Okinawa 沖縄 #2 Day 218 (03/11/22) 旧中城間切 (10) Yagi Hamlet 屋宜集落

旧中城間切 屋宜集落 (やぎ、ヤージ)

  • 吉の浦、屋宜 (ヤージ) ゴーゴー
  • 威部加那志 (イビガナシー、屋宜湊干瀬ノ御イベ)
  • 中城尋常高等小学校 (中城国民学校) 跡
  • 受水井戸 (ウキンジュガー)
  • カクリジカ
  • チンジャーガー、桃原井 (トーバルガー)
  • 吉の浦線 (旧県道 ケンドー)
  • 屋宜公民館
  • 船井戸 (フニガー)
  • マーチューグヮ
  • シマクサラシの牛を繋いだ場所
  • サジタイ、クラブ跡
  • シンブシ
  • 根家 (ニーヤ)
  • 屋宜川 (ヤージガーラ)、サーターヤー跡
  • ノロ殿内 (ヌンドゥンチ、屋宜巫火神)
  • 東ヌ殿 (アガリヌトゥン)
  • 東ヌ殿ヌ一鎖ヌ井 (アガリヌトゥンのチュクサイヌカー)
  • 玉城殿 (タマグスクドゥン、玉城佐久川ヌ嶽)
  • 玉城殿ヌ一鎖ヌ井 (タマグスクドゥンのチュクサイヌカー)
  • 祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 墓
  • 松根小 (マーチニーグヮ)
  • 玉城の神屋 (カミヤ)
  • 地頭殿 (ジトゥードゥン)
  • 火の神
  • 地頭殿一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー)


10月の東京滞在中に訪れた練馬区の史跡巡りレポートに編集がようやく終わり、中城村の集落巡りを再開する。ここ3日間は雨続きで外出が出来ず、今日やっと晴れ間が現れた。沖縄はまだ夏が続いているようだ。酷暑では無いが、まだまだ暑い。今日は旧屋宜村を訪れる。

旧中城間切 屋宜集落 (やぎ、ヤージ)

屋宜は中城平野の中央やや北寄りに位置し、西側の丘陵斜面部から国道を挟んで東側の平野部に広がる区域で、東は中城湾に面し、北は添石、西は新垣と登又、南は当間に接する。屋宜は浜原 (ハマバル)、降口原 (ウリクチバル)、前原 (メーバル)、被留原 (シリーバル)、下原 (シチャバル)、上前原 (イーメーバル)、犬川原 (イヌガーバル)、平原 (ヒラバル)、伊礼原  (イレイバル)、樋川原 (ヒージャーバル) などの小字から成り立っている。
17世紀中頃の琉球国高究帳には八木村と表記され、屋宜のかつての海岸に八本の木が生えていたことから、その地名が付けられたと伝えられている。八木が屋宜にいつ頃変化したのかは書かれていないのだが、沖縄の名字や地名で読みは日本語と同じものが多いが漢字が異なる。これは薩摩が琉球を支配下に置いて以降、1624年に「大和めきたる名字の禁止」の通達が出されて、日本風の姓は改められるか、当て字を換えて三字姓などに変えられた。幕府から強制的に変えさせられた。屋宜もその経緯で変わったのかも知れない。
琉球王国時代の屋宜村は、登叉屋取の一部である屋宜後原 (ヤギクシバル) 含めた地域だった。現在の集落は下原と上前原の一帯、犬川原の国道から東側、被留原と浜原の一部に集中している。 平原と伊礼原、樋川原、犬川原の北側一帯はゴルフ場となっている。 西側の傾斜地にあたる大川原には、かつて識名 (シキナ) 集落があったとされ、 地滑りを起こし廃村になったと伝えられている。
かつての屋宜の集落は、国道から北側の平原一帯にあったと伝えられている。 地頭殿や玉城殿、東ヌ殿などの拝所も、平原に集中している。
そこから低地に移り現在地に落ち着いたと伝えられているが、いつ頃、現在地に移転したのか定かではない。
17世紀中頃の琉球国高究帳には、玉城村が記載されているが、1713年の琉球国由来記はその村名はなく、玉城佐久川ノ嶽、玉城之殿が屋宜村に属していることから、玉城村は17世紀後半から18世紀初頭にかけて屋宜村に合併されたと考えられている。
中城中学校周辺と海岸へ下る道沿いに、馬氏八世が首里から沖縄市泡瀬に移り住み、王府時代にはその子孫が泡瀬から屋宜に分家したと伝えられる仲真姓 (馬氏 屋号 大仲真) の人々が屋取を形成し、それぞれ 上屋取 (イーヤードゥイ) と浜屋取 (ハマヤードゥイ) と呼ばれていた。この屋取集落は戦後も会計や青年会、婦人会などは独自に組織され、屋宜の集落とは別々に活動していたが、平成14年に屋宜自治会地縁団体として一体化し、 自治会行事なども一緒に行うようになっている。

