Okinawa 沖縄 #2 Day 170 (04/03/22) 旧浦添間切 (5) Nakama Hamlet 仲間集落 (1)

旧浦添間切 仲間集落 (なかま)

  • 浦添小学校
  • 獅子田、仲間御穂田 (ミフーダ)、御殿川 (ウドゥンガー)
  • 龍福寺跡
  • 浦添間切番所跡
  • 番所池 (グムイ) 跡
  • 世持川 (ユムチガー) [未訪問]
  • 仲間の神田
  • 茶園之御殿 (茶山之御殿)
  • 茶山自治会
  • 御殿山 (ウドゥンヤマ)
  • 地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)
  • 仲間ノロ殿内 (ドゥンチ)
  • 与那嶺 (ヨナンミ)、根屋
  • 村屋 (仲間公民館)
  • 仲間ンティラ (長堂之嶽)
  • 仲間樋川 (ナカマヒージャー)
  • 根殿内 (ニードゥンチ)
  • 御待毛 (ウマチモー)
  • クバサーヌ御嶽
  • カマ根屋跡 (後小湾門中神屋)
  • サーターヤー跡
  • 安波茶之殿 (中間村後上之殿)
  • ノロ地
  • ノロ川 (ガー)
  • 川小 (カーグヮー) [未訪問]
  • 後川 (アトゥガー)
  • 樋口川 (ヒーグチガー)
  • 浦添大公園
  • おもろの碑
  • あさと原印部土手石 (シルベドテイシ)


今日訪れる仲間集落の一部は先日 (2月28日) に安波茶集落を訪れた後に巡った。今日は集落内の残りの文化財と浦添グスクや浦添ようどれがある浦添大公園を巡る予定で出発。集落内にある文化財巡りの後、浦添大公園内にある浦添ようどれ館を訪れた際に、訪問者はほかにはおらず、調査員さんと話が弾み、その後予定していたスポットを巡る時間が足りなくなってしまった。もう一日必要なようで、次回も仲間に戻ってくることになる。今日のレポートは仲間集落内にある文化財に絞って、ようどれと浦添グスクは次回の訪問記に含めることとする。



旧浦添間切 仲間集落 (なかま)

仲間は昔は浦添 (ウラシイ) と呼ばれ浦添間切の中心地だった。浦添城がある標高100m ~ 130mの丘陵地の南側のなだらかな斜面に集落が広がっている。三山時代は中山国の国王の居城の浦添城があり、国の中心地で城下町として栄えた。
仲間の人口は明治時代末期は1,000人を超えていた。沖縄戦後は、多大な戦災もあり、500人迄に減少したが、それ以降はコンスタンtに増加する。1970年代に茶山住宅が建設されて1980年代半ばまで人口は急増した。その後は微増が続き、2000年を過ぎてからは小康状態となっている。

琉球王統時代から明治時代大正時代までは浦添の役所もあり中心地で、人口も二番目に多い地域だったが、それ以降は他の字に比べ人口はあまり増えず、現在では下から四番目と人口は少ない字となっている。

下図右のグラフでもわかるように、仲間は人口増加率が最も低くなっている。

民家の分布地図では現在民家がない地域は字の面積の半分を占める浦添大公園となっており、これ以上住宅地が大きく増える余地はない。人口は少なくなっているが、生活環境は最も恵まれている地域のように思える。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 長堂之嶽 (神名: 長堂之御イベ 、仲間ンティラ)コバシタ嶽 (神名クワウジノ御イベ、クバサーヌ御嶽)、大城嶽 (両御前、神名: 大城ソデギョラノ御イベ、ナンジャムイ・クガニムイ 消滅)、シマノ御嶽 (神名: シマノ御イベ、シーマノ御嶽)小城嶽 (神名: トモヨセ大神ソデギョラノ御イベ、ワカレ瀬)渡嘉敷嶽 (神名: 渡嘉敷オヒヤ御イベ、ディーグガマ)
  • 殿: 城内之殿

