Okinawa 沖縄 #2 Day 282 (30/01/25) 旧摩文仁村 (3) Komesu Hamlet 米須集落
旧摩文仁村 米須集落 (クミシ、こめす)
- 梯梧之塔
- 久留米久士海上挺身隊戦没霊位十五柱 鎮魂碑
- ひむかいの塔(宮崎県)
- 和光地蔵尊
- 港組砂糖小屋/西リ原組小砂糖小屋砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 摩文仁間切番所跡
- 喜納 (チナー) 神屋
- 東リ大屋 (アガリウフヤ) の神屋
- 久保田山城の屋敷跡
- アガリアシビマー (東遊び庭)
- 1号クムイ (溜池) 跡
- 又吉神屋
- 按司の馬繋ぎ (ンマチナギー) 石
- イリーアシビマー (西遊び庭)
- 東風平 (コチンダ) 神屋
- シマクサラーの辻
- 祝女ヌ殿 (ヌルヌトゥン)、世持ちの殿 (ユムチヌトゥン)
- 按司道 (アジミチ)
- 獅子屋 (シーサーヤー)
- 拝所、古墓
- 山城門中墓
- 米須グスク
- 上グスクへのお通し
- 下ヌ殿 (シチャヌトゥン)
- 城間 (グスクマ) タンカー
- 下 (シチャ) グスク、コバウヌ嶽 (コバウヌタキ) ?
- 上 (ウィー) グスク
- 米次城ヌ嶽
- 祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 神屋
- 摩文仁国民学校跡 (現 米須小学校)
- 徳元門中拝所
- 忠霊之塔
- 大屋組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 拝所
- 鎮魂之塔、ンムニーガマ (未訪問)
- まき橋
- 福井泉 (暗川 クラガー)
- 米須古島
- 2号クムイ (溜池) 跡
- 金城家のガンジューガジマル
- 豊井泉 (ユタカガー)
- 喜屋武小組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 徳元家の屋敷囲い(馬の蹄鉄)
- 米須馬場 (ンマンイー、馬追い)
- 馬上池 (ンマンイーグムイ) 跡、米須公民館
- 村屋跡
- 徳西リ山城小組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 簡易水道跡
- 蝶園
- サーターヤー毛 (モー) 跡、新前大田組/徳前山城組/ヒラコー組小/東米須の中組/新地/新屋久保田組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡、米須青年会館
- 徳新久保田組/仲間組/前頭組/前徳門組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- タバク屋跡
- 儀間家ドラゴンガジュマル、摩文仁への道
- クムイ (溜池) 跡
- 福出泉 (フクラシガー)
- 栄井泉 (サカイガー)
- 米須地下ダム、命水 (ヌチグスイ)
- 米須貝塚
- 米須海岸、米須砂丘
- 米須潮井泉 (クミシスーガー)
- 大度潮井泉 (ウドゥウスーガー)
- 奥間ヌ嶽 (ウクマヌタキ)
- インガー (未確認)
- 米須霊域
- 沖縄菩提樹苑
- 魂魄之塔 (沖縄県)
- 北霊碑(北海道)
- 紀乃國之塔(和歌山県)
- 大和の塔(奈良県)
- ひろしまの塔(広島県)
- 讃岐の奉公塔(香川県)
- 大分の塔(大分県)
- 島根の塔(島根県)
- 因伯の塔(鳥取県)
- 東京之塔(東京都)
- 開南健児之塔
- カミントゥ壕 (消滅)
- 有川中将以下将兵自決の壕
- シカ化石包含地 (未確認)
旧摩文仁村の中心地だった米須集落を訪れた。字米須では多くの史跡やスポットが紹介されており、1月26日、30日、2月10日の三日間にわたって散策を行った。
旧摩文仁村 米須集落 (クミシ、こめす)
字米須は旧摩文仁村の中心地でなる。具志頭村から、安里、与座、摩文仁、大度を通り、米須をすぎ、伊原につらなる摩文仁台地にいだかれ集落がその南に位置し、南側の平野は農耕地となり、字米須は太平洋に面している。
昔、大謝名一帯を支配していた謝名按司が戦いに敗れ離島に逃げのび、それから真栄里に渡り、海辺づたいに米須にたどり着き、住みついたのが部落のはじまりと伝わっている。米須村は米須グスクがある丘陵の北側の後原 (クシバル) に部落があったとされ、米須古島と呼ばれている。
琉球時代は米次村と記載され、クミシと呼ばれていた。琉球王国時代、1860年頃に間切番所が摩文仁から米須二移って以降は、行政でも摩文仁間切の中心地となっている。1879年 (明治12年) に米須村と表記が統一されている。1908年 (明治41年) にそれまで属していた摩文仁間切が摩文仁村と変更された際に、字米須となっている。戦後、沖縄戦の戦災で人口が激減し行政組織を維持することが難しくなった摩文仁村、真壁村、喜屋武村が合併して1946年 (昭和21年) に三和村となり、字米須はその一部となった。その後、1961年 (昭和36年) に三和村は糸満町、兼城村、高嶺村と合併して新しい糸満町になり、1971年 (昭和46年) の市政施行で糸満市となっている。
米須の現在の人口は1,217人で旧摩文仁村、その後の旧三和村では最も多いが、糸満市全体で見ると、中位の地域に位置している。
米須は摩文仁間切時代でも人口は間切内では最も多く、他の地域に比べて3倍以上の人口を抱えていた。1880年 (明治13年) の人口は748人で、沖縄戦直前の1944年には1,253人と大きく増加している。沖縄戦では糸満市内では最も多く戦没者がでて、戦後1946年 (昭和21年) の人口は450人に激減している。それから15年後の1961年 (昭和36年) に、 疎開者帰村者、海外出稼ぎ復員軍人帰国により、ようやく戦前の人口に戻っている。その後は、海外移住者が増加したこともあり、1990年代にかけて人口は減少したが、1997年に米須団地が建設されて人口は増加傾向となっている。2009年以降は人口は徐々に減少していたが、2022年から再度増加二転じている。2024年は世帯数、人口共に減少となり、今後はこの減少が続いていく可能性がある。
明治時代からの民家の分布を見ると旧集落が僅かに拡大しているだけで、それ以外はほとんどが畑地として残っている。
1997年 (平成9年) に集落の後方に県営米須団地 (2LDK 50戸) が建設されて人口が増えている。
摩文仁村は明治時代までは枯摩文仁と呼ばれ、農作物の収穫量は少なかったが、昭和時代に入り、甘藷甘薯栽培が盛んになり収穫量は増加している。戦前は大豆がサトウキビについでの換金作物だったが、戦後は、イモや大豆はほとんど生産されず、葉タバコがサトウキビと共に主力農産物隣、当時は全沖縄農産物の三割を占めていた。(米須単独は不明) その後の糸満市全体の農産物のデータを見ると、1985年 (昭和60年) では既にサトウキビは衰えており、野菜が最も多い出荷額だった。その後、サトウキビは更に衰え、野菜生産も減少し、かわって花き産業が主力農産物となっている。(糸満市が5年ごとに発行している統計データは一貫性がなく、通年でトレースすることができず、また、糸満市の農業の全容がわかるグラフや表も無く、この統計データをどのように利用しているのか疑問を持った。)
琉球国由来記*等に記載されている拝所は以下の通り。
- 御嶽: 米次城ヌ嶽* (神名: 島根富国根富ノ御イベ)、コバウヌ嶽* (神名: シヂアラヅカサヌ御イベ)、奥間ヌ嶽* (アカウヅカサノ御イベ)
- 殿: 祝女ヌ殿 (米次ノロ火ヌ神*)、世持ちの殿 (米次ヌ殿*)、下ヌ殿 (シチャヌトゥン)
- 拝所: 喜納神屋、東リ大屋神屋、上グスクへのお通し、城間タンカー、又吉神屋、東風平神屋、祝女殿内神屋
- 井泉: 豊井泉、福井泉 (暗川)、福出泉、栄井泉、インガー (未訪問)、米須潮井泉、大度潮井泉
米須集落では、村あげての最大の行事は、6月25日の部落東西にわかれて男たちが引く綱引きと、8月15の臼太鼓 (ウシデーク) になる。
梯梧之塔
ひめゆりの塔から国道331号線を東に進むと米須集落だが、ひめゆりの塔の団体バス停の奥にも沖縄戦の慰霊碑が建てられている。梯梧之塔で沖縄戦で亡くなった昭和高等女学校の梯梧学徒隊戦没者の9名、職員3名、生徒50名の計62名を弔ってのいる。詳細は別レポートに記載する。
久留米久士海上挺身隊戦没霊位十五柱 鎮魂碑