屋宜集落の人口は明治時代には中城村真ん中かぐらいに位置していたが、戦前までに減り、沖縄戦では明治時代の半分までに減少している。その後、元の人口に戻ったのは1980年で、それ以降、徐々に増えていっている。近年は増加傾向の兆しが見える。

中城村の他の集落との比較ではほぼ真ん中に位置している。

琉球国由来記にある拝所

  • 御嶽: 浜崎ノ嶽 (神名: ヨアゲマキ ウアミサデツカサノ御イベ)、屋宜湊干瀬ノ御イベ (神名: 南風ノア ビノ御イベ、西ノア、ビノ御イべ = イビガナシ)、屋宜佐久川ノ嶽 (神名不詳)、玉城佐久川ノ嶽 (玉城ヌ殿?、神名不詳)
  • 殿: ヤン殿内之殿 (山田ヌ殿 在当間)玉城之殿 (玉城ヌ殿)
  • 拝所: ヤン殿内根所

屋宜集落で行われていた村祭祀は以下の通り

村祭祀は屋宜ノロによって執り行われていた。屋宜祝女は屋宜集落以外では安里、奥間も管轄していた。

琉球王統時代に屋宜祝女によって執り行われていた祭祀は以下の通り。


沖縄戦に於いての屋宜集落住民の戦没者は259人に上る。当時の屋宜の人口のデータが見当たらず戦没者率は不明なのだが、それ以前の人口から推測するの50%から60%ではなかっただろうか?かなり高い率だったように思える。屋宜での沖縄戦がどのようなものだったかはまだ資料を読み込めておらずわからないのだが、国民学校には日本陸軍石部隊が駐屯しており、集落後方丘陵地には射撃訓練所が設けられ、屋宜海岸には大砲、機銃、トーチカが備え付けられていた。米軍の海からの艦砲射撃、海岸線と丘陵地を北から南へと米軍が侵攻していたことを考えると被害は少なくはなかっただろう。


屋宜集落訪問ログ



まずは屋宜の海岸に向かう。海岸には威部加那志 (イビガナシー) という拝所があり満潮時には海に没してしまう。近くまで行けるのは干潮時だけで、今日の潮の満ち引きを調べると午前中は潮が引いているようなので、最初は海岸を訪れてその後集落に移る事とした。



