Okinawa 沖縄 #2 Day 183 (19/05/22) 旧真和志村 (15) Tsuboya Hamlet 壺屋集落

旧真和志村 壺屋集落 (つぼや)

  • 壺屋うふシーサー
  • 壺屋陶芸センター
  • 番所井 (バンジュガー)
  • 壺屋焼物博物館
  • 北ヌ宮 (ニシヌメー)
  • やちむん通り
  • 下ヌ井 (シムヌカー)
  • 南窯 (フェーヌカマ)
  • 壺屋区役所跡
  • 大井 (ウフガー)
  • 新川ヌ井 (ミーガーヌカー)
  • まじる商店横井戸
  • 東ヌ井 (アガリヌカー)
  • 壺屋通り東口
  • ひめゆり通り
  • 旧新垣家住宅、東ヌ窯 (アガリヌカマ)
  • スージー小 (グヮー)
  • 唐屋 (トーヤー)
  • 賓頭盧小 (ビンジュルグヮー)
  • 壺屋町民会館
  • 壺屋前原ヌサーター屋井戸 (ツボヤメーバルヌサーターヤガー)
  • 天ぷら坂
  • 与儀西原ヌ畑井戸 (ヨギニシバルヌハルガー)


沖縄は梅雨の真っ最中で連日雨で、昨日は1週間ぶりの晴れ間が出て、宜野湾真志喜集落を訪れた。今日は、その訪問記の編集を予定していたが、天気予報を見ると明日からまた1週間連続の雨となっていた。今日は夕方までは曇り予報なので、連日になるが集落巡りとした。午前中は沖縄県立図書館で調べ物をして、その後、午後の数時間を集落巡りにあてた。先日、雨の中、訪問した与儀集落が焼き物と関係があり、その陶工たちが形成した壺屋集落と密接なつながりがあるとなっていたので、今日はその壺屋集落を訪れることにした。




旧真和志村 壺屋集落 (つぼや)

沖縄では17世紀から窯を使う本格的な焼物作りが始まる。1682年に当時の尚貞王が本島内のに荒焼が中心の知花 (美里郡)、宝口 (首里)、上焼中心の湧田 (那覇) の三集落を牧志の南に統合した。この統合についての背景は不明だが、首里王府が焼物に関して、従来よりもはるかに強い関心を寄せるようになり、統合によって、その管理指導を強化しようとしたところにあったのではないかと推測されている。当初は湧田方面の住民が通って仕事をしていたが、荒焼の陶土が壺屋周辺から採掘され、次第に仕事場がここに移し、多数の窯を築き、住民が定住し集落が形成された。壺屋が統合の場所に選ばれた理由は、水に恵まれていることと、荒焼に適した土が取れたことが考えられる。これが壺屋であり、壺屋焼の始まりといわれている。壺屋にはナナチネーと呼ばれる7つの同族宗家が存在していた。東 (アガリ)、上ヌ小橋川 (イーヌシチャ),前ヌ内 (メーヌウ チ)、唐大屋 (トーウフヤー)、渡口 (トグ チ)、窯根 (カマニー)、瓦葺き (カーラブチ) の7家が琉球王府より壺屋に屋敷を拝領していた。つまり壺屋には七つの窯が存在していた。現在では南窯と東窯の二つのみが残っている。戦後に壺屋集落周辺部の宅地化が進み、登り窯の煙害が問題になり、窯場ではガス窯を導入し、伝統的なあがり窯は姿を消していった。一部の職人は、新たな窯場を求め読谷村へと移っていった。1918年には18軒の荒焼と11軒の上焼の製造所、合わせて29軒の家が陶器製造に従事していた。現在は壺屋陶器事業協同組合の組合員数は24事業所となっている。