国道331号線を米須集落に向けて更に東に進むと、米須西交差点の場所に、三つの慰霊碑が置かれている。東側は1993年 (平成5年) に建立された久留米久士海上挺身隊戦没霊位十五柱 鎮魂碑で、久留米出身の学生若者が訓練され特攻隊となり、沖縄に派兵され、米軍艦船に向かって、爆弾を抱えた船で体当たり自爆させられた悲劇が起こっている。この慰霊塔は、戦死した若者たちを慰霊している。米須を始め、摩文仁地区には多くの慰霊碑が建てられている。これら慰霊碑は大きく三つに大別される。地元住民の慰霊碑、学徒隊の慰霊碑、沖縄戦・第二次世界大戦での戦没軍人の慰霊碑で、碑文などからその性格が異なる。住民と学徒慰霊碑では犠牲を強いらえた悲しみと悔しさを表し世界平和を願っているが、兵士の慰霊碑はその勇気と祖国への忠誠献身を讃えている。この二つの性格には建立者たちに大きな感覚の隔たりを感じる。
ここにある慰霊塔の碑文は以下の通り
学徒出陣霊位に捧ぐ
祖国の命運をかけアジア民族開放の大東亜戦争は昭和十九年半ばには戦局暗雲立ち込め本土決戦の起死回生策としての船舶特攻隊員として選ばれし十五柱の汝命等、久留米第一陸軍予備士官学校より第一〇船舶教育隊に転属、江田島の幸之浦基地にて猛訓昭和二十七年沖縄戦激化するや沖縄海上二十六、二十七戦隊員として奮戦、嘉手納沖や中城湾にて敵艦に体当たり自爆されしは八柱、米須、首里、真栄里、湊川の陸戦にて七柱散華され給う。痛恨の極みなれど、汝命等は大和益良夫の道を全うされたと申し上ぐべきか。英霊諸兄の魂魄とその勲は永久に御遺族は勿論の事私達同期並びにその子孫の胸中に焼き続けて止まない。
汝命等安らかにお眠りください。
ひむかいの塔(宮崎県)
鎮魂碑の隣にはひむかいの塔がある。沖縄県内には46都道府県の慰霊碑が建立されている。米須にはその内、都道府県の慰霊碑10基がある。ここはその一つ、残りの9基は米須海岸近くに建立されている。ひむかいの塔は1965年 (昭和40年) に宮崎県遺族連合会により建立された慰霊碑で、第二次世界大戦で犠牲となった宮崎県出身者の31,237柱 (沖縄戦戦没者1,848柱、南方諸地域戦没者29,389柱) を合祀している。
ずゐせんの塔
ひむかいの塔の隣には、1948年 (昭和23年) に首里高等女学校の瑞泉同窓会により建立された慰霊碑で、沖縄戦で61人が従軍し、33人が米須、伊原一帯などで戦火の犠牲となった瑞泉学徒隊 (首里高等女学校学徒) と、それ以外、沖縄戦で犠牲となった生徒、学校関係者の戦没者102柱を弔っている.。ずゐせんの塔は元々は首里桃原町の学校跡地に建てられたが、1972年 (昭和47年) に、この地に移設されている。瑞泉学徒隊の足跡については別レポートで記載する。
港組砂糖小屋/西リ原組小砂糖小屋砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
和光地蔵尊から国道331号線を東に進むと米須集落に入る。戦前、米須集落への西入り口の所には、西米須の砂糖小屋 (サーターヤー) 二か所が置かれていた。国道沿い南側に西リ原組小砂糖小屋 (写真上)、国道北側にもう一つ港組砂糖小屋(写真下) あった。現在では空き地になっている。
摩文仁間切番所跡
現在の国道331号線はかつては米須集落のメインストリートで、集落はこの道を挟んで北と南に広がっていた。この道沿いの場所には琉球王国時代の19世紀中頃 (1860年頃) に、摩文仁村井にあった摩文仁間切番所が移転している。現在は農協となっている。摩文仁間切ができた頃は摩文仁村が行政の中心地で、高台に番所を置き間切を治めていたが、摩文仁間切の片隅にあった事より次第に行政上不都合となり、この地に移転したという。(移転時期については不明)
喜納 (チナー) 神屋
番所跡のすぐ東、国道沿いに旧家喜納 (チナー) の屋敷跡がある。現在は空き地となっており、その中に神屋が置かれている。この神屋では、8月の東門御願 (アガリジョーウグヮン) で酒や線香のほか生豆腐二丁を供えて五穀豊穣や台風の被害がないことを拝んでいるそうだ。
国道331号線の北側の集落を見ていく。
東リ大屋 (アガリウフヤ) の神屋
摩文仁間切番所跡と喜納 (チナー) 神屋の間の道 (按司道) を北に進むと、集落内に旧家の東リ大屋 (アガリウフヤ) の屋敷跡がある。この場所も空き地になっている。そこには神屋が置かれ、内部正面には木製の神棚が2つあり、合計7つの香炉が置かれている。
久保田山城の屋敷跡
大屋の屋敷の隣は久保田山城の屋敷跡で、ここも空き地になっている。屋敷囲いは、立派な石垣で、隙間なく積み上げたテージサケ―形式の石垣になっている。このテージサケ―はは富豪の家にしかなかった。屋敷跡の片隅に神屋が建てられている。
アガリアシビマー (東遊び庭)
米須集落内には、かつては東西の二ヶ所の遊び庭 (アシビマー、アシビナー) があった。十五夜 (ジューグヤー) の臼太鼓 (ウシデーク) は東西に分かれて行われ、それぞれがこのアシビマーで練習していた。東組が練習していたアガリアシビマー (東遊び庭) は東リ大屋のすぐ東にあり、現在では駐車場になっている。
1号クムイ (溜池) 跡
アガリアシビマー (東遊び庭) のはす向かいは空き地になっており、戦前にはクムイ (溜池) があった場所で現在は埋め立てられている。米須集落にあった約8つのクムイは番号で呼ばれており、ここは1号クムイと呼ばれていた。
又吉神屋
道を一ブロック北に進むと、米須の国元 (クニムトゥ) で、米須按司を祖先とする旧家の又吉がある。謝名 (ジャナ) とも呼ばれており、敷地内に神屋が置かれ、火ヌ神 (ヒヌカン) のほか米須按司の名が記された位牌などが祀られた神棚があり、多くの村御願 (ムラウグワン) で拝まれている。
謝名 (ジャナ) の屋敷囲いは昔から工法で、自然の石の野面積みになっている。
按司の馬繋ぎ (ンマチナギー) 石
謝名 (ジャナ) の屋敷の東、按司道沿いの石垣の中に変わった形の琉球石灰岩がある。穴の開いており、この穴に馬の綱を通し繋いだと伝わる。昔按司が馬に乗るときの踏み石だったともいわれている。
イリーアシビマー (西遊び庭)
米須集落内にあった二ヶ所の遊び庭 (アシビマー、アシビナー) のうち、イリーアシビマー (西遊び庭) 跡は謝名 (ジャナ) の屋敷の西にあり、現在では空き地になっている。
東風平 (コチンダ) 神屋
謝名 (ジャナ) の屋敷の西には東風平 (コチンダ) の屋敷跡がある。東風平は米須集落の大元 (ウフムートゥ)、嶽元 (タキムトゥ) と呼ばれる草分けの家だった。現在居住者はおらず、空き地となり、屋敷跡の一角にコン クリートの小さな神屋が残っている。畦払い (アブシバレー) の村御願 (ムラウグワン) で拝まれている。
シマクサラーの辻
道を更に北に進むと米須集落の北の端に着く。ここはシマクサラーの辻と呼ばれ、現在は行われていないが、かつては村に北側から悪霊などが入らないように厄除け行事のシマクサラシが旧暦 12月8日に行われた場所になる。この場所に樹齢100年を超える梯梧 (デイゴ) の木が残っており、シマクサラシではこの木の枝に牛の骨を吊るしたという。この梯梧 (デイゴ) の木は沖縄県の名木100選に選ばれている。
祝女ヌ殿 (ヌルヌトゥン)、世持ちの殿 (ユムチヌトゥン)
シマクサラーの梯梧 (デイゴ) の奥に祠が二つあり、奥の祠が世持ちの殿 (ユムチヌトゥン 写真左) で、琉球国由来記に記載のあるの 米次ヌ殿 (クミシヌトゥン) とされる。ウマチーなどで米須集落が拝んでいる。世持ちの殿 (ユムチヌトゥン) の手前にあるのが祝女ヌ殿 (ヌルヌトゥン) で、琉球国由来記の米次ノロ火ヌ神と推測されている。
ノロ火ヌ神かつては屋号仲宗根 (獅子屋) の東隣に祠があったが、現在はここにに移設されている。 9月9日の菊酒やシマクサラシなどの村御願 (ムラウグワン) で拝まれている。
按司道 (アジミチ)
国道321号線からここまで歩いてきた道は按司道 (アジミチ) と呼ばれている。この北にある米須グスクに通じている。南は国道331号線の南の馬追い (ンマンイー) まで続いており、現在でも綱引きの際には、国元 (クニムトゥ) の謝名 (ジャナ) から、綱の上に乗る青年であるシタク (支度) が下りてくる道でもある。
獅子屋 (シーサーヤー)
シマクサラーの辻の西側には、仲宗根の元屋敷の一角に獅子加那志 (シーシガ ナシー、獅子頭) を納めた小屋が建てられている。十五夜 (ジューグヤー ) に先立ち、8月9日には周辺の拝所を清掃し、 シーシガナシーの化粧直しをする行事もある。
拝所、古墓
獅子屋の北西の森の中に古くから残っている拝所があった。森への入り口は二か所ある。奥の入り口を入ると拝所が三ヶ所おかれている。古墓なのだろうか?
