Okinawa 沖縄 #2 Day 217 (30/09/21) 那覇 泊区 (01) Tomari Area 泊地区
那覇泊区 泊集落 (とまり、トゥマイ)
- 宗元寺跡
- 宗元寺之嶽
- 宗元寺橋 (安里橋)
- 泊高橋
- う先 泊竜宮神、泊高橋節の歌碑
- 泊港
- 外人 (ウランダ) 墓地
- 新屋敷公園 (ウシャギ御嶽)
- 泊散策道
- 泊小学校旧校舎時計台
- 泊大阿母火神
今日は那覇の泊にある文化財をめぐる。前回、前々回で天久、上之屋を巡ったのだが、まだ見落としていたスポットがあり、そこを訪れ、その足で隣接している泊も巡る事にした。泊は真和志間切、旧真和志村、旧真和志市ではないのだが、天久と関係が深い。
那覇泊区 泊集落 (とまり、トゥマイ)
泊は廃藩置県までは崇元寺、中之橋、高橋、新屋敷区域からなっており、戦前までは兼久と前島も泊の一部だった。崇元寺一帯と中之橋の一部が泊一丁目、中之橋の一部と高橋が泊二丁目、新屋敷が泊三丁目となっており、兼久 (前島二丁目) と前島 (前島一丁目) は前島区として独立行政区となっている。戦前の地図をみると、泊の地勢は安里川を境として、北には首里台の分脈である銀森、黄金森、高真、佐理の丘陵地帯を背にした、内島 (泊一、二丁目) が泊前道との間に東西に広がり、北西の港口には新屋敷 (泊三丁目) があり、港口付近を舟口ともいった。南は前島 (前島一丁目)、兼久(前島二丁目) が広大な塩田をかかえ、美栄橋、汐渡橋を境として、久茂地、若狭に接しており、東側は東門 (アガリジョウ) 崇元寺聖廟西側、島小を境として、安里、牧志に接していた。西は上泊、上之屋を通って町端、高橋を渡って兼久に通じる大きな道路があり、泊後道、前道が東側からこれに通じ、西側から新屋敷の大道がこれに接していた。
泊村は首里三平等、那覇四町とは別個の行政区画をなし、久米とともに直接首里王府の所管だった。1880年 (明治13年) に泊村は久米村とともに那覇親見世役所 (那覇役所) の所管となった。
1945年の沖縄戦では首里那覇一帯の攻防戦ははげしく、市街も文化財も全滅をまぬがれなかった。泊も戦禍に巻き込まれて史跡では崇元寺石門が残存しているだけだ。このように泊はほとんど灰塵に帰したが、戦後の復興により、泊港は大きくなり、高橋には国道58号線が通り、又吉道路ができ戦前以上に発展を遂げたが、住民は寄留人が多く、元々の泊人は戦前の約三分の一程度に過ぎなくなっている。
泊に一番古い人口に関する記録では1816年 (尚灝王12年) のものがあり、それによると、人口は2,841人、戸数219戸、一戸平均13人となっており、既に多くの人が住んでいた。1880年 (明治13年) には4,268人と大きく増えている。1939年 (昭和14年) には10,048人と更に増加、分離独立した前島を除いても6,575人と那覇市中でも人口が多い地区だった。沖縄戦で人口は激減し、現在でも戦前当時の人口には及ばない。現在では戸数はコンスタントに増加傾向なのだが、人口は横ばい状態が続いている。世帯当たりの人数が年ごとに減少している。現在では1.8人で沖縄平均の2.4人を大きく下回っている。
琉球国由来記には泊には御嶽や殿の記載がなく、天久や安謝、安里の拝所を拝んでいた。主な祭祀は正月の初拝み、5月4日 (ハーリー) の前日、10月1日のヒーマーチの三つだった。
泊住民の御願所は以下の拝所だった
- 安里八幡宮 (安里)
- 神徳寺 (安里)
- 浮縄嶽 (安里)
- 神良御川 (カンラガー 安里)
- 宗元寺 (泊)
- 馬鞭の御嶽 (泊)
- 崇元寺の井戸 (泊)
- 雨乞いの御嶽 (泊 消滅)
- 隠居のお寺 (泊 崇元寺裏の山の北方、消滅)
- 火の神御嶽 (泊 泊大阿母火神?)