壺屋は戦後、立ち入り禁止となっていた那覇市の中で、いち早く解放された地域で沖縄の復興拠点ともなっていた。1945年11月に陶器などの復興を目的として、初めて陶工136人がこの壺屋に入り、壺屋を拠点に戦後の那覇市のまちづくりが始まった。1946年1月には糸満地区の壺屋区隣、ここに区役所が置かれ、人口も982人に増加していた。しかし、陶工関係以外の移転は米軍からは許可されなかった。1946年後半になり、壺屋町、牧志町周辺への一般の人の帰還が許され、一挙に人口が500人に達している。しかし、その後、他の地域も帰還が許可されたことや、壺屋地域は面積が小さいことから、次第に人口は減少している。人口グラフで1999年に人口が2倍ほどになっているが、これは那覇市本庁管轄地区として壺屋町、字与儀、字樋川の各一部が新たに壺屋2丁目と行政地区変更が行われたことによる。もともとの壺屋地区はその後も人口の減少は継続している。世帯当たりに人数を見ると、2013年に2人を切り、2020年末では1.7人にまで減少している。これは、那覇中心地には徒歩圏内で、独身者、核家族の割合が非常に高いことを表している。

集落内民家の分布を見ると、戦後の1948年には、既に元の集落があった地域が拡大している。1975年を見ると、地域の東半分、現在の壺屋2丁目地域に民家がぎっしりと密集sており、この時点で既に飽和状態になっている。


壺屋集落で御願しているた拝所 (太字は訪問した拝所)
  • 御嶽: 賓頭盧御嶽 (ビンズルウタキ、ビンジュルグワー)
  • 殿、神屋: 唐屋 (トーヤー)、北ヌ宮 (ニシヌメー)
  • 井泉: 東ヌ井 (アガリヌカー)、新川ヌ井 (ミーガーヌカー)、大井 (ウフガー)、下ヌ井 (シチャヌカー)、番所井 (バンジュガー)
この他にびんじる女神の拝所があるそうだが (この拝所については不明) 、これは新しく造ら れたもので集落拝所としての認識はない。
御願は年に7回行われている。旧正月、三月のハマオリ、六月の火マーチの御願 (土帝君を拝む)、八月のクヨウの御願 (土帝君を拝む)、九月のキクザケの御願、11月のトンジー、12月のシリーガフーの御願がある。この壺屋は琉球王統時代は独立した地域ではなく、与儀と牧志にまたがって置かれていた。牧志の祭祀は安里ノロ、与儀の祭祀は楚辺ノロが管轄していたのだが、この壺屋の祭祀がどちらかのノロが執り行っていたのかどうかは書かれていなかった。

壺屋集落訪問ログ



壺屋うふシーサー

壺屋のやちむん通りを目指して、その近くの広場に大きなシーサーが置かれている。これはこれから訪れる壺屋の陶工達により作られ、壺屋町のシンボルとして2013年に設置されたものだそうだ。那覇市にはもう一つうふシーサーがある。牧志駅の前のさいおんスクエアに、これも壺屋の陶工達が5ヶ月をかけて造られたもの。

壺屋陶芸センター

やちむん通りの北側入り口に2009年に開店した壺屋陶芸センターがある。壺屋町民会自治会が経営している。焼物の村だったので、陶器やタイルなどでその雰囲気がでている。ここでは、壺屋に点在する窯元の作品を一堂に集め、展示、販売している。

番所井 (バンジュガー)

壺屋陶芸センターの入り口に荒焼 (あらやち) のシーサーが置かれ、その奥に拝所があった。壺屋の共同井戸である村井 (ムラガー) のひとつで、王府時代、番所は壺屋の陶工を監督する役人の詰所で、そこにあった共同井戸だった。壺屋の窯は王府から与えられたことと、その管理の番所が置かれていたことから、壺屋は官窯としての性格が強かったと推測される。役人達だけでなく、近隣の住民達も飲料用として利用した。水道が通り、井戸は使用されなくなり、現在は井戸は消滅してしまったが、拝所として残っている。祈願成就 の神様として名高く、壺屋だけでなく本島各地から多くの人々が訪れている。荒焼は、かつては瓦原料としても使われていたジャガールと呼ばれる堆積成粘土を使い、釉薬を掛けない焼物で、南蛮焼とも呼ばれている。実用的な泡盛や醤油、穀物の貯蔵用や、水などを溜める大きな甕や壺などに用いられているので飾りなどはほとんどない。近年では、酒器や食器などの小物類も焼かれるようになっている。現在は、材料のジャガール土の採掘場がなく、確保していたものに頼らざるをえない状態。

