Okinawa 沖縄 #2 Day 218 (03/11/22) 旧中城間切 (10) Yagi Hamlet 屋宜集落
旧中城間切 屋宜集落 (やぎ、ヤージ)
- 吉の浦、屋宜 (ヤージ) ゴーゴー
- 威部加那志 (イビガナシー、屋宜湊干瀬ノ御イベ)
- 中城尋常高等小学校 (中城国民学校) 跡
- 受水井戸 (ウキンジュガー)
- カクリジカ
- チンジャーガー、桃原井 (トーバルガー)
- 吉の浦線 (旧県道 ケンドー)
- 屋宜公民館
- 船井戸 (フニガー)
- マーチューグヮ
- シマクサラシの牛を繋いだ場所
- サジタイ、クラブ跡
- シンブシ
- 根家 (ニーヤ)
- 屋宜川 (ヤージガーラ)、サーターヤー跡
- ノロ殿内 (ヌンドゥンチ、屋宜巫火神)
- 東ヌ殿 (アガリヌトゥン)
- 東ヌ殿ヌ一鎖ヌ井 (アガリヌトゥンのチュクサイヌカー)
- 玉城殿 (タマグスクドゥン、玉城佐久川ヌ嶽)
- 玉城殿ヌ一鎖ヌ井 (タマグスクドゥンのチュクサイヌカー)
- 祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 墓
- 松根小 (マーチニーグヮ)
- 玉城の神屋 (カミヤ)
- 地頭殿 (ジトゥードゥン)
- 火の神
- 地頭殿一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー)
旧中城間切 屋宜集落 (やぎ、ヤージ)
屋宜集落の人口は明治時代には中城村真ん中かぐらいに位置していたが、戦前までに減り、沖縄戦では明治時代の半分までに減少している。その後、元の人口に戻ったのは1980年で、それ以降、徐々に増えていっている。近年は増加傾向の兆しが見える。
中城村の他の集落との比較ではほぼ真ん中に位置している。
琉球国由来記にある拝所
- 御嶽: 浜崎ノ嶽 (神名: ヨアゲマキ ウアミサデツカサノ御イベ)、屋宜湊干瀬ノ御イベ (神名: 南風ノア ビノ御イベ、西ノア、ビノ御イべ = イビガナシ)、屋宜佐久川ノ嶽 (神名不詳)、玉城佐久川ノ嶽 (玉城ヌ殿?、神名不詳)
- 殿: ヤン殿内之殿 (山田ヌ殿 在当間)、玉城之殿 (玉城ヌ殿)
- 拝所: ヤン殿内根所
屋宜集落で行われていた村祭祀は以下の通り
村祭祀は屋宜ノロによって執り行われていた。屋宜祝女は屋宜集落以外では安里、奥間も管轄していた。
琉球王統時代に屋宜祝女によって執り行われていた祭祀は以下の通り。
沖縄戦に於いての屋宜集落住民の戦没者は259人に上る。当時の屋宜の人口のデータが見当たらず戦没者率は不明なのだが、それ以前の人口から推測するの50%から60%ではなかっただろうか?かなり高い率だったように思える。屋宜での沖縄戦がどのようなものだったかはまだ資料を読み込めておらずわからないのだが、国民学校には日本陸軍石部隊が駐屯しており、集落後方丘陵地には射撃訓練所が設けられ、屋宜海岸には大砲、機銃、トーチカが備え付けられていた。米軍の海からの艦砲射撃、海岸線と丘陵地を北から南へと米軍が侵攻していたことを考えると被害は少なくはなかっただろう。
屋宜集落訪問ログ
まずは屋宜の海岸に向かう。海岸には威部加那志 (イビガナシー) という拝所があり満潮時には海に没してしまう。近くまで行けるのは干潮時だけで、今日の潮の満ち引きを調べると午前中は潮が引いているようなので、最初は海岸を訪れてその後集落に移る事とした。
吉の浦
一、 中城吉の浦 吉の浦の 珍らしや 今日からしばしば見らに 又 屋宜の浦の吉の浦の」 (中城の吉の浦は、すばらしいことよ 今日からしばしば みることにしよう)
とよむ中城 よしの浦のお月 みかげ照りわたて さびやないさめ
(評判高い中城の、よしの浦の月よ、月影も照り輝いて、何の災い、憂いがあろうか)
威部加那志 (イビガナシー、屋宜湊干瀬ノ御イベ)
中城尋常高等小学校 (中城国民学校) 跡