もう一つ手前の道を入った所も拝所になっている。石の祠が二つ。祠の奥には井戸跡 (写真左下) が見える。更に奥には大岩の所も拝所になっている。
拝所の道を少し北に進むと米須湯水場の脇に森への道があった。入ってみると道が二股に分かれ、それぞれの奥に古墓が造られていた。
山城門中墓
道を進み、米須団地を過ぎて北の崖の上に立派な門中墓がある。米須集落の有力門中である山城門中の墓になる。
米須グスク
按司道を米須グスクに向かっていく途中に、前方に蛇がいた。模様からハブと分かったので、ドキッとした。沖縄暮しを始めてから初めてハブに遭遇する。当初は森の中に入っていくときはハブに注意しながらだったが、ハブには遭遇したことがなく警戒心も薄くなっていた。とうとう出会ってしまった。ハブが過ぎ去るのを待っていたが、一向に動かないので、恐る恐る近くまで行くと、死んでいるようだ。石を投げても動かないので死んでいる。ほっとして道を進むが、この後は気を引き締めてハブに注意しながらのグスク散策となった。
グスクへの按司道の脇の広場が綺麗に草が刈られている。わざわざ草を刈っているので、ここで何かが行われるのか、拝所の御願の場所かも知れない。広場の大岩が拝所となっているのかも知れない。
按司道 (アジミチ) を北に進むと米須集落背後の東田原にまたがる標高約50mの丘陵には米須グスク跡がある。摩文仁村内には米須城、石原城、波平城、察度城 (察度王の隠居城と伝わる)、賀良城、摩文仁上城など多数のグスクが存在していた。三山時代に南山グスクの出城として築かれたと云われ、主郭 (上グスク) と二の郭 (下グスク) の連立郭構成になっている。
おもろ双紙に「米領世の主の君くらよ君くらす接司はやせ真物世の主よ」と書かれ、城主の善政をうたっている。
米須按司については複数の伝承がある。
- 米須按司は叔父の奥間按司とともに国頭へ行った際、事件があって慶良間へ落ち延びたといわれている。按司は後に米須に戻り、南山グスクからの按司の後を継いだと云われている。
- また謝名村の謝名按司が離島に落ち延びた後、米須に渡って按司となり集落を開いたとも云われている。
- 按司が慶良間に落ち延びた後、大米須親方の子である米須里主が按司になっていたものの、第一尚氏が滅びた際に山原へ落ち延びたため、慶良間に落ち延びていた按司の孫である謝名之子が米須に戻って米須若按司になったともいう。
按司の奥方によるあだ討ちの伝説も残っている。
三山統一前 (第一尚氏滅亡直後の時期との説もある) のこと。米須接司の美人で知られていた妃 (ウナジャラ) に家来の我瀬之子 (大城森按司の長子) が横恋慕し、妃を我が物にしようと画策し、按司を月見みに小渡の浜辺で舟遊びに連れ出し、舟から突き落として亡き者にした。後に、按司の飼犬が海中で按司の死体の入った壷を見つけて妃に知らせた。この事で夫を殺したのが家来の我瀬之子であることをさとった。我瀬之子は尚も妃にしつこく求婚するので、妃は一計を案じ、求婚を受け入れる振りして我瀬之子を山 (与座と八重瀬高良の間にある我瀬原森) へ誘い、「この木は建築の材料にいいので長さはどのくらいかはかってみてください」と頼み、我瀬之子が両手で木を測っている隙に、隠し持っていたノミで両手に打ち込み、夫の仇を討ち取った。後継ぎがいないので、宜野湾真志喜村の金満按司の六男を養子にしたといわれる。
上グスクへのお通し
上グスクへの石畳の階段下西側は広場になっており、そこには三つの拝所が置かれている。手前の拝所は米須グスクの頂上の上グスク内にある米次城ヌ嶽 (クミシグシクヌタキ) へのお通し (遥拝所) になる。
下ヌ殿 (シチャヌトゥン)
お通しの隣には下ヌ殿 (シチャヌトゥン) と呼ばれるコンクリート造の祠がある。菊酒やシマクサラシなど の村御願 (ムラウグワン) で拝まれている。昔は石積みの祠だったが、現在はコンクリート造りで作り直されている。
城間 (グスクマ) タンカー
下ヌ殿 (シチャヌトゥン) の左手にもお通し (遥拝所) があり、城間 (グスクマ) タンカーと呼ばれている。タンカーがどういう意味なのかは分からなかった。村御願 (ムラウグワン) で北方を拝んでいる。
下 (シチャ) グスク、コバウヌ嶽 (コバウヌタキ) ?