集落で行われていた祭祀は以下の通りだが、このうち今でも拝まれている行事がどれかについてに記載は見当たらなかった。


仲間集落訪問ログ



浦添小学校

浦添小学校は1882年 (明治15年) に生徒約30人、教師1人で、上原 (ウィーバル) にある浦添間切番所内に浦添で最初に開校した小学校。当時は茅葺小屋が校舎 (写真左上) だった。8年後の1890年 (明治23年) には初めて女子も入学している。当時は子どもを学校に通わせる親が少なく、役人は困っていたそうだ。明治20年に浦添尋常小学校、明治35年 に浦添尋常高等小学校に改称し、1935年 (昭和10年) には鉄筋コンクリート校舎が完成した。昭和16年に浦添国民学校と改称。昭和20年の沖縄戦で一帯が激戦地となり校舎や教具が消失した (写真右上)。昭和21年、終戦後の開校、仲西初等学校分離設立となる。昭和27年に浦添小学校と改称され (写真下) 、その後、浦城小学校、牧港小学校、当山小学校、沢岻小学校、前田小学校が分離開校している。平成27年に新校舎が完成し現在に至る。戦後、沖縄各地に収容されていた住民の帰還許可がおり、仲間集落住民がまずはこの小学校に設けられた仲間収容所に一時集められ、ここから村の復興を進めていった。
校門は龍を模ったデザインの塀になっている。沖縄らしさが出ている。

獅子田、仲間御穂田 (ミフーダ)、御殿川 (ウドゥンガー)

浦添小学校の前は浦添警察署仲間交番裏緑地になっている。昔はここには獅子田と御穂田 (ミフーダ) があった場所。龍福寺に天殊菩薩の顔をした獅子の木像があった。逸話では田の稲が食い荒らされ、足跡が残っていた。木像の足が泥でよごれ、 あたかも生きている様だった。そこで獅子の為に六七畝の田を納めたところ、その後は田も荒される事が無くなったという。その後、田は寺領になり、獅子田とよばれるようになったとも伝えられている。 獅子田の傍には仲間の御穂田 (ミーフダー) があり、神へ備える稲を栽培していた場所とか、各農家で田植えを始める前にここで儀式を行った場所にあたる。またここには御殿川 (ウドゥンガー) と呼ばれる井戸があったが、埋められて消滅している。
緑地は綺麗に整備されて、様々な花が咲いている。
緑地内には古代琉球で神に捧げた歌と言われる「おもろの碑」が置かれ、浦添を詠ったおもろが紹介されている。「浦添は、黄金が寄り集まり、永久に黄金が積もるほど繁栄がつづいている、これほどの土地は浦添にしかみられない」という内容のおもろ。浦添は「とかしき」と表現されている。浦添の古い地名だ。浦添が国の中心地になってからは浦々を治めるという意味の「うらおそい」(浦=村襲い) に変わり、その後「浦添」に変化してきたと考えられている。

龍福寺跡

浦添小学校の隣は浦添中学校になっており、かつて臨済宗の龍福寺があった。中学校のグラウンドの西の端あたりがその場所だ。龍福寺は、その前身の極楽寺として、英祖王の時代 (1260年~1299年) に、禅鑑を開山として、浦添城の北側、浦添ようどれの崖下に建立された。その後、往来に不便で、年月を経て荒廃したため、前の谷上に藪があったので、そこに移されたと琉球国由来記 (1713年) にあるが、前の谷がどこにあったのかは不明だが、一説では現在の仲間公民館が置かれている場所ともいわれる。その後、火災に遭い、龍福寺に改名され、琉球王朝第一尚氏、巴志王(在位1422年~39年)の時代に現在の浦添中学校グランドの西側に移されたとある。1609年の薩摩侵攻で焼失し、後に尚寧王 (1589年~1620年) により再建され、更に尚穆王 (1752~1792年) により修営され、慶長の役の勇士で繁多川の野座毛 (ヌージャンヌモー) で戦死した浦添三兄弟の一人の浦添真山戸の木像が安置されていた。山号も古の補陀洛山に改められた。 琉球王統時代、龍福寺は、官寺として首里王府より官費が支給され、本堂には、天孫氏と先代王 (舜天から尚巴志まで)、その妃の神主を祀っていた。1884年 (明治17年) に、尚家の私寺になったが、1909年 (明治42年) 頃に廃寺になり、大正初期に糸満市の兼城村座波に移転し、さらに大正末期には美里村 (沖縄市泡瀬) に移転している。

