Okinawa 沖縄 #2 Day 172 (13/03/22) 旧浦添間切 (9) Iso Hamlet 伊祖集落

旧浦添間切 伊祖集落 (いそ、イーズ)
  • 浦添大公園 ふれあい広場
  • 浦添貝塚
  • 伊祖の高御墓 (タカウハカ)
  • 伊祖の古島 (メーヌアタイ)、真久原古墓群
  • 龕屋跡
  • 伊祖城跡公園
  • 獅子屋 (シーサーヤー)
  • 第62師団独立歩兵第21大隊3中隊終焉の地
  • 伊祖グスク
  • 伊祖神社 (伊祖之嶽)
  • 旗立て
  • 岩二の廓?
  • 南風原当 (ヘーバッペー) 神屋
  • 上之井 (ウィーヌガー)
  • 伊波井 (イハガー)
  • 前ヌ井 (メーヌカー)
  • 共同製糖場跡
  • 西原家根屋 (安里門中)
  • 太陽井 (ティダカー)
  • 牛くんじガジュマル、銘苅門中屋敷跡
  • 伊祖公民館 クガニ森
  • 伊祖之神殿 (火の神、神アサギ)
  • 柴木井 (シバキガー)
  • 根屋 (西原旧家)
  • 後ヌ井 (クシヌカー)
  • 西ヌ井 (イリヌカー)
  • クムイ (溜池) 跡
  • 子之方ヌ井 (二ーヌファーヌカー)
  • 立津井 (タチチガー)
  • 伊祖苗代田
  • 御殿井 (ウドゥンガー、トゥンチガー) [未訪問]

当山集落巡りを終えた後、隣村の伊祖集落にあった文化財を訪問する。当間にある浦添大公園憩いの広場ゾーンからは伊祖/仲間地域内にあるふれあい広場ゾーンに続いている。まずはその憩いの広場ゾーンから散策する。



旧浦添間切 伊祖集落 (いそ、イーズ)

伊祖部落は、 浦添城跡から続く琉球石灰岩の丘陵西側、伊祖城跡の南斜面に位置している。「球陽」には伊祖村は1740年尚敬王時代頃までは、現在の伊祖グスク南傾斜地の石だらけの狭い場所に位置し、人家も離れ、生活には不便が多かったので、現在より東北の真久原への村移りを王府に願い出て、 伊祖古島へ移動している。伊祖古島に移ったものの、 病気がはやり、人口戸数ともに減少した。農地は旧地にあるため、往来に不便で、耕地管理もままならないため痩地化したので、 1787年、移動後47年に再びもとの処に移ったという。

伊祖の人口は1880年 (明治13年) では368人で、1960年代までは少しずつ増加し、1000人程までになっていた。1960年代末から。集落の南西部の浅野浦に住宅地が開発されてから急増している。

明治時代の伊祖は旧浦添村の中では比較的人口の少ない地域であったが、本土復帰以降は人口が増加し、現在では9,193人まで達し、浦添市では四番目に人口の多い字トなっている。


明治13年からの人口増加率は浦添市平均を上回り、非常に高い率を示している。

地域内の民家の分布の変遷を見ても、本土復帰前後から発展が始まった事がわかる。現在では地域内のほとんど全域が公園や学校以外は民家で埋め尽くされている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 伊祖之嶽 (神名: キミノスデ ヒルスガナシ、伊祖神社)
  • 殿: 伊祖之殿 (伊祖之神殿、火の神、神アサギ)


伊祖集落で村として行われている祭祀は以下の通り。

浦添 (仲間) ノロによって祭祀は執り行われていた。


伊祖集落訪問ログ



浦添大公園 ふれあい広場

ふれあい広場は子供からお年寄りが楽しめるピクニック広場、はいさい広場、多目的広場、芝広場などがある。
ここもグスクなど沖縄を意識した造りになっている。先日訪れた浦添ようどれ館からこのゾーンへの遊歩道が丘陵尾根に通り、展望台まで続いている。展望台がある高台は沖縄戦で4月20日から23日にかけて激戦地となった。米軍は攻略ポイントとしてイーストピナクル (East Pinnacle) と呼んでいた。
ここからは浦添市の都市が臨める。
展望台から下の広場へも遊歩道があり、琉球赤瓦の東屋やグスク建築を模した建物があり、沖縄の雰囲気が味わえる。
子供向けの遊び広場にある遊具も沖縄風の造りになっている。


