Okinawa 沖縄 #2 Day 172 (13/03/22) 旧浦添間切 (8) Toyama Hamlet 当山集落
旧浦添間切 当山集落 (とうやま、トーヤマ)
- 普天間街道石畳、当山橋
- 当山井 (トーヤマガー)
- 浦添大公園 憩いの広場ゾーン
- 干支橋
- 当山世利原古墓群
- 第一橋
- 当山公民館
- 当山東井 (アガリガー)
- 砂糖屋跡 (サーターヤー)
- 宗地井 (ソージガー)
- 当山御井 (ウフガー) [3月17日 訪問]
今日は先日訪れた。前田集落の北と仲間集落の東に隣接する当間集落を訪れる。当間集落は明治以降にできた屋取集落で文化財はあまりない。それで、当間集落訪問が終わってから、もう一つ伊祖集落にも足を延ばす。ここでは、当間集落のみの訪問記を記載しておく。伊祖集落については別途。
旧浦添間切 当山集落 (とうやま、トーヤマ)
当山集落は、浦添城跡の北側に位置し、明治時代の廃藩置県後に首里からの帰農士族によって村立てが行なわれた屋取集落。古くは、仲間村に属していたが、移ってきた帰農士族は伊祖と中原の田畑も借地をして農耕を行っていた。古老の話では、ここに最初に入植した人が安富祖当山を起源としていたので当山と呼ぶようになったという。多分、当間集落の一班がある浦添城の東の麓がその場所と思う。 当間は、戦後、1947年 (昭和22年) に仲間、伊祖、西原の各字から分離し独立行政となった。当山部落は、古い地縁、血縁的共同体がない屋取集落なので、御嶽などの拝所はない。 昔からの人々が使用してきた古い井戸は大切にし、村の産井 (ウブガー) などとして拝んでいる。
字当間は1947年 (昭和22年) に独立行政区となったのだが、人口統計のデータは1934年 (昭和9年) からあった。1934年は公式な行政区分なのだろう。古老の話では大正末期には当間部落ト呼ばれていたとある。1919年 (大正8年) の地図にも当間集落が記載されている。1934年 (昭和9年) の集落人口は286人 (62戸) で、浦添村の中では二番目に小さな集落だった。沖縄戦では米軍が浦添城に立てこもっていた日本軍を攻撃する通過地点でもあり、多くの被害が出ている。戦死者は集落全体の55%にも達している。全世帯で犠牲者を出していないのは僅か4世帯のみで8%だけだった。昔から住んでいる家族はほとんどが悲惨な目にあっている。
人口が急増したのは1970年代で、当山ハイツが建設されたときから始まっている。集合住宅が増えていくにつれて人口は増加している。1970年代は年増加率は10%を超えている。当山ハイツの人口は字当山の40%を占めているが、近年は人口が減少傾向になっている。2002年に字当間の人口が20%以上増加しているが、この背景については書かれていない。2005年には行政区の見直しがあり、字牧港、字西原、字伊祖、字前田、字仲間から移された地域の影響かもしれない。
人口は明治時代に比べ、10倍に増え、約3,000人にまで達したが、浦添市の他の字と比較すると、人口は少ない字の状態が続いている。
人口増加率は浦添市の平均増加率とほぼ同じぐらいだ。
民家の分布は翁は本土復帰前までは、元々の集落があった地域からほとんど拡張していない。当山ハイツが建設された1974年以降に広範囲に民家が増えている。字地域の南西部は浦添大公園になっており、今後、住宅地が建設可能な土地はあまり残っていない。
当山集落は明治時代の廃藩置県後にできた屋取集落なので、御嶽や殿は存在しない。
当山集落訪問ログ
普天間街道石畳、当山橋
当山井 (トーヤマガー)
浦添大公園 憩いの広場
干支橋
当山世利原古墓群
第一橋
当山公民館
当山東井 (アガリガー)
砂糖屋跡 (サーターヤー)
宗地井 (ソージガー)
当山御井 (ウフガー) [3月17日訪問]
これで、当間集落巡りは終了し、つぎは伊祖集落に移る。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
3コメント
2022.03.16 05:49
2022.03.16 02:15
2022.03.16 02:12