Okinawa 沖縄 #2 Day 111 (10/06/21) 旧真和志村 (9) Hantagawa Hamlet 繁多川集落 (3)

旧真和志村 繁多川集落 (はんたがわ)

  • ユービー毛 (モー) 、野座毛 (ヌージャモー)、通信隊防空壕跡地
  • 野座毛道 (ヌージャモーミチ)
  • 軽機関銃陣地跡
  • 蒙雲国師の墓所跡
  • モーイ親方 (ウェーカタ) の墓
  • 砂岩坂 (ニービビラ)
  • 石田道 (イシジャーミチ)
  • 石田川 (イシジャガー)
  • 石田城 (イシジャ―グスク)
  • 筆山 (フディザン)

前回は途中に雨が降り出し、見れなかった繁多川集落の文化財とその隣の松川集落を巡る予定だ。

今日巡る文化財は繁多川集落の外側、真珠道の西側に位置しているもので、5月31日、6月5日に巡ったその地域の文化財も一緒に記載する。


ユービー毛 (モー) 、野座毛 (ヌージャモー)、通信隊防空壕跡地

識名坂 (シチナンダビラ) を登り切った識名平 (シチナンダ) にはユービー毛 (モー) と野座毛 (ヌージャモー) と呼ばれる広場が戦前まであったそうだ。この地域は繁多川内にある8つの地区の一つの野座原 (ヌージャバル) にあたる。ユービー毛 (モー) は識名坂 (シチナンダビラ) を登り切った所にある小さな広場で、そこではふかとか鮫などの大きな魚 (ユービーヌ子) を首里から帰ってくる人や、坂の下の金城の人たちに売っていたそうだ。糸満や港川の漁師町の女たちが売りに来ていたのだろう。このユービー毛 (モー) の西側には少し大きな広場の野座毛 (ヌージャモー) もあった。現在は住宅地になり、住宅地の崖側は小さな公園になっている。この辺りにも沖縄戦の日本軍施設の通信隊防空壕が幾つかあったそうだ。

5月23日に識名にあるノシヤ原を訪れ、そこが慶長役の古戦場跡だった事を知った。当時、尚寧王の三司官の一人で反薩摩派であった浦添親方の子、真大和 (真山戸、朝盛)、百千代 (朝刻)、真カル (朝伸) の三兄弟が首里城からひそかに出て、薩摩軍と戦い、鋪那原 (敷名原) で戦死したと云われている。

  • 「識名誌」では、鋪那原 (敷名原) が識名小学校付近のノシヤ原としている。
  • 「上間誌」では三兄弟は残っていた郎党や雑兵を集め薩摩軍に抵抗を試みるが歯が立たず、一時、繁多川のここ野座毛 (ヌージャンヌモー) に退いた。首里城に降伏の旗が翻るの見て、最後の決戦に出るが、奮戦の甲斐なく、三兄弟は討ち死となったとあり、野座毛 (ヌージャモー) が鋪那原 (敷名原) のように書かれている。
  • 「繁多川誌」では首里城は薩摩軍に囲まれ首里王府は降伏を決めていた。その中、抗戦派が首里城を脱出したが、首里城を包囲していた薩摩軍の追手とも交戦が野座毛 (ヌージャンヌモー) で行われ、薩摩軍武将も打ち取ったが、力尽き戦死したとある。



野座毛道 (ヌージャモーミチ)

野座毛 (ヌージャモー) の南側、後道 (クシミチ) と前道 (メーミチ) が交わる識名平の十字路 (シチナンダヌカジマヤー) から西に向かって野座毛道 (ヌージャモーミチ) が下って伸びている。この道は琉球王統時代には存在しておらず、昭和10年代にできたもので、繁多川集落住民が那覇の安里や大道への向かう道となった。


軽機関銃陣地跡

野座毛道 (ヌージャモーミチ)は両側が崖になっており、識名丘陵がなだらかに下る尾根沿いに道が造られた様に見える。道の南側の崖には沖縄戦当時日本軍の軽機関銃陣地があったそうだ。ちょうどこのあたりだろう。