吉の浦

屋宜の海岸一帯は屋宜湊 (ヤージンナトゥ) と呼ばれ、かつては湊だったと伝えられている。屋宜の港から多くの品が輸入され、グスク時代には屋宜の湊が交易港だった。屋宜の海岸一帯は吉の浦と呼ばれている。おもろさうしにも屋宜の浦が「よしのうら」として詠まれている。
一、 中城吉の浦 吉の浦の 珍らしや 今日からしばしば見らに 又 屋宜の浦の吉の浦の」 (中城の吉の浦は、すばらしいことよ 今日からしばしば みることにしよう)
その他、国頭親方朝斉 (1686 ~ 1747年)によって詠まれた琉歌の中にもよしの浦の語が見える。
とよむ中城 よしの浦のお月 みかげ照りわたて さびやないさめ 
(評判高い中城の、よしの浦の月よ、月影も照り輝いて、何の災い、憂いがあろうか)
この歌は中城村のマンホールのデザインになっている。至る所で目にする事ができる。
吉の浦の 「よし」の語義については、いくつかの説があるが、その一つが海の向こうから寄り物が寄せ着く「寄せ」 に由来する。海外との交易を行っていた湊だった事が窺える。
かつて屋宜の海中に大きな洞窟があり、 台風などが襲来すると、波がその洞窟に当たって「ゴーゴー」と大きな音をたてて反響したといわれ、その場所をヤージ (屋宜) ゴーゴーと呼んでいた。残念ながら、戦後この洞窟は埋まってしまい、今は音は聞こえてこない。

威部加那志 (イビガナシー、屋宜湊干瀬ノ御イベ)

屋宜の海岸には屋宜湊干瀬の御イベという拝所もあり、湊としての機能を果たしていたことが想定される地元では威部加那志 (イビガナシー) と呼んでいる。海岸のサンゴ礁の干瀬に海焼香 (ウミスーコー) が設けられ、航海安全を祈願する拝所となっている。琉球国由来記には南風ノアビノ御イベ、西ノアビノ御イベという二つの神名が記されて、地元では、雄イベと雌イべと称している。 現在も、サングヮチャー(旧暦三月三日) の際に拝んでいる。現在のイビガナシーは戦後造られもの。
屋宜集落巡りを終えた後、もう一度、威部加那志 (イビガナシー) に寄って帰ることにした。満潮時の様子が見たかったからだ。こちらの様子の方が神秘的に見える。


中城尋常高等小学校 (中城国民学校) 跡

屋宜海岸から内陸部に移り、戦前は幹線道路だったケンドーと呼ばれた旧県道 (吉の浦線) 沿いを見ていく。当間と屋宜の境界にある現在の中城中学校敷地は、戦前は中城尋常高等小学校 (昭和16年に中城国民学校に改称) が建っていた。もともと中城城跡の東側広場 (通称馬場) にあり、1918年 (大正7年) に現在の 中城中学校敷地に移転した。昭和19年の夏頃から、校舎は石部隊の兵舎として使用されたため、二学期からは教室が使えなくなった。当時、国民学校に通っていた生徒は、この頃からは、勉強もせず陣地構築に駆り出される毎日だった。 校庭にあるクワディーサーの木の下に釜が並べられ、日本兵が食事を作っていた。校舎は戦火で消失してしまい、戦後の昭和25年に、この敷地に中城中学校が建設された。


受水井戸 (ウキンジュガー)

ケンドーを進む。現在の中城小学校裏門近く、村道の吉の浦線沿いに井戸跡があり、そこに幾つかの拝所がある。

ここには受水井戸 (ウキンジュガー) がある。今はコンクリートで整備されている。かつては、村井 (ムラガー) とも呼ばれ、屋宜では最も古い井戸とされている。水道が普及するまでは、生活用水として広く利用されたほか、 正月の若水や産水としても使われる重要な水源だった。戦後一時期は中城小学校までパイプを通し、子供たちの飲み水としても利用されていた。


カクリジカ

受水井戸 (ウキンジュガー) の後にコンクリートの祠がある。カクリジカと呼ばれる拝所だ。かつて存在した識名村が地滑りにより壊滅し、その識名村の人々への供養のために建てられたと伝えられている。もともとは前ヌ池ヌ端の敷地にあったが、2014年1月に受水井戸のあるこの地に移設されている。


チンジャーガー、桃原井 (トーバルガー)