- ウシヤギ御嶽 (泊 新屋敷公園)
- 潮花司 (天久 スーバナチカサ)
- 黄金御嶽 (おもろまち)
- ユヤギお嶽 (天久 聖現寺の石垣囲い外の南角 消滅?)
- フルフェーリン (天久)
- 大御嶽 (天久)
- 崎樋川 (天久)
- 平中の樋川 (?)
- 前島の久場の山の御嶽 (?)
- 兼久の祠 (兼久の島 前島町二丁目、消滅)
泊地区訪問ログ
宗元寺跡
臨済宗の寺院だった霊徳山崇元寺は、琉球王統時代には、泊港から首里城にのびる長虹堤の途中、宗元寺町にあった。ここは、現在の泊一丁目にあたり、脇泊とも称され、以前は安里に属し、泊の発展により吸収されている。当時、宗元寺は住民からは「すーぎーじ」と呼ばれいた。円覚寺、天王寺、天界寺などと共に王廟として用いられ、冊封使が諭祭を行なう場所としても使用されていた。(諭祭とは亡くなった先王の功を評し、霊を慰める儀式。この諭祭の後に、新王を認める冊封の儀式が行われる。) 冊封使は那覇の港に着いて、長虹堤を通過して崇元寺橋 (旧安里橋) を渡ると崇元寺に到着し、さらにここから2kmほど進み首里城の玄関守礼門から首里城に入った。宗元寺の建立時期は不明だが、尚巴志 (1422~39) によって建立されたとも、尚円王 (1469~76) が建立したとも、尚真王の時代に建立されたなど様々な説がある。宗元寺の他に王廟は数カ所ある。宗元寺は琉球王統にとっては特別な存在で、本堂奥の壇の中央に琉球の伝説的な初代王舜天の霊位を安置し、尚思紹、尚稷の順に左右交互に配し尚寧以後は尚泰候まで冊封をうけた歴代の琉球国王の神位が祀られていた。(円覚寺は、第二尚氏王統の廟で第二尚氏王統の歴代の国王だけが祀られている。天王寺は、王妃など第二尚氏王統の王家に連なるもの祀られている。) 琉球では寺が少ないのだが、かなり古い時代から、仏教寺院があり、それが王廟になっていた事は初めて知った。琉球での仏教は庶民には広がらず、王族の特権的な宗教だった。これは一つには日本との関係を維持するための政治的な思惑もあった様だ。
本堂ならび 下馬碑、石門などは国宝に指定されていたが、沖縄戦の空爆と艦砲によって石門の中央部の三つのアーチと東側の土止め石垣を残して全部崩壊してしまった。この石門1951年に米軍政府情報課の提唱により、辻原墓地から石を運んで復元修理が行われ消滅を免れた。崇元寺石門は中央部の三つのアーチを中心として左右に石垣がのび、両方の掖門が全体の調和を整えて沖縄伝統の琉球随一の美建築といわれている。
門を入り寺の敷地を見学する。中央石門を入ると前庭があり、そこから十段の石段をのぼるとかつては前堂があり、広庭をへだてて正廟に達する。
当時の縄張り図がある。広庭の東側に国王の控え所の東庁、西側に王妃の控え所の西庁があった。 正廟は一段高くなり、間口七間、奥行五間の和漢混合様式の建造物だった。正廟の西側に神廁、東側に庫裡が配されていた。また正廟前の広庭には東側に石で円くかこみ、マーニを植え、西側には蘇鉄が植えてあった。 このマーニの方が伝説にある馬鞭 (まぶち) の御獄だといわれていた。
中央石門を入った石段の両側には数丈におよぶヤラブの樹がはえ、石垣西側には榕樹とデイゴの大木が枝をまじえて繁っていた。この石垣の西端に今はなくなっている下馬碑があったが、その横に樹齢数百 年のコバデイシの老樹があり、大正のころの台風で吹き折られたが、本土から来る画家の画材となっていた。境内後方のおよそ一万坪には南から東、北と数十本の老松が枝をひろげ、一日中静寂をたたえていた。
