Okinawa 沖縄 #2 Day 171 (08/03/22) 旧浦添間切 (7) Maeda Hamlet 前田集落

旧浦添間切 前田集落 (まえだ、メーダ)

  • 経塚駅
  • 前田トンネル
  • 玉城朝薫の墓 (邊土名家の墓)
  • 前田・経塚近世墓群
  • 前田貯水池
  • 前田駅
  • 井之大人川 (イノウシガー、イノーシガー)
  • 広場
  • 根屋 (ニーヤ)、親富祖家 (シリー家) 屋敷跡
  • 前田権現へ献上する水を汲むための古井戸
  • 前田権現
  • ハンタタイガー
  • トゥンチガー
  • 仲新屋ヌ前ヌ川 (ナーカミヤヌメーヌカー)
  • 川端井戸 (カーバタガー)
  • 石川門中 川端の神屋
  • 前田公民館、神アサギ
  • ジリチン毛
  • ユーアキガー (女泉)
  • 前田大王・前田大屋の御墓
  • ウチャーギウヤシチ
  • 前田高御墓
  • 火の神 (ウミチムン) とグフンシジ
  • 後之御嶽、まさら神、ふえしじ之御嶽
  • ティーダウカー (太陽御川)、ユーアキガー (男泉)
  • ワカリジー (為朝岩)
  • カンパン壕
  • 山川ガー
  • 缶詰壕
  • てだこ浦西駅
  • 聖公会ベッテルハイム教会 (ベッテルハイムホール)
  • 銭 (ジン) グスク、浦添前田公務員宿舎

今、住んでいる那覇市国場から浦添の東方面へは識名、首里まで行きその後はゆいレールが通る道を進む事になる。今日訪問する前田集落はこのゆいレール沿いに見ていく事にする。



旧浦添間切 前田集落 (まえだ、メーダ)

浦添市の東端に位置し、標高100~130mの台地で丘陵に囲まれ、中央部は盆地状になっている。北側の琉球石灰岩と東側の公地を分水嶺にして地下水が豊富で、地域の所々に湧水や水路がある。東は西原町、東南は那覇市に、西は字仲間に接している。琉球王統時代から戦前までは、稲作とサトウキビ、野菜作りの純農村地帯であった。歴史的には、前田集落は浦添城跡内の仲間の拝所などを拝んでいた事から、仲間村からの分村と考えられている。グスクの前の田の村である事から前田と呼ばれていたと思われる。

字前田の人口については1880年 (明治13年) には878人、1903年 (明治36年) には1,000人を超えた。沖縄戦では住民の半分以上が犠牲となり、先勝終結後は600人迄減少している。その後、少しづつ人口は増えていき、1966年にようやく、明治時代の1,000人レベルに戻っている。沖縄本土復帰ごろまでは増加率も前年比5%で推移し、1974年には浦添グリーンハイツが建設されたことで、前年比増加率は20%を超える年が数年続き、人口は急増している。その後も人口増加は続いたが、2010年以降は前田公務員宿舎地売却が議決され、公務員宿舎住民が転出し、人口は減少。ゆいレール延長で、前田には三つの駅が開業となり、住宅地、所業地開発が開始され、それに伴い、再度人口増加が始まっている。まだまだ、開発途中ではあるが、今後も人口は増加すると思われる。

浦添市の他の字之人口推移と比較すると、明治時代は人口が多いグループに属していたが沖縄戦の影響で、人口の少ないグループに変化し、集合団地建設、ゆいレール開通で、再び人口の多いグループに戻っている。

明治13年からの人口増加変遷グラフでは、字前田は他の地域に比べ増加率は低い。

地域内の民家分布は沖縄本土復帰までは、元々の集落が少し拡張したぐらいだが、浦添グリーンハイツと前田公務員宿舎建設がは、その地域から民家が広がっている。ゆいレールの新駅開業でまだまだ民家が広がる可能性は高い。特に終点駅のてだこ浦西駅周辺は民家は少なく、現在は開発途中となっている。

琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: なし
  • 殿: 城内之殿 (仲間集落と共通)