浦添貝塚

ふれあい広場ゾーンの中に芝生広場があり、ここで、3,000年前の住居の貝塚が1969年に発見された。貝塚からは石斧、土器、貝の飾りや貝殻などが発見されている。奄美系土器も出土し、沖縄と奄美、九州の交流があったことが確認されている。この貝塚の保存の為にここを走る国道330号線は伊祖トンネルとなっている。

伊祖の高御墓 (タカウハカ)

伊祖部落の北東をほぼ東西に延びる浦添丘陵の崖の中腹、ちょうど、浦添貝塚の上には伊祖の高御墓 (タカウファカ) がある。岩を掘り込み、前面を琉球石灰岩の相型積み (亀甲乱れ積み) 石垣で囲い込み、墓口がアーチ形になった岩陰葬墓 (いわかげそうばか) と言われる形式の墓で、歴史的に古い形式に属する。英祖 (1229~1299) の父の恵祖世主 (えそよのぬし) と他二人の按司の遺骨が納められているといわれ、墓内には、石厨子1基と甕棺2基が安置されている。

貝塚期には岩陰住居 (がいいんじゅうきょ) として利用されたと考えられている。昭和47年、国道330号建設工事によって存亡の危機にさらされたが、県民の保存運動、関係者の努力によって、トンネルが造られることになり、浦添貝塚とともに保存された。高御墓へは階段が設けられている。

更に奥への道があり、拝所が三つあった。これが墓なのかは不明だが、前には香炉が置かれているので墓だと思われる。

伊祖の古島 (メーヌアタイ)、真久原古墓群

伊祖の高御墓 (タカウハカ) の北側が伊祖集落の古島という。伊祖村は大きく二つの地区に分かれている。伊祖城跡公園の南西側 の大きな集落が本部落あるいはムラと呼ばれ現在の伊祖の中心地で、その公園の東側から古島あたりにかけての集落は、屋取 (ヤードゥイ) またはハルヤーと呼ばれている。古島とはいっても村が始まった場所ではなく、1740年尚敬王時代に伊祖グスク南傾斜地にあった村を、首里王府の許可を願い出て、東北側の真久原に、村移りをした。伊祖古島に移ったが、村は衰微したので、今からおよそ250年前に再びもとの処に移ったと文献に書かれている。明治以降に再びこの地に移り住む帰農士族が集落を造ったのだろう。明治時代の地図では小さな集落があったことが判る。現在は沖縄コカコーラやリゾートテラス伊祖の高層マンションとなっている。その周りは真久原古墓群が発見されている。

50年ほど前の写真が資料に載っていた。偶然にも、ちょうど上の写真と同じ場所の様で、随分と変わっている。



龕屋跡

古島は伊祖集落の高台にあたり、集落はそこから下る斜面に広がっている。古島のすぐ下側にはかつては龕屋があったそうだ。龕屋は大体が、集落のはずれ、墓地近くに置かれている。この辺りには真久原古墓群が発見されており近世まで墓地として使われていたのだろう。資料にある龕屋の写真を頼りに探すが見つからなかった。資料は40年も前に発行されたもので、当時から街は様変わりし、龕屋も無くなってしまったのかも知れない。
龕屋があっただろう場所の近くには亀甲墓があった。
この近くで面白いものを見つけた。集落巡りをすると、公民館などで酸素ボンベの鐘が吊るされている事が多いのだが、ここでは車止めになっていた。
また近くの民家には、昔使っていただろう井戸とそのつるべの柱が残っていた。伊祖は地下水が豊富で各家庭に井戸が掘られて使用されていたそうで、かつては各家庭にこのような井戸があったのだ。

伊祖城跡公園

伊祖集落の北東の高台には伊祖グスクがあり、伊祖公園となっている。公園内にアスレチック遊具がある子供の広場、芝生広場、展望台などがあり、綺麗に整備されていた。
高台麓のアスレチック広場から階段を登ると芝生広場に出る。桜の森と呼んでいる。沖縄ではすでに桜のシーズンが終わってしまったので、桜の花は見れなかった。綺麗に芝生が刈られている。広場には展望台が置かれていたのだが、多分、新型コロナ対策で立ち入り禁止だった。
広場内に浦添市の中にいくつかあるおもろの碑が置かれていた。この伊祖グスクを居城として中山を治めた英祖王統 (1260~1349年) 5代のゑぞのてだ (英祖の太陽) と呼ばれた初代王の英祖を讃えたおもろのプレートがある。「ゑぞのいくさもい (英祖王の童名)」 が、夏も冬もわかたず、毎月のように酒盛りをするほど、豊かな世を実現した」という意味。
芝生の広場の上の丘は森となっており、遊歩道で森の中を散策できる。