浦添間切番所跡

浦添郵便局北側、浦添中学校に正門あたりには、かつて琉球王統から明治時代にかけて浦添間切の番所があった。また、一説では間切番所は浦添城にあったと考える研究者もいる。番所には地頭代 (ジトゥディー) など地方役人がおり、首里王府の命を受け、間切内の行政を担っていた。また、国王の普天間宮参詣の際には休憩所に利用されていた。1882年 (明治15年) には浦添小学校が敷地内に開校している。番所は、1897年 (明治30年) に間切役場、1908年 (明治14年) には村役場と改められ、沖縄戦で損壊するまで浦添の行政の中心施設だった。戦後、浦添はいち早く村役場を、この番所跡に置き、行政事務を進めるが、1965年 (昭和40年) に現市庁舎が安波茶部落にできたので移転する。

番所池 (グムイ) 跡

浦添間切番所の前には昔は溜池があり、番所池 (グムイ) と呼ばれていた。現在の浦添郵便局の西側のあたりになる。仲間にはこの番所グムイ以外に五つの溜池 (クムイ) があった。安田草原にはイリグムイ、浦添原にウチグムイとハンタモグムイ、後原にはクシグムイ、上原にはクヮングヮーグムが置かれていた。野良仕事の後、手足や農具を洗ったり、イモなど農作物を洗ったり、馬なども洗っていた。製糖 (サーター) が終るとサーターヤーの部品のクルマデー (台) をクムイの底にクイをうち浮かないように沈め腐らない様にしていた。またクムイは防火用水 としての役割もあった。

世持川 (ユムチガー) [未訪問]

浦添小学校のプールの近くに世持川 (ユムチガー) があるそうだが、校内にあるので訪問は遠慮した。東川 (アガリーガー)、世持御川 (ユムチガウカー) ともいわれる。ウマチーなどにまわる拝所のひとつ。 この一帯はウィーグムイという田になっていた。写真はインターネットに出ていたもの。

仲間の神田

浦添間切番所跡前の県道38号線を渡った所には浦添郵便局や沖縄地場スーパーのユニオンがあるが、この辺りには神田があった。首里王府に献上される稲が栽培されていた。この道路がかつての仲間集落の南端になる。おそらく、この県道と中学校、小学校の前の道が前道 (メーミチ) でだったのではと思う。この道は番所前を通りいた。戦前は、浦添グスクに行く道は、現学校の敷地内を通り、浦添城正門に通じる石畳道でかつては明治初期迄は松並木道になっていた。

茶園之御殿 (茶山之御殿)

仲間の神田の南は字仲間に最も南にある山川原 (ヤマガーバル)  にある茶山 (元々は茶屋山) と呼ばれる地域で、名の如く、琉球王朝の時代には王府直営の茶畑が広がっていた。ここには1733年に尚敬王により、琉球で最初の茶園が造られた。王家の別荘の茶園之御殿 (茶山之御殿) も置かれていた。現在は茶山第2公園となっている。ここ以外にも尚氏の別荘は数々ある。(識名園、茶園之御殿、小湾之御殿、浜之御殿、上久場川之御殿、御茶屋御殿 ) いずれも廃藩後早い時期に払い下げられた。ここ茶園之御殿では、茶道の稽古や茶会が催され、先程訪れた茶畑もあり、製茶も行われていた。国王など王族が清明祭に、英祖王や尚寧王の眠る浦添陵に赴く際や、浦添城に遊んだ折、休憩所としても利用された。琉球王統では日本本土程ではないが、茶道が行われていた。上流王族の文化で、本土からの来賓のもてなしの一つだった。