蒙雲国師の墓所跡

野座毛道 (ヌージャモーミチ) を西に暫く行ったところに蒙雲国師の墓所跡があると資料には書かれていたが写真は載っていなかった。大まかな地図を頼りにそれらしきものを探す。蒙雲国師は江戸時代、南総里見八犬伝の作者の滝沢馬琴の小説「椿説弓張月」 (1811年) に描かれている源為朝と蒙雲国師との最期の決戦場で、ここで為朝の子の「すて丸」(のちの舜天王) に矢で射られ討ち死にした蒙雲国師が、為朝の命でこの辺りに葬られたと伝わる。最もこれはフィクションで本当に蒙雲国師の墓所があるとは思えない。小さいころにはこの「椿説弓張月」の絵本を見て興奮した。それで、どんなところか見てみたくなり来てみた。

「椿説弓張月」では祭儀の決戦は為朝軍300、蒙雲軍3000と10倍の兵力差、首里の城にいる蒙雲をおびき出す作戦をとる。為朝は軍を二つに分け、一つはこの付近の山に陣を張り、別動隊は浦添城攻略に向かい、落城させ、周りの按司たちも降伏し、為朝軍に合流。その後、首里の城を出た3000の蒙雲軍が陣を張った (この付近だろう)山に向かい戦闘が行われ、最後は「すて丸」の放った矢が蒙雲をとらえ、為朝がその首を上げたとなっている。この山が為朝軍が陣どっていたところか?蒙雲軍か?フィクションなのだが、そんな想像が沸いてくる。

インターネットで椿説弓張月の全編の版刷りが掲載されていた。どの時代のものかは分からないが、庶民を対象に書かれているせいか、漢字にはルビが振られ、わからないところもあるのだが、何となく読めるぐらいのものだ。挿絵が多くあり、琉球人は中国風になっている。滝沢馬琴は琉球に行ったことはないのだが、琉球の歴史や地名などはよく調べて書かれている。この時代には琉球に関しては江戸の人たちにもある程度の知識があったのだろう。江戸時代では源為朝はヒーローの一人だったので、多くの浮世絵が残っている。蒙雲国師は琉球国を乗っ取ろうとした悪役で、妖術を使い為朝と戦った怪僧として描かれている (浮世絵の右の二つがそうだ) 椿説弓張月の最期の決戦の場面を読んでみると、何となくこの辺りが決戦場にふさわしい感じがしてくる。沖縄の人達のそんな感じで、この場所が決戦場として、言い伝えられたのかもしれない。沖縄には多くの為朝伝説があるのだが、この場所は滝沢馬琴の椿説弓張月が出版される前から伝承があったのだろうか、それとも滝沢馬琴の椿説弓張月が出た後に、出現した為朝伝説なのだろうか? (個人的には後者ではないかと思う)


モーイ親方 (ウェーカタ) の墓

蒙雲国師の墓所跡から更に西に進むと護佐丸の子孫の墓があった。モーイ親方 (ウェーカタ) の墓。

毛氏豊見城殿内の六世豊見城親方盛良次男の伊野波親方盛紀 (七世) が始祖となる毛氏伊野波殿内で、代々、本部間切 (現 本部町) の総地頭を務めていた。この墓は伊野波親方盛紀 (七世) の息子の伊野波盛平 (1648-1700年 伊野破親方盛紀 [八世] 唐名:毛泰永) のもの。三司官を務め、「モーイ親方」のあだ名で知られ、とんちで有名で「沖縄の一休さん」として、沖縄の民話で親しまれている。伊野波盛平が幼少の頃は、髪がボサボサでいつも汚れて帰ってくる活発な子で、カンターモーイ (髪ボサボサ)、カンターモーイ (髪ボサボサ) と友達に言われ、それからモーイとあだ名を付いたそうだ。

