Okinawa 沖縄 #2 Day 170 (04/03/22) 旧浦添間切 (6) Nakama Hamlet 仲間集落 (2) 浦添グスク
旧浦添間切 浦添グスク
- 浦添ようどれ館、仲間後原遺跡
- 浦添ようどれ
- 御墓番屋敷跡、極楽寺跡
- 前庭 (メーナー)
- 暗しん御門 (クラシンウジョー)
- 二番庭 (ナー)
- 西墓 (英祖王陵)、東墓 (尚寧王陵)
- 伊波普猷墓
- シーマヌ御嶽
- 世持井 (ユムチガー) [未訪問]
- クチグヮーガマ (6班の壕)
- 浦添グスク
- 西の城門
- 前田高地壕群 (北側)
- 城壁
- 浦添グスクの前の碑、石畳道
- カラウカー
- 鏡川 (カガンウカー)
- 愛國知祖之塔跡
- 浦添家の屋敷跡
- ディーグガマ (渡嘉敷御嶽)
- 浦和之塔
- 和光地蔵尊、私設慰霊碑
- ハクソーリッジ (Hacksaw Ridge、前田高地)
- 殿 (トゥン)
- 正殿跡
- 大城嶽 (ナンジャムイ・クガニムイ、消滅)
- 前田高地平和之碑
- 為朝岩 (ワカリジー、ニードルロック)
- 小城嶽
浦添ようどれ館、仲間後原遺跡
浦添ようどれ
御墓番屋敷跡、極楽寺跡
前庭 (メーナー)
階段下から参道を進むと前庭 (メーナー) に入る。
暗しん御門 (クラシンウジョー)
前庭を抜けると暗しん御門 (クラシンウジョー) となる。ここは自然岩を加工したトンネル状になっていたが、沖縄戦で破壊されてしまった。
二番庭 (ナー)
暗しん御門 (クラシンウジョー) を抜けると二番庭 (ナー) となり、ここから中御門 (ナカウジョー) をくぐり、ようどれに入る。
西墓 (英祖王陵)、東墓 (尚寧王陵)
浦添ようどれは二つの墓がある。英祖王統初代王の英祖が葬られていると言われる西墓と第二尚氏七代の尚寧王を葬られている東墓がある。
伊波普猷墓
シーマヌ御嶽
世持井 (ユムチガー) [未訪問]
シーマヌウタキの南西の浦添市立浦添小学校の体育館東側の森にユムチガーがある。小学校の敷地内なので、見学は遠慮したが、インターネットでその写真が出ていた。この井泉は世持御井 (ユムチウカー) 、東井 (アガリガー) 、前田集落では布さらし御井 (ヌヌサラシウカー) とも呼ばれており、仲間集落ではウマチーの際に浦添ノロをはじめとする神女たちが拝でいた。
クチグヮーガマ (6班の壕)
浦添グスク
尚巴志以降、王都が首里に移され、それまでの浦添城の役割は首里城に移されたことで、浦添グスクは使われておらず荒廃したと思われる。尚巴志一族の系譜でも浦添按司は見られず、尚巴志が武寧王を討った後、ここには按司は置かなかったのだろう。しばらくは北山への軍事拠点として使われたかもしれないが、その後は浦添城の政治的役割だけでなく軍事的役割もなくなったのかもしれない。
第二尚氏時代、1524年頃から、廃嫡された尚維衡がここに屋敷を建てて居を移し、1609年の薩摩藩の侵攻で焼失するまでは、尚維衡を祖とする小禄御殿 (ウルクウドゥン) 浦添家の屋敷として使われていた。
城跡を訪れると、いつも、その城がどのような縄張りでどのような建築物があったのかに興味が沸く。この浦添城の情報を探していると、幾つか城の想像復元図が見つかった。舜天王統時代からあったとすると、舜天王統、英祖王統、察度王統のそれぞれの時代で浦添城の役割は異なってたと思われ、それに沿って、縄張りも変遷しているだろう。
浦添城石畳の道沿いにある浦添大公園南エントランス管理事務所の展示ルームには浦添城復元モデルが置かれていた。石垣だけの復元で、建物までは復元されてはいないが、浦添城の規模についてはよくわかる。
歴史群像 144 8月号にも復元図がある。ここには建物までも想像復元されている。
浦添市教育委員会発行の史跡浦添グスク跡整備基本計画にある浦添城復元図はいくつもの郭があったと推測され作成されている様だ。どちらかというと城塞としてのグスクの時代の縄張りはこのようなものだったのかもしれない。
西の城門
前田高地壕群 (北側)
城壁
浦添グスクの前の碑、石畳道
カラウカー
鏡川 (カガンウカー)
愛國知祖之塔跡
浦添家の屋敷跡
尚寧王には実子がおらず、一説では尚寧王の摂政だった尚豊 (後に八代王) の長男であった尚恭を養子として、成人した際に尚寧の後継ぎとして尚豊王から譲位する約束があったとされるが、尚恭は20才で逝去してしまい、それ以降、尚氏嫡流が王位に復帰することはなかった。 尚維衡に始まった浦添家小禄御殿では尚寧が四代であったが王位に就いたことで弟の尚宏が家を継いだ。しかし、薩摩侵攻で尚寧と共に江戸送りになり、江戸城に向かう途中、駿府で徳川家康に謁したのち、二週間ほどで病をえて同地で亡くなっている。尚宏の長男 尚林が浦添家小禄御殿を継ぐが、浦添城を居城とはせず、その後、浦添城が使われていたかどうかは不明。
