Okinawa 沖縄 #2 Day 219 (06/11/22) 那覇 泊区 (02) Maejima Area 前島地区

那覇 泊区 前島 (まえじま)

  • 前島町民会館
  • 前島御願所 (前島塩神、ぐぼうの御嶽)、公園小ヌ井(コウエングァーヌカー)
  • 前島焚字炉、泊塩田之跡碑 (前島中公園)
  • 泊港、泊港橋
  • 泊緑地、バジル・ホール来琉200周年記念碑
  • 泊高橋
  • 潮渡橋海中道路 (兼久大通り 国道58号線) 
  • 中橋
  • 新道小 (ミーミチグヮー) 跡
  • 兼久クラブ跡
  • 若松国映館跡
  • 前島二丁目拝所 (前島北公園)


今日は、中城村の南上原を訪れる予定していたのだが、前回 (11月3日) に屋宜集落訪問を終えて帰り道で後数百メートルの時点で、猫が飛び出し来て急ブレーキをかけた。前ブレーキがかかり、後輪が浮き上がり転倒しそうになり、右脚で踏ん張った途端、力が変に入り右脚フクロハギが攣ってしまった。2ヶ月前に肉離れしたのと同じところだった。今回はその時程では無かったのだが、3日経った今日もまだ痛みがある。という事で、今日は坂道が無い那覇市内の旧集落に訪問先を変更した。9月30日に訪れた泊集落の一部だった前島に行くことにした。


那覇 泊区 前島 (まえじま)

現在の前島はかつては海の中だった。岩の小島があっただけだった。安里川は崇元寺橋で泊港と那覇港に分岐していた。尚金福王時代 (1450-1453年) に、浮島から安里まで浮道の長虹堤が1451年に築造されてから、急速に堆積が進み、小島周囲に三角州の沼地ができ、瀉原の一部が開拓されて前島になったと考えられる。1694年には前島の潟原 (カタバル) に塩田が開かれ、塩の精製が始まった。1726年 (享保11年) からは、宅地として開発され、泊前島と呼ばれて製塩業に従事する人が移り住むようになった。
前島に移り住んだ人たちは干潟を塩田として、そこで働く人達だった。前島町の潟原塩田の様子は1816年英国艦隊が琉球を訪れた際に従軍絵師のバジル・ホールが描いている。泊高橋の石橋が描かれて、泊側、前島側に塩田で働いている人たちが描かれている。この後、1853年に訪れたペリー艦隊の兵士の訓練もその塩田で行われていた。

前島は1913年 (大正2年) に泊前島と名称変更されたが、同年に前島一丁目と二丁目に再度変更されている。1921年 (大正10年) には那覇区と泊村が合併され、「那覇市」が誕生し、町名が祟元寺町、高橋町、前島町に変更されている。かつては宗元寺と高橋町は内島、前島町は仲伊保 (ナケーフ) と呼ばれていた。戦後は三町とも商業地域として急速な発展している。1933年 (昭和8年)、兼久と前島2丁目をつなぐ新道ができる。これによって現在の前島3丁目と前島1丁目/2丁目が終日濡れずに行き来できるようになった。この一帯には前島潟原、兼久潟原、那覇潟原の塩田があり長い間製塩業が行なわれていた。昭和の初期迄は、奥武山の競技場ができる迄は全琉の陸上競技大会、野球大会、三大節における競馬や、サーカス、自動車練習場としてこの塩田が活用されていた。1907年に塩が専売制になり、製塩高が年々減少していき、1944年についに製塩業が終了した。