壺屋焼物博物館

壺屋陶芸センターの隣には県内唯一の焼物の博物館がある。焼物の基礎知識や沖縄の焼物の歴史、壺屋焼の製法や技法などがわかりやすく説明され、土器の時代から現代の壺屋の陶工達の作品まで展示されている。博物館裏手の北ヌ宮 (ニシヌメー) 広場には県庁建設時に発掘された湧田の平窯が展示されている。(写真右下)

北ヌ宮 (ニシヌメー)

壺屋博物館の横の階段を上がっていくと、広場があり、その奥に祠が置かれている。大正7年にこの地にあった北 (ニシ) ヌ窯と呼ばれる登り窯を崩して作った拝所だそうだ。 土地の神様である土帝君 (トゥーティークン) を祀っているのだが、現在では焼物の神、壺屋の守り神としてあがめられている。祠の前には狛犬ならぬ、狛獅子 (シーサー) が守っている。祠の前は荒焼の狛獅子 (シーサー) 、階段下には上焼 (ジョーヤチ) の狛獅子 (シーサー) になっている。

先程は荒焼については書いたので、次は上焼 (じょうやち) について。釉薬をかけた装飾的な焼物のことで、赤土の上に白土で装飾するのが特徴で、上焼の窯では、主として日常雑器としての主に食器や花瓶などの小物類を焼き、荒焼窯では水ガメや、食糧貯蔵用のカメ類などの大物を焼いていた。この上焼が沖縄役物の代表の一つの壺屋焼となる。明治以降になると、日露戦争の頃は荒焼の酒甕の需要が急に増え、その最盛期には、その窯数実に40ヶ所に及ぶ勢いだった。その後、いったん壺屋焼は安価な焼物の大量生産に押されて生産が下火となったが、大正時代に入ると民芸運動の高まりとともに注目されるようになった。


やちむん通り

壺屋陶芸センター前から、やちむん通りが始まる。やちむんは焼物の沖縄方言。沖縄方言では、やき→ヤチ、もの→ムンと発音が変わる。新しく石畳道が整備されて、道の両脇に窯元の販売店や新しい焼物を売っている店がいくつもある。まずは、やちむん通り沿いの文化財から見ていく。
至る所に、ユニークなシーサーが置かれている。

下ヌ井 (シムヌカー)

やちむん通りを少し進むと、通り沿いに、村井 (ムラガー、共同井戸) のひとつの下ヌ井 (シムカー) がある。道の下の方にあったのでこう呼ばれていた。飲料用としては使われていなかったが、 陶工たちが仕事が終わって手足の汚れを落とすために使っていたそうだ。昔は井戸の側に池があり、地下で通じていたので、そこで水浴びもしていたという。

南窯 (フェーヌカマ)

下ヌ井 (シムヌカー)  の通りの反対側に、昔から続いている窯元が店を出している。島袋常雄窯という店での歴史は古く、尚貞王の時代の1682年に琉球王府が沖縄各地の焼き窯をこの付近に集め統合した際に、琉球王府が作り与えたものと言われている。島袋家は屋号 唐大屋 (トーウフヤー) で、焼物の先祖 (集落における陶工の先祖) で根本 (集落創生の基)と伝わっている。店の前には荒焼のシーサーが置かれている。
戦後の写真が残っている。
琉球王府から贈られた窯は南窯 (フェーヌカマ) と呼ばれ、壺屋にただひとつ残った荒焼の登り窯。隣には北窯 (ニシヌカマ) があったが、それは残っていない。南窯では比較的低温で焼く、荒焼を専門に焼いていたという。