戦争で消滅する前の宗元寺の古写真。石門を入って階段を上って前堂 (第二門)とその内部 [写真上]、東庁 (国王控所) [中右]、西庁 (王妃控所) [右下]、神厨 [左下]、正廟 (本殿) [左中]
下馬碑は門の東西に嘉靖6年 (1527年、尚清の就位元年) に建立されたが、沖縄戦で西の碑は破壊されて、東だけが残っている。碑の表には「あんしもけすもくまにてむまからおれるへし(按司も下司も此所にて馬から降るべし)」とあり、裏には「但官員人等至此下馬」とある。下馬碑は石門とともに国指定の重要文化財になっている。
琉球王統時代末期にはペリー率いる米軍艦隊や英国艦隊が通商条約のため、来琉しているが、随行した画家がこの宗元寺を描いている。宗元寺前の通りは想像以上のかなり広く並木路で泊高橋に通じている。この泊前道では綱曳など行なわれた。また、緊急時に下馬する不便を省くため下馬碑の建つ上道の代線として、内島の東裏のクガニムイ、ナンジャムイの山と、高真佐理の丘の連なっている間から泊後原 (現在の米人住宅地) に抜ける下道 (豊見城路) が1667年設けられていた。
この場所は泊八景の一つとして「崇元寺晩鐘」と呼ばれていた。「 国王の御霊舎である崇元寺は濃い緑にかこまれ、堂々とたちならぶ石門の上から赤いいらかをのぞかせ、荘厳にまる。 門前は、でいごの老樹が林をなし、春は若葉のかおりが芳しく、つづいて深紅の花盛り、秋は黄葉がみだれ落ち。吹く風もなごやかで風情がある、夕やみせまる頃老樹の影は夜の来るのをはやめ、往来の静けさを守る。入り相の鐘が低く強く鳴りだし、次第に細く長く余韻を残して内島や前島にひびく。人々は一日のやすらぎを覚え、心静かにあしたをまつ。」とあり、下のスケッチがその様子を良く表しているように思える。
宗元寺之嶽
宗元寺敷地の外側のガジュマルの木のねもとに拝所がある。琉球国由来記にある宗元寺之嶽でコバノミヤウレ御イベを祀っている。遺鞭御嶽 (いべんうたき) とも呼ばれている。遺鞭御嶽の由来の伝承がある。(この話は幾つものバージョンがある)
昔、安里大親が首里からの帰路、泊の実家に帰宅する途中、一休みをしていると、品のいい白髪の老人に「お茶でも飲まないかね」と誘われて立派な邸宅に招かれました。そこで碁を打ち、料理をもてなされたのですが、翌日、その場所に行ってみると、その邸宅が見つかりませんでした。しかし、その翌日、また、その老人に誘われました。帰る際に安里大親は、その場所の目印として馬の鞭を立てて帰宅をしました。翌朝、来てみると、鞭は残っていましたが、鞭を立てたところには、邸宅の面影は微塵もありませんでした。
この老人は神様であり、この場所に家を構えるようにとのお告げがありました。安里大親はそこに屋敷を建て、そののち、この敷地が崇元寺になったそうです。
この安里大親 (清信) は尚円王が即位し第二尚氏を開く際の計略を練り実行したと伝わる人物で、尚円王が即位後の安里大親屋敷跡に宗元寺を建てたとの説も伝わる。
宗元寺橋 (安里橋)
崇元寺の近くに安里川に崇元寺橋 (安里橋) が架けられていた。当初の架橋年は不明だが、安里の対岸に浮かぶ浮島だった那覇と安里を結ぶ長虹堤の起点となっていることから、1451年の長虹堤築造当時に架けられたと考えられている。石橋であったが、1670年に水害で破損し木橋に架け替えられた。安里橋之碑文によると1677年に再び損壊したため、橋脚を高くし、長さ約72mの三連アーチの石造橋となり、新たに欄干を取り付けるなど、橋の偉容を誇ったという。