拝所がある広場と按司道を隔てた東側は下 (シチャ) グスクとされており、米須小学校の後方まで伸びていたそうだ。森の中に入っていくと石垣が残っている。下 (シチャ) グスクの外壁なのだろう。石垣の上を歩いて奥に進んでいったが、樹々に阻まれそれ以上は進めなかった。
下 (シチャ) グスクの中に石積みの祠がある。この辺りには琉球国由来記のコバウヌ嶽 (神名: シヂアラヅカサヌ御イベ) があるそうだ。これがそうだろうか? 資料では所在地不明となっていた。
上 (ウィー) グスク
石畳の階を登ると城門があり 主郭 (上グスク) に入る。
上グスクには高さ約2m、幅1.5~2mの野面積み石垣が周囲に廻らされている。
高さ約1m前後の平面円形の石積御嶽三つ、古井戸、巨石石灰岩の御願所がある。上グスクでは青磁片、白磁片、グスク系土器片の遺物が採取されている。
米次城ヌ嶽 (クミシグシクヌタキ)
米須グスクの頂上の主郭である上グスク (ウィーグスク) に入った所に大岩があり、琉球国由来記の米次城ヌ嶽 (クミシグシクヌタキ) の威部 (神名: 島根富国根富ノ御イベ) と考えられ、城の守護神として米須祝女(ノロ)が拝祀したと伝わっている。米須集落では菊酒などの村御願 (ムラウグワン) で拝むが、近年はグスク登り口下の広場の上グスクへのお通しから拝んでいる。
米須集落に戻り、按司道の東側地域を見る。
祝女殿内 (ヌンドゥンチ) 神屋
米須集落の北東の端には祝女元 (ヌルムトゥ) と呼ばれ、かつて米須ノロを輩出した家号祝女殿内 (ヌンドゥンチ) の屋敷跡があり、その敷地内に神屋が置かれ、火ヌ神 (ヒヌカン) と神棚が祀られている。ほとんどの村御願 (ムラウグワン) で拝まれている。
摩文仁国民学校跡 (現 米須小学校)
祝女殿内屋敷跡の東には米須小学校がある。戦前は摩文仁国民学校だった。更にそれ以前を見ると、この学校の前身は1880年 (明治13年) に摩文仁間切、喜屋武間切、真壁間切が共同で真壁に開校した文喜尋常小学校で長い歴史を持っている。1890年 (明治23年) には各間切に分校の簡易小学校を設置し、1895年 (明治28年) に文喜小学校より各間切の簡易小学校が分離して、摩文仁間切では摩文仁番所内に仮校舎を設置して摩文仁尋常小学校が開校、1897年 (明治30年) に摩文仁番所内から、現在の場所に移転している。1915年 (大正4年) に高等科を併置、1926年 (昭和元年) に煉瓦作り茅葺き平屋校舎を新築。1941年 (昭和16年) に摩文仁国民学校となった。戦後の学校の再開は1946年 (昭和21年) に当時住民が収容されていた名城収容所に開設し、三和初等学校と称した。1948年 (昭和23年) に現在地に三和初等学校米須分校を置き、4年生までを教えていた。翌1949年 (昭和24年) に 独立して米須初等学校と称し、1952年 (昭和27年) 米須小学校と改称し、石造り瓦葺校舎が完成している。
米須小学校の学校区は米須、摩文仁、伊原、大度の四地域 (南波平は真壁学校区) で、2023年 (令和5年) の生徒数は143名となっている。
徳元門中拝所
米須小学校正門の脇に拝所がある。米須集落の有力門中の一つである徳元門中の拝所だった。
忠霊之塔
米須小学校 (旧摩文仁国民学校) 東側の忠霊之塔が建立されている。この塔の下に自然壕 (アガリン壕) があり、米須集落の共同避難壕として使用されていた。米須集落では、1945年 (昭和20年) 6月に入ると艦砲射撃が激しくなり、大勢の字民が避難していた。6月21日に日本兵数十人がアガリン壕に入ってきて、住民を壕の奥に移動させ、入口付近を占拠し、住民の投降を阻止していた。壕はすぐに米軍に発見され投降が呼びかけられたが、日本兵が拒否し抵抗、ついに米兵にガソリンを流し込まれて壕内は焼かれ、避難していた米須住民50家族159人が犠牲になっている。日本兵と一緒にいたことによる悲劇だった。昭和55年に遺族が慰霊碑の建立援助を沖縄県に打診するが、識名霊園への合祀を勧められた。遺族は地元の戦没地に設置して記憶を風化させないとの思いが強く、結局各自が資金を出し合って建立している。
米須での沖縄戦を見ると
- 1944年 (昭和19年) に日本軍の武部隊が米須に駐屯し、米須グスクに陣地壕を構築していた。摩文仁国民学校を宿舎にしており、村屋や民家も部隊幹部の宿泊所や炊事場などに使用されていた。武部隊は12月に台湾に移動し、入れ替わりに歩兵第 32連隊第2大隊第5中隊 (山部隊) などが駐屯してきた。部落には日本軍の慰安所も設置されていた。米須住民は日本軍の読谷飛行場、小禄飛行場建設や陣地構築に動員されていた。また、米軍戦車の進攻を妨害するために、米須と大度部落の前に長さ約1キロの戦車断崖を多数の住民を動員して構築し、部落入口の道路には石を積み上げた戦車障碍をつくっていた。子どもも石運びを手伝っていた。女子青年は日本軍の炊事の手伝いに駆り出されていた。
- 1944年 (昭和19年) 10月10日に米須部落は空襲 (10・10空襲) を受け、米須製糖場が半壊し、周辺の家屋も2、3軒が焼けている。10・10空襲までは各家庭で屋敷内に避難壕を掘っていたが、空襲後は学校東側や学校北側の自然壕を整備して避難壕としていた。
- 米須集落からは、兵隊31人、防衛隊67人、学徒隊4人など軍人軍属として、計170人 (女子が14人) が日本軍に動員された。学童疎開として48人が熊本県に疎開。本土一般疎開は 1944年 (昭和19年) 8月頃から1945年 (昭和20年) 3月にかけて行われ83人だった。山原 (恩納村名嘉真や伊武部など) への疎開は1945年 (昭和20年) 3月に41人だった。
- 1945年 (昭和20年) 3月23日から、米軍の米須への空襲攻撃が始まり、翌日には米須の沖に米軍艦隊が出現して艦砲射撃を始めた。25日までには、部落の大部分が焼失している。この襲撃で山原への避難疎開が指示されたが、この時期には既に北への避難は困難で、途中から引き返してくる者もいた。
- 6月頃には、戦場から後退してきた多数の日本兵や避難民が米須に集まって来た。更に、追い詰められて喜屋武方面や摩文仁方面へ逃げる人々が右往左往し、部落内の木の下や石垣の側には大勢の避難民 が隠れていた。
- 首里の第62師団野戦病院は、米軍進攻により武富や阿波根などに後退、6月3日頃には米須部落の自然壕に移動して来たが、薬品や包帯もなく病院としての機能は既に失われていた。米軍戦車の攻撃を受け、6月19日には部隊は解散している。
- 6月16日に歩兵第64旅団司令部が、米軍の進攻に対処するために束辺名から米須北側丘陵の陣地壕に移動。18日には小波蔵の丘陵が米軍に占領され、一部の部隊は伊原の北側に達してい る。19日には米須の丘陵に前進し、一部は米須の南海岸まで到達した。20日には激しい戦闘があり、歩兵第64旅団司令部のほとんどが戦死している。
糸満市が実施した調査では、戸籍ベースでの調査した1,898人のうち戦没者は809人で、戦没率は42.6%となる。全296世帯のうち、戦没者がいる世帯は 241世帯 (81.4%) で、家族の半数以上が戦没した世帯は128世帯 (43.2%)、一家全滅した世帯が42世帯 (14.1%) となっている。県内所在者は1,259人で、その内 735人が戦没しており、戦没率は58.9%で糸満市内で最も高い率になっている。軍人軍属は外地、海上を除く170人中141人(戦没率82.9%)が戦没している。(外地、海上を含めると69.2%) 日本本土には、軍人軍属を除いて398人(出稼ぎ267人、疎開者131人) が所在し、そのうち戦没者は2人。外地には、軍人軍属を除いて一般人86人が所在し、戦没者は66人、戦没率80.5%と非常に高率になっている。
米須住民の多くが最後まで字内に留まっていた事で、米須の一般住民 (身分不明者含む) の戦没地は米須が495人、伊原が11人、摩文仁が10人、大度が7人で、字米須内での犠牲者が圧倒的に多くなっている。米須は米軍による制圧が6月21日頃と遅かった事で、後退を続ける日本兵が各地から追い詰められ、この米須一帯に避難してきた。米須に逃げて来た日本兵により、避難壕にいた住民は追い出された。この時期には日本軍は既に統制機能は失われ、精神的に疲弊し、銃剣や手榴弾で住民を威嚇して避難場所を占拠し、食糧を強奪することもあった。追い出された住民は、米軍に包囲された戦場を逃げまどい砲火に倒れていった。日本兵と住民が雑居する避難壕では、日本兵が投降を拒んだために攻撃を受けて、住民が巻き添えになっていった。アガリン壕、チブトゥンガマ、カミントゥガマの三つの避難壕だけでも字民288人が犠牲になっている。米須一帯が日本軍最後の拠点の一つとなったために、戦闘に字民が巻き込まれて、戦没者が生存者数を大きく上回るという悲惨な状況となった。