前田集落は隣の仲間集落からの分村であったので、集落住民は仲間の御嶽を拝んでおり、琉球国由来記では前田村としては御嶽や殿は存在していなかった。村の祭祀は浦添 (仲間) ノロによって執り行われていた。 

前田集落で行われていた祭祀について記載された資料は見つからなかったが、仲間村とほぼ同じと思われる。


前田集落訪問ログ



経塚駅

字前田には延長されたゆいレールの四駅のうち三つの駅がある。以前の終点駅だった首里駅から石嶺駅を過ぎると字前田に入り、経塚駅になる。経塚駅なのだが、字経塚ではなく、ここ前田に建設されている。駅ができる前までは、民家はそれほど多くは無かった。駅周辺は開発が続いているが、まだまだ空き地があり、今後はもっと開けていくと思われる。


前田トンネル

経塚駅を過ぎると前田トンネルになる。このトンネルは2013年は開通したのだが、片道2車線の1車線しか使われていない。何故だろう? 道路の見晴らしが悪く事故も起きたそうで、そのせいで車線を絞っているのかも知れない。


玉城朝薫の墓 (邊土名家の墓)

玉城朝薫の墓が浦添市の前田トンネルの上にある。上の前田トンネルの写真でも分かる様に、ゆいレールの軌道は玉城朝薫墓がある森を迂回するようにトンネルの東側にふくらんでいる。墓を残すためにそうしたのだろうか?この墓の造りはちょっと変わっている。墓入り口前のスペースが極端に狭く両脇の石垣のカーブがかなり迫り出している。石垣も左右非対称になっている。ここに葬られている玉城朝薫 (1684~1734年) は琉球独特の歌舞劇「組踊」の創始者。中国からの冊封使を歓待するために踊奉行となり、組踊を生み出し1719年に初めて首里城で演じられた。組踊は能や歌舞伎などの大和芸能の影響が見られ、音楽、舞踊、所作、台詞で構成されている。多くの作品は、琉球の故事をもとにしているが、中には、本土の歌舞伎の演目を琉球風にアレンジしたものもある。「二童敵討」 、「執心鐘入」、 「銘苅子」、「女物狂」、「孝行の巻」は、「朝薫の五番」と呼ばれ、高く評価されている。朝薫の家系は代々玉城間切の総地頭職をつとめていたことから玉城を名乗っていたが、子孫の代に邊土名と家名が変えている。この墓は朝薫より前の代々からの家族墓で、17世紀後半から18世紀前半に造られたと推測されている。玉城家はこの地、前田とは、特別な繋がりは無いのだが、墓がこの地に置かれている理由ははっきりとは分からない。この時代には士族に与える墓の場所が首里では不足した為、首里に近い場所をあてがったのでは無いかと考えられている。元々は首里に朝薫の一人墓に葬られていたものを、明治になってからここに移している。


前田・経塚近世墓群

前田では土地区画整理事業で道路・宅地造成工事の際に多くの横穴式のフィンチャー古墓群が見つかり、造成を一時中止し、発掘調査を行っている。出土物から1700年代頃から近世にかけて造られていたと推測されている。事業地内には約1,000基もの墓が所在するものと考えられている。沖縄戦での遺構も見つかり、墓は日本軍や民間人の避難壕として使われていたことも分かった。

発掘調査終了後、造成工事が続けられ、ほとんどの墓は消滅している。まだ、墓群が少しは残っているかもしれないと、墓群地域を巡ると、まだ造成されていない場所に幾つかのフィンチャー墓が並んでいた。


前田貯水池

玉城朝薫の墓から、北東に貯水タンクが見え、その脇腹に棒術の試合と釵 (サイ) の絵が描かれていた。興味を持ったので立ち寄った。前田の棒の試合の絵だった。この前田の棒は浦添市指定文化財になっている。沖縄各地の集落では住民の護身術としての棒術が、各集落で独自に発展し、集落の祭祀で奉納される。棒踊りも本来は村に侵入してくる悪疫等を追い払う浄めの意味があるそうだ。

