Okinawa 沖縄 #2 Day 170 (04/03/22) 旧浦添間切 (5) Nakama Hamlet 仲間集落 (1)
旧浦添間切 仲間集落 (なかま)
- 浦添小学校
- 獅子田、仲間御穂田 (ミフーダ)、御殿川 (ウドゥンガー)
- 龍福寺跡
- 浦添間切番所跡
- 番所池 (グムイ) 跡
- 世持川 (ユムチガー) [未訪問]
- 仲間の神田
- 茶園之御殿 (茶山之御殿)
- 茶山自治会
- 御殿山 (ウドゥンヤマ)
- 地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)
- 仲間ノロ殿内 (ドゥンチ)
- 与那嶺 (ヨナンミ)、根屋
- 村屋 (仲間公民館)
- 仲間ンティラ (長堂之嶽)
- 仲間樋川 (ナカマヒージャー)
- 根殿内 (ニードゥンチ)
- 御待毛 (ウマチモー)
- クバサーヌ御嶽
- カマ根屋跡 (後小湾門中神屋)
- サーターヤー跡
- 安波茶之殿 (中間村後上之殿)
- ノロ地
- ノロ川 (ガー)
- 川小 (カーグヮー) [未訪問]
- 後川 (アトゥガー)
- 樋口川 (ヒーグチガー)
- 浦添大公園
- おもろの碑
- あさと原印部土手石 (シルベドテイシ)
今日訪れる仲間集落の一部は先日 (2月28日) に安波茶集落を訪れた後に巡った。今日は集落内の残りの文化財と浦添グスクや浦添ようどれがある浦添大公園を巡る予定で出発。集落内にある文化財巡りの後、浦添大公園内にある浦添ようどれ館を訪れた際に、訪問者はほかにはおらず、調査員さんと話が弾み、その後予定していたスポットを巡る時間が足りなくなってしまった。もう一日必要なようで、次回も仲間に戻ってくることになる。今日のレポートは仲間集落内にある文化財に絞って、ようどれと浦添グスクは次回の訪問記に含めることとする。
旧浦添間切 仲間集落 (なかま)
琉球王統時代から明治時代大正時代までは浦添の役所もあり中心地で、人口も二番目に多い地域だったが、それ以降は他の字に比べ人口はあまり増えず、現在では下から四番目と人口は少ない字となっている。
下図右のグラフでもわかるように、仲間は人口増加率が最も低くなっている。
民家の分布地図では現在民家がない地域は字の面積の半分を占める浦添大公園となっており、これ以上住宅地が大きく増える余地はない。人口は少なくなっているが、生活環境は最も恵まれている地域のように思える。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 長堂之嶽 (神名: 長堂之御イベ 、仲間ンティラ)、コバシタ嶽 (神名クワウジノ御イベ、クバサーヌ御嶽)、大城嶽 (両御前、神名: 大城ソデギョラノ御イベ、ナンジャムイ・クガニムイ 消滅)、シマノ御嶽 (神名: シマノ御イベ、シーマノ御嶽)、小城嶽 (神名: トモヨセ大神ソデギョラノ御イベ、ワカレ瀬)、渡嘉敷嶽 (神名: 渡嘉敷オヒヤ御イベ、ディーグガマ)
- 殿: 城内之殿
集落で行われていた祭祀は以下の通りだが、このうち今でも拝まれている行事がどれかについてに記載は見当たらなかった。
仲間集落訪問ログ
浦添小学校
獅子田、仲間御穂田 (ミフーダ)、御殿川 (ウドゥンガー)
龍福寺跡
浦添間切番所跡
番所池 (グムイ) 跡
世持川 (ユムチガー) [未訪問]
仲間の神田
茶園之御殿 (茶山之御殿)
琉球に於いての茶の栽培は1627年、向氏金武王子朝貞が薩摩から茶の種を持ち帰り、宜野座村字漢那で、その栽培にした事に始まる。これ以前は茶を輸入していたが、茶の需要が高まったことで製茶が始まったのだろう。茶の湯は上流王族に限定した文化で、一般庶民は福建茶を好んで飲んでいた。那覇には「ぶくぶく茶」と呼ばれる独特に茶がある。これは琉球王統時代に那覇のみで一般人の間で流行していた。家庭で主婦が台所で作った様な茶で、形式ばった茶道では無かった。
茶山自治会
この住宅街は人口が増加して、公園内には茶山自治会が置かれている。2020年末の字仲間の人口は約4,300人でその内、約1,000人がこの茶山住宅地に集中している。
御殿山 (ウドゥンヤマ)
地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)
仲間ノロ殿内 (ドゥンチ)
与那嶺 (ヨナンミ)、根屋
村屋 (仲間公民館)
仲間ンティラ (長堂之嶽)
仲間樋川 (ナカマヒージャー)
根殿内 (ニードゥンチ)
御待毛 (ウマチモー)
クバサーヌ御嶽
カマ根屋跡 (後小湾門中神屋)
サーターヤー跡
安波茶之殿 (中間村後上之殿)
ノロ地
ノロ川 (ガー)
川小 (カーグヮ) [未訪問]
後川 (アトゥガー)
樋口川 (ヒーグチガー)
浦添大公園
おもろの碑
仲間集落の浦添警察署仲間交番裏緑地におもろ碑があったが、もう一つおもろ碑が、運動公園メインゲート向いに置かれていた。現在、浦添運動公園は「ANA SPORTS PARK浦添」と呼ばれているが、これは2018年に、全日本空輸 (ANA) が命名権を取得したことによる。浦添市としての資金確保の一環。この公園の野球場では、今年も東京ヤクルトスワローズのキャンプ地となっていた。
浦添には酒が満ちあふれている、その豊かさに感謝して、今日は酒宴を開こうではないか、と詠っている。酒が多いのは、生産の盛んな豊かな土地だという自慢、「世寄せによ」は幸福を招く人の意味で、浦添城に君臨する指導者のことを指している。(渡嘉敷は浦添の別称)
あさと原印部土手石 (シルベドテイシ)
公園の歴史学習ゾーンの中に印部土手石 (シルベドテイシ) が残っていた。印部土手石は、シルビグァー、原石 (ハルイシ) ともいわれ、琉球王府が元文検地 (1737~1750年) を行ったときの土地測量の目印と境界に使った図根点として置かれた。中央のハル石と呼ばれる碑からの方角と距離で田や畑の位置を記録していた。ここにある印部土手石 (シルベドテイシ) には「あさと原」と「ス」が記されており、 周りにはハル石が倒れないように根張石がめぐらせている。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- 字誌なかま (1991 浦添市字仲間自治会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
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