屋宜海岸から内陸部に移り、戦前は幹線道路だったケンドーと呼ばれた旧県道 (吉の浦線) 沿いを見ていく。当間と屋宜の境界にある現在の中城中学校敷地は、戦前は中城尋常高等小学校 (昭和16年に中城国民学校に改称) が建っていた。もともと中城城跡の東側広場 (通称馬場) にあり、1918年 (大正7年) に現在の 中城中学校敷地に移転した。昭和19年の夏頃から、校舎は石部隊の兵舎として使用されたため、二学期からは教室が使えなくなった。当時、国民学校に通っていた生徒は、この頃からは、勉強もせず陣地構築に駆り出される毎日だった。 校庭にあるクワディーサーの木の下に釜が並べられ、日本兵が食事を作っていた。校舎は戦火で消失してしまい、戦後の昭和25年に、この敷地に中城中学校が建設された。
受水井戸 (ウキンジュガー)
ケンドーを進む。現在の中城小学校裏門近く、村道の吉の浦線沿いに井戸跡があり、そこに幾つかの拝所がある。
カクリジカ
受水井戸 (ウキンジュガー) の後にコンクリートの祠がある。カクリジカと呼ばれる拝所だ。かつて存在した識名村が地滑りにより壊滅し、その識名村の人々への供養のために建てられたと伝えられている。もともとは前ヌ池ヌ端の敷地にあったが、2014年1月に受水井戸のあるこの地に移設されている。
チンジャーガー、桃原井 (トーバルガー)
受水井戸 (ウキンジュガー) の前の広場に二つ形式保存された井戸拝所が置かれている。これらも移設されたもの。一つは添石境界辺りの、吉の浦線通り沿い (写真左下) にあったチンジャーガー (中下はかつてあったもの) でハチウビーやウガンブトゥチで拝まれている。もう一つは桃原井 (トーバルガー) は個人の屋敷内 (右下) にあったが、2014年1月にチン ジャーガーと共にこの地に移設されている。
吉の浦線 (旧県道 ケンドー)
屋宜公民館
船井戸 (フニガー)
公民館敷地内に船井戸 (フニガー) がある。かつて、マーチュー小 (この後訪問) 一帯から、公民館の前を通って中城小学校の裏門 付近まで入り江になっており、屋宜川 (ヤージガーラ) を上ってきた船はフニガーのすぐ側まできて、船乗りたちが水を補給したと伝えられている。これは驚きだ。ここから海岸までは距離がある。昔はここまで海が入り込んでいたのだ。ここで子猫に遭遇。桜耳で人懐っこい。近所の人が世話をしているのだろう。
マーチューグヮ (松小)
ケンドー (吉の浦線) に戻り、更に進むと前方に大きな松の木が見えてきた。この辺りは下原と降口原の境目近くでマーチューグワ (松小) と呼ばれた。名の如く、松の木が生えた一帯だった。 この一帯も、かつては入り江になっていたといわれ、砂浜には八本の松が生えていたという。屋宜の名はここからきたとも伝わっている。八木 (ハチキ) から、屋宜 (ヤージ) となったという。以前の松は松食い虫により枯れてしまったため、戦後新たに三本の松が植えられた。また、マーチューグヮには不義を犯した 屋宜ノロが松に縛られて晒し者にされたという伝承も残っている。ここには二つ祠が置かれている。何の拝所なのかは資料には書かれていなかったが、大きい方は中は井戸になっておりパイプが通っているのが見えた。
シマクサラシの牛を繋いだ場所
マーチューグヮからから国道329号に向かう途中の左手に拝所があると資料には載っていた。写真を頼りに探すもそれらしきものは見つからなかった。ここにはサジタイでのシマクサラシの祭祀に使う牛を、かつてあった道傍の岩に一週間前から繋いだとされる場所だそうで、沖縄戦で岩が破壊されたため、その場所に祠を建てて拝むようになったという。写真右は資料に載っていたもの。
サジタイ、クラブ跡
屋宜集落はケンドーから国道329号線の間の斜面にある。マーチューグヮからの道を登って行くと駐車場になっている広場がある。サジタイと呼ばれている場所になる。 この広場は戦前まではシマクサラシーのとき、牛を殺した場所だった。牛はガジマルの木に鼻をくくりつけてひと打ちで殺され、その血は枝葉に着けられて、集落の隅々に置かれた。年長者らが厄除けの祈願を行った後、このサジタイで集まってきた住民に牛汁が振舞われたという。屋宜集落では、この一角で、旧12月7日にムーチーと牛肉を供えて祈願を行っている。ここには戦後クラブ (倶楽部) と呼ばれた村屋が置かれていた。
シンブシ
サジタイの道の一本東側の登り坂の近くに玉城門中の始祖である玉城按司のものと伝えられる墓がある。シンブンと呼ばれ、マーニの木々で覆われた石灰岩の大岩があり、マーニーの根本に自然石と厨子甕が置かれている。シンブシとは真武士、あるいは、死ぬ武士という意味だそうだ。玉城門中は屋宜集落の有力門中の一つで根屋の次に古いとされる家柄。(本家屋号は玉城) 南山の玉城グスク城主である玉城按司の子孫といわれている。玉城按司が戦に敗れ、南山から屋宜ムラに逃れて、ここに住むようになったと伝わる。分家も多く、現在、屋宜で最も成員の多い門中となっている。