1945年 (昭和20年) の沖縄戦の際、米軍の進攻を遅らせるため日本軍により爆破された。戦後になって再建されたが、元あった場所より50m程上流に架け替えられた。2004年 (平成16年) 欄干を戦前の安里橋をモチーフにして架け替えられている。
泊高橋
泊港の上流部の安里川には泊村と兼久 (前島) を結ぶ泊高橋が架かっている。那覇市と中北部をむすぶ要衝で、県下で交通量のもっとも多い地点になる。泊阿嘉 (トゥマイアーカー) で有名な橋だ。泊阿嘉は我如古弥栄 (がねこやえい 1881-1943) による琉球歌劇の代表作一つで、1910年に初演されている。
3月3日浜下りの日、若狭の赤津浦浜 (アカチラハマ) で、久茂地の樽金 (タルガニー) と泊の思鶴 (ウミチル) が出会います。そして、思鶴に一目惚れした樽金は泊高橋に通い詰め、99日目にその恋は成就しました。ところが、樽金家と思鶴家は敵対関係にあり、樽金の父親は、二人を引き離すために、樽金を伊平屋島の仕事に就けてしまいます。悲しみにくれる思鶴は病に伏し、とうとう命を落としてしまいました。そして、伊平屋島から那覇に戻った樽金は思鶴の死を知り、思鶴の墓前で自ら命を断つのでした。
泊高橋は本島の西海岸から那覇に通じる重要なかけ橋で、今でも幹線道路に位置している。戦前には泊高橋前には泊市場があり、浦添や宜野湾からイモ、糸満から魚を売りに来ていた。琉球王統時代、古くは木製であったが、1699年 (尚貞王31年) に石橋に架け替えられた。この泊高橋は「高橋秋月 」と呼ばれて泊八景の一つだった。その様子を表した文章があった。上手く表現しているので、そのまま引用しておく。「海を背影に安里川にかかっている泊高橋は高くもりあがったアーチの結構、かざり気のない素朴な欄干、どっしりとか まえた巨石の石組がおりなす美しさは天下の名橋の名に反しない。 橋下は船の往来がはげしく、川べりのガジュマルの木の下では大公望が静かに糸をたれている。時々四つ手網があがり小魚がぴちぴちと はねている。秋ばれの夜空には明月こうこうとさえわたり、一片のくもりもな い。眼下の潟原の塩田は銀の真砂がいっぱいしきつめられ、潮まねきが甲らを光らせながらせわしく走りまわる。吹く風も心地よく、うちよせる波の音は高く低く、強く弱く余韻を残し、アカチラの夫婦岩につきあたる波はくだけてぱっと銀色に散る。毎晩泊高橋で恋人を待った泊阿嘉が通った所はどの辺であろうか、いつきてもあきない泊高橋である。」
1816年に来島した英国人バジル・ホールは、ボートで泊高橋まで来て橋を調査し原形に近い綿密な写生を行っている。
泊高橋は昔は木橋であったといわれる。1699年 (尚貞王31年) に改修して石橋となった。船が往来できるように3段の階段を設けアーチ部分を高くしたことから高橋の名が付いた。
元の石橋は太平洋戦争前、1934年 (昭和9年) 戦車通行が可能とするため石橋を取り壊して、鉄筋コンクリートの橋に架け替えられたが、戦争中、米軍の進撃を防ぐため破壊し、米軍占領で鉄の仮橋をかけて進み、戦後まもなく1952年には現在の鉄筋コンクリート橋に掛け替えられた。
明治42年頃に客馬車が那覇から嘉手納まで通ずるようになって、道路の改修工事がはじまり、泊高橋も階段がとり払われ、北と南側沿道の護岸を高くしてこう配を緩和し、高さもそれだけ低くなった。 更に1914年 (大正3年) には電車を通すため東側に平行して鉄橋が設けられ、泊高橋と並行して軽便鉄道が走っていた。
現在の泊高橋はかつての面影はなく、新しく架けられた橋に「泊高橋」と書かれているだけだ。