受水井戸 (ウキンジュガー) の前の広場に二つ形式保存された井戸拝所が置かれている。これらも移設されたもの。一つは添石境界辺りの、吉の浦線通り沿い (写真左下) にあったチンジャーガー (中下はかつてあったもの) でハチウビーやウガンブトゥチで拝まれている。もう一つは桃原井 (トーバルガー) は個人の屋敷内 (右下) にあったが、2014年1月にチン ジャーガーと共にこの地に移設されている。 


吉の浦線 (旧県道 ケンドー)

この辺りの吉の浦線 (旧県道 ケンドー) の様子。旧県道は戦前の主要道路で、中城村内では、久場から泊を経てこの吉の浦線を通り、屋宜、奥間、和宇慶へと続く。かつては中頭郡の管理する郡道だったが、1909年 (明治42年) 頃、県費による道路改修が行われ、県道 として認定された。1914年 (大正3年) には沖縄人車軌道が設立され、1916年までには与那原一泡瀬間の全線に馬車軌道が敷設された。そのトロッコを利用して、西原製糖工場へサトウキビが搬入されていた。この軌道はサトウキビのシーズン外ではトロッコの上にカバーを敷いて20名程の客を乗せる「キドー」と呼ばれる乗物やバスもこの県道を通り、与那原との交通に貢献していた。


屋宜公民館

受水井戸 (ウキンジュガー) から吉の浦線 (旧県道 ケンドー) を少し進み集落内に入った所に屋宜公民館が建てられている。この公民館は戦後のクラブと呼ばれた村屋から、この場所に移り、新しく建てられている。


船井戸 (フニガー)

公民館敷地内に船井戸 (フニガー) がある。かつて、マーチュー小 (この後訪問) 一帯から、公民館の前を通って中城小学校の裏門 付近まで入り江になっており、屋宜川 (ヤージガーラ) を上ってきた船はフニガーのすぐ側まできて、船乗りたちが水を補給したと伝えられている。これは驚きだ。ここから海岸までは距離がある。昔はここまで海が入り込んでいたのだ。ここで子猫に遭遇。桜耳で人懐っこい。近所の人が世話をしているのだろう。


マーチューグヮ (松小)

ケンドー (吉の浦線) に戻り、更に進むと前方に大きな松の木が見えてきた。この辺りは下原と降口原の境目近くでマーチューグワ (松小) と呼ばれた。名の如く、松の木が生えた一帯だった。 この一帯も、かつては入り江になっていたといわれ、砂浜には八本の松が生えていたという。屋宜の名はここからきたとも伝わっている。八木 (ハチキ) から、屋宜 (ヤージ) となったという。以前の松は松食い虫により枯れてしまったため、戦後新たに三本の松が植えられた。また、マーチューグヮには不義を犯した 屋宜ノロが松に縛られて晒し者にされたという伝承も残っている。ここには二つ祠が置かれている。何の拝所なのかは資料には書かれていなかったが、大きい方は中は井戸になっておりパイプが通っているのが見えた。


シマクサラシの牛を繋いだ場所

マーチューグヮからから国道329号に向かう途中の左手に拝所があると資料には載っていた。写真を頼りに探すもそれらしきものは見つからなかった。ここにはサジタイでのシマクサラシの祭祀に使う牛を、かつてあった道傍の岩に一週間前から繋いだとされる場所だそうで、沖縄戦で岩が破壊されたため、その場所に祠を建てて拝むようになったという。写真右は資料に載っていたもの。


サジタイ、クラブ跡

屋宜集落はケンドーから国道329号線の間の斜面にある。マーチューグヮからの道を登って行くと駐車場になっている広場がある。サジタイと呼ばれている場所になる。 この広場は戦前まではシマクサラシーのとき、牛を殺した場所だった。牛はガジマルの木に鼻をくくりつけてひと打ちで殺され、その血は枝葉に着けられて、集落の隅々に置かれた。年長者らが厄除けの祈願を行った後、このサジタイで集まってきた住民に牛汁が振舞われたという。屋宜集落では、この一角で、旧12月7日にムーチーと牛肉を供えて祈願を行っている。ここには戦後クラブ (倶楽部) と呼ばれた村屋が置かれていた。