1945年 (昭和20年) 11月ごろより、摩文仁村民は各収容所から名城海岸の居住地区(米軍兵舎跡) に移動。1946年 (昭和21年) 4月に、摩文仁、真壁、喜屋武の3か村は合併して三和村 (みわ) が誕生し、5月頃に元の集落への帰還許可が出て、帰還準備で共同作業で規格住宅を9軒建設し、しばらくは1軒に15人ほどで共同生活をしていた。小さなテント小屋で暮らしている者もいた。その後も共同作業で住宅を増設していった。荒れ放題だった畑を耕して、食糧の増産にも取り組み、米須復興がはじまった。
大屋組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
忠霊之塔の南側には、戦前、東米須の大屋組の砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。この場所は米須集落から東に少し外れた場所になる。
拝所
砂糖小屋 (サーターヤー) 跡の斜め向かいにコンクリートで固めた場所に拝所と石柱が置かれている。資料では出ていない拝所なので詳細は不明。
鎮魂之塔、ンムニーガマ (未訪問)
米須小学校北側の森の中に建立されている鎮魂之塔後方の自然壕 (ンムニーガマ) は部落の共同避難壕で、字民だけでなく避難民や日本兵も入っていた。この壕でも悲劇が起こっている。6月20日ごろに米軍から投降を促されたが、日本兵が抵抗したためにガス弾を投げ込まれ、さらに火炎放射攻撃を受けたために避難していた住民のほとんどが脱出できず、米須住民だけでも71人が犠牲になっている。戦後、この場所に犠牲となった住民の慰霊碑が建立されている。ここへは学校の敷地内を通っていく必要がある、そこへの入り口にはロープが張られ、ハブ注意の警告板が置かれていた。慰霊祭の直前には草刈りが行われているそうだが、それ以外は草は伸び放題だろう。今回は訪問は断念し、慰霊祭直後に再訪を予定。写真はここを訪問した人がインターネットに掲載していたものを借用した。
まき橋
米須小学校校門の前の県道7号線を北に進む。この県道7号線は琉球王国時代の宿道に当たり、この場所に架けられていた橋が道路下に残っている。付近はハーグチと呼ばれる場所で1912年 (大正元年) 頃に大きな荷馬車が通れるようにハーグチの割取り道路工事が行われたといい、この橋もその時に架けられた。
米須古島
まき橋の北は小字の後原 (クシバル) で、丘陵の北の麓辺りは米須集落が現在地に移動する前の米須古島があったとされ、ここでは1747年から19年間生活していた。この土地では水害が深刻で、家畜や家屋が場がされたという。この事から集落を現在地に移している。
福井泉 (暗川 クラガー)
米須グスクの丘陵北側麓の畑の中に福井泉 (クラガー) が残っている。古くから使われた水源で、詹姓家譜 (1856年) の記述では米須の人々は暗川と呼んでいたという。後ヌ井泉 (クシンカー) とも呼ばれる事もある。入口近くには、戦前建立された古い石碑があり、福井泉と刻まれている。「幸福な井戸」で幸福の福と井戸の井をとり、福井泉と名付けたという。戦前から戦後まで、米須住民の命の水として生活用水に使われ、戦争中、大人から子供、又、軍隊もよく利用していた。1934年 (昭和9年) にタカザー道路 (資料では場所は示されていない) が開削されるまでは、丘陵の険しい山道を通り水汲みをしていたそうだ。現在では使用されていない。
2号クムイ (溜池) 跡
県道7号線を南の国道331号線に向けて戻る。国道331号線に合流する手前に小さな児童公園があった。ここは、戦前にはクムイ (溜池) があった場所だ。サーターヤーやクムイは多くの場合、個人所有地ではなく、字有地の事が多く、民間に払い下げされていない場合は公園や公民館などの施設になっているのを見かける。
金城家のガンジューガジマル
米須集落の東の端、国道331号線沿いの金城家には樹齢150年を超えるガジュマルがある。枝が大きく道路を覆うように伸びている。戦禍、台風、竜巻にもびくともせず、この地を直撃した巨大竜巻により家屋や住人を巻き上げ多大なる被害を受けたが、このガジュマルだけは突風をものともせず堪えぬいたという力強さは古くから「多幸の歯」と言われ、ガンジュー (頑丈) ガジュマルと呼ばれ、樹の根をくぐった男女は末永く幸せになれるという。
豊井泉 (ユタカガー)
国道331号線を東に進むとサトウキビ畑を突っ切り豊井泉 (ユタカガー) への道がある。行き止まりには水をくみ上げるポンプ小屋が見えてきた。
この湧水の存在は以前から知られていたが、水源が深いところにあり、取水が困難で、1955年 (昭和30年) に簡易水道を整備するときに簡易水道の水源として米須小学校北側高台の水タンク まで揚水し、集落の各家庭に配水し、米須住民の生活用水として、大きな役割を果たした。昭和52年に字米須が糸満市水道に加入が決定した際に簡易水道の役目は終了し、豊井泉 (ユタカガー)は生活用水としては使用せず、農業用水に利用されている。井戸の上に水を汲み上げる施設があり、見学中にも時々大きな音を鳴らして水を汲み上げていた。「ゆたか泉」 と刻まれた石碑の側に千羽鶴を入れた額が置かれている。米須の沖縄戦で戦死者が出た避難壕に同じ物が置かれていたことから推測するに、この豊井泉のガマにも米須住民が避難し、犠牲者が出たのだろう。その犠牲者を偲んでの千羽鶴と思う。
喜屋武小組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
豊井泉への道の東側は戦前には東米須の喜屋武小組砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた場所だった。
次に国道331号線の南側に広がっている米須集落を散策する。
徳元家の屋敷囲い(馬の蹄鉄)
国道331号線から按司道を南に入った所に徳元家屋敷があり、立派な布積みの石垣で囲まれている。石を四角に加工して、隙間なく積み上げた石垣 (テージサケ―) で、この形式は戦後多くなったそうだ。門近くに、馬の手綱を結びつけるために蹄鉄が埋め込まれている。戦後も馬が日常的に使われていたようだ。
米須馬場 (ンマンイー、馬追い)
按司道の南の終点は幅の広い道路に突き当たる。この道はかつては馬追い (ンマンイー)と呼ばれる馬場跡で全長約270メートル、幅約7メートルもある。1988年 (昭和63年) に舗装されて現在の姿になっている。この馬場では大正中期ごろまでンマハラセー(馬走らせ、競馬)が行われていたという。現在も綱引きや十五夜 (ジューグヤー) の臼太鼓 (ウシデーク) 、獅子舞 (シーサーモーラセー) などムラ行事が行われている。昔は、地域でとれた農作物のできを競う原勝負 (ハルスーブ)、盆踊りや角力大会などもこの広場で行われ、その際には競馬が行われたという。戦前にはこの馬場周辺には琉球松の大木が並木を造っていたそうだが、沖縄戦で焼失、1930年 (昭和5年) 頃に松並木の間に植樹した数本の梯梧 (デイゴ) の並木が生き残っている。馬場の道路にカラーマンホール蓋があった。沖縄では色付きの蓋は珍しい。
馬上池 (ンマンイーグムイ) 跡、米須公民館
馬場の半ば程に現在は公民館が建っているが、戦前までは馬上池 (ンマンイーグムイ) と呼ばれた溜池だった。自然池ではなく戦前に造られた溜池だった。米須集落に8ヶ所程あったグムイの中では最も大きく、生活用水、防火用水として整備されていた。戦後、池は埋め立てられて、その上に公民館が建設された。公民館の広場には先に紹介した馬などのモニュメントが置かれている。
村屋跡
公民館の側に東屋があり、住民の休憩所となっている。この場所には戦前迄、村屋があった場所。戦後は、隣にあった馬上池が埋め立てられて、そこに新しい公民館が建てられている。この村屋跡には、「米須むらあるきマップ」が置かれている。米須集落では「米須生活感幸村 村丸ごと生活博物館」と称して、村の環境の維持向上を目指している。その活動の一つが、米須の祈りの場や思い出のある場所などを守る事で、ガイドブックに載っていないスポットも含め紹介した案内板が集落内に置かれている。この様な組織だっての活動を見るのは沖縄では初めてだ、集落を巡り、地元の人と話す機会が多くあるのだが、若い人や子供は自分達が住んでいる村の歴史などについては関心が薄い。この様に自分達の村を知る機会がある事は、好奇心旺盛残り子供達には刺激になり、評価できる試みと思える。他の地区でも取り入れて貰いたいものだ。今回の米須集落巡りでも参考にさせてもらった。
徳西リ山城小組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
公民館の西隣は空き地になっているこの場所には戦前まで、西米須の徳西リ山城小組砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。
簡易水道跡