う先 泊竜宮神、泊高橋節の歌碑
泊高橋の北側河岸にう先 泊竜宮神の拝所があり、隣には泊高橋を詠んだ琉歌碑も置かれている。「泊高橋(とまいたかはし)に なんじゃじふわ落 (うと) ち いちか夜 (ゆ) ぬ明 (あ) きて とめてぃさすら」
泊高橋が架かる川の下流に新しく橋が架けられている。泊港の南の乗船場と北の乗船場を結んでいる橋の欄干の端に龍神像が置かれている。沖縄にはシーサーがどこにでもあるが、次に多いのは龍神。沖縄の人にとって龍も生活に密着した神様。沖縄では水が貴重だった。大昔の人は水が湧くところに村を造り、水が湧く場所に感謝して、祈りを奉げた。水は川となって海に流れていくので、川を龍と見立てて神聖なものとし、河口を龍の頭と見立て竜宮神を祀った。
泊港
琉球王国の中心であった浦添や首里と陸続きの泊港は、安里川の河口に位置し、陸路・水路ともに交通の便が良かったため、13~14世紀にかけて宮古・八重山・奄美大島などの船も出入りし、賑わいを見せた港であった。船口 (船着場)には山原船が停泊していた。当時、泊には、諸島の事務を取り扱う泊御殿 (トゥマイウドゥン) や、貢物を収納する大島倉が置かれていた。この時代にはここは若狭と呼ばれ、ヤマトンチュの商人が多く住んでをいた。しかし、その後の海外交易の発展にともない、那覇港が王国の表玄関として整備され、泊港の機能も那覇に移った。
19世紀以降、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなど、欧米諸国の艦船が来航するようになると、薩摩藩の在番奉行所などの主要施設が集中する那覇へは入港させず、泊港沖を投錨地とした。これにより、泊港は外国人の上陸地となった。この泊港も「泊港帰帆」と称した泊八景の一つだった。その様子は「夕日が西の空を染める頃、漁から帰るくり舟は、いっぱい風をはらんで矢のように走ったが、夕なぎの港にはいると帆をおろし、掛け声勇しく力いっぱいかいをこぐ。せきまたせき、 静かだった港はたちまち漁船でにぎわう。夕日を受けた魚夫達の顔 は大漁に酔い、迎える妻子の顔も明るく色づき、笑をたたえて呼び かける。」とある。
外人 (ウランダ) 墓地
琉球には古来しばしば外国船が訪れており、泊村の沖合いに停泊し、泊港に上陸した。先日訪れた聖現寺 (天久之寺 現在の水産高等学校の敷地) を琉球滞在中の活動の拠点としていた。1816年 (尚灝王13年) にはイギリスのバジル・ホールの艦隊、1853年 (尚泰王6年) には米国のペリー提督の黒船艦隊が来琉している。長旅の末や慣れない異国での滞在が長期であったことからこの地で亡くなっている人もいた。その亡骸は聖現寺近くに葬られ、現在でも外人墓地 (ウランダ墓) として残っている。敷地内にはペリー艦隊来航記念碑が1964年に建てられている。
ペリーは何度か琉球を訪れている。1853年 (尚泰王6年) 5月26日に初めて訪れた後、6月9日に小笠原諸島に行き、6月18日の琉球に戻り、7月2日に浦賀に出発している。7月25日に大統領の親書を江戸幕府に渡したペリーは浦賀から琉球に帰港し、琉球王府との間に聖現寺の一年間の賃貸及びその協定、炭を貯蔵できる施設の建設/貸与、偵吏追跡禁止、自由交易市場の設置が合意して8月1日に香港に出航した。ペリーは1854年1月21日に軍艦3隻を率いて再度来航し首里城を訪問、2月7日に江戸に向かって出航。7月1日に、日本と日米和親条約締結後、琉球に来航し、7月11日に亜米利加合衆国琉球國政府トノ定約 (琉米修好条約) が結ばれた。写真下はその条約書。