琉球に於いての茶の栽培は1627年、向氏金武王子朝貞が薩摩から茶の種を持ち帰り、宜野座村字漢那で、その栽培にした事に始まる。これ以前は茶を輸入していたが、茶の需要が高まったことで製茶が始まったのだろう。茶の湯は上流王族に限定した文化で、一般庶民は福建茶を好んで飲んでいた。那覇には「ぶくぶく茶」と呼ばれる独特に茶がある。これは琉球王統時代に那覇のみで一般人の間で流行していた。家庭で主婦が台所で作った様な茶で、形式ばった茶道では無かった。


茶山自治会

茶園之御殿 (茶山之御殿)があった茶山地域は尚氏の所有だったが、戦後に売却され、本土復帰前の1968年 (昭和43年) から、戸建て住宅団地の開発が始まった。琉球土地住宅公社が初めて手掛けた沖縄県で初の郊外型戸建て住宅地だ。琉球王統時代からの茶園、茶園之御殿 (茶山之御殿)、その南に安波茶川 (小湾川) へ舌状に伸びる御殿山一帯が住宅地に開発されている。

この住宅街は人口が増加して、公園内には茶山自治会が置かれている。2020年末の字仲間の人口は約4,300人でその内、約1,000人がこの茶山住宅地に集中している。


御殿山 (ウドゥンヤマ)

茶山にはもう一つ公園がある。安波茶樋川から坂道を登った高台にある。小さな公園だが、この辺りが御殿山にあたる。

地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)

間切番所跡からその北側の浦添城のある丘陵地斜面に形成されていたかつての仲間集落には入る。間切番所跡の北側にはかつてはハンタ毛と呼ばれる広場があり、そこに地頭火ヌ神が残っている。現在は住宅地になっており、その隙間に細い路地を入っていった奥にある。またここには前組の砂糖屋 (サーターヤー) があり、その前にはハンタ毛グムイ (溜池) があったそうだ。
地頭火ヌ神は、琉球王国時代に間切や村を領地にした士族である地頭がその就任や退任のときに拝んだ火ヌ神。琉球王統時代 (第二尚氏) の間切や村の行政組織は以下のようになっていた。間切を与えられていたのが総地頭でその管轄下の村を有していたのが脇地頭で、いずれも、首里に滞在しており領地には赴かなかった。間切番所には地頭代が任命され、間切全体に行政を首里王府の指示で行っていた。各村には、地元の百姓は村掟に任命され実務をこなしていた。
ここの地頭火ヌ神は浦添間切番所近くにあるので、惣地頭火ヌ神と推測されている。この地頭火ヌ神では首里王府の公的祭祀として、浦添ノロが稲二祭 (ウマチー) 等を行っていた。現在では旧暦5月と6月の稲二祭や12月御願解きが行われている。

仲間ノロ殿内 (ドゥンチ)

地頭火ヌ神の北側すぐのところに仲間ノロ殿内の屋敷跡があり、琉球石灰岩の石垣の塀が残っている。敷地内には神屋が置かれている。ここは代々、仲間ノロを出した有力門中の一つだ。仲間ノロは浦添ノロともいわれ、琉球王統から戦前は浦添といえばこ、仲間、安波茶、前田地域をさしていた。
仲間ノロはの仲間、安波茶、伊祖、牧港、前田、西原の6村の祭祀を司っていた。

与那嶺 (ヨナンミ)、根屋

仲間ノロ殿内の道を隔てた場所には、仲間村の根屋だった与那嶺 (ヨナンミ) 家の屋敷跡という。現在は民家が立ち並び昔の面影は無い。

村屋 (仲間公民館)