ディーグガマ (渡嘉敷御嶽)
浦和之塔
この地は沖縄戦では激戦地だったことから、仲間集落では全住民の55%もの戦死者が出ている。その周りの安波茶、前田、経塚の各集落でも多くの戦死者を出している。一家全滅世帯は全世帯の三分の一にも及んでいる。
和光地蔵尊、私設慰霊碑
ディークガマの東側は広い広場になっている。この場所には何があったのかは発掘調査でも明らかになっていないが、この奥には正殿跡と思われる遺構が見つかっている事や、首里城はこの浦添城をモデルとしていたといわれていることから、個人的には御庭 (ウナー) だったかも知れないと思う。
ハクソーリッジ (Hacksaw Ridge、前田高地)
広場の東屋の側に案内板が置かれ、そこにはハクソーリッジの戦いの説明があった。この場所の崖の下に米軍が迫り、崖上の日本軍との間で激戦があった。案内板を見ていると、その横にイソヒヨドリがとまっていた。沖縄では良く見かける鳥で、ちょっと変わっている。あまり人を恐れない。近づくと、一定の距離を保って移動するが、逃げない。いつもそうだ。本土でも最近は見かけるそうだが、まだまだ珍しい鳥だろう。
米国陸軍省が編纂したハクソー・リッジでの戦いの様子が「沖縄 日米最後の戦闘」にでていた。両軍にとって、辛い戦いであったことが読み取れる。
- 4月26日、前田高地攻撃が開始された。米軍は、進撃にあたってはさして困難な目にもあわなかったが、第381連隊のG中隊が、やっと丘の頂上にたどりついたとたん日本軍の攻撃をうけ、ものの二、三分とたたぬあいだに、18名の犠牲者をだしてしまった。前田高地での日本軍の防御戦術は、完璧そのものだった。丘の前面はまもらず、相手を容易に登らせ、頂上までのぼりつめたところで猛烈な攻撃をあびせる。米軍にとって、峰の上と反対側の丘腹は〝禁じられた地域〟になってしまったのである。ここでは、もし進もうとするなら、戦いぬく以外にはなかった。ニードル・ロックのF中隊は、人間はしごをつくって丘陵のいただきに登ろうとしたが、最初の三名が頂上に達するやいなや、一回で機関銃弾にあたって戦死した。陽が落ちてまもなく、まだあたりも暗くならないころ、E中隊は、150高地の南にある前田の小高い丘をとろうとした。だが兵が丘の上に立つと同時に、丘の上は10丁あまりの日本軍機関銃掃射をうけ、たちまちにして2名が戦死、六名が負傷するという事態が発生し、米軍はがむしゃらに81ミリにミリ砲を400発も撃ちこみ、煙幕弾を撃ちこんで、どうにか中隊を退却させることができた。
- 東のほうでは、しばらくはかなり成功しそうなけはいがあった。第383連隊の一部は、150高地と152高地の頂に到達したが、そこからは、下方に日本軍がうようよしているのが丸見えだった。おそらく600を数えたろうか。日本兵が群がっているのが、手にとるようにみえた。機関銃手、自動小銃手、それに各歩兵にとって、これは願ってもない絶好の機会だった。その日、米軍は思う存分うちまくり、思う存分戦いまくった。結果は米軍に利ありで、一自動小銃手は日本兵30名を射殺しさえした。戦車隊や火炎砲装甲車隊は、いまや前田高地の端に進出してきた。洞窟にかくれていた日本兵は、火炎放射器で穴から追いだされ、逃げるところを撃たれた。
このハクソーリッジでの戦いを舞台としてメル・ギブソン監督が「Hacksaw Ridge」の映画を発表している。衛生兵としてここで戦ったデズモンド・ドス(写真 崖の上に立っている)の実話を映画化したもの。この映画については賛否両論あるが、個人的には良い映画と思える。戦闘シーンがあまりにも過激で、メル・ギブソン主演のマッドマックスをより過激にした単なる戦争映画とする悪評もあるが、実際の戦闘はもっとひどい地獄だったと地元の人達は言っている。その地獄の中で、敬虔なSeventh Day Adventist 信者のデズモンド・ドスが、その信仰から武器を持つことを拒否して衛生兵として、このハクソーリッジの戦いで自身も負傷しながらもただ一人で75人もの命を救った。地獄の中で、この様な人が存在していた事がテーマで沖縄戦の悲惨さを知っている人には感動的な映画と思う。話した地元の人によると、当時多くの犠牲者を出したにもかかわらず、この映画を好意的に受け取っている人は多いという。(日本軍に対しては批判的な意見だった。訪問した多くの集落で聞くのは、アメリカ兵よりも日本兵の方が怖かったいう) 戦後、デズモンド・ドスはアメリカ議会の国民栄誉賞を授与されたが、受け取らないことを表明したはじめての人だった。
殿 (トゥン)
正殿跡
大城嶽 (ナンジャムイ・クガニムイ、消滅)