インターネットに有名なとんち話が載っていた。

  • ある日モーイが、片方に下駄、片方に草履を履いているのを友達が見てバカモーイ、バカモーイとバカにされ、村中の笑いものになりました。心配した父親がお前はなぜ片方に下駄、片方に草履を履いているのだと尋ねると、「はい、下駄は父上に頂いた大切なもの、草履は母上から頂いた大切なものだから、どちらか一方を履くことはできません」、ばかもんと父にしかられますが、また翌日も平然と片方に下駄、片方に草履を履いているのです。父親は「どうしてこんなバカな子ができたんだろうね」となげいていました。
  • だがモーイには秘密がありました。昼間はあいかわらずバカなそぶり、しかし明け方まだ暗いとき、屋根裏で毎日猛勉強をしているのです。誰にも勉強をする姿を見せたことがありません。そんな日が何年もたったある日、父親が仕事から帰ってくると、すごく達筆で書かれた漢文が、居間に落ちていました。父親は、これはすばらしい、さぞ名のある方が書いたものだろうとうなずいておりました。そこへモーイが帰ってきたのです。「おいモーイよ、これを見てみたまえすばらし書だ。」「父上様それは、私が書いたものです。」というと「たわごとをいうなお前に書けるわけがない」と父は一喝しました。するとモーイは墨と筆を取り出し書いて見せたのです。「おお、ほんとうにお前が書いたのか、いいつの間に・・・」と、父は、泣いて喜びました。
  • それから数日後、父親がため息まじりで、しずんだ顔で帰ってきました。「どうされましたか?」モーイがたずねると、「お前には関係ない」とどなりました。「父上さま私は息子です家族ですよ、困ったことがあれば、家族には相談すのが筋ではないですか?」「それもそうだな、実は薩摩から今度の献上品で無理難題がきておるじゃ」「それはどのような品ですか?」「まず第1、雄鶏の卵、第2に琉球で一番大きい山、第3に灰で出来た縄、どれも不可能なものばかりどうしたものかなやんでおるのじゃ」モーイはしばらく考えると「父上様、私が解決致します私を薩摩へつかわして下さい」「お前が、バカな」「父上様、私に妙案が御座います」というとモーイは父親に耳打ちします。「うん、それはいいモーイよ父の代わりに行ってくれるか」「はい、喜んで」
  • さっそく父親は首里城に登り、モーイが薩摩への使いとしていけるよう便宜を図ります。そしていよいよ薩摩へ出航しました。薩摩へ着いたモーイは、薩摩のお殿様の前に案内されました。「琉球から来た使者は、おぬしか?」「はい、伊野波盛平と申します。」「こんな若造を送るとは琉球も落ちたものじゃのう」
  • 「して献上の品はもってきておろうな?」「殿様、若造の私が参りましたのは、実は分けが御座います。本来私の父が参る予定で御座いましたが出立直前に産気付きまして、代わりに私が参ったのです。「なに、男が産気付くとは、たわけたことを申すか」「その通りで御座います。雄鶏が卵を産むとはたわけたことで御座います」「ううん、これは一本とられたわ」
  • 「して琉球一の山はどうした?」「はい。それが琉球一大きい山をもってこようとしたのですが、小国琉球では、山を乗せる程の船を作る技術がありません。大国の薩摩様であれば、このような大きい船もたやすく作れましょう薩摩様が船を作って頂ましたらすぐにでも山をお持ちいたします。」
  • 「ううん、あっぱれじゃ、は、は、は、は、して灰の縄はどこかな?」するとモーイが「例のものを此れへと部下に命じます」すると部下は、台の上に乗った普通の縄をもってきました。「普通の縄ではないか?」殿様が言い終わるやいなやモーイは、縄に火を点けたのです一同のものは固唾を呑んで火を見つめます。そして火が燃え尽きると目の前には縄の形を留めた灰が出来たのです。「これが灰の縄で御座います。」「は、は、は、は、あっぱれじゃ琉球にもこのような頓知の利く知恵者がいたとは、いやはや実に愉快じゃそなたに褒美をつかわそうなんでもいい、申してみよ」
  • 「殿様、私は何も欲しくありませんただ・・・」「ただなんじゃ」「いっときでよろしいので、殿様のそのお座りの座にすわってみとう御座います」「なにー」家老たちが殺気立ちます。殿様が左手を横に上げ抑止します。「ここへ座りたいか、うん、うんよかろう」というと殿様は上座から降ります。「さ、さ、すわるがよい」殿様に促されモーイは上座にすわりました。「上から見るのは、とても気分がいいもので御座います」
  • そして次にモーイが発した言葉に一同が一瞬しーんとします。「ご家老此れへ」、家老は、モーイを睨みつけます、横から殿様が声を荒げます「聞くのじゃ」「はは、」家老はモーイの前へ出ます。モーイは姿勢を正し改めてご家老に言いました。「ご家老」「はは、」「今琉球は、飢饉じゃ米も不作なのじゃ、税を軽減してやれ、そして今後米の出来、不出来に応じ税を鑑みて収めさせるようにはからへ」家老は、横の殿様の顔を覗います。殿様は、首を縦にふっていました。家老が答えます。「はは、全て仰せのとおりに致します」それを聞いてモーイは上座を降りました。「殿様、もう十分で御座います有難き幸せで御座いました。」殿様は、感心しきりで、モーイを褒め称えたのでした。