獅子屋 (シーサーヤー)

芝生公園から丘陵の南端の高台の岩の上にコンクリート製の祠がある。集落の守り神であるニ体の陶製のシーサーを祀っっており、地域の拝所として現在も拝まれている。案内板に昔の姿の写真 (右下) があった。以前は小さな石の祠だったのだ。

第62師団独立歩兵第21大隊3中隊終焉の地

遊歩道沿いに沖縄戦では4月1日、嘉手納に上陸した米軍が南に侵攻し、4月19日に防衛の為この伊祖グスクに陣取っていた独立歩兵第21大隊3中隊と激戦となった。第3中隊300余人はこの地で玉砕した。昭和50年に生存者と遺族がこの地に慰霊碑が建て、犠牲者を弔っている。このグスクでは戦後1500以上の遺骨が見つかっている。この伊祖グスクは米軍はウエスト・ピナクル (West Pinnacle) と呼び、4月20日から23日まで激戦地となっていた。

沖縄戦での伊祖住民の戦没者は下のグラフでは旧浦添村の中では少ないように見えるが、これは他の集落の犠牲が多大であったからで、伊祖村でも住民の33%がなくなっている。


伊祖グスク

伊祖グスクは、おもろさうしでは、石城 (いしぐすく)、金城 (かなぐすく)と、その堅牢をうたわれている。伊祖グスクは天孫氏の流れをくむ伊祖按司と名乗っていた恵祖世主 (えそよのぬし) がここを居城として、舜天に仕え、この地域を治めていた。英祖王統の初代王の英祖の父親にあたる。英祖誕生には伝承がある。恵祖世主には子供がなかったが、晩年、日輪が飛んできて妻のふところに入る夢を見て、生まれたのが英祖だといわれ、それで英祖は英祖日子 (エイソのティダコ) と呼ばれていた。英祖は1260年、瞬天王統三代義本王に政権を譲位され、英祖王統 を開いた際に浦添グスクに移り、この伊祖グスクは廃城になったとも言われている。
芝生の広場の北側から伊祖グスク一の廓への石の階段がある。階段の側面には石垣が残っていた。
石の階段を登っていくとコンクリート製の鳥居がある。ここが一の廓への正門があったとされている。鳥居には沖縄戦での弾痕跡がいくつも残っている。この鳥居やこの先の祠は1934年に国家神道を沖縄に強制した際に城内の各拝所を合祀して伊祖神社としてつくられたもの。石畳の参道脇には石垣が残っている。

伊祖神社 (伊祖之嶽)

一の廓内に伊祖神社がある。この一の廓には伊祖之嶽があった場所。琉球国由来記にある伊祖之嶽 (神名: キミノスデ ヒルスガナシ) と考えられている。この場所は神域で一般の人は中へは入ることができなかった。
一の廓は平場になっており、拝所が見られた。詳しくは分からないが、遥拝所だそうだ。
祠の裏側には更に上に行く道があり、その途中に墓があった。奥間グシク按司子孫の墓の様だ。

旗立て岩

伊祖グスクの中で最も高い所で旗立て岩と呼ばれている場所があり、グスク時代には物見台として使用されていたと考えられる。戦前までは岩に穴があいており旗竿がたてられるようになっていたという。鎌倉芳太郎のスケッチに説明がある。(グスク内の最高所の拝所となっているが、これは彼に勘違いだそうだ。)
ここから伊祖集落や、牧港、西海岸の北谷・宜野湾一帯から読谷半島、遠くは慶良間諸島まで見渡すことができる景勝地だった。
旗立ての場所は狭いが平場があり、沖縄戦で日本軍が掘ったタコツボがいくつかあった。日本軍はここを高射砲陣地とし、周囲には陣地壕を幾つか構築をし、壕内はトンネルで結ばれていたそうだ。頂上の周囲は崖で、米軍は攻略ポイントとしてウェストピナクル (West Pinnacle) と呼んでいた。攻略には難所で激戦地となり、多くに犠牲が出ている。

二の廓?