米須集落では1955年 (昭和30年) に高等弁務官資金で簡易水道が造られた。公民館の前の道沿いに、簡易水道の蛇口の石柱が残っている。簡易水道は各家庭まで水道を引くのではなく、集落の数か所にこのような瀬説を造り、住民はそこに水を汲みに行った。米須の井戸は集落からかなり離れたところにあり、簡易水道ができるまでは、毎日樹幹をかけての水汲みの重労働が続いていたので、この簡易水道設置で、各段と便利になった。1977年 (昭和52年) には字米須が糸満市水道に加入し、各家庭に上水が給水されるまで、約20年間、米須集落の人々に利用されていた。
蝶園
米須は沖縄戦で糸満市では戦没者数はじめ最も大きな被害を受けた地域になる。集落全人口の約5割が戦没し、全戸数の2.5割が一家全滅となる悲惨な歴史だった。戦後は、農業の復興と村の組織づくりに力が注がれ、その努力の結果、混乱期を助け合いでもって乗り切ってきた。この経験から米須住民は平和な暮らしの尊さの意識が高く、その象徴として集落内をゆっくりと優雅に舞うオオゴマダラの孵化の環境を整えている。この場所にそのメッセージが書かれていた。
親兄弟親戚和睦しち、近所や人々とも、この世の楽しみ、しち暮らし
サーターヤー毛 (モー) 跡、新前大田組/徳前山城組/ヒラコー組小/東米須の中組/新地/新屋久保田組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡、米須青年会館
公民館の南側に大きな広場がある。戦前、製糖工場があった所で製糖屋毛 (サーターヤーモー)と呼ばれていた。米須には、東米須に10ヶ所、西米須に8ヶ所のサーターヤーがあり、それぞれの組の世帯が順番で使用していた。この場所には西米須の新前大田組、徳前山城組、ヒラコー組小の三つの砂糖小屋 (サーターヤー)、東米須の中組、新地、新屋久保田組の三つの砂糖小屋 (サーターヤー)が置かれていた。1955年 (昭和30年) に集落で組合を作り、政府補助を得て黒糖工場を設立し経営をしていたが、1960年 (昭和35年) に兼城に第一精糖工場が建設され、他字の黒糖工場は設備を売却したが、米須では売却に応じず自然消滅している。以降は収穫したサトウキビを第一精糖工場に出荷していた。かつて闘牛が盛んだったころは、この広場が会場となったため牛毛 (ウシモー) とも呼ばれた。ここには米須青年会会員が自らの手で建設した地域の活動拠点のひとつの米須青年会館が建てられ、会館前広場ではエイサー大会や老人ゲートボールが行われている。
徳新久保田組/仲間組/前頭組/前徳門組砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
サーターヤー毛 (モー) から道を東に進んだ北側にもサーターヤー毛 (モー) 跡があり、そこには東米須の徳新久保田組、仲間組、前頭組、前徳門組の四つの砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。
タバク屋跡
砂糖小屋 (サーターヤー) 跡の北側に面白い建物が残っている。1955年 (昭和30年) 頃に、豊見城根差部にオリエンタルタバコ、那覇壷川に沖縄タバコと琉球タバコ等のタバコ製造会社が設立され、タバコ栽培に適した気候の字米須でオリエンタルタバコの指導でタバコ栽培が開始された。米須では1955年 (昭和30年) 頃ではほとんどの農家が葉タバコを栽培しており、琉球政府指定のモデルタバコ産業部落に発展している。最盛期の1959年 (昭和34年) には葉タバコ組合が結成され、米須の馬場の東と西の端に共同で乾燥小屋を23棟も建設している。沖縄の葉タバコ産業は一時期は農産物の3割を占め、サトウキビに次ぐ農産物だった。米須でも主要農産物だっただろう。その後、輸入葉タバコと品質、価格の競争で、収益性が低下してタバコ生産は不振が続き、多くの乾燥小屋は休止となった。琉球政府経済局が技術改良に乗り出し、1962年 (昭和37年) には息を吹き返した。1970年 (昭和45年) 頃から、各個人で自宅内に乾燥小屋を作ったため、共同乾燥ガマはその役目を終えた。個人の乾燥小屋は幾つか現在も残っており、倉庫として活用している。そのうちの1棟が現在も集落内に残っている。
その後、1970年代半ばから、葉タバコ生産はしだいに減少し、近年では、葉タバコは主要農作物ではなく、作付⾯積、出荷量、産出額ともに減少傾向にある。下のグラフは糸満市の葉タバコ出荷額の推移を現わしている。
儀間家ドラゴンガジュマル、摩文仁への道
砂糖小屋 (サーターヤー) 跡の東の住宅の塀に沿って、綺麗に剪定された木がある。村屋跡にあった「米須むらあるきマップ」で紹介されていたもので、ガジュマルの木だそうだ。ガジュマルは大木が横に枝を伸ばして荒々しいイメージがあるのだが、ここのガジュマルは全く異なっている。剪定されたガジュマルを見るのは初めてだ。
このガジュマルがある塀の前の道は琉球王国時代からの道で、摩文仁へ通じている。摩文仁番所が米須に移転する以前は、この道を通って番所に行っていた。
クムイ (溜池) 跡
儀間家の北隣には戦前までクムイ (溜池) があった場所で、現在は埋め立てられている。
福出泉 (フクラシガー)
儀間家ドラゴンガジュマルから米須集落を出た東側、畑の中に福出泉 (フクラシガー) がある。昔は、米須集落には暗井泉と潮泉の二ヶ所しか共同井戸が無く、集落から遠く、水汲みは重労働だった。1853年に摩文仁の間切役人監励のため派遣された仲井間里之親雲上と下知役田里築登雲上の2人によって発見され、琉球石灰岩を人力で掘って整備された。主に米須集落東部の人と大度集落の西部の人が飲料水として利用されていた。福出泉は琉球石灰岩を地下約10mまで掘り下げたウリカー (降り井泉) で、 水場まで0~30メートルの緩やかな石段が続き、降り道はU字型に回り湧水のカーカカン (水源地) にたどり着く。カーカカンのすぐ側には丸い台座が残っている。水浴場や洗濯場も設けられていた。この泉は飲料水、主に東米須と大度の人々がよく使用していた。
栄井泉 (サカイガー)
西米須の南側、集落から外れた畑の中に栄井泉がある。1928年 (昭和3年) に人力で整備されたウリカー (降り井泉)で、集落西部の西米須の住民が生活用水とした。上部の転落防止用の石は戦後設置された。現在では農業用水として使用されている。
米須海岸に向かう。字米須の南地域は、東側から当原、東当原、中当原、西当原の小字で、民家はほとんどなく、ほぼ全域が農地戸なっており、所々にビニールハウスがみられる。
米須地下ダム、命水 (ヌチグスイ)
米須海岸近く,小字当原に安定的に農業用水を確保する為に、堤長2,345mの地下ダムが建設され、海水位より低いところに貯留された地下水を有効利用している。海に近いことから、塩水浸入を防ぐ塩水浸入止型で造られている。ダムの側には命水 (ヌチグスイ) と刻まれた石碑が建てられている。命水 (ヌチグスイ)は沖縄の方言で「心身にいいもの(こと)」の意味で、長年、水不足に苦しめられてきた沖縄本島南部地区の農業にとって、地下ダムからの水は望かな農業の「ぬちぐすい」になる事を願っている。
米須貝塚
米須地下ダムから海岸へ抜ける道の林の中に1956年に発掘調査が行われ県指定史跡に指定された埋蔵文化財の弥生時代 (西暦0~200年) の米須貝塚がある。貝器、魚骨、シャコガイ類の貝類、土器、石器が出土している。
米須海岸、米須砂丘
米須貝塚の道を進むと米須海岸に出る。沖縄戦では、この沖から米国艦隊が激しい艦砲射撃が行われていた。
海岸縁に米須砂丘がある。沖縄の砂丘は砂の採掘で多くが消滅した中、この米須砂丘は大度浜から1.5km程の規模で残っており、沖縄県では最大のものだそうだ。砂丘はモクマオウなどの植生で覆われている。
米須潮井泉 (クミシスーガー)
米須貝塚から米須海岸に出ると当原の海岸の波うちぎわにニか所の湧泉があり、西側のものは米須潮井泉 (クミシスーガー)とも呼ばれている。貝塚時代(約2000年前)にも利用されていたと推測されている。1853年にふくらし井泉が発見されるまでは米須集落住民は生活用水として使用していた。それ以降、1955年 (昭和30年) に水道施設が建設されるまで、洗濯や水浴びなどに使ったほか、正月の若水 (ワカミジ) や産湯の水 (産水 ウブミジ) もここで汲んでいた。また、子どもの遊び場でもあった。湧水量が多く旱魃でも涸れなかったが、干潮時にしか水を汲めず、時を見計らう必要があり、集落から遠いため運搬も重労働だった。
1985年 (昭和60年)にこの潮泉から畑地灌漑用水道を車に汲み上げる為に潮泉から50mのコンクリート舗装道を設置しており、その一部が残っている。
大度潮井泉 (ウドゥウスーガー)
東側のものは大度潮井泉 (ウドゥウスーガー) と呼ばれている。名前から推測すると、この潮井泉 (スーガー) は隣村の大度集落が使用していたのだろうか?