根屋 (ニーヤ)
屋宜集落の真ん中付近には屋宜ムラの創始家とされる屋宜門中 (屋号 松根小 マーチニーグヮ) の屋敷跡がある。敷地内には神屋があり、村落祭祀の中心的な役割を担っており、根人と根神は代々この家系が受け継いでいた。琉球王国時代にノロ制度が確立した当初の屋宜ノロはこの家の娘が就任したとされている。後にノロは玉城門中から出ている。屋宜門中は東大里から来た島袋掟親雲上 (1578~1641年) が中城の屋宜ムラに居所を移し、屋宜ムラの根屋になったと伝わる。
屋宜川 (ヤージガーラ)、サーターヤー跡
ノロ殿内 (ヌンドゥンチ、屋宜巫火神)
中城小学校前バス停近く (中城小学校はそれほど近くでは無いのだが) の国道沿いに新しく建てられた拝所がある。ここはノロ殿内 (ヌンドゥンチ) と呼ばれ屋宜ノロ火の神が祀られている。琉球国由来記には屋宜巫女火神と記され、奥間、安里、当間の村祭祀を司っていた。屋宜ノロは当初は根屋 (島袋家) の女性が受け継いでいたが、カンブリ (神託) によって玉城家に継承されるようになり、やがて、大城家から出るようになったと言われている。このノロ殿内は以前は集落内の大城家の屋敷内北方に祠があったそうだ。(写真右下 資料から)
東ヌ殿 (アガリヌトゥン)
ノロ殿内の横に細い道があり、林の中に登って行った所に木々で囲まれた平場があり、そこに東ヌ殿 (アガリヌトゥン) がある。かつて、倭寇から屋宜の人々を救った武将といわれる東武士 (アガリーブシ) を祀った場所と伝えられている。現在の祠はコンクリート製に建て替えられたが、以前は海石とコンクリートで造られていた。(写真右下) 中央に置かれている白い香炉と3つの石は、戦後置かれたもので、戦前まで、瓦屋根の祠には香炉と石灰岩がただ一つ、位牌のように置かれていた。東ヌ殿の後方は広場になっている。この場所は集落のアシビナーだった。
東ヌ殿ヌ一鎖ヌ井 (アガリヌトゥンのチュクサイヌカー)
ノロ殿内から東ヌ殿 (アガリヌトゥン) へ行く階段途中に井戸拝所がある。東ヌ殿ヌ一鎖ヌ井 (アガリヌトゥンのチュクサイヌカー) で東ヌ殿と対をなす井戸だった。東ヌ殿を御願する前にこの井戸で身を清めたのだろう。
玉城殿 (タマグスクドゥン、玉城佐久川ヌ嶽)
東ヌ殿から国道329号線に戻り、国道を少し西に進んだ所、かつてに集落があった平原の東側に位置するのだが、林への登り階段があり上は広場になっている。そこに玉城殿 (タマグスクドゥン) が置かれている。玉城門中の祖霊神を祀っていると言われている。現在の祠は1978年に改修されたコンクリートの祠で、その中に三つの自然石と香炉がある。 琉球国由来記には玉城之殿と記されている。資料によってはこの玉城殿が玉城佐久川ノ嶽としている。
玉城殿ヌ一鎖ヌ井 (タマグスクドゥンのチュクサイヌカー)
玉城殿 (タマグスクドゥン) への階段脇にも玉城殿と対をなす玉城殿ヌ一鎖ヌ井 (タマグスクドゥンのチュクサイヌカー) がある。玉城殿を御願する前にこの井戸で身を清めたのだろう。
祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 墓
松根小 (マーチニーグヮ)
玉城の神屋 (カミヤ)
地頭殿 (ジトゥードゥン)
火の神
地頭殿の敷地中央にムラ火の神がある。戦前は旧暦10月1日の竈廻 (カママーイ) にはここでジューシーメーを炊いて住民に配っていた。この場所はその釜の跡といわれている。現在で自治会で拝んでいるそうだ。
地頭殿一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー)
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 2 屋宜 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
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