壺屋区役所跡

やちむん通りの真ん中付近には、沖縄戦後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡がある。戦前は、那覇市役所は東町にあったが、1944年 (昭和19年) の10・10空襲によって焼失。戦争が終わり、米軍の占領により那覇市の殆どの地域は住民の立ち入り禁止となっていたが、1945年 (昭和20年) 11月10日、この壺屋に、陶器、瓦製造のため、陶工を中心とした復興先遣隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった。翌1946年 (昭和21年) 1月3日に、人口増加にともなって糸満管内壺屋区として区役所が設置され、焼け残った民家を庁舎として行政事務を開始した。同年4月4日に壺屋区は糸満管内から分離して那覇市となった。那覇市役所庁舎は、その後、牧志、開南、天妃へと移り、1965年 (昭和40年) 9月には現在地の泉崎へ移転した。この間、1950年(昭和25年) 特別行政区みなと村、1953年 (昭和28年) 首里市、小禄村、1957年 (昭和32年) に真和志市と合併し、また埋立も行い、那覇市は現在の市域となっている。この場所で道が二股になっているが、昔のやちむん通りはここから左側の道で、現在の右側の道は存在していなかった。

大井 (ウフガー)

壺屋区役所跡の側にも、村井 (ムラガー、共同井戸) のひとつの大井 (ウフガー) がある。飲料用、洗濯用として使われていたが、井戸は消滅し、その場所は道路になっており、その近くに祠が建てられている。

新川ヌ井 (ミーガーヌカー)

更に、やちむん通りを進むと、別の井戸がある。新川ヌ井 (ミーガーヌカー) と呼ばれていた。新川 (ミーガー) と呼ばれる家の人が掘った井戸。この井戸の水は、飲料水としては適しておらず、農具、食器などの道具洗い、陶土のろ過、洗濯などに使われていた。

まじる商店横井戸

やちむん通りにあるまじる商店の側にも井戸がある。地元の人が経営している雑貨店。井戸はタイルで装飾されて、焼物の街の壺屋らしさが表れている。

東ヌ井 (アガリヌカー)

やちむん通りの東端にも、村井 (ムラガー、共同井戸) がある。壺屋にある村井のなかで最も古い井戸で、300年程前、村ができて最初に掘られた井戸だといわれている。 この井戸水は、飲料水として使われていた。戦後、水道が普及して、井戸は使われなくなったが、壺屋住民の生活を守ってきた井戸として、壺屋の拝所として拝まれている。 井戸の前には上焼の龍が、井戸を囲む塀にはシーサーや陶器パネルで装飾され、壺屋ならではのの拝所として保存されている。

壺屋通り東口

やちむん通りの東口には案内板とシーサーが置かれている。側には壺屋の窯元の作品が描かれた自販機があった。

ひめゆり通り

この壺屋通り東口はひめゆり通りに面している。沖縄戦でひめゆり部隊と呼ばれた女学生が通っていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校がこの通りの安里十字路辺りにあった事から、この通りをひめゆり通りと呼ばれるようになった。


次は壺屋のやちむん通りの東側、集落内を見ていく。壺屋は那覇の中でも戦争の被害が比較的少なく、昔からの街並みが残っている。民家が集まる集落内はスージーという細い道が何本も走っている。このスージーが昔は集落の中心を走る中道 (ナカミチ) だった。このスージー沿いにも何軒も焼物の店がある。

旧新垣家住宅、東ヌ窯 (アガリヌカマ)

集落の中に窯元の新垣家住宅が保存されている。敷地内には上焼の登り窯の東ヌ窯 (アガリヌカマ) が残っていた。

スージー小 (グヮー)

路地を進むと、昔から残っているスージー小 (グヮー) がある。かなり狭い路地。スージーは沖縄方言で路地の事。(筋と書くのだろうか?)