芝生の広場から一の廓への石の階段の途中から石畳道が分岐していた。この道は丘陵西側の広場に通じていた。伊祖グスクの案内図ではグスクは一の廓のみの記載だったが、これには少し違和感がある。丘陵を城塞としてのグスクとするならば、丘陵全体をグスクとして縄張りをするのが自然と思う。この伊祖グスクは発掘調査は一部分しか行われていないので、今後の調査が望まれる。多分この広場は二の廓の様な気がする。

次は伊祖集落内の文化財をめぐる。伊祖集落は伊祖グスクの西側斜面に広がっている。獅子屋の西側から北側に降っている。


南風原当 (ヘーバッペー) 神屋

獅子屋の西側、伊祖集落の高所に南風原当 (ヘーバッペー) 家の神屋がある。南風原は「はえばる」と読むのだがこの地ではヘーバッーと読む。狭い沖縄でも地域によって随分と言葉が異なっている。年代不明だが、 浦添 (仲間) ノロが伊祖之殿での祭祀を済まして帰る途中に、にわか雨に通い、やむなく、この南風原当 (ヘーバッペー) 家で雨宿りをした。その家の主人は驚き喜んで丁重に飲待、間食も差し上げた。こうしたことから以後は、伊祖村からの帰りには必ずこの家に立ち寄り、祝福することが例となったと伝わっている。門には上門、親富祖と書かれていた。龕屋跡にあった墓が親富祖門中の腹のものだった事を思い出した。

上之井 (ウィーヌガー)

かつてのの伊祖集落の高台地域に上之井 (ウィーヌガー) がある。集落の上にあったのでこう呼ばれる。

伊波井 (イハガー)

上之井 (ウィーヌガー) のすぐ側、下坂道の途中に伊波井 (イハガー) がある。他の井戸は綺麗に手入れがされているのだが、この井戸は集落では拝まれてはおらず、個人所有の井戸だそうだ。草が生え放題で、井戸の様子もよく見えない。

前ヌ井 (メーヌカー)

伊波井 (イハガー) から道を下ると、もう一つ井戸がある。前ヌ井 (メーヌカー) で、子どもが生まれた時の産水や正月の若水を汲んだ村井だった。この前ヌ井 (メーヌカー) は村では一番大きく、水量も豊富だったので、防火用水にもなっていた。 ここはかつての集落の南端にあたり、この前からは畑が広がっていた。現在では、伊祖にはほとんど畑は無く住宅がぎっしりと立ち並んでいる。

共同製糖場跡

伊波井と前ヌ井の間には、かつて、伊祖集落の共同製糖場があった。写真の駐車場の奥にあったようだ。

西原家根屋 (安里門中)

前ヌ井から北の方向、かつての集落中心部に進むと、伊祖村の村立てを行った草分けの家であった西原家の神屋がある。伊祖集落の根屋 (ニーヤ) にあたる。集落の人たちは安里 (アサトゥ) と呼んでいる。この西原家は英祖の子孫と伝わっている。神屋内には向かって左側に「西原家 元祖」の位牌と香炉が置かれて、祖先を祀っている。その隣には火の神、更に幾つもの香炉が置かれ、英祖王」の左側御先祝女、御王女、英祖王、恵祖世主 (英祖王の父)、世大主がが祀られている。

太陽井 (ティダカー)

根屋の前には手押しポンプの井戸がある。まだ使っている様だ。太陽井 (ティダカー) と書かれている。西原家屋敷の井戸だったにではと思う。昔からそう呼ばれていたのかは分からないが、ここにてだこ (太陽の子、日輪の子) と呼ばれた英祖王を祀っているので、そう呼んだのだろう。

牛くんじガジュマル、銘苅門中屋敷跡

西原家根屋 (安里門中) の前の道を少し降ったところに休憩所があった。そこにはガジュマルの木があり、牛くんじガジュマルと呼ばれている。牛くんじとは何を表しているのか気になるが、説明はなかった。沖縄南部方言でくんじとは水を汲む事らしいが、牛とどう繋がるのかは分からない。この牛くんじガジュマルの向こうに見える立派な家がある場所は、伊祖集落の有力門中の銘苅門中の屋敷があった場所。

伊祖公民館 クガニ森

西原家根屋の横の道を上ったところに伊祖公民館がある。このあたりは黄金森 (クガニムイ) とよばれていた場所で、木々が生い茂る丘だったのだろう。沖縄戦当時の地図を見るとここには民家は無く、日本軍の陣地壕があった。戦後いつの時代かに、この地に村屋を移し、公民館となった様だ。現在の公民館は平成19年に建てられたもの。

伊祖之神殿 (火の神、神アサギ)

