八幡宮建立の後、尚徳王の時代であったとみられる。第二尚氏時代は首里王府からはあまり大切にされておらず、本尊の置かれない時期もあり、当時は非常に低い評価をされており、18世紀には無住寺となっていた。琉球処分後、1910年 (明治43年) に秩禄処分が行なわれ寺として琉球王府からに俸禄がなくなった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、八幡宮と分離している。


はちまんむい (八幡森) 公園

神徳寺と八幡宮がある丘陵は沖縄戦では米軍からホースシュー (Horse Shoe) と呼ばれて、1945年 (昭和20年) 5月のシュガーローフの戦いにおいて重要な役割を果たした。このホースシューには安里羽佐間原古墓群があり、日本軍は古墓の墓室を壕へ改変し、蜂の巣状の大規模な陣地壕として利用していた。日本軍が立て篭もったシュガーローフは、この地は南下する米軍にとって、南西に那覇、東に首里を望むことができる要衝であり、米軍がここを占領した場合、日本軍第32軍司令部があった首里を側面から攻撃することができた。そのため日本軍の独立第15混成連隊とアメリカ第6海兵師団の間で激戦が繰り広げられた。シュガーローフ自体は小さな丘陵にすぎなかったが、東側のハーフムーン、南側のホースシューと連携して相互防衛を行なう一大防禦陣地を形成していた。

このホースシュー跡は2016年から羽佐間公園の造園工事が行われて、2021年にようやく完成した。この地域は羽佐間原 (ウサマバル) という原名 (ハルナー) なので、当初は羽佐間公園の名称を予定していたが、完成時にはちまんむい公園と名前が変わっている。公園に登ると、シュガーローフ跡に造られた安里貯水池タンクが目の前に現れる。ここから米軍はシュガーローフに立て篭もる日本軍を攻め立てた。


ミークガー / 御穀泉 (オコクガー)

神徳寺の入り口付近に首里王府から賜った伝えられている御穀泉 (オコクガー) がある。この場所には八幡坊主地と呼ばれた御穀田もあったとされ、安里八幡宮の祭祀に使う稲を育てていた。御穀泉 (オコクガー) の水も祭祀に使用されていた。地元ではミークガーと呼ばれている。ミークとは「新しい」の意味なのだが、この名の由来は不明。言い伝えでは決して新しい井戸では無く、琉球王統時代からあった。新しく改修してこの様に呼ばれる様になったのかも知れない。

玉城家のアカギ

八幡宮への道にある玉城家には家宝としているアカギの大木が敷地から道路にを覆う様に生え育っている。那覇景観資源に指定されている。

オランダ屋敷跡 (ウランダーヤシキアト)

丘陵の上部に日本メソジスト教会の外国人宣教師の屋敷があった場所が紹介されている。沖縄では欧米人のことをウランダー (オランダ人) と呼んだことから、オランダ屋敷と呼ばれていた。沖縄におけるメソジスト教会の布教は、1892年 (明治25年)、久米に礼拝堂が開かれたことに始まる。1906年 (明治39年) に、アメリカ人ヘンリー・B・シュワルツ博士一家 (写真右上) が派遣され、布教・伝道を行い、この安里の高台に住んでいた。那覇、首里の教会で布教活動の傍ら、沖縄県立中学校 (後の県立第一中学校、現首里高等学校) で英語を教えていた。
1911年にシュワルツ一の後任でアール・R・ブール宣教師夫妻 (写真下) が着任し、1913年 (大正4年) まで滞在していた。泊外人墓地の修復や、ベッテルハイム研究を行い護国寺にあるベッテルハイム記念碑建立に尽力。伊波普猷ら沖縄の知識人とも交流があった。この期間には伊波普猷はブールに影響を受けキリスト教に熱心だったが、大正後期からは共産主義、唯物史観へと変わっていった。
その後、オランダ屋敷は、メソジスト教会信者の管理に置かれ、後に開南中学校の寄宿舎、農園として使用された。沖縄戦後、一帯は住宅地となった。

神良御川 (カンラガー)