シンブシ

サジタイの道の一本東側の登り坂の近くに玉城門中の始祖である玉城按司のものと伝えられる墓がある。シンブンと呼ばれ、マーニの木々で覆われた石灰岩の大岩があり、マーニーの根本に自然石と厨子甕が置かれている。シンブシとは真武士、あるいは、死ぬ武士という意味だそうだ。玉城門中は屋宜集落の有力門中の一つで根屋の次に古いとされる家柄。(本家屋号は玉城) 南山の玉城グスク城主である玉城按司の子孫といわれている。玉城按司が戦に敗れ、南山から屋宜ムラに逃れて、ここに住むようになったと伝わる。分家も多く、現在、屋宜で最も成員の多い門中となっている。


根屋 (ニーヤ)

屋宜集落の真ん中付近には屋宜ムラの創始家とされる屋宜門中 (屋号 松根小 マーチニーグヮ) の屋敷跡がある。敷地内には神屋があり、村落祭祀の中心的な役割を担っており、根人と根神は代々この家系が受け継いでいた。琉球王国時代にノロ制度が確立した当初の屋宜ノロはこの家の娘が就任したとされている。後にノロは玉城門中から出ている。屋宜門中は東大里から来た島袋掟親雲上 (1578~1641年) が中城の屋宜ムラに居所を移し、屋宜ムラの根屋になったと伝わる。


屋宜川 (ヤージガーラ)、サーターヤー跡

集落の西端の平原と伊礼原の間に細い水路の屋宜川 (ヤージガーラ) がある。かつては水量が多く、子供たちが泳いで遊んでいたそうだ。農作業が終わった後は、農具を洗ったり、作物を洗ったりするのに利用されていた。この場所にはサーターヤーが置かれていた。ムラのほとんどの農家がこのサーターヤーを利用していた。 屋宜集落にはこの他にもう一つサーターヤーがあり、海岸方面、潮垣道 (スガチミチ) 付近の屋取にも3か所のサーターヤーがあった。

次は国道329号線を渡った所、現在の屋宜集落に移ってくる前の集落にあった史跡を見ていく。


ノロ殿内 (ヌンドゥンチ、屋宜巫火神)

中城小学校前バス停近く (中城小学校はそれほど近くでは無いのだが) の国道沿いに新しく建てられた拝所がある。ここはノロ殿内 (ヌンドゥンチ) と呼ばれ屋宜ノロ火の神が祀られている。琉球国由来記には屋宜巫女火神と記され、奥間、安里、当間の村祭祀を司っていた。屋宜ノロは当初は根屋 (島袋家) の女性が受け継いでいたが、カンブリ (神託) によって玉城家に継承されるようになり、やがて、大城家から出るようになったと言われている。このノロ殿内は以前は集落内の大城家の屋敷内北方に祠があったそうだ。(写真右下 資料から) 


東ヌ殿 (アガリヌトゥン)

ノロ殿内の横に細い道があり、林の中に登って行った所に木々で囲まれた平場があり、そこに東ヌ殿 (アガリヌトゥン) がある。かつて、倭寇から屋宜の人々を救った武将といわれる東武士 (アガリーブシ) を祀った場所と伝えられている。現在の祠はコンクリート製に建て替えられたが、以前は海石とコンクリートで造られていた。(写真右下) 中央に置かれている白い香炉と3つの石は、戦後置かれたもので、戦前まで、瓦屋根の祠には香炉と石灰岩がただ一つ、位牌のように置かれていた。東ヌ殿の後方は広場になっている。この場所は集落のアシビナーだった。