沖縄戦では、1944年 (昭和19年) の10・10空襲では前島の835戸数の253戸が被害を受け、更に全戸が灰塵に帰す事になった。前島住民は米軍が4月1日に読谷海岸に上陸する一週間前の3月24日までに前島から疎開を完了させていた。米軍の首里侵攻の際には、この地域は占領され、米軍は本土への攻撃に備えて、整地され物資集積地となっていた。第二次世界大戦後、土地は米軍の軍用地と接収され、前島住民は帰還する土地が奪われ、各地で生活を始めるしかなかった。那覇では1952年 (昭和27年) に戦災復興区画整理事業が始められ、市営住宅、小学校、保育園、公園などが次々に建てられた。1954年 (昭和29年) には、前島を含め泊の軍用地が返還され、泊海岸の埋立工事が行われ、泊埋立居住区 (現 前島) には、那覇軍港拡張整備のため土地が海没した垣花一帯の住民や牧志街道、美栄橋土地区画整理事業で立退きになった住民の受け入れ移転先となった。前島地区の再建が1955年 (昭和30年) 9月で、前島から避難してから11年が経っていた。1960年 (昭和35年) には那覇市土地区画整理で泊新町となり、1971年 (昭和46年) に再度の土地区画整理で現在の前島一丁目、二丁目、三丁目に整理されている。
泊と前島/兼久の人口を見ると、明治時代後期には、既に前島/兼久の人口は泊とほぼ同じぐらいだった。当時は製塩業に従事する人が大部分だった。戦後、人口の戻りは泊より前島の方が早くなっている。
前島に限定した人口は旧前島地区 (一町目と二丁目) が3/4を占め、兼久地区 (三丁目) は少数派だ。資料もほとんどは旧前島を中心に書かれており、前島は兼久を弟分のような感覚で見ていたような印象を持った。人口は戦後、1968年をピークとして減少している。一方世帯数は増加傾向となっている。顕著なのは世帯あたりの家族数で1.7人とかなり低い。那覇中心部の端にあたるので、サラリーマンのm独身者の比率が多いのだろう。


前島での戦前の祭祀

前島は製塩業を営む移住者によって出来た集落で、門中中心の伝統的な集落とは異なり、御嶽や殿などは存在しない。資料には前島の信仰については書かれていないのだが、泊の一部であったこともあり、泊の祭祀行事と共通していたようだ。泊に存在する拝所を拝んでいたのかもしれない。資料には泊・前島と一括りにして年間祭祀が以下のように載っていた。祭祀は泊大阿母によって執り行われていた。


前島集落訪問ログ




前島町民会館

前島一丁目の中心地に前島町民会館が建てられている。町民会館の前の那覇小学校 (旧 前島小学校) のあたりはシーヌ毛の丘になっていて、久場の山と呼ばれた岩山がありその前に前島公園小があった。大昔はこの岩や樹々に唐船の綱を結びつけていたという。戦前は1934年 (昭和9年) に木造茅葺平屋の前島町倶楽部が建てられた。これが町民会館の前身にあたる。前島町公園小の中の通路が倶楽部に通じていた。この倶楽部は公民館の役割の他、前島学生会が置かれ、上級学校への進学の為の今で言う学習塾が開かれていた。
戦後、米軍により岩山や前島小公園を取り壊わし、その土で潟原塩田を埋め立てたので、消滅してしまった。軍用地として接収された土地が昭和54年に解放され、翌年に前島塩神保存会が結成され、この会が中心となり、1985 年 (昭和60年) に町民会館が建設された。

前島御願所 (前島塩神、ぐぼうの御嶽)、公園小ヌ井(コウエングァーヌカー)

前島小公園には前島の守神の鎮守の宮が建てられていた。ぐぼうの御嶽と呼ばれていた。10.10空襲で焼失していたのだが、1982年 (昭和57年) に、そのぐぼうの御嶽を旧町民有志がが公民館の脇に移設再建したしている。 (写真 左中) 前島塩神と呼ばれている。旧暦の9月15日には、前島地域のヒーマーチ御願 (ウグヮン ) がここで行われ地域での防火、防災、地域の発展を祈願している。前島の製塩業は本土復帰前 (1972年) まで300 年も続き、殆どの前島の人達は製塩業に従事していた。復帰後は、塩専売法により製塩業ができなったが、自分達の生活を支えてくれた製塩業への想いは強く、ぐぼうヌ御嶽を「前島塩神」とし、前島塩神保存会」を設立し管理している。以前から塩の神を祀っていた訳ではなく、前島が始まってから本土復帰までは、製塩業によって村が維持されていた。塩と前島は切っても切れない関係という想いから「塩神」と命名している。ぐぼうの御嶽の前には公園小ヌ井 (コウエングヮーヌカー 右中) がある。前島小公園の近くから水が湧き出ていたことから、この井戸はそう呼び親しまれたそうだ。元々の井戸は別の場所にあったのだが、このあたりは今も掘れば水がわくそうだ。この井戸も単なる形式保存ではなく、給水パイプもあるので、実際の井戸でもあるようだ。それ以外にも、ぐぼうヌ御嶽の隣にも霊石 左下) と火ヌ神 (右下) が祀られている。

前島焚字炉、泊塩田之跡碑 (前島中公園)