前田の棒術が、いつ頃、誰によって始められたのか明らかでは無いが、内間の棒は、合戦棒 (カツシンボー) と呼ばれ、極めて実践的な荒々し い棒であり、特に組棒の場合は、少しでも呼吸を誤まる 大怪我をしかねない程だ。昔から一年おきに、むらの発展と子孫繁栄、豊年満作の祈願で旧暦八月のむら遊びのなかで行われてきた。棒は三尺棒と六尺棒が使われ、一人棒、二人棒、三人棒、巻き棒、フェーイ棒などが演じられる。また、釵 (サイ) や長鉈 (ナタ) との組合わせもあり、全体で20種ほどの演技がある。 


前田駅

経塚駅の次の駅が前田駅で、前田集落の中心地にある。駅前やゆいレールが通る道路はまだ工事が続いている。経塚駅周辺と比べると、昔からの集落があった地域なので民家が多いが、まだまだ住宅地が拡張しそうな感じだ。

井之大人川 (イノウシガー、イノーシガー)

前田集落の西部は、かつては一面水田だった。 その中に井之大人川 (イノウシガー、イノーシガー) がある。現在は住宅地になっているが、現在でも拝まれている。明治時代には7ヶ月間も日照りが続いたことがあったが、その時にもこの井之大人川 (イノウシガー、イノーシガー) は、水が枯れることがなく、住民の飲料水として使われていた。井戸の名は首里王府から授かったと伝わり、「大人 (ウシ)」は尊称で「尊い井」を意味している。戦前は、半月状に切石で縁取られた水溜になっていたが、戦後に蛇口を付けたコンクリート製の貯水タンクに改修され、現在に至っている。


広場

井之大人川の近くに広場があった。鉄棒が置かれているので、子供の遊び場でもあったのだろう。ここが何だったのかは分からなかったが、広場の隅にコンクリート製の柱が立っており、その側面には造った年月日が刻まれていたのでただの柱では無いようだ。柱は何かを吊るすような形になっている。多分、他の集落でもよく見かける酸素ボンベの鐘が吊るされていたと思う。であれば、戦後は村の集会所などであったのだろう。


根屋 (ニーヤ)、親富祖家 (シリー家) 屋敷跡

前田駅から浦西てだこ駅に向かうゆいレールの線路の南側に前田集落があり、西から東に斜面を上がるように広がっていた。前田駅のすぐ南に丘があり、その上には、前田集落の根屋 といわれる親富祖家 (シリー家) の屋敷があった場所だそうだ。場所は正確にはわからないが、そこからは前田集落全体が見下ろせたという。


前田権現へ献上する水を汲むための古井戸

根屋 (ニーヤ) の東に前田権現が置かれている。そこに集落の中から細い路地を通っていく。路地の先は階段になっており、その下の手前右側奥に拝所となった井戸跡がる。この井戸は、前田権現への献水を汲むための井戸だそうだ。


前田権現

階段を上がった一帯は上しじ毛 (イーシジモウ) と呼ばれており、かつて前田集落ではしじ毛で綱引きが行われており、4か所あった (上しじ毛、現公民館の南側一帯の前しじ毛、上しじ毛の北側一帯の西しじ毛、現公民館の東側一帯前の毛) この辺りはその綱引き場所の一つだった。現在は公民館の道路で催されている。ここに前田権現の拝所があるのでか、権現山 (グンジンヤマ) の俗称もある。この前田権現には伝承が残っている。

  • 昔、「くらしゅ石川」という人は、首里務めの復路に真和志堂 (マージドゥ) の馬場 (フトゥキントゥウマイー) を通るのだが、毎日のように同じ黒石につまづい (キッチャキ) ていた。くらしゅ石川はその黒石をその都度、道の傍にかたづけるのだが、やはり次の日も同じように同じ場所でこの石につまづいたと言う。ある年、くらしゅ石川は上司のお伴をして唐旅することになった。 旅立つ前に、以前から不思議に思っていた黒石を例の如く道の傍にかたづけながら思った。「今度、私は唐旅に行きますが、もしもお前が神であるなら、この場にじっとして私の帰りを待っていて下さい、そして旅が無事であるよう守って下さい。そしたらあなたを真実の神として信仰します」と。くらしゅ石川は帰りの航海上で大きなしけにあった時も、この黒石を思い祈った。数年して無事に帰ってみるに、この黒石は元の場所に鎮座していた。後、この黒石を上シジ毛へもっていき祀るようになった。