安里集落の北側に、又吉通り (崇元寺通り) から新都心に向けての道路の道沿いにかつての村ガーだった神良御川がある。この井戸の起源は、約400年程前、野国総官が泊から真嘉比道が通って首里へ登る途上で、枯死しそうな芋苗を泉にひたして蘇生させたという事からカンラガーと呼ばれるようになったと伝わっている。かつては、神良ガーの上方、丘陵には一本松があって、泊港に入る船は その目じるしにしていたといわれる。水道が敷設される以前は周辺住民の飲料水や生活用水に使われ、昭和30年代頃まで、正月の若水にも利用していた。


神良御川 (カンラガー) から安里川までの地域が明治時代から戦前までにかけて安里集落があった。次はこの旧安里集落内の文化財を巡る。


浮縄御嶽 (ウキナワーヌタキ)

宗元寺の前を流れる安里川の東南川岸の丘陵地はウチナーヌウガンと呼ばれ、昔は泊バーリーをつないであったという。遺老説伝には、浮縄美御嶽 (ウチナアミウタキ) と記載されている。美御はミユと発声し、敬称を表し、転じてヌ (之) となり、浮縄御嶽 (ウキナワーヌタキ) となった。琉球国由来記ではオキナワノ嶽 (神名ヨリアゲ森、カネノ御イベ) とある。他の書にはオキナワ、ミオガミともみえている。このオガミはオカミと同語で、龍神を意味し、唐、大和への使節の海上安全を祈る拝所だった。ヨリアゲは魚着きの浦、カネは砂原を表している。
伝承では尚円王時代に泊村に住んでいた安里村の地頭職にあった安里大親 (アサトゥウフヤ) が、この水辺で日々魚釣りをし、釣縄を置いたので置縄と呼ばれるようになったという。この安里大親は、もとは大城掟 (うふぐしくうっち) と名乗っていたが、第二尚氏初代王の内間金丸 (後の尚円王) の即位を推挙した人物で、その功により安里村の地頭職に任じられたと云う。王に即位する前の金丸は、御物城御鎖之側 (うむぬぐすくうざしぬすば) の琉球王府の高官として諸外国との外交や貿易品の管理、さらに王府の財政も任されていた。泊港と首里を行き来する際、或る日、釣りをしていた安里大親が、通りかかった馬上の金丸を見て、天下取りの相であることを霊知し、第二尚氏初代・尚円王の誕生を予言したと伝わっている。安里大親の没後、釣りしていた場所に、住民たちが祈願所として浮縄御嶽を築き、安里村の守護神として拝んでいた。現在でも安里大親を始祖とする門中が御願をしている。

碁打御嶽

神良御川 (カンラガー) と浮縄御嶽 (ウキナワーヌタキ) の間の道路脇に碁打御嶽という拝所がある。碁打とあるので、囲碁に関わる伝承がある。先程訪れた浮縄御嶽の伝承で登場した金丸と安里大親にまつわる話が残っている。金丸は御物城御鎖之側として第一尚氏六代尚泰久王に使えていたが、王の死後、即位した若い尚徳王と政治経験の深い金丸は次第に合わなくなり、喜界島遠征に対しての批判が決定的な不和となり、1466年に金丸は内間村に隠居した。この間、安里大親はこの地で金丸を担いだクーデターの計画を練っていたと言われている。このクーデターについては諸説あり、尚徳王の死後、安里大親が尚徳王の嫡男ではなく金丸を次期王にするように群衆を扇動したというのが定説だが、尚徳王が久高島に愛人に会いにいった時に軍事クーデターを起こしたとの説もある。また、これも定かではないのだが、安里大親は尚泰久に滅ぼされた護佐丸の兄で、復讐だったとも言う。クーデターの際には尚徳の家来や妻子は殺されて首里を追われている。クーデター後に隠居していた金丸が尚円王として第二尚氏王統が始まった。話から想像するに、この場所で、金丸の指示にて、安里大親中心にクーデター計画を関係者と相談していたのだろう。そのカモフラージュとして囲碁を楽しんでいたふりをしていたのかも知れない。この拝所には変わった形の石が祀られ、その周りには小石が幾つも埋め込まれている。碁石をイメージしているのか?