砂岩坂 (ニービビラ)

次は繁多川の8つの地区の一つの石田原 (イシジャーバラ) に向かうのだが、野座毛道 (ヌージャモーミチ) から、石田原 (イシジャーバラ) の石田道 (イシジャーミチ) に行く道は少なく繁多川集落まで戻るか、隣の松川集落近く、繁多川地区の端まで行くか、その中間の坂道の三本しかない。この間にはいくつも道はあるのだが、どれも行き止まりになる。これは那覇市に共通の事で、都市計画がされないまま無秩序に住宅地が広がり、その住宅地までの道はできるが、道路のルートなどは全く考えられず現在に至っている。砂岩坂 (ニービビラ) と呼ばれている坂道を通って石田道 (イシジャーミチ) に行く。


石田道 (イシジャーミチ)

ニービビラを通り石田道 (イシジャーミチ) に出る。この道は琉球王統時代には存在しておらず、昭和10年代に造られ、繁多川から那覇への運搬道、通学路として使われていた。現在は広いバス道になっているが、一部、石田道 (イシジャーミチ) の旧道が残っていた。昔はこれぐらいの道だったのだろう。


石田川 (イシジャガー)

水に恵まれた繁多川の地域の中でも特に豊富な水量を誇る井泉で、硯川 (シジリガー) とも呼ばれていたが、石田原にあるので、石田川 (イシジャガー) と呼ばれている。琉球国由来記によると首里城から九方位に所在する井泉の一つで、石田川 (イシジャガー) は申方位 (西南西) となっている。繁多川で最も古い井泉で、どんな旱魃の時でも涸れたことがなかったそうだ。現在でも水量も多く、水質もよい。ともに御墨付の井泉である。識名の毛堀泉 (ケプンヂャーヒージャー、ケフリ樋川) と水脈がつながっていると言われている。石田川 (イシジャガー) で湧き出た水は、川になって流れているのだが、ほとんどは暗渠になっておりどこを流れているのかをたどることはできなかった。一部、暗渠が途切れ川が現れている場所もあった。