祠はかつては小さな石積みだったが、現在はコンクリートで固められている。コンクリートに小さな穴が左右三つづつ開いており、中を覗くことができる。祠の中には伝承にある黒石、キッチャキ石 (つまづき石) が権現の霊石として祀られているそうだ。この前田権現は石川家 屋号 川端 (カーバタ) の持ち職といわれ、 川端門中が管理している。


ハンタタイガー

前田権現の路地を戻り、右斜め向かい側にある道を進んだところにハンタタイガーがある。この辺りは、かつては苗代田 (ナーシル) が広がっていたそうだ。


トゥンチガー

また、元の道に戻り東に進むと道の両脇に道を挟むように二つの拝所がある。一つは井戸の形を模した拝所のトゥンチガーでかつての井戸で、最初は飲料水等に利用されていた重要な井戸だったが、次第に飲料水には使われなくなり、野菜を洗ったり、洗濯をしたり、農機具を洗っていたようだ。もう一つは石の祠の拝所が道の反対側にあるが、この拝所については詳細は見つからなかった。


仲新屋ヌ前ヌ川 (ナーカミヤヌメーヌカー)

更に道を東に進むと仲新屋ヌ前ヌ川 (ナーカミヤヌメーヌカー) があった。この井戸についても情報は無いのだが、名前からすると、この場所には仲新屋の屋敷があったのだろう。


川端井戸 (カーバタガー)

更に道を東に進むと、今度は川端井戸 (カーバタガー) という井戸があり、これもなのごとく、川端家の屋敷の前のあった井戸。


石川門中 川端の神屋

川端井戸 (カーバタガー) の奥には石川門中 川端の神屋があった。資料の写真はもっと古めかしい神屋の写真が載っていた。近年に今の建物に建て替えられている。先ほど訪れた前田権現はこの石川門中 川端家が守っている。前田集落の中でも有力門中の一つ。


前田公民館、神アサギ

今まで通ってきた道の南側に前田公民館がある。かつての村屋だったのだろう。公民館の前の広場ではかつては、村芝居など村の行事が行なわれていた。公民館の前の道路では昭和50年頃に復活した綱曳きが行われている。

今は建て替えられているのだが、かつてはここにアサギとよんだ建物が置かれ、村の祭祀が行われていた。


ジリチン毛

ゆいレールが走る県道38号線の北側は前田高地に繋がる丘がある。ここは前田集落の東部にあたる。昔は、ここで火をおこし集落住民に分けたという聖地で、集落の腰当 (クサティー) として大切にされている。 

ここは、かつて前田集落内に点在していた拝所を集めた集合拝所になっている。入り口に拝まれる拝所の案内板があった。


ユーアキガー (女泉)

ジリチン毛の入口のすぐ下、近くにユーアキガー (女泉) と呼ばれる井戸の拝所があった。この井戸については詳細は見つからなかった。


前田大王・前田大屋の御墓

ジリチン毛入り口の前の道の上には門中墓がある。三基の立派な墓だ。前田大王と前田大屋墓で字仲間の稲俣原から、1964年 (昭和39年) にこの地 (前田山川原) に移されたと書かれていた。この前田大王、前田大屋についての情報はなかったのだが、前田大親は三山時代には中山王の察度、武寧に仕え、尚巴志が武寧を滅ぼし、尚思紹が中山王になった際には、尚思紹に仕えたと伝わる。この前田大王、前田大屋、前田大親は同じ一族で、前田を治めていたと思う。


ウチャーギウヤシチ

ジリチン毛の前田集落拝所の森に入ると、まずは前田発祥の屋敷跡地と書かれたウチャーギウヤシチの拝所にあたる。この辺りから前田集落が始まったとされるが、前田集落は仲間集落の分村とされているので、仲間集落に住んでいた人達が、ここに移り村を造り始めたのだろう。


前田高御墓

次の拝所は前田高御墓で、以前は前田名川原にあった墓を1975年 (昭和50年) の県道38号線道路工事の際にここに移してきている。墓の前には香炉が置かれ、何やらここに頬村れた人をたたえた文言が書かれているようだが、文字は消えている部分が多く、前田按司、恵祖按司、恵祖子が見える。前田按司とはこの前田集落のリーダーだった人物、恵祖按司は伊祖按司で恵祖の事だろう、そうであれば恵祖子は英祖の事になる。恵祖の墓は伊祖にあり、英祖の墓であれば、もっと話題になっているだろう。想像では、ここは前田按司の墓で、前田は察度に仕えていたので、その前は英祖にも仕えていたと思われる。そのようなことが書かれているのか、前田按司は恵祖を祖先とするのか、そんな感じの事が書かれているのではないだろうか?