里主所 (サトヌシドコロ) / 地頭代火ヌ神

碁打御嶽の近くに里主所と呼ばれる拝所がある。この拝所についての情報は見つから無いのだが、里主所という拝所は各地にある。里主所とは琉球王統時代に上級役人に首里王府から下賜された土地の事で、田畑だったりそこに屋敷を建てていた。多くの里主所の拝所では火ヌ神を祀っている。この場所も安里集落を管理する為首里王府から任命された地頭代 (ジトゥデー) の屋敷にあった火ヌ神が祀られている。


金満宮 (カニマングウ)

里主所 (サトヌシドコロ) の少し東の丘陵斜面に金満宮がある。戦前まではもっと下のほうにあった金満御嶽 (カニマンウタキ、上ヌ御嶽 イーヌウタキ) を道路拡張のため移設し、そのときに、金満宮と名を変え、鳥居や拝殿、祠は赤と白で塗られていて大和風の神社となった。ご神体も丸い神鏡が祀られている。御嶽では威部 (イビ) が御神体なので、これも大和風に変わっている。安里八幡宮も大和風になっていた。戦中であれば、国家神道の政策で大和風への移行は理解できるのだが、戦後に大和風に変わったその理由は何だったのだろうか? 本土復帰を願って大和風にしたと言う人もいるのだが、果たしてそうだろうか? この金満宮では、例年5月27日にアブシバレーが行われ、外観は神社だがやはり沖縄伝統に祭祀が守られている。


土帝君 (トゥーティークン)、東之殿 (アガリヌトゥン)

金満御嶽に登る石段の右脇の小路の突き当たりには別の拝所がある。土帝君 (トゥーティークン) と東之殿 (アガリヌトゥン) が祀られている。祠が二つあるので、それぞれが祀られているのではと思うが、右の祠が東之殿という資料は見当たらず、その奥に東の殿の碑が、置かれている。碑の位置が祠から離れているので、右の祠は別の拝所なのかも知れない。


マーチューウタキ

金満宮から道を降りた路地にマーチューウタキの小さな祠がある。松御嶽と書くにだろうか? この拝所についての情報は見当たらなかった。


これで戦前まであった旧安里集落の文化財を見終わり、次は戦後、集落復興が始まった場所を見ていく。

沖縄電気軌道跡 (宗元寺通り)

1919年 (大正8年) の地図に軌道と書かれた道がある。調べるとこれは当時走っていた路面電車の路線だった。安里川に沿った現在の宗元寺通りを走っていた沖縄電気軌道で大正3年から昭和8年まで、首里から那覇港まで約7kmの区間に20の駅で運行されていた。安里には女学校前駅があった。この駅の付近には、ひめゆり学徒隊の沖縄県立第一高等女学校、沖縄県女子師範学校があり、女学生の町でもあった。

安里川親水庭園

安里川に沿って東に進んだ牧志駅の場所に安里川親水庭園がある。18世紀には、安里川のこの辺りまでは海の入江になっており、川幅も今よりも広く、川底を深く掘り下げ、水上交通に便利なように運河構造になり、かつて壺屋焼の土や薪を載せた伝馬船が行き交っていた。また安里川は外洋の水位と同一になっていて、外洋の船舶も入れるようになっていた。

親水庭園には遊歩道が設けられ、川岸にはシンチキー (船着場) が復元されている。

親水庭園には蔡温スクエアがありそこには、壺屋で焼かれた大 (ウフ) シーサーが置かれている。那覇にはこの大シーサーは二体あり、もう一体は壺屋入り口に置かれている。


栄町市場

安里駅がある330号線の東に栄町市場がある。小さな古い市場で、戦後この辺りには闇市ができ、戦後の復興の始まりとなった場所だ。1955年には商業地造成計画の一環として市場として整備された。今はコロナ禍で以前に様な活気は無くなっているが、もう少し我慢すれば以前の様に、多くの客で賑わうだろう。

栄町社交街

栄町市場を東に出た通りは夜の盛り場の「栄町社交街」が広がっている。沖縄を巡っていると、この社交街と言う看板が時々目にとまる。社交街は本土の歓楽街の事で、バーやスナック、風俗店が集まっている。2年前まではこの近くに住んでいたので、夜などは怪しげな女性が道の脇に立っていた。今はコロナ禍で店を閉めているのが目立っている。


この栄町社交街から東が大道になる。続けて、この大道、さらにその隣町の三原を歩いてみる。レポートは別途。

参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)

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