東ヌ殿ヌ一鎖ヌ井 (アガリヌトゥンのチュクサイヌカー)

ノロ殿内から東ヌ殿 (アガリヌトゥン) へ行く階段途中に井戸拝所がある。東ヌ殿ヌ一鎖ヌ井 (アガリヌトゥンのチュクサイヌカー) で東ヌ殿と対をなす井戸だった。東ヌ殿を御願する前にこの井戸で身を清めたのだろう。


玉城殿 (タマグスクドゥン、玉城佐久川ヌ嶽)

東ヌ殿から国道329号線に戻り、国道を少し西に進んだ所、かつてに集落があった平原の東側に位置するのだが、林への登り階段があり上は広場になっている。そこに玉城殿 (タマグスクドゥン) が置かれている。玉城門中の祖霊神を祀っていると言われている。現在の祠は1978年に改修されたコンクリートの祠で、その中に三つの自然石と香炉がある。 琉球国由来記には玉城之殿と記されている。資料によってはこの玉城殿が玉城佐久川ノ嶽としている。


玉城殿ヌ一鎖ヌ井 (タマグスクドゥンのチュクサイヌカー)

玉城殿 (タマグスクドゥン) への階段脇にも玉城殿と対をなす玉城殿ヌ一鎖ヌ井 (タマグスクドゥンのチュクサイヌカー) がある。玉城殿を御願する前にこの井戸で身を清めたのだろう。


祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 墓

玉城殿の少し西側に丘陵の斜面の林への道があり、そこを登っていくと立派な亀甲墓がある。祝女殿内 (ヌンドゥンチ) の家族墓だが、大城家がノロを継ぐようになって以降の代々のノロも葬られて いるという。この墓は祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 二代目の時代に造られたと伝えられている。

松根小 (マーチニーグヮ)

国道329号線の北の丘陵側はかつての屋宜集落が現在の地に移る前にあった平原だが、現在はほとんど民家は無い。その中には旧家の松根小があった場所がある。現在は民家があり門付近には石垣が残っている。松根小は現在は集落内にあるので、ここが松根小の人が住んでいるのかはわからない。琉球王統時代にノロ組織が確立した当初は根屋である松根小がノロ職を継いでいたと伝えられている。

玉城の神屋 (カミヤ)

松根小 (マーチニーグヮ) の隣には玉城門中の本家があり、屋宜では根屋の次に古いとされている。15世紀中頃、玉城按司は戦に敗れて屋宜村にやって来たという。敷地内にコンクリート製の神屋があり、青い香炉3つ (神クサイヌ親フジガナシー)、 白い香炉3つ (神ガナシー) が置かれているそうだ。

地頭殿 (ジトゥードゥン)

玉城の神屋の東側にも林の中に登っていくと細い道があり、そこを登っていくと広場がある。
ここは平原の東側にあたる。この場所はかつて屋宜の地頭職の屋敷跡といわれている。敷地内にコンクリート製の祠が建ってい る。


火の神

地頭殿の敷地中央にムラ火の神がある。戦前は旧暦10月1日の竈廻 (カママーイ) にはここでジューシーメーを炊いて住民に配っていた。この場所はその釜の跡といわれている。現在で自治会で拝んでいるそうだ。

敷地内南側にも祠が置かれて拝所となっている。ノロが祭祀の際に着替えた場所と伝わっている。

地頭殿一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー)

地頭殿のある敷地の北側の畑の中には地頭殿と対になる地頭殿一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー) がある。屋宜ノロが祭祀にあたり、ここで身を清めたのだろう。

これで今日の屋宜集落訪問は終了。沖縄ではコロナも落ち着いており、6年ぶりに世界各国に移民として渡った沖縄人達が集まるウチナンチュウー大会が行われ、今日は最終日だ。夜には花火が盛大に打ち上げられ、自宅マンションから沖縄セルラースタジアム那覇に花火が見られた。

参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 2 屋宜 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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