火の神 (ウミチムン) とグフンシジ

前田高御墓の奥には、集落の鎮守の火の神 (ウミチムン=お三つもの、地頭火之神) と集落を守る祖先神のグフンシジが祀られた拝所がある。火の神 (ウミチムン) には、香炉が三基置かれている。ウミチムンは「お三つもの」の事で火の神ほか三体の神を祀っているというので、その神を拝む香炉なのだろう。また、このジリチン毛で火をおこし集落住民に分けたというので、ここで火種を保管していたのかもしれない。この日の神は地頭火の神ともいわれているので、多分そうだろう。


後之御嶽、まさら神、ふえしじ之御嶽

案内板に従って先に進むと、通路脇に三基の拝所がある。後之御嶽、まさら神、ふえしじ之御嶽と書かれていた。これら拝所については情報は無かった。集落にあった拝所を合祀している。ふえしじ之御嶽は南しじ之御嶽だろう。


ティーダウカー (太陽御川)、ユーアキガー (男泉)

道の行き止まりに、ティーダウカーの井戸跡の拝所がある。ジリチン毛に隣接する浦添市消防本部の敷地内にあったものを移設している。ティーダウカー後方にはユーアキガー (男泉)がある。ジリチン毛入口にも同じ名前の井戸があったがそちらは女泉で、この井戸とはペアになるのだろうか?


ワカリジー (為朝岩)

案内板にはこのワカリジー (為朝岩) も前田集落で拝む拝所になっていた。(厳密にいうとワカリジーは字仲間ではなく、字前田の域内にある) このワカリジー (為朝岩) については、先に訪れた浦添城から訪れている。ジリチン毛から向かうと写真のような光景だ。


カンパン壕

浦添城のある前田高地の南側丘陵の麓の森の中には日本軍用の食糧を保管していた「缶詰壕」や「カンパン壕」と呼ばれた壕が幾つか残っている。浦添大公園 南エントランス管理事務所の裏から、壕群跡への道が整備されている。昭和20年5月上旬に米軍が前田高地を占領した後も、日本軍の将兵はこれらの壕に隠れゲリラ戦闘を行っていた。このカンパン壕には多数の負傷兵が収容されていた。この壕にはカンパンの入った箱が天井まで届くほど積み上げられた兵站壕で、この箱の上で寝起きする負傷者もいたという。

前田集落の沖縄戦での犠牲者は非常に多く、集落住民の59%が無くなっている。三人に一人しか助からなかった。この数字を想像すると、家族三人のうち両親二人を亡くし、子供だけ生き残った、妻と子供を同時に失った夫、クラス30人のうち友達は10人しか残っていない。そのような状態を表す数字だ。更に、家族が全滅したのも全世帯の三分の一。これも残酷な数字だ。同じことがウクライナで起こらないように祈るしかない。


山川ガー

道を進むと山川ガーがある。今はコンクリートで固められているが、かつては飲み水として使用されていた。


缶詰壕

更に道を進み行き止まりに缶詰壕がある。この壕は日本軍用の食料を保管していたため「糧食壕」とも呼ばれ、魚肉団子やサバ、パインなどの缶詰のほか乾燥野菜や米、黒糖、酒、味噌に醤油などが豊富にあり、これらが入った箱や袋を出入り口に積み上げ弾よけ、爆風よけにしていた。 (図参照)  壕内部は何本も道があり、四つも出入り口があった。この壕には大隊長や将兵、軽度の負傷者が身を隠していたが、ついには米軍に食料を持っていかれてしまたそうだ。