正殿跡のさらに奥はコ―グスク (古城) と呼ばれている地域になる。今まで見てきた浦添城内はミーグスク (新城) と呼ばれ、通説では浦添城は最初は古城が築かれ、後に新城が築かれたとされていた。しかし、発掘調査で見つかった遺構の年代を調べると、この通説とは逆で、まずは新城と呼ばれているところにグスクが築かれ、古城と呼ばれている東側に拡張していったと考えられている。その古城と呼ばれる場所にも御嶽が存在していた。 琉球国由来記には大城嶽 (ウフグスクタキ) とあり、大城ソデギ ヨラノ御イベの二神を祀っていた。御嶽には、かっては並立した低い二つの岩があり、その二つの岩をそれぞれナンジャムイ、クガニムイと呼んでいた。 両岩の狭くなった下に香炉が置かれ、 その香炉を前にして東に向かって拝んでいた。現在、 この二つの岩も香炉も採石作業によって消失している。この大城嶽があった地域は立ち入り禁止になっていた。東の端にある為朝岩に通じているのだが、ここから下に降る道があったのでそちらから為朝岩にいけるかもしれない。
大城嶽 (ナンジャムイ・クガニムイ) の写真が資料にあった。これが二つの岩が残っていた時のものなのか、消滅後なのかは写真ではよくわからない。(かすかに岩のようなものが見えるのだが…)
前田高地平和之碑
下への道を降りると前田高地平和之碑が置かれていた。前田地区は圧倒的な火力を持ったアメリカ軍が空からの爆撃、海からの艦砲射撃、地上からの攻撃が行われ「ありったけの地獄を一つにまとめたような」 状況だったと伝えられている。 その前田を死守しようと北海道、山形県、沖縄県出身者で構成された山3475部隊第2大隊 (志村大隊) は、1945年 (昭和20年) 4月27日に連隊本部からの命令で、ここに陣を置いた。第2大隊はワカリジー (為朝岩) 方面で戦闘を繰り広げるも、夜間攻撃の為に派遣した中隊が全滅した。ここで玉砕した戦没者900柱の慰霊と恒久平和の願いを込めて、生き残った山3475部隊第2大隊戦友会が平和之塔を建立している。
慰霊碑の近くには日本軍が使用していた壕があった。沖縄戦では米軍の攻撃により壕の入口は破壊され、大隊は内部に閉じ込めらたという。
為朝岩 (ワカリジー、ニードルロック)
周囲は岩で囲われており、洞窟も見受けられた。浦添城への道はやはり閉鎖されていた。先程見た閉鎖されていた場所への道だ。
小城嶽
ワカリジーは琉球国由来記にある小城嶽 (神名: トモヨセ大神ソデギョラノ御イベ) と考えられ、英祖王と女神官のウシキンベーとの間に生まれたのイソノシー (伊祖之子) を祀っている。大岩の下に拝所が置かれている。灯籠が二つに割れてしまっていた。
これで3月4日と8日の二日間にわたって仲間集落見学を終え、8日は天気も良く、仲間にある浦添大公園をのんびりと散策し、その後、前田集落も見学をした。4日は例のごとく行き帰りには音楽を聴きながらの走行。この日は今年リリースされた Steve Vai の Inviolate と昨年リリースの Yngwie Malmsteen の Parabellum を聴いてみた。両者とも Alcatrazz のギタリストで ヘヴィメタル、ハードロック、ネオ・クラシカル・メタルに分類されており、従来通りのスタイルだった。Yngwie Malmsteen はクラシックをベースにギターの速弾きで少々騒々しく、走りながら聞くには鬱陶しい。個人的には Steve Vai の方がしっくりくる。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- 字誌なかま (1991 浦添市字仲間自治会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 歴史群像 第26巻 第4号 (通巻144号 2017 学研プラス)
- 浦添市文化財調査研究報告書 浦添ようどれ 1 石積遺構編 (2001 浦添市教育委員会)
- 浦添市文化財調査研究報告書 浦添ようどれ 2 瓦溜り遺構編 (2005 浦添市教育委員会)
- 浦添市文化財調査研究報告書 浦添ようどれ 3 金属工房跡編 (2007 浦添市教育委員会)
- 小説 尚巴志伝 (酔雲)
- 琉球王国の真実 (2013 伊敷賢)
- 新 琉球王統史 01 舜天 英祖 (2005 与並岳生)
- 新 琉球王統史 02 察度王 南山と北山 (2005 与並岳生)
- 新 琉球王統史 03 思紹王 尚巴志 尚泰久 (2005 与並岳生)
- 新 琉球王統史 07 尚寧王 (2006 与並岳生 )
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