公民館、ぐぼうの御嶽の前の那覇小学校 (旧 前島小学校) 南側には前島中公園があり、その中に泊塩田之跡碑が1981年 (昭和56年) に建てられている。前島の製塩業300年の歴史を終えた後も塩は住民に生活そのもので、アイデンティティだ。その想いから、祖先の偉業を偲びこの碑を建立したそうだ。泊塩田之跡碑の隣には焚字炉 (フンジルー) が1992年 (平成4年) に再建されている。元々は前島町小公園の北側にありヒ・ヒール焚字炉または惜字炉とも呼ばれていた。ここに、学問を大事にし、文字を書いた紙を粗末にしないよう敬った中国の風習で、文字を書いた紙を焼いた炉。ここにある焚字炉の後ろに説明が書かれていた。そのままここに載せておく「1838年 (天保9年) 尚育王の時代に冊封使林鴻年の勧めにより焚字炉が設けられた。沖縄の旧俗では文字を書いた紙片を大切にする様に適当な場所に焚字炉を設けて路傍の紙片はこれに入れて積もった時に焼いていた。第二次世界大戦前迄、前島小公園には東西に通ずる大通りに面して一基置かれていた。この地域は製塩人口が多かったが先人達が儒学にも深い関心をもっていた精神を汲み次代を担う青少年に誇りと励みを与える趣旨で再建するものである。」
那覇 (浮島) と泊村の間には首里から海へ流れ込む安里川の土砂の堆積により形成された干潟が広がり、そこには塩田が作られていた。潮渡川を挟んで西側には那覇塩濱 (那覇潟原)、北側の安里川河口には前島潟原と兼久潟原で構成されていた泊塩濱 (那覇潟原) があった。17世紀に薩摩から、新しい製法が導入され塩作りが発展していった。潮の干満差を利用して海水を蒸発させ、高濃度のかん水を取り出し効率よく塩を煮出す入浜式塩田だった。明治38年に製塩業は自由販売から専売になった。塩の買取価格が極めて安く、前島製塩業者は苦境に落ち入り、塩の闇商売が横行した。警察に検挙、営業停止、塩の没収、罰金を課されるも払えず刑務所送りなどが実態だった。その後、県が燃料を薪から石炭に変える指導し、効率を上げ生産高も向上新し、大正年間は前島製塩業の全盛期となった。とはいえ、製塩業者の生活は苦しいままだった。前島の製塩業は本土復帰で終息したとされるが、実際には第二次世界大戦前に日本軍により戦略上干潟が接収され埋め立てられた時に運用が不可能になっていた。本土復帰までは豊見城の与根で細々と製塩業が行われていた。その後は沖縄戦、戦後の米軍により軍用地として接収、埋め立てですでに終息していた。


泊港、泊港橋

現在の前島三丁目には泊港がある。浦添中心とした英祖王統、察度王統時代の中山王国が海外貿易の港として整備していたのがこの泊港で、尚氏王統時代に那覇港が出来てからは、大型船は那覇港、小型船は泊港が寄港地となっていた。現在でも泊港は渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、粟国島、久米島、渡名喜島、北大東島、南大東島への離島便のターミナルとなっている。港の海には1986年に完成した若狭と曙を結ぶ全長1,118mの泊大橋が架かっている。
泊港から安里川を越えて天久へは泊港橋がかけられている。この泊港橋は1988年 (昭和63年) に造られて、それまでは泊高橋経由だったのが直接泊港で南北が結ばれた。橋の欄干の親柱には龍頭の彫刻が置かれ、沖縄らしさが出ている。

泊緑地、バジル・ホール来琉200周年記念碑

泊港には泊緑地の公園が整備されている。色々なイベントの会場として利用されている。公園の中にバジル・ホール来琉200周年記念碑が置かれている。幕末には英国、米国、仏国の艦隊が来琉した際の寄港地となっていた。ここから各国との和親条約に至ることになった。この時代の各国の来琉については、泊集落訪レポートで詳しく触れている。

泊高橋

泊港の上流部の安里川には泊村と兼久 (前島) を結ぶ泊高橋が架かっている。昔から那覇市と中北部をむすぶ国道58号線が通る要衝で、県下で交通量のもっとも多い地点になる。
今では国道58号線の両側には商業ビルが立ち並んでいるが、戦前は那覇、兼久、泊を結ぶ海中道路で兼久集落があっただけだった。戦前の写真 (左) が残っている。北側からの写真で海の中に細長い陸地が見える。戦後は泊地区は米軍に接収され、現在の国道58号線は軍用1号道路として米軍によって整備された。その建設直後の写真が右のもの。これを見ると、戦後の発展は凄まじい事がよく分かる。