唐屋 (トーヤー)

集落内に拝所がある。唐屋 (トーヤー) と呼ばれ、屋号 唐大屋 (トーウフヤー) の島袋家の屋敷跡だ。唐大屋は焼物の先祖 (集落における陶工の先祖) で根本 (集落創生の基)で、ここには火の神が祀られ、壺屋集落では、重要な拝所となっている。

賓頭盧小 (ビンジュルグヮー)

集落内のスージーを登ると、高台に着く。ビンジュルグヮー (賓頭盧小) と呼ばれている広場だ。ビジュル (霊石) とも呼ばれ、壺屋の土地や集落を守るタチクチ (村建て) の神様を祀っている。壺屋集落の御嶽にあたり、ビンズル御嶽ともいう。壺屋のビジュルはイナグシン (女神) で、近隣の城岳にある男神のビジュルとクサイ (対) の関係となっているそうだ。三つの地域から七つの家が移住して造られた合併集落だが、この御嶽を置く事で、出自が異なる住民の集落融和統一を図っていたと考えられる。この点では、他の血縁集団が形成した集落やさまざまな地域から移住してできた屋取集落と異なり、特異な集落形成の形となっている。旧暦3月5日をはじめ年6回ほど恒例の村拝みの全ての行事はここから始まり、各所を拝した後、ここで終わる場所で、壺屋の人々にとって大切な御願所になっている。
ビンジュルグヮーの前の広場の隅に井戸が残っている。

壺屋町民会館

ビンジュルグヮーの裏側が壺屋の自治会館になっている。今日は門に鍵がかかり閉まっていた。

壺屋前原ヌサーター屋井戸 (ツボヤメーバルヌサーターヤガー)

ビンジュルグヮーの近くのアパートの駐車場内に井戸跡がある。ここには戦前は壺屋集落唯一の製糖小屋があったので製糖小屋が使っていたと思われる。

天ぷら坂

壺屋の北側入り口から牧志に至る坂は天ぷら坂と呼ばれている。この一帯は、一松尾 (ティーツチマーチュー)、二松尾(ターツチマーチュー) と呼ばれる丘陵で、丘には墓が点在し、前の坂道はガマヌ下 (シチャ)と呼ばれた。沖縄戦では1944年 (昭和19年)、この丘に防空壕を掘り、10月9日に完成し、翌日に米軍の空襲 (10・10空襲) があり、ここに1,000人余が避難し助かったという。1945年 (昭和20) 11月に、壺屋、牧志一帯が開放されて以降、那覇の人口が増加するとともに、坂に沿って、壕を利用した天ぷら屋が建ち並んでいたので、こう呼ばれている。天ぷら油は米軍からの盗んだ戦果と呼んだモービル油 (機械用潤滑油) が使われていた。黒煙が立ち上り、独特な嗅いで、お腹を下す人もいたというが、食糧不足の時代、天ぷらはご馳走として喜ばれたという。1994年 (平成6年) に牧志・壺屋西線の道路工事に伴い、丘も坂も多くが削られた。

与儀西原ヌ畑井戸 (ヨギニシバルヌハルガー)

やちむん通りから南に外れた壺屋一丁目にも井戸がある。ここは旧与儀村字西原 (ニシバル) だった。壺屋集落は半農半陶の村で、集落を囲うようにキビ畑があったという。この井戸はかつては畑だった場所の中にあり、農業用水と使われていたと思われる。琉球王統時代は壺屋は独立した行政区では無かったようで、資料によって、牧志村に属していたというものや、与儀村に属していたというものがある。多分、この二つの村にまたがっていたのではと思う。現在の与儀と壺屋の間には、樋川と寄宮があるが、この二つの地区も元々は与儀村に属していた。

壺屋は比較的小さな地域で数時間の訪問で終了。やちむん通りの一画に休憩場があり、そこで休んで家に帰る。

行き帰りには、昔聞いていた1970年代のJethro Tull の "The Zealot Gene" とJoe Satriani の "The Elephants of Mars" が今年新しいアルバムをリリースしたので、久しぶりに聞いてみた。2つともそれぞれの個性を維持している。マンネリ化かもしれないが、往年の雰囲気が出ているのは、うれしいところだ。


参考資料

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 那覇市壺屋集落における空間構造の特性 (2010 松井幸一)


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