この墓地がいつ頃からあったかは不明なのだが、支那人の墓が六基あり、1750年 (乾隆15年) 清故中華難民と記されているので、それ以前からあった事は確かだ。
1816年 (尚灝王13年) に来航したイギリスのバジル・ホール艦隊のアルセスト号の水兵ウイリアム・ヘヤズ (William Hares) の墓がある。長途の航海の疲れで、病を得 ていたので下船し、聖現寺で付近住民の手厚い看護を受けたが、1816年10月15日に21歳の若さで亡くなっている。この外人墓地に葬られた最初の欧米人と思われる。葬式には周辺住民も喪服で集まってきたとある。記録では「住民により墓碑が作られ、供え物を供え、多量の酒を燃やし、琉球の僧侶によっておごそかな式が行われた。式後その供え物は、聖現寺で病を養っている他の病人たちへ贈られた」とある。埋葬後も住民がよく墓参して花を供えていた。その様子をスケッチしたものがある。ヘヤズの墓が右端に描かれている。
1848年に、フランスのカトリックの宣教師アドネ神父 (Pére Adnet) が葬られている。1844年に仏国軍艦アルメーヌ号が泊港に現れ、琉球王府に和親、貿易、布教の許可を求めたが、却下されている。宣教師フオルカド (Pére Forcade) と支那人伝道師一人とを、例の天久の聖現寺にとどめ置き、約二年間同寺に滞在し、布教しようとしたが許されなかったが、琉球語を習い、琉仏辞書を作ったそうだ。4年後にはアドネ神父が来琉し聖現寺に住んでいたが、胸を病んで1848年に35才で亡くなっている。彼もまた付近住民によって丁重に外人墓地に葬られた。アドネ神父の墓は同墓地では一番立派な墓でカトリック関係者によって修理されている。
1855年11月6日にフランス艦隊が、再度、琉球との修好条約締結のために来た際にも、フランス人宣教師がこの聖現寺に滞在している。この時の聖現寺を描いたものがフランス本国でフランクレスリー紙に掲載されている。翌日の11月7日から協議が始まり、11月24日に琉仏修好条約成立に至っている。
1853年、アメリカ合衆国提督ペリーが、蒸気艦サスクエハナ号を旗艦とし、他艦三隻を率いて、泊港寄りに停泊した。ペリー提督は、200余名の将兵を率いて上陸し、首里城を公式に訪問。上陸地点として選ばれたのが泊外人墓地一帯の台だった。ペリー提督は1853年5月に那覇に到着して以来、那覇を基地として小笠原諸島探検や江戸訪問、香港訪問を行い、その往復に五回も那覇に入港している。
日本、琉球との条約締結後、1854年7月に那覇を去るまで、多くの病人が出て、ここでは10名ほども死者が出て、この外人墓地に葬られている。墓碑が摩滅して判読が困難になったので、大正の初期ごろ、米国の宣教師が墓を修理し、更に戦後、那覇市と米軍が協力し修理している。中には酔っ払って婦女暴行事件をおこし那覇の青年たちになぐり殺されたボードの墓であった。(右上) 非はこの水兵にあるが、将来琉球に渡来する米国人の生命を保護するため、事を不問に付すことはできず、首里王府に厳重な申し入れをした。首里王府は犯人を捜すも、見つからず、王府評定所の小使いを真犯人を装わしめ、従犯者四人に縄をかけて、通事と共に提督の乗艦サスクエハナ号に行って、これら五名を犯人として差し出す。提督は琉球の法律に照らして厳重に処罰するように言い渡し犯人らを受け取ることを拒んだ。ペリーは部下監督が足らず、このいまわしい事件をひき起こしたことを総 理官にわびたという。総理官は感謝して犯人らを引き取り、主犯田場を八重山に終身刑、他の従犯者らを宮古島に八年間の流刑を宜したが、米側の記録によると、この判決が厳粛に執行されたかどうか疑問であるとしてあ る。提督は被害者の婦人に対しては、品物を贈って懇ろに慰めたという。米人が去った後、田場はその勲功により、王府より賞を賜っている。この田場武太事件は後年戯曲や芝居で上演された。