潮渡橋

海中道路は泊高橋から潮渡橋まで通じていた。琉球王統から明治時代はこの場所は潮渡口と呼ばれ、まだ橋はなく、美栄橋で久茂地川から泊港付近に流れる潮渡川を干潮時に陸地となった時に徒歩で渡り海中道路に出ていた。ここに木造の橋が架かったのは明治42年だった。

海中道路 (兼久大通り 国道58号線) 

この海中道路は現在では国道58号線となり那覇市の中で主要な大通りとなっている。戦前は細い海中道路の中間ぐらいに兼久集落があっただけでほとんどは干潟だった。戦後、米軍が潟原を埋め立て、道路を整備し道幅も広くなった。当時は兼久大通りとも呼ばれて、道路両側には多くの商店が立ち並んでいた。

中橋

前島から泊へは安里川を渡るのだが、昔は宗元寺橋と泊高橋の二つの橋を遠回りして渡って行っていたが、前島には飲料水に適した井戸もなく、水は小舟で泊から運び、学生は腰まで水に浸かり通学という有様だった。その後、明治27年に発足した泊青年会 (後に泊学生会となる) が大正8年に、宗元寺橋と泊高橋の中間に橋を架ける事を提唱し、泊の市議会議員含めた有力者が那覇市に働きかけて、議会承認も無いまま大正10年に実現している。ちょっとしたドラマの様な進展だった様だ。中間にあったので中橋と呼んでいた。現在の橋は中之橋と書かれているのだが正しくは中橋だそうだ。中橋は沖縄戦で破壊され、戦後、米軍が仮橋を架けて使用していたが、1958年 (昭和33年) にコンクリートで新しく架け直されているのだが、部分的に以前に橋の造りが残されている。

新道小 (ミーミチグヮー) 跡

旧前島集落 (前島一丁目) から旧兼久集落 (前島三丁目) へは干潟が陸地になった時に歩いて行くしかなかったのだが、新道小 (ミーミチグヮー) ができて、いつでも、この二つの集落間の行き来ができるようになった。当時はこの道が前島と兼久を結ぶ唯一の生活道路だった。

兼久クラブ跡

新道で海中道路に出ると兼久集落に入る。戦後、海中道路のすぐ西側には大正10年頃に、集落住民の集会所として造られた兼久集落の村屋跡がある。地元では兼久クラブと呼ばれていた。沖縄戦で焼失したが、戦後再建された様だ。現在はマンションとなっている。

若松国映館跡

兼久クラブ跡の南側の潮渡側沿いには若松国映館が1960年から1984年まで営業をしていた。この辺りは戦後、埋め立てられて、社交街となり、人も集まり栄えていた。映画館ができ、24年間も続いた。社交街という事からか、もっぱらピンク映画が主流だったそうだ。跡地はホテルが建っている。写真下は営業していた時のもの。


前島二丁目拝所 (前島北公園)

国道58号線の西側、海側は前島三丁目になり、その中にある前島北公園の一角に拝所が置かれていた。前島二丁目拝所と書かれている。二丁目の住民が作った拝所になるのだろうか? ここは前島三丁目で、琉球王統時代には兼久と呼ばれていた地域だ。当時は前島からは海によって隔てられていた場所だった。戦前の地図を確認すると、ここは前島二丁目となっていた。まだ三丁目は存在していない。戦後、前島潟原が埋められて前島二丁目となり、旧前島二丁目が三丁目と変わったのだ。つまりこの拝所は旧兼久の人々の拝所という事になる。これでスッキリした。この公園がある所は兼久潟原と呼ばれた塩田で、兼久に移り住んだ人達が製塩業を営んでいた。祠の中には三つの石が置かれている。火ヌ神を祀っている。その横には井戸、更に隣のガジュマルの根元には香炉が置かれている。



これで前島地区訪問を終え、隣の松山と若狭にある文化財も巡った。どちらの地区もまだ見ていないスポットもあるので、全て見終わってからのレポートとする。



参考資料

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 泊誌 (1974 とまり会)
  • 青い目が見た「大琉球」(1987 ラブ オーシュリ)
  • 泊前島町誌 (1991 真喜志駿)
  • 泊前島今昔物語 (2007 島袋文雄)

0コメント

  • 1000 / 1000