奥間ヌ嶽 (ウクマヌタキ)
字米須から字大度の海岸にかけて広がる砂丘はオーマと呼ばれている。このオーマの中字大度に奥間ヌ嶽 (ウクマヌタキ) がある。琉球国由来記のアカウヅカサノ御イベの御嶽にあたる。現在は祠に7つの香炉がありビジュンと呼ぶ霊石が祀られている。
祠の後ろにも幾つもの香炉が置かれている。ここはお通し (ウトゥーシ 遥拝所) だそうだ。どこへの遙拝を行っているのかは記載がなかった。
インガー (未確認)
米須スーガー西方約100mの所にインガーがあるそうだ。探したが見つからず。1945年 (昭和20年) 6月の米須での地上戦では、米須住民の一部は米須海岸まで追いつめられ、このインガーのほら穴に避難してようやく尊い命が救われたという。
米須霊域
字米須の南西の端、旧喜屋武村字山城との境に米須霊園がある。ここには、戦没者の慰霊碑や、有川中将以下将兵自決の壕・慰霊塔などがある。1946年 (昭和21年) 以降、沖縄では戦場となった沖縄本島中南部を中心に納骨所が建設され、戦場の跡に残された遺骨が集められていった。米須霊域には緑と和らぎの道を通っていく。道の入り口の大木の下にはモニュメントが置かれている。
沖縄菩提樹苑
第二次世界大戦でなくなったすべての戦没者の慰霊のため、ブッダ(釈迦)がその下で悟りを開いたといわれている「ブッダゆかりの聖なる菩提樹」の分け樹が、2003年にインド菩提樹協会によりインド国外へはじめて贈呈されたものを、2004年にここに植樹している。2009年にはダライ・ラマ14世も来訪し、入り口両脇に記念植樹が行われた。2019年には「沖縄平和の鐘」が吊り上げられている。鐘には「沖縄平和の鐘」「恒久平和」の文字が浮き彫りされている。
魂魄之塔(沖縄県)
1945年 (昭和20年) 12月から1946年 (昭和21年) 5月迄、米須集落南側の米軍兵舎跡が真和志村民の居住地区になっていた。ここのテント小屋に住んでいた真和志村住民は遺骨収集班を編成し、道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた遺骨を収集、当初は米須海岸近くの自然洞窟を納骨所として利用していたが、遺骨の数があまりにも多く、1946年 (昭和21年) 2月に、この場所に納骨所を造って遺骨を納め、魂魄之塔を建立している。3月8日までに1,306体の遺骨が魂魄の塔に納められたが、真和志村民が移動した後も収骨作業は続けられ、その後の数年で3万5千余柱が魂魄の塔に集められた。沖縄最大の慰霊塔で、最も早い時期に建てられた慰霊碑でもある。1957年 (昭和32年) に琉球政府により戦没者の遺骨を一括管理する那覇市識名の戦没者中央納骨所を建設し、各地の納骨所にある遺骨の集約を開始している。魂魄の塔でも1974年 (昭和49年) に供養祭を行い、翌年1月に遺骨を戦没者中央納骨所へ移動し、更に、1979年 (昭和54年) に摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に転骨されている
魂魄之塔の隣に、当時のここでテント村で生活していた真和志村では金城和信氏を村長にして戦後復興を始めた。この金城和信氏が米軍と摂政を重ね、遺骨収集の許可をとり、彼の指導のもと、遺骨収集が行われた。金城村長は散乱した遺体を夫人と共に村民の協力を仰いで収拾を始め、ここに納骨堂を造り、魂魄と名付けている。納骨堂の上の石碑は金城村長の墨書の「魂魄」と刻 まれている。更に金城御夫妻は、愛娘二人を戦死させたこともあり、ひめゆりの塔を、続いて健児の塔も建立している。後に金城和信氏は、遺族連合会の会長となり、戦歿者とその遺族のために、 生涯を捧げ、正五位勲三等に叙せられている。
北霊碑(北海道)
昭和29年建立、40,850柱 (沖縄戦戦没者10,850柱、南方諸地域戦没者30,000柱)
曠古の大東亜戦争はその惨烈ここ沖縄の決戦に極まって我北海道出身の将兵1万有余名も玉砕護国の楯とはなった。昭和29年4月北海タイムス社、北海道沖縄遺族会が、その霊を悼み全国に魁けて本碑を創建したが、爾来風雨18年漸くその補繕を迫られるに及び茲に本会の発議により、本年恰も沖縄の祖国復帰を卜し道並に全道市町村の助成及び沖縄会の協力をも得て浄財を募り、本島はもとより伊江島、慶良間等40余島並に広く南方海域諸島に散華した北霊凡そ3万余柱の招魂の聖碑ともなして之を改修した。
願わくは英魂、永遠に瞑せられんことを。改修にあたり終戦以来慰霊事業諸般に亘り献身的な奉仕援助を戴いた沖縄遺族連合会会長金城和信翁以下の御恩徳を銘記し永く後世に伝うる次第である。
紀乃國之塔(和歌山県)
1961年 (昭和36年) 建立、839柱
紀乃国之塔はこの地で祖国の安泰を祈念しながら壮烈な最期をとげた和歌山県出身839柱の英霊を祀るため、昭和36年11月敬弔の誠をこめて県民が建設したものであります。爾来遠く海を渡ってこの塔を訪れ英霊に対面されるご遺族や県民が年を追うて多くなりました。私も昭和44年11月参拝する機会を得ましたが、浄域を拡張整備したいとの声がとみに高まるを聞き、且つまた建塔された各位の意向を推察するとき、浄域を更に荘厳にすることが戦後25周年記念事業として最もふさわしいと考えて整備することにいたしました。 こいねがわくは諸霊には郷土の人々の捧げる追弔敬祭の微衷をおうけ下さらんことを。
大和の塔(奈良県)
1967年 (昭和42年) 建立、15,871柱(沖縄戦戦没者556柱、南方諸地域戦没者15,315柱)
この塔は、すぐる太平洋戦争においてふるさとを遠くはなれた南海の島々で、祖国の安泰と繁栄をいのりつつ散華された奈良県出身戦没者 1万 5000余柱のみたまを慰めるため、県民の心をこめて ゆかりの地ここ米須の丘に建立したものである。
ひろしまの塔(広島県)
1968年 (昭和43年) 建立、34,635柱(沖縄戦戦没者1,271柱、南方諸地域戦没者33,364柱)
海を渡り また 海を渡り
郷土はるかに 戦って還らず
沖縄に散り 南方に散る 護国の英霊 3万4600余柱
ここに とこしえに 鎮まりませば
ふるさとの 妻子 父母 老いも若きも
海を渡り また 海を渡り
ここに もうでて み霊安かれと
祈らざらめや 祈らざらめや
讃岐の奉公塔(香川県)
968年 (昭和43年) 建立、32,413柱(沖縄戦戦没者1,120柱、南方諸地域戦没者18,637柱、満州および中国方面戦没者12,656柱)
むかしむかし、讃岐の国の殿様に仕える可憐な乙女がおってな
その娘はお姫様の身代わりに病気になり、悲しくも命を失った
人々はその死をいたみ、誠実にして至純
献身的なその心をあわれんで
「奉公さん」と名づけ
人形を作り功績をたたえたそうな
ここ沖縄、南方諸地域、中国大陸で祖国の安泰を願い
家族を案じつつ亡くなられた
3万2413柱の御霊
とこしえに安かれと祈るとともに
郷土の発展と恒久平和の実現を心から願いつつ
郷土人形奉公さんを想い起し
「讃岐の奉公塔」と命名する