仲間ノロ殿内 (ドゥンチ) から1ブロック東に進むと、かつての村屋が置かれていた場所になる。現在も公民館が建っている。一説では極楽寺 (龍福寺) を浦添グスクの場所から移して前谷がこの村屋があった所とも推測されている。

仲間ンティラ (長堂之嶽)

公民館の前の広場の一画に祠がある。仲間のティラまたはテラと呼ばれる拝所で、ムラの神が鎮座しているところと考えられて拝まれている。(奄美沖縄地方にはテラ、ティラと呼ばれる洞穴が分布しているが、仏を祀る寺ではなく村の守り神を祀っている。) 仲間ンティラは、横穴の洞穴の中にあった。戦前は、台座に蓮の葉が刻まれた石灯籠が建ち、拝みを行う祠は赤瓦葺きで、壁は石積みだったが、沖縄戦で焼失し、洞穴一帯を埋め立て、再建した祠の中から洞穴に入る形に変わっている。琉球国由来記に記されている長堂之嶽が仲間ンティラにあたると考えられている。 旧暦正月の初拝み、五月・六月の稲二祭 (ウマチー)、 十二月の御願解きなどで村人により拝まれている。

仲間樋川 (ナカマヒージャー)

仲間樋川は浦添市内でも最も大きな井泉のひとつで、仲間集落の湧水を樋を通し流していた村ガーだった。1935年 (昭和10年) にはコンクリートをで改修され、樋がコンクリートタンクで覆われた。湧水は貯水飲水用水タンクに溜められ、 洗濯場所の平場を経て、農具や農作物の水洗い、馬の水浴びなどをするウマアミシ (溜め池) に溜まるように造られた。 溢れ出た水は樋川の東側にあった苗代田 (ナーシルダー) へ注ぐようになっていた。沖縄戦でも大きな被害を受けず、戦後は抱負な水量で仲間の収容所に集められた数千人の生活水をまかなっていた。 仲間樋川の傍らには香炉が置かれ、地域の大切な拝所とな り、現在も旧暦5月、6月のウマチーや12月の御願解きで拝まれている。 水道が普及する以前は、産水、正月の若水にも使われていた。
現在の仲間樋川は、昭和10年に改修されてから長い年月が経ち、再度改修することになった。住民は昔の樋川の様に樋が見えてそこから水が流れ落ちる以前の姿にする事を希望していたので、水タンクの上部を切り取ったかたちのため池に改修されている。
仲間集落は、浦添グスクがある標高100~130 mの高台に位置しており、湧水が多く、生活用水にはめぐまれていた。 湧水はこの樋川始め後川 (アトガー)、川小 (カーグヮー)、東川 (アガリガー)、大川 (ウフカー)、樋口川 (ヒーグチガー)、御殿川 (ウドゥンガー) などが共同井戸として利用されていた。共同井戸以外にも約半数くらいの家庭が敷地内に個人井戸を所有していた。
た。

根殿内 (ニードゥンチ)

かつての中頭方西海道だった県道153号線沿いに仲間村の草分けの家で最も古い家であった根殿内 (ニードゥンチ) の屋敷跡がある。現在は駐車場になっているが、その隅に神屋が建てられている。仲間村の根屋 (ニーヤ) だが、仲間ではこの根屋を根殿内と尊敬を込めて呼んでいる。正月の初拝み、12月24日の御願解き、五月/六月のウマチーに拝まれ、与那覇門中によって維持、継承されている。

御待毛 (ウマチモー)

琉球王国時代、この仲間村には二つの大きな公道があった。首里から牧港、読谷へと続く 中頭方西海道で、この道がここで分岐し、当山を通り宜野湾の普天満宮へと至る道となっていた。 この辺りの二つの道の分岐点は首里と地方を往来する国王や役人を仲間村の人々が出迎える場所であったことから、御待毛 (ウマチモー) と呼ばれていた。この分岐点から東への道は浦添城に通じており、城内にある伊波普猷の墓への誘導柱が立っていた。