名がわからず “AMERICAN” と記したものが四基ある。
当時、ペリー一行の随行画家のハイネの版画が残っている。
この外人墓地は終戦後数年間は荒れ放題となり、現在は在沖米国在郷軍人会が管理している。
第二次世界大戦前までには、この外人墓地には22基の墓があったが、終戦後多数の米国人が沖縄に住むようになり、当地で死亡する人で、この墓地に葬られている人も多い。中にはベトナム戦争で戦死した人の墓もあった。
新屋敷公園 (ウシャギ御嶽)
外人墓地の東側は新屋敷地域で、現在の泊三丁目にあたり、内島と呼ばれ、村後方を後村渠 (クシンダカリ)、前道側を前村渠 (メーンダカリ) ともいった。新屋敷の初期 (廃藩置県の50-60年前) には九家族 (マーチューの松茂良、港の新崎小、後の宜保、前の宜保、平安山、台瀬の有銘小、唐行外間、松川、港の糸洲) が松林であったこの一帯に住んでおり、九カ所と呼ばれていた。後に新屋敷と称するようになった。ここに新屋敷公園があり、その敷地内には黄金御嶽 (クガニウタキ) とうさぎ御嶽 (ウシャギウタキ) が合祀されてる拝所がある。黄金御嶽は昔から泊村の住民を悪疫などから守る守護神が祀られていた。(この東側近くのおもろまちに黄金御嶽がある) うさぎ御嶽は、元々は泊高橋近くにあったと云わっている。うさぎ御嶽の名の由来がある。第一尚氏最後の王である尚徳が、喜界島征伐から凱旋してきた際、呉弘肇 (泊里主宗重)の妻が清水を尚徳王に差し上げ、労をねぎらった場所がおしあげ (ウシャギ) 森で、「おしあげ」が「うさぎ」と変化したという。その忠誠で尚徳王は呉弘肇を泊地頭、妻は泊大阿母志良礼 (オオアムシラレ) 潮花司 (シオバナツカサ) という神職に任じられ、田地を賜わったという。オシアゲ森は天久にあり、天久グスクの大御嶽 (天久之嶽) との説もある。琉球国由来記には泊村の御嶽は見られない事や、この様に黄金御嶽( クガニウタキ) もうさぎ御嶽 (ウシャギウタキ) も別にあるので、この場所は遥拝所ではないだろうか。(資料によってはこの公園が黄金御嶽ともある) また、ここに伝わる同じ話が先日訪れた隣村の天久集落の潮花司 (スーバナチカサ) にも残っている。潮花司は泊大阿母潮花司 の屋敷跡と伝わっている。
拝所の隣には泊村出身の空手家の松茂良興作は (1829~1898) の記念碑が建てられている。琉球王国末期から明治にかけて活躍し、沖縄空手 (唐手) の三大系統の一派である泊手 (トマイディ) の中興の祖とされる。明治の廃藩置県が施行されるときに、沖縄全土は賛成派と反対派に分かれて争いが絶えなかった。開化党 (賛成派、白派)、頑固党 (不賛成派、黒派) で村が二分され、廃藩置県後の自治に大きな支障がでて、後まで影響を残している。泊村も同様な状況で、村の共有財産が明治政府に取りあげられそうになった時に、反対派の松茂良とその弟子たちが先頭に立ち運動をおこし、それを防いだという。その功績を讃えた碑になる。
泊散策道
泊地区の丘陵斜面は住宅地が開発されている。宗元寺の北側から泊小学校に向けて住宅街の中に道が通っている。道路両脇は歩道が整備されて、色々なモニュメントが作られている。宗元寺の門を模した植え込みの囲い、龍柱の街灯、爬竜船の花壇など、琉球特有のもモニュメントが点在している。