大分の塔(大分県)
1965年 (昭和40年) 建立、約1,430柱(沖縄戦戦没者)
太平洋戦争における最終段階としての沖縄の死闘の歴史は何人も涙なくして語ることができません。戦後10余年、県民生活もやや安定した1961年11月、大分県の遺族代表が初めて沖縄に巡拝したとき
ふるさとの 山河も泣かむこの島に 散りたる若き御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の霊を慰めたのであります。 他方数県で現地に永久的な慰霊塔を次々に建立するようになりましたので、このたび県遺族会の発意で、ここ最後の激戦地米須の丘に大分県耶馬渓産の霊石を用い「大分の塔」を建てることにいたしました。謹んで哀悼の誠を捧げ、英霊の御冥福と世界の平和を祈念する次第であります。
島根の塔(島根県)
1969年 (昭和44年) 建立、908柱(沖縄戦戦没者)
美しく花開くためには
そのかくれた根のたえまない
営みがあるように
私達の平和で心静かな日々には
この地に散ったあなた達
の深い悲しみと苦しみが
そのいしずえになっていることを思い
ここに深い祈りを捧げます
米須霊域は旧喜屋武村字山城の平和創造の森入り口手前までにまたがっている。米須地域から丘を登っていくと、三つの霊碑が建立されている。
因伯の塔(鳥取県)
1971年 (昭和46年) 建立、13,904柱(沖縄戦戦没者539柱、南方諸地域戦没者13,365柱)
鳥取県民はその総意に依り此所に碑を建て、大東亜戦争に当たり沖縄その他南方地域に於て戦没した郷土の勇士の偉勲を偲びその冥福を祈る。塔石は佐治石である
開南健児之塔
昭和20年3月31日、沖縄師範学校生徒に召集令が下り、予科2年から本科3年まで386人は鉄血勤皇師範隊を編成し日本軍の作戦に参加した。5月下旬、戦況が不利になったため、司令官とともに首里から南部へ移動、摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出た後は、敵軍に斬り込む者や壕内で自決する者など多くの犠牲者を出した。終戦後、生存者と竜潭同窓会員の寄付によってこの塔ができた。
東京之塔(東京都)
1971年 (昭和46年) 建立、103,500柱(沖縄戦戦没者6,500柱、南方諸地域戦没者97,000柱)
さきの大戦中、南方諸地域において戦没せられた東京都の関係者は実に10万有余柱に及ぶ。顧みればわれら同胞が戦禍に堪えて刻苦精励すること20有余年、よく平和の恩恵に浴しえたことは、ひとえに英霊が戦火の悲惨と生命の尊厳を貴い血をもって示されたたまものにほかならない。
よって戦没者遺族をはじめ都民1100余万こぞって慰霊の誠を捧げ平和への誓いをこめ、ここ沖縄の激戦地米須の丘に謹んで東京の塔を建立する。
み霊よ安らかに眠りたまえ
基壇は8メートル四方で、遺族代表が多摩川で採取した小石を敷き詰めている。基壇中央に直径5メートルの塚があり、この塚は建設当時の23区、23市、9町、9村を象徴する64個の石で構成される。塚の中心に縦1.3メートル、横2.3メートルの石棺を模した舟型式の黒御影石の塔を据えている。上段広場は三方を石垣で囲んでいるが、この石垣は沖縄産の粟石を使い、沖縄特有の積み方をしている。
カミントゥ壕
魂魄之塔の少し北の畑の中に自然壕のカミントゥの壕があった。ここには、戦争末期、100名以上の米須地区の愛靴下た。米軍に見つかり、米兵が投降を呼び掛けたが、日本兵は避難していた住民の投降は認めなかった。その後、6月21日早朝、壕内への米軍の攻撃が始まり、米兵が爆弾を投げ入れ、入口の日本兵が自爆した後、壕内はパニックとなり、住民らが次々と手りゅう弾を炸裂させ、22家族58名が集団自決したという。その中で、子供に懇願され自殺を断念して捕虜になった家族もいたが、目の前で手榴弾で自殺をし、血や肉が飛び散る様を見た恐怖はその後のトラウマになったという。カミントゥ壕があった場所は熊野鉱山の開発が行われて壕は消滅している。ここで採掘した琉球石灰岩は辺野古新基地建設で使用されている。これについては戦没者遺骨がまだ存在しているとして、市民団体は開発中止を求めていたが、長期間之協議の結果、沖縄県は遺骨発見時には採掘を一時中止などの条件付きで開発許可を与えたといういきさつがある。工事会社側は、これは琉球石灰岩の採石で遺骨が混じることがないとの主張、反対市民団体は遺骨がある可能性が高く戦没者への冒涜として反対運動を展開していた。沖縄県も当初は採石許可を保留していたが、辺野古新基地の軟弱地盤の設計変更要求が国により受け入れられる可能性が少なくなり、その場合、開発業者との損害賠償問題が起こる可能性が高い。県は国、業者、市民との板挟みとなり、先に述べた条件付きでの熊野鉱山開発許可を出したという背景があるようだ。
有川中将以下将兵自決の碑
魂魄の塔の西には有川中将以下将兵自決の碑がある。碑の横にはシーガーアブと呼ばれた壕があり、1945年 (昭和20年) 6月21日に石第64旅団長・有川圭一中将と竹下勇大尉以下の将兵らがこの壕内で自決したという。碑の後方の藪の中にもう一つの壕がある、この壕でも、遺骨や、兵士たちのガスマスク、手りゅう弾、軍靴等が多く見つかっている。シーガーアブでは、住民たち7家族ぐらいも避難していた。米軍は再三の投降の呼びかけを行ったが、日本兵はこれに応ぜず、米兵により石油が流し込まれ、多くの人がここで亡くなっている。
シカ化石包含地
米須霊園の南の海岸では、1984年 (昭和59年) にサンゴ石灰岩表面に、頭骨、助骨、角などの化石が発見されている。化石を包含する土砂がフィッシャー (岩の割れ目) に流れ込んで堆積し水没、波の浸食作用によって地表面に現れ、干潮時に観察できる。琉球キョン、琉球昔シカの化石で、数体から十数体の固体が堆積していると考えられている。また、この海岸では、過去にナウマンゾウの歯の化石も発見されている。海岸で鹿野化石を探したが、地図では場所は明記されておらず、案内板もないので、結局は見つからなかった。
ようやく3日間の米須集落巡りが終了。2月10日は米須集落見学後、大度集落へ移動し散策を行った。
参考文献
- 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧摩文仁村集落ガイドマップ (2022 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 資料編 7 戦時資料 上巻 (2003 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 資料編 7 戦時資料 下巻 戦災記録・体験談 (1998 糸満市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 米須字誌 (1992 米須字誌編集委員会)
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