クバサーヌ御嶽

御待毛 (ウマチモー) から東へ道を進み仲間集落内に入って行くと、村屋跡の北側にクバサーヌ御嶽がある。この辺りは仲間集落の発祥の地と伝えられている。琉球国由来記にあるコバシタ嶽と考えられている。コバシタは「クバの木の下」という意味。この一帯は御願小山 (ウガングヮーヤマ) とも呼ばれ、戦前は大木がうっそうと茂っていた。御嶽の近くには石で積み封じた神墓があったそうだ。 また、遠い昔には、クバの木の下で子供を出産したという言い伝えもある。 拝所の祠の屋根には粟石の平たい石が置かれているが、これは沖縄戦で祠の屋根が破損し、戦後になって修復したもの。石造のアーチ型の祠の中に、ウトク神とウンナ神が祀られているといわれる。仲間集落では初ウガミや五月、六月の稲二祭 (ウマチー) などで拝まれている。

カマ根屋跡 (後小湾門中神屋)

安波茶集落が現在の場所に移住する前は、この付近が元々集落があった場所で、安波茶集落の根屋とされる後小湾 (クシクワン) 門中の屋敷はクバサー御嶽の東隣りにあり、屋号もカマといい、そこには根屋があったと伝えられている。この場所は発掘調査が行われた事があり、その時に隣のクバサー御嶽への階段がみつかっている。

サーターヤー跡

戦前の仲間集落には、この辺りを含めた8ヵ所のサーターヤーが置かれ (西組小、新組、後銘苅小、トタン組、北組、前組、中組、南組) 、黒糖を作っていた。ここには新組、北組、中組、南組それぞれのサーターヤーが4つあった。

安波茶之殿 (中間村後上之殿)

安波茶集落の移住を先導した親安波茶の屋敷が、仲間集落の最も上位にあった。そこには安波茶之殿と呼ばれた殿 (トゥン) があり、琉球国由来記の中間村後上之殿と推定されている。戦後個人に売却され、現在は民家となっており、その民家と隣の空き地が屋敷跡だそうだ。

ノロ地

仲間集落から西に外れた場所に浦添 (仲間) ノロが首里王府から拝領したノロ地があった。当時、ノロは首里王府から任命される一種の役人で、社会的地位は高くノロ地も広大なものだった。浦添 (仲間) ノロの拝領地が安波茶集落の北側、現在は浦添運動公園の一部にあたる。この浦添運動公園はANAが2018年に命名権の三年契約をしてANA Sports Park 浦添と呼ばれる様になった。至る所に「ANA」のロゴが見られる。ANA Sports Park 浦添は丘陵斜面から麓まで広大な敷地で野球場、陸上競技場、体育館、プール、相撲場などもある。ここではヤクルトスワローズのキャンプが行われている。ここだけでなく、沖縄各地でプロ野球キャンプが行われおり、結構盛り上がっている。特に新庄監督の日本ハムは大人気だ。ノロ地にあたる地域は琉球グスクの城壁をイメージしたデザインになっている。

ノロ川 (ガー)

浦添 (仲間) ノロが祭祀のときに身を清める際に使用したと言われる井戸がノロ地の北側の住宅地の中にある。ただ、ノロが身を清める井戸はだいたいが御嶽近くにあり、祭祀に向かう前に行うのだが、仲間と安波茶にあった御嶽には少し距離があるように思えるのだが。

川小 (カーグヮ) [未訪問]