この周辺にはまだまだ当時、日本軍が使用した壕が残っている。先ほどの缶詰壕の別の入り口なのだろうか?下の写真はその一部。


てだこ浦西駅

ゆいレールが通る県道38号線を西に進むと、ゆいレールが地下に潜っていく。地下を走るのはここだけじゃないかな?(まだゆいレールは2度しか乗ったことがないので確証はないのだが) 

そしてゆいレールは丘陵下の終点浦西てだこ駅に着く。駅の周りはまだまだ民家は少なく、道路工事の最中だった。これから住宅地建設が行われるのだろう。ここから那覇中心には25分、那覇空港までは45分で着くので、比較的交通は便利だ。那覇のベッドタウンとして開発が進むのではないだろうか。


聖公会ベッテルハイム教会 (ベッテルハイムホール)

てだこ浦西駅の近くに聖公会ベッテルハイム教会があった。集落巡りでは、このベッテルハイム (Bernard Jean Bettelheim) が登場することがある。ベッテルハイムは1811年ハンガリー生まれのユダヤ人。イタリアの大学で医学を学び、軍医として働いていた時、イギリス聖公会の宣教師と出会い、キリスト教に改宗している。1840年にキリスト教徒となる。1843年イギリス人エリザベス・メリーと結婚、国籍をイギリスに移している。1845年に、琉球海軍伝道会の沖縄派遣宣教師となり、1846年、沖縄の那覇へ上陸。当時、琉球王国は薩摩藩の実質支配下で鎖国政策がとられ、ベッテルハイムの入国は拒否されたが、なんとか上陸が許可された。以後8年間、那覇の波上山護国寺に住み、宣教と聖書翻訳を行った。那覇の住民からはナンミンヌガンチョー (波之上の眼鏡) と呼ばれていた。近代日本のプロテスタント宣教史は、ベッテルハイムにより沖縄で開始され、1855年、琉球語訳福音書、使徒言行録、ロマ書を完成している。琉球滞在時には、キリスト教布教だけでなく医療活動を行っていた。日本で最初の種痘を行った。その過激な言動や奇行から、首里王府の退去要請が出たが、お構いなしに強引に活動を続けていた。ジョン万次郎が沖縄に帰国した際には、首里王府は奇人ベッテルハイムと遭遇することを恐れ、ジョン万次郎は豊見城間切の翁長集落に留め置かれていた。1854年ペリーが来琉した時、ペリーのもとで働き、その船舶でアメリカ合衆国に渡っている。1858年 (安政5年) 日米通商条約の締結後、再び日本入国を申請するが、許可されず、南北戦争に従軍するが、1870年 (明治3年) に、59歳で没している。

日本ではこの聖公会はよく知られたキリスト教の団体で、11の教区があり、約300の教会に2.5万人余りの信徒があるそうだ。翁ははこの11教区の一つで、12の教会がある。ベッテルハイムがこの浦添と関係があったわけではないのだろうが、日本聖公会の草分けのベッテルハイムの名を付けたのだろう。教会にはベッテルハイムホールがあり、コンサートや集会で使われ、向かいには大きな駐車場まであった。


銭 (ジン) グスク、浦添前田公務員宿舎

前田集落も他の集落と同じように斜面に広がっている。その斜面は上に行くほど急になってその最高地 (標高約120m) には銭 (ジン) グスクと呼ばれるグスクがあったとされている。現在は公務員宿舎やその側に配水池がある。この辺りにあったといわれている。かつては、大岩があり、古墓や銭蔵があったが、国家公務員住宅の造成工事で消滅している。現在は遺構もなく、銭 (ジン) グスクがどのような機能だったのかは分からない。旧暦6月26日には、この場所から東の海に向ってトウシ祈願が行なわれたことから、東方海の彼方のニライカナイの祈願所だったと考えられている。沖縄では村を造る際には、高台を腰当 (クサティ) と呼ぶ聖域を造り、その下方に村が広がっていった。この銭 (ジン) グスクはその腰当 (クサティ) に匹敵する位置にあるが、琉球国由来記には前田の御嶽や殿は見当たらず。前田集落の殿は浦添城の殿となっている。前田集落にとっての腰当 (クサティ) は浦添城だったと思われる。聖域でないとすると、考えられるのは、察度、武寧に仕えた前田按司の居城だったかもしれない。浦添城の出城的役割だったかもしれない。

参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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