泊散策道沿いモニュメントの中には二つのレリーフも置かれていた。一つは先に訪れた泊高橋にまつわる泊阿嘉 (トゥマイアーカー) の琉球歌劇、もう一つが、これも先程の新屋敷公園 (ウシャギ御嶽) にあった記念碑の松茂良興作のレリーフ。
泊小学校旧校舎時計台
那覇市立泊小学校の一角に、時計台と呼ばれる古い建物が残されている。泊小学校の旧校舎跡の一部になる。この泊小学校は琉球王府時代には泊村学校所が置かれていた。1972年 (昭和47年) に泊村学校所趾の碑が建てられている。(写真左下) 琉球王統時代の教育については、尚温王の時代には人村登用の目的をもって1798年 (寛政10年) 首里に国学を創設し、幼童教育のためには三平等に平等学校を設置した。しかし一般教育機関としての村学校の設立は遅れてようやく1835年 (尚育王元年) 年に王府は令を発して那覇や泊に村学校、地方の主な村にもこれに類した筆算稽古所を置くことにした。この際にここに泊村学校所が設置されている。村学校設立当時の生徒数は不明であるが、廃藩前後の生徒数は155人で、久米村をのぞく那覇四町と比較して最も多く、泊が子弟の教育に関心が深かった。1881年 (明治14年) には村学校は泊小学校 (当時教倫小学校) と改称された。学校敷地は明治43年ごろ拡張され、戦後南角の民有地を合して現在の広さになっている。
泊小学校の周辺では、日本軍とアメリカ軍が激しい地上戦を行い、学校も戦闘に巻き込まれていた。泊小学校の校舎に向けて突撃するアメリカ兵の姿が記録されている。旧校舎はアメリカ軍の基地として占拠され、戦後もアメリカ軍の資材置場として使われ、学校が再開できたのは、終戦から13年たってからだった。
泊大阿母火神 (トマリヌオオアモヒヌカン)
泊小学校の東にある泊北公園内に拝所がある。泊大阿母が祀っていたと伝わる火神が祠に納められている。1466年に喜界島征伐から凱旋した尚徳王に呉弘肇の妻 (資料によっては泊宗重の妻) が清水を差し出したという言い伝えがある。尚徳王は大いに喜び妻女を「泊之大阿母潮花司 (とまりのおおあもしおばなつかさ)」という神職に任命し、夫を「泊地頭職」に抜てきしたという。大阿母の神職は泊の祭事や海を祀る職務で、ノロより上位にある。泊地頭は大島各島を管理していた。戦前は泊高橋の交差点を泊港北岸へ入る右側角の泊高橋の近くにあった。呉氏の屋敷跡とされ、おしやげ森と呼ばれた広場の北側に三段ほどの壇があり石垣が積まれ、中央をアーチにして板戸をたて石の香炉がおかれてあったそうだ。戦後、区画整理でこの公園内に移され、祠は1958年に再建されている。祠の中には石製のカマドが祀られ、祠の隣には丸いコンクリートの井戸と土帝君も形式保存されて祀られている。先に訪れた天久にも泊大阿母屋敷跡と伝わり、天久の御嶽で神名をヨリアゲ森ノ御イベの潮花司 (スーバナチカサ) があった。
来週から2週間程、東京行きになる。新型コロナが広がっていたので延期していた定期検査と、住民票のある練馬区の健康診断、免許更新などをこの期間に済ませる予定。忙しくなりそうだ。ここで一旦、集落巡りは休みとして、10月半ばに沖縄に帰って来てからの再開となる。
参考資料
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 泊誌 (1974 とまり会)
- 青い目が見た「大琉球」(1987 ラブ オーシュリ)
0コメント