ノロガーの近くの安田草原にも井戸があったそうだ。今は埋められて消滅してしまったという。階段で井泉に降りていき、溜まっている水をくんでいたが、飲み水としてはよくなかったが、豆腐づくりに使われていたそうだ。川小 (カーグヮ) と呼ばれていたので、ノロガーや後川 (アトゥガー) より少し小さな井戸だったのだろう。この川小 (カーグヮ) の場所については、二つの民俗地図に載っていたが、全く違う場所が示されていた。両方の場所を探したが、写真も掲載されておらず、それらしきものは見つからなかった。


後川 (アトゥガー)

ノロガーの北は、後毛 (アトゥモー) と呼ばれる広場で見晴らしの良い場所。今でも広場になっており、展望台も置かれていた。ここには、牧港に向かう中頭方西海道だった県道153号線が走り、その道沿いに後川 (アトウガー) という井戸跡がある。この周辺に住む人々の飲み水や生活用水に利用されていた。 雨が降るとすぐに溢れるほど浅く、普段は柄杓で水をすくっていたそうだ。
また、この辺りは船の往来もよく見える見晴らしの良い場所。 近代になると、紡績工場で働くため、 船で本土へ向かった地元の人々を、 婦人たちが太鼓をたたき、歌いながら見送ったそうです。今は住宅やビルがひしめきあって、情景は変わってしまったが、今でもここから海が見えている。

樋口川 (ヒーグチガー) 

御待毛 (ウマチモー) の分岐点から牧港に向かう中頭方西海道だった県道153号線沿いは樋口原 (ヒーグチバル) という小字で、樋口ガーがあった。現在は道路工事で水が枯れてしまった。現在はコンクリートで固められてしまっている。戦前は樋があり、水溜の池に注いでいた。水が冷たくきれいで水浴びにも利用されたそうだ。街道を旅する人々の喉を潤したのだろう。

浦添大公園

仲間集落の北側の後原 (クシバル) 地区は浦添大公園になっている。仲間、伊祖、当山の3地区にまたがる公園。隙間なく住宅地となった浦添市の中でも、この仲間には広大な敷地の公園がふたつもある。先に訪れたは浦添運動公園と、この浦添大公園だ。
今日は歴史学習ゾーンを散策した。公園内は綺麗に整備され、何本も遊歩道がある。今日は天気も良く、歩いていて気持ちが良い。公園は高台にあり浦添市の街並みが臨める。

おもろの碑

仲間集落の浦添警察署仲間交番裏緑地におもろ碑があったが、もう一つおもろ碑が、運動公園メインゲート向いに置かれていた。現在、浦添運動公園は「ANA SPORTS PARK浦添」と呼ばれているが、これは2018年に、全日本空輸 (ANA) が命名権を取得したことによる。浦添市としての資金確保の一環。この公園の野球場では、今年も東京ヤクルトスワローズのキャンプ地となっていた。

浦添には酒が満ちあふれている、その豊かさに感謝して、今日は酒宴を開こうではないか、と詠っている。酒が多いのは、生産の盛んな豊かな土地だという自慢、「世寄せによ」は幸福を招く人の意味で、浦添城に君臨する指導者のことを指している。(渡嘉敷は浦添の別称)


あさと原印部土手石 (シルベドテイシ)

公園の歴史学習ゾーンの中に印部土手石 (シルベドテイシ) が残っていた。印部土手石は、シルビグァー、原石 (ハルイシ) ともいわれ、琉球王府が元文検地 (1737~1750年) を行ったときの土地測量の目印と境界に使った図根点として置かれた。中央のハル石と呼ばれる碑からの方角と距離で田や畑の位置を記録していた。ここにある印部土手石 (シルベドテイシ) には「あさと原」と「ス」が記されており、 周りにはハル石が倒れないように根張石がめぐらせている。


集落内の文化財は見つからないものもあったが、ほとんどは見終わった。この後、浦添城に移動した。浦添城やようどれの訪問レポートは別途にする。

参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • 字誌なかま (1991 浦添市字仲間自治会)
  • うらそえの文化財 (1983  浦添市教育委員会)

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