現公民館のある伊祖部落の中央から、少し北西側の丘に伊祖之神殿がある。琉球国由来記にある伊祖之殿と考えられている。浦添 (仲間) ノロによりウマチーなど祭祀が行なわれていた。入り口にはコンクリート製の鳥居があり、敷地には祠が建っている。祠は伊祖之神殿と書かれており、火の神が祀られている。その隣には神アサギが置かれており、この場で祭祀が行われる。

昔の写真が資料に載っていた。広場には建物が見えるが、ここには村屋 (ムラヤー) が置かれていたので、その建物だろう。

更に時をさかのぼり、昭和2年に鎌倉芳太郎が描いたスケッチが資料に載っていた。もともとはこのような建物だったのだ。


柴木井 (シバキガー)

伊祖之神殿 (火の神、神アサギ) の前方に柴木井 (シバキガー) の拝所がある。ミカチチガー (三日月井?) とも呼ばれている。井戸は道路が造られた際に埋められてしまい、道路傍に井戸を模した型を作って、形式保存している。かつては、ノロはこの紫木井の水で手足を清め、井戸の前に紫木 (ヤブニッケイ) の小枝と神酒花米を捧げ、祭祀を行っていた。ここで身を清めた後に、伊祖之殿に向かい祭祀を行ったそうだ。

根屋 (西原旧家)

先に訪れた英祖王の子孫にあたると言われる安里門中の根屋 (ニーヤ) は、以前はこの場所にあったそうだ。
根屋の隣に三角の場所が駐車場になっている。かつては、溜池 (クムイ) があった場所だ。

後ヌ井 (クシヌカー)

根屋 (西原旧家) の裏に後ヌ井 (クシヌカー) がある。溜池 (クムイ) から道が井戸に通じている。多分井戸の水はクムイに流れ込んでいたのだろう。

西ヌ井 (イリヌカー)

後ヌ井 (クシヌカー) から1ブロック北側の住宅地の中に西ヌ井 (イリヌカー) がある。ここに井戸があると知らないと見過ごしてしまう。道路脇の溝と思われる様な場所にある。昔はもっと広い井戸だったのだろう。

クムイ (溜池) 跡

西ヌ井 (イリヌカー) から少し西に進んだところにも小さなクムイ跡がある。
クムイ跡は広場として綺麗に整備され、花壇前にはビオラ・コルヌタが絨毯のように敷き詰められていた。

子之方ヌ井 (二ーヌファーヌカー)

西ヌ井 (イリヌカー) の北側にも井戸がある。ここも見つけにくい場所にあった。駐車場の中にあった。

かつての伊祖集落内の文化財は見終わり、次に、伊祖グスクがある丘陵の東側の牧港との境界あたりに移る。


立津井 (タチチガー)

伊祖グスクがある丘陵の東側は立津原 (タチチバル) と呼ばれる小字で、ここに井戸があり、立津井 (タチチガー) と呼ばれる。近くに伊祖グスクがあるので伊祖井 (イージュガー) とも呼ばれる。琉球国由来記によるとグスクの用水にも利用され、英祖王との関わりもあったと言われており、天人由来 (羽衣伝説) も伝わっている。 昔は洞窟 (ガマ) の中から水が湧き出ていたが、現在は改修され形が変わっている。 水道が敷かれる以前は伊祖や牧港の住民の飲料水や生活用水、馬浴びの水にも利用され、それぞれ用途に応じて使う場所も分けれていた。戦後は簡易水道の水源としても活用されたが、現在では農業用水として使われている。

伊祖苗代田

立津井 (タチチガー) からは水路伸びて水が勢いよく流れている。その水路の先は畑になっていた。この畑の場所はかつて苗代田があった。

御殿井 (ウドゥンガー、トゥンチガー) [未訪問]

立津井 (タチチガー) の東は牧港小学校があり、その運動場の東の外側に御殿井 (ウドゥンガー、トゥンチガー) があると資料には書かれていた。大雑把な地図にその井戸の場所が記されている。その周辺を探したが、結局見つからなかった。40年前の資料なので、無くなってしまったのかも知れない。


当山集落と伊祖集落の見学は終了。今日は二つの集落を巡ったので、帰りは少し遅くなり、帰宅したのは7時前。この時間でもまだ薄暗くなった感じで、随分と日が長くなった。今日の行きかえりにはDarren Rahnのアルバムをそれぞれ一枚ずつ聞きながら走った。Darren Rahn はお気に入りのジャズサックス奏者だ。


参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 琉球王国の真実 (2013 伊敷賢)
  • 新 琉球王統史 01 舜天 英祖 (2005 与並岳生)

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