お水取り行事は琉球王朝時代の元旦の儀式で、その際に首里城周辺にある九井泉から水を汲んでいた。この石田川 (イシジャガー) はその一つ。元旦の朝、首里城に献上する水をその年の吉方の方位にある二つの井泉から水を汲んで、首里城に献上され、若水」として国王の御水撫 (ウビーナディー) につかわれ、長命と幸せが祈願された。12月20日に国頭村辺戸の琉球開闢の聖地、アスムイ (安須森) まで使者をおくり、アスムイの麓「辺戸大川」 (ウッカー・神名:アフリガー) の水を汲み、王朝の新年の若水として献上、次に首里城周辺にある九つの井泉のうち2カ所から水を汲んだという。それらは首里城からの方角によって示されており、子の方角の「浦添のカガミ川」をはじめ、丑・寅、卯、巳、の方角の井泉が記されて記されており、午の方角には「識名のアク川 (赤井、ウフガー)」、未の「識名ケフリ川」、申の「識名石シャ川 (イシジャガー)」と記載されている。このお水取りは五月「稲穂祭」、六月「稲大祭」、「年浴」、そして八月「柴指」にも行われていた。これらの井泉は首里城を起点として各地を結ぶ宿道沿線に所在していたと考えられている。この首里のお水取りは戦後絶えてしまったのだが、1998年 (平成10年) に約120年の時を経て「首里王府お水取り行事」として復元されて、毎年行われている。昨年はコロナ感染予防のため、規模は縮小され、12月27日に実施されている。


石田城 (イシジャ―グスク)

石田川 (イシジャガー) 近くの標高70mの高台には、かつて石田城 (イシジャ―グスク) があった。史料では、第二尚氏王統 四代尚清王の時代、嘉靖23年 (1553年) に那覇港入り口の防御の為の屋良座森城 (砲台) が完成し、1554年以降に首里城から近いこの場所に首里城の出城として物見台として築城されたと推測されているが、はっきりはしていない。城跡は削られて住宅地になっている。

かつて、1762年に城内に建立された碑文が住宅街造成の為に高台の少し下に移設されている。石田城碑文は摩減して読めないが、「琉球国碑文記」にその碑文が記載されている。表文は漢文体の和文で「金城、寒水川等四カ村の風水を守るために、真和志間切に対して、景勝地である筆山を中心とす地域の樹木の伐、石等を禁じる」という内容になっている。

石田城碑文の横には祠があり、恵比寿大明神、混比羅大明神、大國大明神が祀られている。沖縄伝統の御嶽や殿とは異なり本土の神道の神を祀っているので、石田城やこの近くの集落の拝所ではなく、おそらくどこかの宗教団体が建てた祠ではないだろうか?

碑文で「景勝地である筆山を中心とす地域の樹木の伐、石等を禁じる」とあるが、かつてはこの付近には多くの丘や小山があり、景勝地だった。このほとんどのものは住宅地の開発で削られ、消滅してしまった。唯一、近くにある大石公園の水入山が憩いの場所として残っている。

住宅地が造られる前の風景の写真が資料には載っていたが、このような感じの場所はなくなっている。


筆山 (フディザン)

石田城碑文でも触れられているので、昔からあった奇岩で、かつては高さ約五メートル、直径約三メートルの地面から突き出たような先のとがった岩だった。筆先の形をしていることから筆山と呼ばれていた。数年前までは、小さくはなったが、岩が残っており、ガジュマルが巻き付いていたと資料にはあり、インターネットではここを訪れた人が撮った写真があった。今日、この地に来てみると、筆山 (フディザン) があった場所は駐車場になっており、岩の一部が拝所として、道の傍らに置かれているだけになっていた。残念だが、私有地なので、このような形でも残してくれたことはありがたく思うべきだろう。この筆山 (フディザン) はは見えにくくなっているが、学同の神として地域の住民に御願されている。

これで、繁多川の文化財は予定していたものは見終わった。隣の集落も巡ろうと思っていたのだが、少し前から腹痛に襲われ、暫く公園で休んでいたが、なかなか治まらず、今日はこれで打ち止めにして、自宅に戻ることにした。ここ何年も腹痛などはなかったのだが、今朝の朝食で食べた昨夜作った味噌汁が少しすっぱかったので、それが原因かもしれない。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 識名誌 (2009 識名自治会)
  • 繁多川100周年記念誌 繁多川 (2012 繁多川自治会)
  • 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

0コメント

  • 1000 / 1000